第6話 襷
2学期に入っても梓への駿のコーチは続いていた。ジムの帰りは、シャワーを浴びることから二人はバラバラになる。しかし、その日はたまたまチェックアウトカウンターで二人は一緒になった。
「飯野さん、ちょっと休んでいかない?」
「え? 休む?」
「うん」
駿は、ロビーのソファを指さす。
「座ってて」
梓は特に断る理由も見つけられずソファに座った。すぐに駿がペットボトルを2本抱えてやって来た。
「はい。お疲れさま」
「あ、ありがとう…、お金、出すよ」
「いいって。男の面子を持たせてよ」
笑いながら駿はペットボトルを開け、冷たいお茶をグビリと飲んだ。
「2学期はさ、体育大会があるじゃない。飯野さんは何か狙ってるの?」
梓はペットボトルを落としそうになった。
「ま、まさか。私なんかムリ。ゴールのテープ係とかで十分」
「そうなの? グラウンドで走らないと実感しづらいと思うけど、結構力がついて来てると思うよ。ウチのクラスってさ、藪さんもいるし優勝狙えるよね」
「あ、そ、そうね」
突然、亜朱沙の名前が出て、梓は戸惑った。本当は一緒に走ってみたい。あれは何て言ったっけ? 襷を掛けて走るやつ。
「でもさ、どこかで進化が実感できると走るのがもっと楽しくなると思うんだよね。どう? 陸上部に入る? きっと藪さんも喜ぶよ」
梓は真っ赤になって手を振り回した。
「ムリムリムリムリ。絶対ムリ」
「えー、なんで?」
「だって、藪さんと一緒なんて、私、溶けて消えちゃう…」
「あははは。案外面白いよね、飯野さんは」
可愛いよと言う言葉を言えずに駿は梓を見つめた。本当に湯気を噴いてとろけてしまいそうだ。放っておけないな。
「でもなんか目標がないと、ずっとは続かないでしょ。出てみたい大会とかない?」
梓は遠くを見つめて小声で言った。
「あの、ムリなのは判ってるんだけど、襷を掛けて走るやつ。なんだっけ?」
駿はポンと手を打った。
「駅伝? 箱根とか有名だもんね。そっか、襷をつなぐって奴ね。都道府県対抗女子駅伝ってのはあるけどね、体育大会でもリレーは襷をつけるよ」
「あの襷を掛けて走ってみたい…。リレーは無理だけど」
梓の声は消え入りそうだ。
「まあ確かにリレーは1クラス一人で藪さんが選ばれるだろうから難しいか…。でもさ、飯野さん、襷があれば次のステップに頑張れるってことかな」
そう、俺との次のステップにも来てくれるかな。駿は野心を抱いた。確か北端中学の古い襷が部室の棚に入ってた。現在の北端中学陸上部の襷は藍色だが、古い襷は色褪せて空色になっている。溝口先輩が『もう使わないんだけど、捨てるに捨てられないからお前にやるよ。放っとくとまた藪が遊ぶからさ』とか言ってた。あれをプレゼントしちゃおう。駿は密かに作戦を立てた。
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三日後のトレーニングジム。駿は梓に折り畳んだ布を渡した。
「これ、飯野さんに差し上げます」
「え、なに?」
「拡げてみて」
梓はその空色の布を拡げる。
『川端市立北端中学校』
校章と校名があしらわれたその布きれは、北端中学の駅伝用の襷だった。
「こ、こんなのもらっていいの?」
「うん。古いヤツなんだ。捨てるモノなんだって。だから藪さんが50m駅伝ごっことか言って、つけて遊んで先輩に怒られてたよ。だからさ、これつけて校内は走らないでね。ややこしいから」
白い歯を見せて駿は笑った。
藪さんがこれをつけてた…。少し古びた空色の襷を梓は胸に押し抱いた。ちょっぴり涙が出た。