第17話 距離を置くという選択
名前が呼ばれた翌日、胸の奥に残ったのは、安堵ではなかった。
重さだ。
朝の作業場に立っていても、その感覚は消えない。昨日と同じ風景、同じ手順、同じ帳簿。それなのに、空気が違って感じられる。視線が、わずかに増えた気がした。
「今日はどうする?」
修道士が、いつもより早く私に声をかけてきた。
問いそのものは、何気ない。だが、向けられる先が変わっている。
「……昨日と同じで」
答えながら、私は自分の声が少し硬いことに気づく。
マルクは、少し離れた場所で様子を見ていた。何も言わない。だが、私の違和感には気づいている顔だ。
午前中は、問題なく進んだ。
修正案は機能している。人の動きも安定している。だからこそ、余計なことが目につく。
「この判断、外にも説明してもらえるか」
別の修道士が、帳簿を指して言った。
「昨日の集落の件みたいに」
胸の奥が、きしりと鳴った。
――また、だ。
説明。調整。責任。
少しずつ、少しずつ、役割が積み上がっていく。
「……それは、院長に」
言いかけて、言葉を止める。
逃げだ。そう分かっている。
だが、逃げたい衝動は確かにあった。
昼前、修道院長エレナに呼ばれる。
「昨日の件で、いくつか問い合わせが来ています」
予想通りだった。
「あなたに、直接説明をお願いしたい」
その言葉を聞いた瞬間、頭が一瞬、真っ白になる。
直接。
それは、前に出るということだ。
「……少し、時間をください」
自分でも驚くほど、声が低くなった。
エレナは、私をじっと見た。
「理由は」
逃げ場のない問い。
「……また、全部を任されるのではないかと」
正直に言うしかなかった。
「名前が出るのは、怖いです」
部屋が、静まる。
エレナは、すぐには答えなかった。代わりに、窓の外へ視線を向ける。
「あなたは、王都で“役割”をどう扱われていましたか」
唐突な質問だった。
「……便利な時だけ、使われました」
言葉にすると、胸が痛む。
「責任は、常に私に集まりました」
エレナは、ゆっくりと頷いた。
「ここでは、違います」
短く、断言する。
「説明役は、役割の一つに過ぎません。背負うのは、全体です」
分かっている。頭では。
だが、体が追いつかない。
「……少し、距離を置いてもいいでしょうか」
私は、そう言った。
「一度、表に出ない位置に戻りたい」
エレナは、私を責めなかった。
「いいでしょう」
即答だった。
「ただし、完全に引く必要はありません。代案を出す位置にいなさい」
それは、逃げ切りを許さない言葉でもあった。
午後、私は意識的に前に出なかった。
帳簿の整理。数値の確認。修正案の裏取り。説明は、他の修道士が行う。私は、裏で支える。
それで、現場は回った。
だからこそ、胸がざわつく。
――私が前に出なくても、回る。
それは、良いことのはずだ。
けれど、どこかで寂しさが混じる。
夕方。
倉庫の裏で、マルクが声をかけてきた。
「距離を取ったな」
責める調子ではない。
「……はい」
「悪くない」
意外な評価だった。
「だが、ずっと引くな」
彼は、まっすぐこちらを見る。
「あんたは、逃げるために下がったんじゃない。整理するために下がった」
胸の奥が、少しだけ緩む。
「戻る場所は、残しておけ」
それは、命令ではなく、助言だった。
部屋に戻り、椅子に座る。
今日は、前に出なかった。
それでも、完全に切り離されたわけではない。
私は、帳簿の余白に小さく書き留める。
――本日は、説明役を他者に委ねる。
――判断材料の整理に専念。
距離を置くことは、逃げではない。
戻るための準備だ。
そう思えるまでに、私は少しだけ、強くなっていた。




