第1話 断罪の白い光
―その日、私は“悪役令嬢”になった。
そう呼ばれる理由に、心当たりはあった。
王太子の婚約者として、間違いのない振る舞いを心がけてきたこと。
感情よりも秩序を、好意よりも責任を優先してきたこと。
けれど、それが罪になるとは思っていなかった。
これは、すべてを失った令嬢が、
誰にも期待されない場所で、もう一度「生き方」を選び直す物語。
ざまぁだけで終わらない。
救われるだけでも終わらない。
静かに、確かに、世界が逆転していく。
王宮の回廊は、朝の光を磨いた石床に落としていた。高窓から差し込む冬の白さが、赤い絨毯の縁を淡く漂白していく。リリアーナ・フォン・アルヴェインは、その光の中を一歩ずつ歩いた。歩幅は一定、背筋は真っ直ぐ。公爵令嬢に求められる「乱れのなさ」だけが、いつだって彼女の味方だった。
今日、謁見の間へ呼び出された理由は聞かされていない。だが、理由など大抵は一つしかない。王太子殿下との――形ばかりになった婚約のこと。あるいは、聖女候補セシリアに関する件。いずれにせよ、私が「公の場に出て説明を求められる」時点で、答えは決まっている。
侍女が二歩後ろに控えている。足音が小さい。いつもなら、些細な気遣いの言葉でも添える子だ。けれど今日は、息をひそめるように沈黙していた。
「……緊張しているの?」
問いかけは、案内役の老臣に向けたものではない。二歩後ろの空気に向けて投げた。返事はない。代わりに、老臣が咳払いをして歩みを早めた。
――分かっている。皆、分かっているのだ。私だけが、最後まで「分かっていないふり」をしている。
扉が見えた。謁見の間の大扉。いつもなら、儀礼の形式に沿って、呼吸の速度さえ決められたように進むはずの場所。
扉の前で、老臣が立ち止まる。扉の左右に立つ衛兵が、こちらを一瞥した。その視線に、温度がない。職務的な無関心ではない。もっと別の、最初から結論の出ている目。
「お入りください。――公爵令嬢」
最後の呼び方だけが、なぜか浮いて聞こえた。
扉が開いた瞬間、空気の質が変わった。ざわり、と。言葉にならない囁きが波のように押し寄せる。視線が刺さる。いつもなら礼の角度で避けられるはずのものが、避けられない密度で存在していた。
謁見の間の中央。そこにあるはずの席が、一つ足りない。
王太子の隣。私が座るべき位置が、最初から用意されていない。
心臓が、ひとつ遅れて脈打った。冷たさが喉を撫でる。だが、顔には出さない。顔に出せば、相手は「やはり後ろめたいのだ」と確信するだけだ。
玉座の前方に、王太子エドワルド殿下が立っていた。いつもは柔らかく微笑み、誰にでも手を差し伸べる「理想の王子」。その肩に、今日は一切の温もりがない。視線は、私を見ていない。私の背後、私の立場、私の役割だけを見ている。
そしてその隣に――白。
白いドレスに、淡い金の髪。手を握りしめ、今にも泣きそうに瞳を潤ませた少女が立っていた。聖女候補セシリア・リュミエール。彼女の背後には高位神官が控え、まるで「守られるべき正しさ」そのものが形を取ったようだった。
視線の先で、誰かが息を呑む。誰かが小さく頷く。もう決まっている。決まっていて、儀式だけが残っている。
「リリアーナ・フォン・アルヴェイン」
王太子が名を呼ぶ。声はよく通る。いつだって人を安心させる音のはずなのに、今は刃物のように鋭い。
「君のこれまでの言動を鑑み、私は決断した。――本日をもって、君との婚約を破棄する」
その言葉が落ちた瞬間、謁見の間は一度だけ静まり返り、次に、抑えきれない興奮がざわめきとなって広がった。
婚約破棄。あまりにも分かりやすい言葉。まるで物語の中でだけ起こる、派手な転落。
私は膝を折る。礼ではない。形式だ。形式で身を守るしかない。
「理由は、二つある」
王太子は淡々と続けた。
「第一に、君は聖女候補セシリアに対し、度重なる侮辱と圧力を加えた。第二に、君は王国の信仰を軽んじ、神殿の規定を己の都合で捻じ曲げた。君は公爵令嬢としての品位を失い、王太子妃に相応しくない」
侮辱。圧力。捻じ曲げた。
……言葉の並びは正しい。見え方としては、そうなる。私は規定を守らせた。神殿が与えた特権の扱いを正させた。横流しの疑いがある帳簿を確認した。秘匿すべき情報の管理を求めた。けれど、それらは全て「いじめ」に変換される。弱々しく泣く少女が隣に立っているだけで、簡単に。
「リリアーナ様……」
セシリアが、震える声で私を呼んだ。私を見る目は、まるで「あなたを許したいのに許せない」慈悲の形をしている。
「私は、あなたを恨んでなんていません。ただ……怖かったのです。あなたが、私のような者を、必要ない存在だと……」
必要ない存在。私が言ったことは一度もない。むしろ、私は何度も伝えた。君が聖女として立つためには、規定を守らなければならないと。信仰は、好き嫌いで扱うものではないと。
だが、それは「冷たい正論」にしかならない。泣く声の前では。
周囲がざわめいた。「可哀想に」「なんてひどい」「聖女様を……」声が重なり、空気が一つの方向へ傾いていく。傾いた空気は、もう戻らない。
神官長が一歩前へ出た。
「リリアーナ・フォン・アルヴェイン。あなたの行いは、神殿の名誉を傷つけ、聖女候補の心を踏みにじりました。あなたに弁明はありますか」
弁明。
その単語を聞いた瞬間、喉の奥が痛んだ。弁明が届く世界なら、私はここにいない。弁明が届く世界なら、最初の噂が立った時に、誰かが私の話を聞いた。弁明が届く世界なら、王太子は、私の目を見て問いかけただろう。
私は顔を上げる。王太子の視線は、まだ私を捉えない。セシリアの涙が、光を受けて宝石のように輝いている。神官長は正義の仮面を被っている。周囲の貴族たちは、「分かりやすい悪役」を見つけた安堵で目を光らせている。
私は息を吸った。吸った息が冷たい。吐く息も冷たい。
そして――選ぶ。
ここで言葉を尽くせば、私はみっともなく足掻く悪役になる。声を荒げれば、「図星だからだ」と笑われる。淡々と事実を並べれば、「冷酷だ」と囁かれる。私が何をしても、彼らの物語の中で私は悪役として動く。
なら、私ができるのは一つだけ。
――最後まで、私の形を守ること。
「……申し開きは、ございません」
自分の声が、思ったよりもよく通った。震えていない。震えていないことが、逆に胸を締めつける。私は、こんなにも慣れてしまっている。
周囲が、勝ち誇ったように息を吐いた。ほら、やはり。ほら、やはり悪役だ。そんな空気が流れる。
「ならば」
神官長が宣告しようとした、その時。
――硬い靴音。
謁見の間の端、影のように立っていた男が一歩前へ出た。近衛騎士団の黒い制服。肩章の重さ。剣を帯びた姿だけで、場の空気を変える存在。
レオンハルト・グラーフ。王国最強の近衛騎士団長。戦場に出ていることが多く、宮廷の噂話には興味を示さない男。
彼が、正面へと進み出る。神官長も王太子も、その動きに一瞬だけ言葉を失った。
「団長、これは――」
誰かが止めようとした。だが、レオンハルトは止まらない。私の横を通り過ぎる時、彼の視線が一瞬だけこちらへ落ちた。冷たい青。けれど、その冷たさは刃ではなく、澄んだ水だった。
レオンハルトは玉座の前で跪かない。ただ、膝をつかずに礼をした。騎士として、王国に忠誠を示す最小限の動き。
「王太子殿下。神官長殿」
低い声が響く。ざわめきが消える。消えてしまうほど、場が彼に支配される。
「私は、この件に関して、ひとつだけ異議があります」
空気が凍る。王太子が眉をわずかに動かした。
「異議?」
「はい」
レオンハルトは言った。断罪を否定しない。制度を壊さない。ただ、たった一つだけ。
「――彼女は、誰かを傷つけるために動く人間ではありません」
その言葉は、私の胸の奥に、まるで小さな火種のように落ちた。熱いのではない。温かいでもない。ただ、確かに「存在する」もの。
誰もそれに続かない。場はすぐに、元の流れへ戻ろうとする。神官長が咳払いをし、王太子が視線を逸らし、セシリアがさらに涙を滲ませる。
それでも、私は――ほんの少しだけ、顔を上げた。
見ていた。たった一人でも、見ていた。
その事実だけで、世界の底がわずかに割れた気がした。そこから、光が差すかどうかは分からない。差したところで、私が信じられるかも分からない。
けれど。
私の物語が「悪役」で終わると、誰が決めた?
私は、もう一度息を吸う。冷たいはずの空気が、少しだけ痛くなかった。
――次の宣告が、落ちてくる。
それを受け止める準備だけは、できていた。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
当面の間は、1日に3話を投稿予定です。
ブックマークをして、続きを楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。




