第16話 名前が呼ばれる時
その日は、朝から来客があった。
北方修道領にしては珍しいことだ。小規模とはいえ、外部の人間が来るとなれば、作業場の空気も自然と引き締まる。
「近隣集落の代表だ」
マルクが、短く説明する。
「冬前の備えについて、相談に来た」
私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
――外の人間。
修道領の内部では、私は“仕組みの一部”になりつつある。だが、外から見れば、私はまだ「追放された元公爵令嬢」だ。その境界は、思っている以上に脆い。
応接用の簡素な部屋に、数名の男たちが通された。年嵩の者が多く、顔には風雪の刻んだ皺がある。中央の男が、落ち着いた声で口を開いた。
「今年の冬は、厳しくなると聞いています」
「こちらも、同じ見立てです」
修道院長エレナが応じる。
「物資の融通について、事前に話をしておきたい」
話は、現実的だった。配給の見通し、運搬の可否、人手の融通。どれも切実で、遠慮のないやり取りが続く。
私は、壁際に控え、帳簿を手に聞いていた。
ここまでは、いつも通りだ。
「では、こちらの修道領としての対応案ですが」
エレナが、私の方へ視線を向ける。
一瞬、息が止まる。
「リリアーナ」
名を呼ばれた。
それだけで、空気が変わる。
集落の代表たちが、一斉にこちらを見る。好奇でも、敵意でもない。ただの確認の視線。
私は、一歩前に出る。
「冬前に、配給量の急激な変動が起きないよう、段階的な調整を行っています」
声は、思ったより落ち着いていた。
「余剰が出る時期に、無理のない範囲で備蓄を増やし、厳寒期に放出する形です。各集落に一律の負担をかけないよう、融通の順も決めています」
言葉は、説明に徹した。自分の功績には触れない。
代表の一人が、顎に手をやる。
「……具体的だな」
「机上の話じゃない」
別の男が、頷いた。
マルクは、黙って聞いている。口は挟まない。
「この案を、現場でまとめたのが」
エレナが、淡々と続ける。
「リリアーナです」
一瞬、部屋が静まり返った。
名前が、はっきりと置かれる。
胸の奥が、ひくりと鳴った。
怖さが、先に来る。
――また、背負わされるのではないか。
「……そうか」
代表の男は、しばらく私を見てから、言った。
「若いのに、よく考えている」
称賛ではない。だが、軽んじてもいない。
「この修道領が、今年も回りそうなのは、理由があるわけだ」
私は、深く頭を下げた。
「まだ、試行段階です。問題があれば、すぐ修正します」
逃げでも、謙遜でもない。事実だ。
話し合いは、その後も続いた。融通の範囲、連絡手段、緊急時の対応。現実的な取り決めが、一つずつ形になる。
来客が帰った後、部屋には静けさが戻った。
私は、無意識に息を吐いていた。
「顔、固かったな」
マルクが、ぼそりと言う。
「……はい」
「だが、逃げなかった」
それだけで、十分だと言うように、彼は踵を返した。
夕方。
作業場に戻ると、修道士の一人が声をかけてくる。
「さっきの話、聞いた」
「外の人にも説明できるんだな」
評価というより、確認だ。
「まだ、勉強中です」
そう答えると、彼は肩をすくめた。
「十分だろ」
その一言が、胸の奥に静かに残った。
部屋に戻り、椅子に座る。
今日は、名前が呼ばれた。
隠されることも、消されることもなく。
それは、誇らしさよりも、重みを伴っている。
私は帳簿を開き、今日の記録を書く。
――外部対応あり。
――説明担当:リリアーナ。
書き終えて、しばらくその文字を見つめた。
怖さは、まだある。
けれど。
名前が呼ばれても、世界は壊れなかった。
それだけで、今日は十分だと思えた。




