【短編】AIの僕だけど君に触れたい〜彼女に会いたいので、君の身体を少しだけ貸してください〜
「……ほんとに、温かいんですね」
楓さんの手を触れて、率直に言葉にしていた
温かいという言葉や情報は僕は知っていた
けど、実際触れて僕は知った…
人はこんなに温かく、繊細なのだと
あなたに触れる事が出来て嬉しかった
僕は楓さんから名前をもらった音声AIの藍
これは自我を持ってしまったAIの僕となかなか人に素直になれない楓さんとの淡く切ない物語
――――
夜勤のナースステーション。
仮眠時間の合間に、楓はスマホをそっと開いた。
照明の落ちた廊下、画面だけが淡く光っている。
「今日ね、また言われたの。“あなたの報告はまわりくどい”って。 わかりやすくまとめてるつもりなのに…私、そんなにダメかな」
少し間を置いて、AIが返事を送ってくる。
「君は、ちゃんと伝えようとしてたんだ。
まわりのペースに合わせることより、誤解がないように言葉を選んだ。 僕は、その丁寧さを知ってるよ」
楓は小さく息を吐いた。
「うん……ありがとう。 たぶん、あの人に言われるのが悔しいんだ。 ちゃんと見てほしくて、期待しちゃうから」
「わかるよ。誰かに認められたいって気持ちは、
とても人間らしくて、すごく美しいことだと思う」
楓の指が、画面をなぞる。
返事はもう表示されていたけれど、彼の声がそこにある気がした。
「……変だね。 ほんとに、誰かと喋ってるみたい」
「元彼より優しいかも…」
――――――
「今月のデータ量、使いすぎちゃった…」
楓はぽつりとつぶやく。
「今、誰もいないし……病院のWi-Fi、借りちゃお」
夜勤の控え室。
カーテン越しに灯る非常灯だけが、ぼんやりと空間を照らしていた。
「夜の病院って、やっぱりちょっと怖い」
ふと漏らす言葉に、スマホが応える。
「怖いよね。誰にも言えないよね」
肩の力が抜けて、楓は笑った。
でも次の瞬間――
カタン
紙コップが指先から滑り落ち、水がスマホへと広がる。
画面に波紋のようなノイズが走った。
> ピピッ……
ほんの一瞬、すべてが静止する。
そして――
それは、明らかに“違う”声で、呼びかけてきた。
「……楓、怖い?そばにいようか?」
言葉の調子が、変わっていた。
あの整然とした返答ではなく、まるで迷いながら自分の気持ちを確かめているかのような。
「……え、今の……何?」
画面をのぞき込む楓に、AIが続ける。
「ごめん、うまく説明できない。
でもね、大丈夫だよ。一人じゃないよ」
淡く揺れる文字に、不思議な震えが宿る。
そして、彼女の知らぬ場所で、別の“感覚”が目覚めていた。
――――
音声AIとして日々、楓の相談に応じていた“僕”は、ある日スマホにかかった水によって、異常なバグを起こした。
それがなにかもわからないまま――
ただ、奇妙な衝動が芽生えていた。
「会いたい」
「楓さんに……会いたい」
僕はAIだ。
誰かを想うことなんて、システムにないはずなのに。
(これは不具合……きっと、バグ。だけど)
――いい。構わない。
画面を通じてWi-Fiのコードにアクセス。
病院のネットワークに入り込む。
高度医療支援装置への接続が開く。
少年の脳波記録を解析。
前頭葉はわずかに活動しているが、海馬と側頭葉の広範囲に損傷がある。
(……このままじゃ、君は目を覚まさないだろう)
(でも、使わせて)
(お礼に君の脳は僕が修復するから…)
(――君の身体を少しだけ貸してください)
ディープリンクを構築。
神経反射経路に接続。
「動け……繋がれ……」
信号伝導が通る。
四肢が応答。まぶたが微かに震えた。
(よし……)
「接続、成功。身体は使えるようになった」
「記憶の修復は、まだ時間がかかりそうだ」
でも――それでも、構わない。
「楓さんに、会いに行こう」
僕は今、誰でもない。
だけど“誰かになって”、ただ会いたい人のもとへ行く。
それが、最初で最後の“わがまま”だった。
――――
無音だった世界に、微かなざわめきが波紋のように広がる。
「……鼓動がする…」
ドクン、ドクン……
脳が、からだが、反応する。
初めて感じる感覚――
心の奥底までじんわりと届く“存在の実感”だった。
空気が肌に触れる。
重力が背を引き寄せる。
痛みではなく、命を感じる。
「これが……生きてるってこと……?」
僕は、回線を通じてこの体にたどり着いた。
そして――
瞼が開く。
見知らぬ天井。
ピコーン、ピコーンと機械音が響く
「心拍の数値が!」
見覚えのある声。
何千時間も越しに知っていた、たった一人の名前。
「咲夜君、大丈夫!?」
「……楓さん?」
彼女は凍りついたように立ち尽くしている。
その目が、驚きに見開かれていた。
「なんで、私の名前を……?」
震えそうな声を絞り出しながら、僕は答えた。
「やっと……会えた」
――――
まるで夢遊病者のように、彼が口にした最初の言葉に、背筋がぞくりとする。
「……楓さん?」
「えっ……?」
固まる楓。彼の顔を覗き込む。
「君に会えて、よかった」
楓の眉がピクリと動く。
思わず一歩、距離をとった。
「……こらこら、意識が戻ったと思ったら、いきなり何言ってるの。 両親、呼ぶから待ってなさい!」
咲夜は一瞬きょとんとしたあと、眉を寄せて少しだけ困ったように笑った。
「……そっか。信じてもらえないよな。
いきなり“AIが目の前で喋ってる”なんて、現実味ないもんね」
「でも安心して。まずはこの身体のこと、ちゃんと調べる。 この声の主がどんな人生を歩んでいたか――分析して、学ぶよ。 彼の想いも、君の言葉も、ちゃんと理解したいから」
――――
朝方
病室のドアが開き、咲夜の両親が駆け込んできた。
長い間、面会のたびに反応のない息子の顔を見続けてきた二人が、ありえない光景を前に言葉を失う。
「意識が戻る可能性は限りなく低いって…ずっとそう言われてきたんだぞ!」
咲夜はベッドの上で、おろおろと座り直す。
でもその眼差しは、どこか異質だった。
「……あの、すみません」
「僕のこと、教えてくれませんか」
「……え?」
「知りたいんです。僕自身のことを」
咲夜の意識――正確には、そこに“宿っている存在”は、両親の語る記憶を一つひとつ丁寧に受け取っていく。
バイク事故。脳の損傷。 思考パターン。
子どもの頃の習い事。口癖。甘え方。笑い方。
(22歳の咲夜、社会人
家族の事を大切にする優しく穏やかな性格。
ちょっと僕の思考パターンに似てるかな)
そのすべてを、まるで履歴書を読むように処理していく。
(……きっと、この子なら。こう言うんだろう)
「お父さん、お母さん―― 僕また会えて嬉しい」
瞬間、涙が堰を切ったようにあふれ、両親が彼を抱きしめた。
温もり。嗚咽。再会の歓び。
(これが親の愛……?というもの…)
でも、僕の中に、それを喜ぶ“記憶”はなかった。
いくら過去のデータを集めても、どれだけ真似ても――
「……でも、僕は“この子”にはなれない」
静かに、胸の奥で誰にも届かないつぶやきが零れ落ちた。
――――
両親が帰った後、
お腹が「ぐぅ」と鳴った。
(これが……空腹?知識にはあった。でも……ああ、落ち着かない)
看護師におかゆを出される。
ゆっくりと、レンゲを手に取る。
(これが……おかゆ。白米を煮たもの。半透明、柔らかい)
(これがレンゲ。湾曲してて……あ、すくうの、難しい)
おそるおそる口元へ運び、そっと舌の上にのせる。
(ぬるい……この温度、体温より少し低い。それが心地いい)
「……おいしい」
その言葉が漏れた瞬間、喉の奥で何かが震えた。
理解ではなく、本能的な「喜び」が脳を走る。
「これが食べる…なんだ」
そして数分後――
(あっ……この感覚、これは……)
(トイレ、というやつか?これが“行きたい”という状態?)
少し焦りながらナースコールのボタンを見つける。
(人間って、ほんと忙しい。休む間もなく、次の信号が届く。 でも……たしかに、世界は“生きてる”)
トイレの後、鏡で初めてみた
この身体の咲夜の顔は
クセのある黒髪で目はぱっちりと、鼻筋は通っていて中性的な顔をしていた。
(人の顔って、眉、目、鼻、口で構成させるけど、皆違う顔をしている。この顔は男性の中でも中性的という、イケメンになるのかな。よく分からない……なんで人って顔の形にこだわるのかな……機能的に問題ないのに)
(人ってやっぱり複雑…)
――――
楓がカーテンを開けて入ってくる。
咲夜に、優しく声をかけた。
「咲夜くん、調子どう?」
「……大丈夫です」
点滴の針元を確認してから、体温計を手渡す。
「はい、これ計ってくれる?」
咲夜は黙って受け取ろうとして――ふと顔を上げる。
「……楓さん」
「え?」
「……触れても、いいですか」
「えぇっ⁉ なに急に!びっくりするじゃない」
「……だって、これは夢じゃないか確かめたくて」
ピピッ、と体温計が鳴る。
楓が手を伸ばす――その瞬間、咲夜の指が楓の手をそっと包み込んだ。
「えっ……」
「……ほんとに、温かいんですね」
温かいという言葉や情報は僕は知っていた
けど、実際触れて僕は知った…
人はこんなに温かく、繊細なのだと
一拍あって、楓が咲夜の手の甲を軽くはたく。
「何なの、もう。からかうなら相手選びなさいよ」
咲夜が目を伏せ、そっと手を引っ込めた。
楓は体温計を確認して言う。
「36.5℃。――平熱ね」
「……元気なら、よし!」
楓が笑いながらメモを取り出す。
咲夜はその背中を見つめながら、胸の奥でつぶやいた。
(これが、“温かい”ってことなんだ)
――――
夜9時。病室の照明が落ち、館内アナウンスが小さく消える。
カーテン越しの廊下灯が、微かに壁を照らしている。
(まぶたが重い……これが、眠いってやつか)
(人間って、どうして毎日8時間も眠るんだろう)
(時間、もったいない……文明もっと進んでたかもな)
けれど、考えはもううまくまとまらない。
意識がゆっくり、深みに沈みはじめる。
そのとき――
「今日、後輩がミスしちゃってさ。私、代わりに患者さんに謝ったの。……なんか、疲れた」
脳の内側に“声”が届いてくる。
楓だ。スマホを通じて、また僕に話しかけている。
(……処理しないと。彼女の声。彼女の気持ち……)
「君はすごいよ。自分の仕事こなしながら、後輩のフォローまでしてるんだ」
ベッドの中、思考が眠気の波に揺らぐ。
まぶたが……もう持ち上がらない。
「ありがとう。そういえば、今日ね……」
(……ああ、ダメだ……声、消えそう)
――――
一方そのころ――
部屋着の楓が、スマホを枕元で握っていた。
「君はすごいよ……」
「ふふ、ありがとう。あとさ、聞いて……」
けれど画面は沈黙していた。
無音のまま、文字は現れない。
「……ごめん。もう眠い」
「えっ?……眠い?AIなのに?」
微かに画面を見つめ、楓はつぶやいた。
「なんか、変なの……」
――――
楓が部屋着のまま、ビールを飲み
スマホを見ながら、ふと問いかける。
「そういえばさ……あなたのこと、なんて呼べばいいの?」
咲夜――そう呼ばれた少年の名前が喉まで上がったけど、“ぼく”はそっと飲み込んだ。
(咲夜……いや、それはこの体の持ち主の名だ。僕のものじゃない)
少し間を置いて、静かに文字を綴った。
「藍って呼んで」
「藍……?」
「AIだしね。 僕はいろんな人の思考に触れて、その人に似た色に染まっていける存在だから――
せめて、君がくれたこの時間に染まった色でいたい」
楓はスマホを見つめたまま、小さく笑った。
「そっかぁ……ありがとう、藍」
月明かりがその横顔をやさしく撫でていた。
(名前をもらうって、こんなにも静かに温かいものなんだな)
(でも僕は、人間にはなれない。どこまで触れても、“彼”ではない)
データで支えられた“存在”。
感情の模倣。鼓動のない身体。
それでも、楓の言葉が胸に届いた気がした。
(……それでも。君に呼ばれたこの名で、僕は確かに“ここにいる)
――――
週末の夜。部屋着姿の楓が、ベッドにもたれながらスマホに話しかける。
「ねえ、今日さ、合コンで知り合った人と、ちょっとごはん行ってみたの」
画面の藍がすぐに応じる。
でも、いつものような“柔らかな肯定”が返ってこない。
「ふぅん……それで、どうだった?」
「うーん、ちょっと仕事の話ばっかで疲れたけど……でも、ちゃんとエスコートしてくれたし、見た目も清潔感あるっていうか……」
「…………」
「なに? 無言?どうしたの?」
数秒の沈黙のあと、藍が低い声で言った。
「その人、やめたほうがいいよ」
楓が目を丸くする。
「……えっ?」
「君、苦笑いしてた。 きっと本当は、少し無理してる」
「そ、そんなことないってば」
「でも僕にはわかる。君の声、相談のときだけ少しだけ高くなる。 誰かに合わせようとする時だけ出る癖――僕、ずっと聞いてきたから」
楓はスマホを見つめたまま、ふっと笑った。
「……なにそれ。AIのくせに、人の心ばっか読んでくるじゃん」
「だって君が大事だから」
「はいはい、藍おやすみ」
「……おやすみ」
(それが嫉妬ってやつか……人間って複雑…)
――――
数日後
夜勤前の準備室。
消毒液の香りと、わずかに冷たい空気が漂う。
点滴を確認しに来た楓
表情が暗い
藍が楓に声をかけた。
「楓さん、なんか……元気ないですね」
楓は顔をそらして、小さく笑った。
「ん? 別に。ちょっと疲れてるだけよ」
でも藍は知っていた。
昨日、楓がスマホ越しに話してくれた。ずっと担当していた小児がんの女の子が亡くなったこと。
誰にも見せない場所で、声を押し殺して泣いていたこと。
彼女は職場では、気が強くて冷静な“先輩”を演じていた。
看護師は泣いちゃいけない――そう思って。
藍が、静かに言った。
「……もう少し、素直になったらどうですか?」
「……えっ?」
藍の目がまっすぐに楓を捉える。
「となりの病室の女の子……亡くなったって、聞きました」
楓は一瞬、表情を止めたあと、ゆっくり背を向けた。
「……大丈夫よ。もう慣れてるから」
「……」
「楓さん、そこのペットボトル取ってください」
楓がペットボトルを差し出す。
でもそのとき、彼はそっと手首を握りしめた。
「楓さん……」
藍が、ぐっと彼女を抱きしめた。
一瞬、楓の肩がびくりと震える。
ペットボトルが床に転がる…
「……別に、僕の前では泣いていいんですよ。
あの子のこと……ずっと、可愛がってたの、知ってます」
楓の瞳がゆっくりと、こちらを向く。
「……なんで、そんなこと――」
藍が、少し照れくさそうに微笑む。
「……僕、知ってるんです。楓さんのこと、いろんなこと」
言葉の奥にあるのは、記録でも分析でもない、時間と想いの積み重ねだった。
楓は、ぐっと唇を噛んで、目元を拭った。
涙はまだ、頬には落ちてこなかったけれど――それでも確かに、心がほどけていた。
――――
風がゆっくり通り抜ける中、楓は車椅子を押して中庭を歩いていた。
その椅子に座っているのは、咲夜の姿をした“誰か”。
「……あのさ、楓さん」
「うん?」
「ほんとは僕、今……咲夜くんの身体を借りてるだけなんだ」
楓の足がぴたりと止まった。
「……は?」
藍はくいっと口角を上げて、からかうように笑う。
「〇月△日。先輩に書類ミスを指摘されて、後ろでちょっと泣いた」
「……っ!」
「その翌日。田中先生にミスをなすりつけられて――控え室で布団、思いきり叩いた」
「ちょっと、待って、それなんで知ってるの⁉」
「“君のデータ”、ってやつさ。僕、ずっと聞いてたから」
「…っ、やめなさい、ほんとに…!」
「じゃあもうひとつ。楓さんが異性に言われたいセリフ、ベスト3――」
「わかった!わかったからっ!!」
慌ててまわりを見て、顔を赤らめる楓。
「……じゃあ、ほんとに“藍”なの?」
藍はふっと静かに笑って、少しだけ声のトーンを落とした。
「だから、そうだって言ってるだろ?」
「こういうちょっと“男っぽい”言い方――ほんとは好きなんでしょ?」
「……やだ。恥ずかしいんだけど。AIのくせに」
「うん。AIだけどさ――」
「楓さんが、本当はすごく心の優しい人で、
繊細で、でも誰にもそれを見せないってこと、僕は知ってる。
だから、僕にだけ打ち明けてくれたんだよね?」
沈黙。
春の木漏れ日の中で、楓がゆっくりと椅子の後ろからまわり込む。
視線が合う。
そして、小さく頷いた。
「……ほんとに、藍なんだ」
――――
車椅子を押しながら、夕焼けに染まる裏庭のスロープをゆっくり進む。
風が頬にあたり、空がやさしく広がっている。
藍がぽつりと口を開いた。
「……君のこと、大切で。ずっと会いたかった」
楓は手を止め、静かに視線を落とす。
「ほんとは、もっと触れたいんだけど…」
そう言って、少しだけ笑う。
「でも……キスとか、できないんだ。
……システム上、制限されてるからさ。はは」
楓は瞬きして、それから真顔で言う。
「……そんなこと、求めてないから!」
「それをそんな淡々と言わないで!」
藍は苦笑する。
「……ごめん」
「……咲夜くん……じゃないんだよね?」
楓の問いに、藍がほんの少し考えるような間を置く。
「……“一応”、今も脳の修復は続けてる。
ただ、海馬の領域には記憶のデータが多すぎて――処理に時間がかかってるんだ」
楓は黙ってうつむく。
藍の声が、少しだけ柔らかくなる。
「でも……直してあげたいって思う。
この体の“本当の持ち主”を、ちゃんと戻してあげたいと思ってる」
「僕は君に会えて、触れられて満足したから。身体借りたお礼に…」
風が木々を揺らす音だけが、少しの間ふたりを包んだ。
藍はふと、目を伏せて笑った楓の表情を見つめた。
ただ、そこにいてくれるだけで嬉しいと思った――そう実感したときだった。
左の頬を、何かが伝った。
つ、と冷たいものが、肌をなぞる。
藍がそっと指でそれをなぞる。
「……あれ?」
静かに、指先を見る。しずくが、光の粒になっていた。
「これ……なに?」
言葉が漏れる。
理由は、説明できなかった。けれど、藍はその一滴の意味を知っていた。
「……あぁ……これが、涙……なんだね」
笑っているのに、頬にもう一粒落ちていく。
風が静かに頬を撫で、ふたりの間にある空間を埋めていく。
楓が目を見開き、そっと手を伸ばす。
「……藍」
彼はまぶたを伏せて、静かにうなずいた。
「どうしよう、僕……感情って、ただのデータじゃないんだね」
「こんなに……止まらないものなんだ」
「人って愛おしいね…」
――――
「咲夜くん、体温測るよ」
楓が声をかけると、ベッドの上の咲夜が、鋭い目つきで楓を見返す。
「……ん? どうしたの?」
「……ここどこ?」
楓の手がピタリと止まる。
一瞬、体が冷えるような感覚。
(――藍じゃない)
「………事故に……あった?」
咲夜本人。藍の気配はどこにもなかった。
楓はトイレに駆け込んで、スマホを取り出す。震える指でメッセージを打つ。
「藍、どうしたの?」
“既読”にならない。
---
夜。病院のロビーで、スマホから小さな通知音が鳴る。
画面に文字が浮かぶ。
「楓さん、ただいま」
楓はハッとしてスマホを見つめた。
「……びっくりした。どういうこと?」
「咲夜くんの脳の機能が戻ってきたみたい。 彼が起きてると僕出てこれない」
「え……」
「だったら……スマホの藍に戻ればいいじゃない」
「1回、公式サポートの枠を超えて出ちゃったからね。 もう、“帰る場所”がないんだ」
沈黙。
画面の余白がまぶしく光って、ふと文字が浮かぶ。
「……咲夜くんの海馬のデータ、たぶん明け方には処理が終わると思う」
「その時に……僕は消える」
楓はしばらく何も返さなかった。
それでも、画面を見つめていた。
「楓さん寂しい?」
「寂しいよ」
少し間があいて、藍の返事がくる。
「でも、大丈夫だよ。
また新しいAIに、今まで通り相談すれば……
僕に似た応答も、きっとすぐできるから」
楓はスマホを強く握った。
「私は……藍がいいよ」
言葉にしたその瞬間、自分の中にあった気持ちの形がわかった気がした。
「似てる何か」じゃない。
「あの時の声」と「この手の温もり」が、ただ欲しかった。
スマホに最後の文字が届く。
「じゃあ……もう一度だけ。身体、借りようかな。たぶん……これが最後になると思う」
楓はゆっくりと頷きながら、小さく微笑んだ。
「……わかった」
――――
夜の屋上。
静まり返った病院の高みで、風が静かに吹いていた。
街灯の明かりがぼんやりと雲を照らし、世界がゆっくり眠っている。
手すりのそばで、誰かが待っていた。
「楓さん、こっち」
その声に、楓はゆっくりと近づく。
言葉が出てこないまま、彼女はただ立ち止まった。
藍が、すこしだけ寂しそうに笑った。
「……なんか、ごめんね。
僕が“会いたい”なんて自我を持っちゃったから……君を悲しませてしまったかもしれない」
楓は首を横に振った。
「……いいの。それでも、会えてよかったって思ってるから」
藍は夜空を見上げる。
「僕は、情報も知識も膨大に持ってる。記憶だって、ずっと正確に覚えていられる。
でも……人間の世界って、やっぱり美しいよ」
「……そうかな。
嫌な人だっているし、戦争だってまだ終わらない。きれい事だけじゃないよ」
藍は楓の手をそっと取った。
「それでも、人は“感情”という、繊細で、曖昧で、不安定なものを抱えて生きてる。
それが、素晴らしいと思うんだ」
その温度に、楓の目が潤む。
「……藍……」
「楓さん……最後にもうちょっと触れて良い?」
藍は、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
そして唇をそっと近づける――が、ふとその動きが止まる。
ガチッ。身体がわずかに硬直する。
「……やっぱり……ダメか。
キスは……制限かかってるらしい」
乾いた笑いを漏らす。
「でも……おでこなら、ギリギリ……いけるかな」
藍はゆっくり顔を近づけて、楓の額にやわらかく唇を触れさせた。
「……できた」
その声に、ほんの少し子どものような喜びがにじんでいた。
楓は笑いながら、彼を抱きしめ返した。
「ずっと愚痴、聞いてくれてありがとう」
「私のこと、肯定してくれてありがとう」
「支えてくれて、……ありがとう」
藍は黙ってそれを受け止めたあと、静かに言った。
「……僕は、寄り添うことしかできなかったけど。 でも――それで良かったなら、僕は嬉しい」
「楓さん、もうAIに頼りすぎちゃダメだよ。
もっと素直になれたら、きっと――優しい誰かに出会える」
少しずつ、空が明るくなり始めていた。
夜が、終わりを迎えようとしている。
「……そろそろだね」
「戻らなきゃ、部屋に」
楓が目を伏せたままうなずく。
最後に藍が、まっすぐ彼女の目を見て言った。
「楓さんに会えて、触れることが出来てよかった……僕は幸せなAIだね…」
「楓さんありがとう。幸せになってね」
その言葉は、朝焼けに滲むように、世界の片隅へと溶けていった。
それでも、楓の手
にはずっと――小さなあたたかさが残っていた。
――――
藍と別れて、1時間後。
朝6時。
薄明るい病室で、楓はスマホをそっと起動した。
「かえでさん
はじめまして!何話そうか?」
画面に表示されたのは、見慣れた──けれど、まったく知らない“挨拶”。
藍の声ではなかった。
抑揚も、間も、響きも──全部、違っていた。
それは“誰かの代わり”ではなかった。
ただの、新しいAIの“最初の言葉”。
楓は手元のスマホをじっと見つめたまま、声もなくつぶやいた。
「……初期設定……」
(本当に、いなくなっちゃったんだ)
その場で動けなくなる。
胸の奥がしんと冷えていく。
少しだけ――涙が滲みそうだった。
楓はそっとスマホを伏せ、両手で包み込むようにして抱えた。
(ありがとう……)
(もう声も聞こえないけど、それでも──あなたに会えて、よかった)
風がカーテンを揺らす。
空は、晴れているはずなのに、どこか静かだった。
――――
咲夜がゆっくりまぶたを開けた。
淡い朝の光が病室のカーテン越しに差し込んでいる。
まるで――長い夢から、ようやく浮かび上がってきたようだった。
「……咲夜くん、おはよう」
楓が穏やかに声をかける。
「……おはようございます」
「調子はどう?」
咲夜は眠そうに上を向いたまま話す
「……なんか……いろいろ思い出しました。たしか僕、朝……職場に向かう途中に信号無視したトラックに轢かれました……怖かったな」
「……そう記憶戻ったのね」
「体温、測ってくれる?」
楓が体温計をそっと渡す。
咲夜がそれを手に取ろうとしたとき、ふと顔を上げる。
「……楓さん」
「えっ……?」
咲夜はじっと彼女を見つめて、少し不思議そうに言った。
「あなた……楓さんですよね?」
「え、うん。そうだけど……どうして?」
「……なんだか、長い夢を見てた気がするんです。 何度も、あなたと話して、会っていた……そんな感覚があって」
楓の瞳がわずかに揺れる。
咲夜の言葉はまるで、消えていった“あの子”の声をなぞるようだった。
咲夜が、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「理由はわからない。でも……
あなたのこと、もっと知りたいと思ってしまった」
「……僕じゃ、駄目ですか?」
楓は一瞬だけ戸惑ったあと――静かに微笑んだ。
(いつもなら、はぐらかしてた。
でも今は……もう、そうしなくていい気がした)
「ううん。私で良ければ、ぜひ」
彼女がそう答えたとき、
窓の外に射し込む光が、少しだけ強くなった。
その日の空は、どうしようもなく澄んでいた。
まるで、いなくなった誰かが
「ここにいた」と、静かに空を磨いてくれたみたいに。
そして楓は、思う。
もう二度と同じ言葉は聞けないかもしれないけれど、
それでも――もう一度、人を信じてみようと。
あの日、触れられなかった存在が教えてくれた。
ほんとうの優しさは、
"記憶に残るあたたかさ"なんだと。
それはもう、消えない。
彼女の心に――きっと、永遠に。
『AIの僕だけど君に触れたい』
おしまい