第20話 境界の外から
知らせは、風のように届いた。
直接ではない。正式な文書でもない。噂とも言い切れない、曖昧な形で、しかし確実に広がっていく。
「隣の領でも、似たやり方を始めたらしい」
「修道領の配給、今年は安定しているそうだ」
作業場の片隅で、そんな声が交わされるようになった。
私は、帳簿を手にしたまま、その会話を聞いていた。心臓は、不思議と静かだった。驚きも、高揚もない。ただ、事実として受け取っている。
――境界の外に、届いている。
午前中、修道院長エレナが私を呼ぶ。
「視察の打診が来ています」
淡々とした口調だった。
「隣国の行政官が、運用の様子を見たいと」
私は、一瞬だけ目を伏せる。
来る。
ついに、来た。
「正式な要請ではありません。あくまで“参考にしたい”という立場です」
エレナは、私の反応を確かめるように言った。
「対応は、どうしますか」
問いは、私に向けられている。
引き受ける必要はない。断っても、修道領は困らない。私が前に出なくても、これまで通り回る。
だからこそ。
「条件を、再確認したいです」
私は、静かに答えた。
「視察は受け入れます。ただし、説明は複数名で」
「私は、個人として評価される立場には立ちません」
「やり方と記録のみを共有します」
エレナは、すぐに頷いた。
「承知しました」
それで話は終わった。
昼過ぎ、マルクが倉庫の前で腕を組んでいるのを見かけた。
「外から来るって話、聞いた」
「はい」
「面倒だな」
率直な感想だった。
「ですが、止める理由もありません」
私がそう言うと、彼は小さく鼻を鳴らす。
「やり方が真似されるのは、悪くない」
「人が真似されるのは、困りますが」
マルクは、一瞬だけこちらを見る。
「その線引き、忘れるな」
「忘れません」
それは、約束だった。
夕方、帳簿を閉じながら、私はふと考える。
王都で、私は常に「中心」に置かれていた。望んだわけでもないのに。
ここでは、中心に立たずに、外へ影響が広がっていく。
どちらが、健全なのだろう。
部屋に戻ると、机の上に一通の簡素な書簡が置かれていた。修道院の封ではない。見慣れない印章。
内容は短い。
『貴領の運用に、関心を持っている。
機会があれば、意見を伺いたい。
――イリス・ヴァルデン』
名前を見て、胸の奥がわずかに反応する。
知らない相手だ。だが、軽くはない。
私は、書簡を丁寧に畳み、机の引き出しにしまった。
返事は、今すぐには出さない。
出すとしても、私一人ではない。
窓の外では、境界線の向こうへ続く道が、薄く雪に覆われている。
この場所で整えた仕組みは、もう閉じた世界のものではない。
静かに、しかし確実に、外とつながり始めている。
――私は、まだここにいる。
けれど、世界は、もう一歩外へ踏み出していた。
それが恐怖ではなく、選択肢として見えていることに、私は気づいていた。




