第4話 女王の努力
その日は梅雨の前触れの雨だった。最後の授業が終わった教室で、竹内 駿が藪 亜朱沙に声を掛けた。
「藪さーん、今日、部活は中止だって」
「あー、やっぱり」
「明日はグランドの整備からだね」
「そうねー、めんどくさー」
亜朱沙は駿に声を掛けられたウキウキ気分を隠すようにぶっきら棒な返事をする。だって、その方が自然だもん。
駿は連絡を終えるとさっさと帰り、ほどなく亜朱沙も教室を出た。
そんな光景を視界の端っこに納め、梓も教室を出る。1年生の教室で保健委員会があるのだ。ちょっと面倒だけどお役目だから仕方ない。廊下は下校する生徒や屋内での部活練習の生徒でわちゃわちゃし、しかも湿っぽかった。
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保健委員会は小一時間で終了した。夏に向けての健康上の注意点や、熱中症など具合が悪くなった時の初期対応を養護の先生から教わった。大切な事だからときちんとノートを取り、しかし緊急時に自分はどこまで積極的に動けるのだろうかと疑問に思いながら、梓は1年生の教室を出た。廊下の窓から雨のグラウンドが見えるが、さすがに誰もいない。藪さんたち、明日は大変だ。『めんどくさー』の気持ちはよく判る。こんな日は体育館が混むんだろうな。蒸し蒸しして、私ならすぐに倒れてしまいそうだ。誰か倒れていないかな。熱中症の話が頭の中でまだ新鮮な梓は、突然方向転換し体育館へ足を向けた。
体育館からはボールが弾む音、シューズが床を鳴らす音、各部の掛け声が聞こえてくる。聞いているだけで蒸し暑く感じる。館内だけでは入りきれないのか、体育館入口の庇の下で柔軟運動に取り組む生徒もいる。梓は感心しながら体育館の周囲をくるりと回った。すると人気のない体育館の裏、僅かな庇の下で、半分雨に打たれながら黙々とトレーニングしている生徒がいる。
え、藪さん?!
たった一人、スタートフォームから数歩のダッシュを繰り返しているのは藪 亜朱沙だった。梓は身を隠してその姿を見つめる。
髪を一つにまとめた亜朱沙はクラウチングスタートの姿勢を取り、バネのように飛び出す。何かの感触を確かめているのであろう、その繰り返し。時々脇のタオルで汗を拭き、ペットボトルのドリンクを呷る。
梓は見入ってしまった。部活は中止ってさっき竹内君が言ってたけど、藪さん、たった一人で練習しているんだ。
クラスの女王様。恵まれた才能が光り輝いていると勝手に思っていたけど、それは大間違いだ。あの眩しさはこんな努力の結果なんだ。誰にも気づかれない場所で己と向かい合って鍛えている、その結果なんだ。
梓は涙がジワるのを感じた。藪さん、私は見ているよ。あなたの努力、あなたの汗を。保健委員会が面倒とか思った自分が恥ずかしい。
しばらく同じ練習を繰り返していた亜朱沙は、ドリンクをくいっと飲むと、コンクリートの地面に座り込む。髪をまとめていたヘアゴムを外して、持っていたタオルを手でこね繰り回している。
なんだろう? 何をしているのだろう? 梓がこっそり見ていると、亜朱沙はタオルのカタマリを目の前に掲げた。一人で笑っている。
あ! ウサちゃん!
梓は飛び出しそうになる気持ちを堪えた。藪さん、タオルでウサちゃんを作っちゃった。かわいい! 凄い! 一人で喜んでいる藪さんはもっとカワイイ!
亜朱沙はタオルで作ったウサギを眺めまわしていたが、やがてヘアゴムを外してタオルを解き、立ち上がるとまたクラウチングスタートの姿勢を取った。
梓が見ていたのはそこまでだ。女王の意外な姿、自分の胸だけに仕舞っておこう。私も少しでも近づきたいな。教室に戻る廊下は、もう湿っぽくなんて無かった。