第20話 証言 学校を飛び出す
「すみません、藪主任!」
青年の元を辞した二人が階段を降り始めたら、先程の青年が後ろから呼び止めた。
「はい?」
「あの、藪主任にお話したいって人がいまして、申し訳ないですが、もうちょっといいですか?」
「は、はい…」
上半身だけ振り返った亜朱沙は妙子に目配せした。
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「お時間は大丈夫ですか?」
先程の応接セットで待っていたのは中年男性だった。たまたまやって来た市役所の職員だそうだ。
「ええ、今日は一日、お話を聞いて回ろうと思っていますので」
「それは良かった。実は私の息子が申していた話なのです」
「息子さん?」
「ええ、今じゃ立派な大人なんですが、あの時は中3でね、駒切中学にいたんですよ。綿木先生はご存知と思いますが」
名前を聞いて妙子は頷く。
「少し小柄な男の子でしたね」
「ええ、背は今でも低いままですが、中学では地震が起こって津波が来る時って、てんでんこに屋上か裏の丘って決まってたんですね」
「確かにそうでした。校舎内に居たら屋上、グラウンドや外にいたら丘でしたね」
妙子は頷いた。
「てんでんこ?」
亜朱沙は妙子を見た。
「ああ、『てんでんこ』ってね、各自で逃げるってことなのよ。日本人は周囲を気にしがちだけど、それを気にして犠牲が増えることがあるから」
「そう、決して自分だけが逃げるってことじゃないよ。一人一人が最適な逃げ方でってことなんですよ。結局それが全体の生存率を高めるそうなんです」
職員の言葉を亜朱沙は慌ててメモした。なるほど…。
職員は続けた。
「息子は校舎内にいたから、皆と一緒に階段を上がったそうなんですが、女の子が一人だけ階段を降りて来たって。幾ら『てんでんこ』でも、そりゃなかろうって声を掛けたそうです」
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「おまえ、どこ行くの? 屋上だよ!」
見知らぬ男子生徒の声に、女子生徒は足を止めて答えた。
「判ってます。すぐに行きます。でも3階からいろんな人が見えたから声をかけてきます」
「えー、みんな判ってるよ、津波てんでんこって」
「でも、私みたいに引越してきた人とか、小さな子とか、そうじゃない人もいるので」
男子生徒は彼女の視線の強さに黙り込んだ。
転校生なのか。道理で知らない顔だ。しかも髪を染めている。灰色なんて珍しいけどヤンキーなのか? そんな風には見えないけれど。男子生徒が逡巡している間に、彼女は頭を軽く下げて軽やかに階段を降りてしまった。
「おい!行くぜ」
仲間の声が上から聞こえる。男子生徒は少々後ろ髪を引かれながら階段を上がった。
屋上からは海が見えた。遥か沖合に線のようなものが見える。あれが津波なのかな。生徒たちはざわつく。
「みんな、掴まれるところに掴まっておけよー」
先生が呼び掛けている。男子生徒は校庭方向を眺めた。
先程の灰髪の女子生徒が駈けて行くのが見える。町の中は倒壊した建物、傾いた電柱、立ち上る煙、散乱する瓦やガラスで酷いありさまだ。建物の陰に入った彼女が、老人の手を引いて校門に現れた。そのまま昇降口まで老人を案内し、また駈け出してゆく。
沖合の海の線は少し太くなったように見える。津波まであと25分と防災無線が叫ぶのが聞こえる。
男子生徒は再びグラウンドを見下ろす。少し先の道路に1台のミニバンがやって来た。瓦礫を避けながら走るのでゆっくりペースである。そこにさっきの彼女が子どもと、その母親らしきを伴って現れた。彼女が手を振ってミニバンが停止する。助手席の窓から何かを話しかけ、次いでミニバンのドアを開けて母子を押し込んだ。ミニバンは方向を変えてグラウンドの中に入って来て、そして男子生徒の視界からは消えた。もしかして、学校の裏の丘の上を案内したのかな。
男子生徒が眺めていると彼女は再び駈け出して、そして町の中に消えた。




