第15話 現場の沈黙
朝の作業場には、奇妙な静けさがあった。
誰も声を荒げない。誰も指示を急かさない。必要な言葉だけが、必要な距離で交わされている。雪はやみ、空は相変わらず低いが、昨日までの張り詰めた空気はない。
私は、作業開始前の倉庫で帳簿を開いていた。
修正案は、今日も同じものを使う。特別な変更はない。状況に応じて微調整するだけだ。
――反対は、出なかった。
それが、少しだけ不思議だった。
「今日はどうする」
マルクが、私の横に立つ。
問いは短い。だが、その内容は昨日までとは違う。
「天候は安定しています。午前中は通常進行で。午後は様子を見て判断を」
私は、淡々と答える。
「了解」
それだけで会話は終わった。
指示を仰ぐでもなく、突っぱねるでもない。ただ、確認して、決める。それが当たり前の流れになっている。
作業が始まる。
人員は自然に動き、誰も戸惑わない。帳簿の前で私が立ち止まると、修道士が近づいてくる。
「この班、予定より早い」
「なら、こちらに回してください」
短いやり取り。余計な感情は挟まらない。
午前中は、問題なく進んだ。
昼前、予想外の小さなトラブルが起きる。道具の破損だ。致命的ではないが、放置すれば作業が止まる。
私は、状況を一目見て判断する。
「予備を回します。作業は中断せず、順番を入れ替えて」
誰も異を唱えない。すぐに動きが変わる。
それを、私は少し離れた場所で見ていた。
――誰も、私を見ていない。
確認の視線も、探る視線もない。そこにいるのは、「作業を進めるための判断」だけだ。
午後。
マルクが、珍しく私の隣に腰を下ろした。
「最近、現場が静かだな」
独り言のような言い方だった。
「混乱が減りましたから」
「そういう意味じゃない」
彼は、前を見たまま言う。
「誰も、余計な口を出さなくなった」
私は、その意味を考える。
「……信頼、でしょうか」
慎重に言葉を選ぶ。
「違う」
即答だった。
「慣れただけだ」
拍子抜けする答え。
「やり方に。判断の流れに」
それは、称賛ではない。だが、否定でもない。
「それで、十分です」
私は、そう返した。
信頼されたいわけではない。
必要とされたいわけでもない。
壊れずに回るなら、それでいい。
夕方、作業が終わる。
今日も、帳簿は予定通り埋まった。特筆すべき成果はない。問題もない。
それが、何よりの成果だ。
部屋に戻り、椅子に座る。
静かだ。昨日までと同じはずなのに、違って感じる。
私は、今日一日の記録を書き終え、最後に一行を加えた。
――特記事項なし。
それを書ける日が来るとは、思っていなかった。
王都では、常に何かが問題だった。
誰かが責められ、誰かが守られ、誰かが沈む。
ここでは、沈黙が続く。
だがそれは、見て見ぬふりの沈黙ではない。
壊れていないことを、誰もが知っている沈黙だ。
私は、帳簿を閉じる。
信用という言葉は、まだ使えない。
けれど。
拒まれていない。
疑われてもいない。
現場の沈黙が、それを示していた。
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