水魚之交【夏】
梅雨明け宣言をしないとニュースで言っていたのは、つい何日か前。
―――この天気じゃなぁ。
どんよりとした曇り空を見上げて、納得する。
少なくともこの半月はまともに晴れていた記憶がない。
気温も湿度も高くて、湿った空気が体にまとわりつくようで気持ちが悪い。
鋳造工場が職場の俺にとって、オンでもオフでもどこにいても暑い夏はうんざりする季節でしかなかった。
生まれ育ったのは西日本で、就職したのが関東に本社を置く今の会社だった。
5か所ある国内拠点を何年かごとに回る事になっていて、1か所目は関東の工場。今の職場は東北で、ここが2か所目になる。
前もって転勤の話はされていたし、もともと生まれ育った土地にこだわりはない性格なのか、転勤に抵抗はなかった。むしろ、自分から率先して住もうとは思わないだろう土地に行くことに意外と楽しさも感じた。
ただ、見知らぬ土地に住むとなると、その度に新しい人間関係を構築しないといけない。そこに若干の煩わしさはあったものの、いざ働き始めればどこの部署でもみんな気さくに接してくれたし、週末は飯や飲みに誘ってもらったりして、案外ラクに人間関係を構築できた。これはありがたかった。もちろん、好きになれない人がいなかった訳じゃないけど。
そんな中でも特に仲良くなったのが、溪だった。
溪は同じ製造ラインでも別のチームの人間だったが、たまたま社食の食堂で隣に座ったのが縁で話すようになった。
「この間転勤してきた人だよね?」
出社初日の朝礼で全員の前で挨拶したのを覚えていたらしい。
「あぁ、はい。そうです。よろしくお願いします」
「敬語じゃなくていいよ。俺と歳もそんなに変わらないでしょ、多分」
そこでお互いに自己紹介をして、俺は何年生まれだとかそんな話をしているうちに溪の方が2歳年上だったと分かった。じゃあ見てた漫画とかテレビとか何だった?とか他愛もないそんな話をしているうちに、いつの間にか敬語じゃなくなっていた。
同じチームの面々とももちろんそれなりに仲は良かったけど、溪は一緒にいて一番気楽で、何でも話せる友人になった。
俺のチームと溪のチームは休憩の時間が一緒で、多少の時間のズレはあってもだいたい食堂で会える。
いつものように夜勤の食事休憩に食堂に入っていくと、メニューのサンプルの前に見知った背中を見つけた。
「お疲れさん!」
広い背中の真ん中、肩甲骨の間辺りを手の平でポンっと叩きながら隣に並ぶと、「ん~?」と横目でチラリと見られた。戻る視線を追うように並べられたサンプルに目を向ける。
「今日はなに食う?・・・お。今日のA定、から揚げじゃん」
「麺の方は冷やし中華なんだよ」
言いながら長い腕を組む。煤で薄汚れた作業着なのに、その立ち姿は様になっている。
たとえその視線の先にあるのが食品サンプルだとしても、だ。
「まぁでも?俺はお前の作るメシの方が美味いと思うけどな・・・あ、俺はA定にするわ」
何を食っても美味いと思う自分の味覚が正しいかは置いといて、実際溪の作るメシは美味いと思う。定番だったり簡単なものが多いけど、遊びに行けばさらっと何か作ってくれるし、リクエストも聞いてくれる。手間のかかる料理はさすがに嫌な顔をされるけど。
これがつまり胃袋を掴まれているって事か、と思うけど、まぁそれはそれでアリだよな、なんて思ったり。
そんな風に思いながら、いつになったら決まるんだか分からない男は放っておいて、俺は列に並んだ。
食事の載ったトレーを持ち、窓側の人の少ない席を選ぶ。
食べ始めてすぐに、隣に人の影。
「あれ、溪もから揚げ?」
テーブルに置かれたトレーには俺と同じA定。
「迷ったけどな」
「分かるわー。俺も一瞬迷ったし」
「それな」
2人そろってフフっと意味もなく笑う。
食事の続きを再開した俺の隣で、溪は両手を合わせて「いただきます」と言ってから箸を持った。
俺でちょうどいい高さのテーブルも、身長が180センチちょっとの溪には少しだけ低い。少し猫背になりながら食事をするその姿をチラチラ盗み見る。
短髪の黒髪で適度にイケメン。いや、イケメンというよりも「俺の好きな顔」と言ったらいいのか。でも世間一般から見てもイケメンである事は間違いない。
地元出身だけど、交代制の今の会社に就職した事を機に一人暮らしを始めたらしく、家事全般できる。気さくで気遣いもできて優しい。かなり高スペックだと思うんだが、当の本人にそれを言うとものすごく嫌そうに顔を顰められる。
もし彼女が出来たら邪魔したくないから早く言えよと伝えてはあるけど、当の本人は俺と一緒の方が気を使わなくていいし楽だから、当分は無いよと言っている。
身長も顔面も中身も至って平々凡々な俺からしたら、隣を歩くのも申し訳なような気がするんだが。
「何かさぁ、冷やし中華ってワード聞くと、夏だなって思わん?」
「まぁ、確かに」
「じゃあ食いに行くか、週末」
「あー、うん。行く」
即答。予定とかないのか、イケメンのくせに。
じゃあ誘うなよ、と心の中でセルフ突っ込みをしながら、メシだけじゃつまんねぇなとふと思う。
「じゃあ、ついでにツーリングは?」
「ん?」
から揚げにかぶりついている溪が、もぐもぐと口を動かしながら籠った返事をする。
何か可愛いな、とか。180センチ超えに何を思うんだ、と我ながらに思う。
「ツーリングと冷やし中華。どう?」
「・・・雨じゃなかったか?週末」
口の中を空にした男が記憶を遡るように考えて答えた。
即座にスマホで天気予報を確認する。
降水確率は午前40%、午後60%。
「だめ?」
微妙な予報ではあるけど、別に乗れない訳じゃない。
「・・・分かった」
ヨシっ!と思わず声が出る。
「・・・そんなに?」
「そりゃそうだろ?お前とツーリング行くの楽しいもん」
久々の溪とのツーリングが楽しみでウキウキする単純な俺の姿を、複雑そうな顔で見ていたなんて、全然気づいていなかった。
週5、土日休みで週ごとの昼夜交代制のシフト。
つまり、金曜日の今日で夜勤だった今週の勤務は終わり。
いつものように社食でメシを食いながら明日の予定を立てる。
正確にはあと数十分で今日だけど。
「明日の昼頃かな?お前んちに行くの」
サバの味噌煮をつつきながら隣に座る男に問いかけると、かき揚げそばを啜ろうとしていた溪の手が止まった。
「・・・今日、ウチ来るか?」
そう提案されて、ん?と思う。でも、それはそれでアリ。
しかも今日はバイクで出勤していた。本当に、偶然。
行き来する手間と時間のロスが減ればその分の睡眠時間は確保できる。でも。
「あ―・・・でも、今日はもう着替えがねぇわ」
私服で出勤して作業着に着替えるから私服は問題ないけど、この暑さのせいで持ってきていたインナーのシャツや下着はもう替えがない。
それに今日はこのまま家に帰って、着替えてからと考えていたから私服も適当。
「この間忘れていった服なら洗ってあるぞ」
言い終わるや否やそばを啜りだした溪の言葉に、
「え、マジで?じゃあ行くわ、今日」
行けない理由が無くなって即答した。
何の迷いもなく即答したせいか、隣からフッと笑ったような声が聞こえた気がしたけど、スマホの時計をチラッと見たら残りの休憩時間が思いのほか短くて、慌てて食事に集中した。
勤務が終わって外へ出る。
もう空は明るく、でも陽が昇ってない分、日中に比べると格段に涼しかった。
駐車場の隅にある駐輪場に停めておいた自分のバイクに向かって歩いていると、後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返らなくても相手が誰だか分かるくらい聞きなれた声に、少しだけ疲れが和らぐ。
「お疲れさん」
歩幅を合わせた溪が俺の横に並んで、歩くスピードはそのままに少しだけ目線を上げた。
「んー。お疲れー。今週も終わったな」
言いながら、着替えや私物を突っ込んだリュックを左肩に掛けたまま、大きく腕を伸ばした。ついでに首もぐるぐる回して、そのまま空を見上げる。
「雨、降んなきゃいいけどなぁ」
「降るだろ、これ」
灰色の雲に覆われた空を一緒に見上げながら、半笑いの溪からツッコミが入る。
「うるせー」
―――仮眠を取って起きた時、晴れていますように。
一瞬だけ足を止め、パンパンと2回手を打って空に向かって願ってみる。
「・・・子供かよ」
やってみて、自分でもそう思った。
「何とでも言え。つーかさ・・・」
「ん?」
「腹減った」
半歩前を歩いていた溪の足が止まる。
一呼吸置いて、大きなため息。
「・・・お前さぁ・・・いや、もういい。帰る」
一瞬だけ振り返った溪の顔は呆れていて、そのまま自分の車の方に向かって行く。
その後ろ姿に、
「コンビニ寄って行こうぜー」
と声を掛けた。振り返らずに右手を上げた姿を確認して、俺も駐輪場に向かった。
鍵を開け入っていく溪の後ろに続いて、部屋に入る。
「おじゃましまーす」
1週間ぶりの溪の部屋。
玄関を入って右手に風呂とトイレが並んでいて、突き当りのドアを開けて同じく右手に2畳くらいの対面キッチンと10畳という間取りの1LDK。
部屋の中は左手壁際にベッド、枕側に掃き出し窓。ベッド側面の対面の壁にテレビと棚。ベッドとテレビの間にローテーブルとロータイプのソファー、という配置だ。
言い方は悪いが、適度に散らかっていて居心地がいい。
これがキッチリ整理整頓されていたら、自分の部屋の汚さを再認識してしまって逆に居心地悪く感じるだろうな、と思う。
買ってきた物をキッチンに置いて、定位置になりつつある窓側に腰を下ろす。
「なぁ」
俺と入れ替わりでキッチンに入った溪に声を掛けると、「なに?」という視線でこっちを見た。
「俺、この間パンツ忘れてったの?」
今日、仕事終わりでここに来られた理由。
「・・・あぁ。Tシャツと下着な。何か取った時にカバンから出して、そのまま忘れたんだろ」
買ってきた物を冷蔵庫にしまいながら、その話かという表情をしている。
その時の事はいまいち覚えていなかったけれど、洗ってもらえたのはありがたい。
「悪かった・・・でも言ってくれたら良かったのに」
いくら仲がいいとはいえ、下着まで洗ってもらうのは申し訳なさすぎる。
「まぁな。でもさっさと洗っておかねぇと臭うだろ?俺のと一緒で悪いかとは思ったけどな」
確かに。この時期に汗で濡れた下着を何日も放置していたら、洗濯機よりもゴミ箱行きだ。
「お前のと一緒でも俺は全然大丈夫だけどさぁ・・・マジで悪ぃなと思って」
「そこまで気にするか?まぁ、どうせすぐ泊まりに来るだろうと思って言わなかった俺も悪かったけど」
いやいやいや・・・と申し訳なさに項垂れていると、いつの間にか近くまで来ていたらしく髪をぐしゃぐしゃにされた。
「もういいから、さっさとシャワー浴びて来い。俺も早くシャワー浴びたいし」
顔を上げると、溪はもうそばにいなくて、クローゼットの中を物色している姿が見えた。
「お前が先に入れよ」
そう答えると、
「お前客だろ、一応。ほら」
目の前に差し出されたのは、綺麗に畳まれた見覚えがあるTシャツと下着。
「客って・・・何か他人行儀ぃ・・・」
受け取りながらそう答える。
「いいからさっさと入れよ」
家主からピシャリとそう言われてしまうと、それ以上どうしようもない。
「・・・分かったよ」
しぶしぶ腰を上げ、風呂場へ向かおうとしていると、
「ちょっと待て。洗濯するけどついでにお前のも一緒に洗うか?」
自分のカバンからビニール袋にまとめていた下着を取り出しながら溪が聞いてくる。
「起きたら干せば、帰って来た頃には乾いてるだろ」
どうする?と聞きながら俺より先に洗面所兼脱衣所に向かって行く。
「あー・・・うん。じゃあ頼むわ、俺のも」
「じゃあ洗濯機に突っ込んどいて」
遠慮するのも今更か、と開き直ってバッグから洗濯物を出した。
畳まれた着替えとビニール袋にまとめていた洗濯物を両手に持って溪の後に続く。
「つーかさ」
洗濯機の前で洗剤の準備をしていた溪が、ん?と顔を上げる。
「お前は俺のおかんか?」
言いながら顔を覗き込んだ俺に、は?という顔をして、
「・・・こんな息子いらねぇわ、俺」
フンっと鼻で笑われた。
目が覚めて、半分開いていた窓のレースカーテンが揺れていた。
その隙間から見えた空はやっぱり曇りで、けれど別に今すぐに雨が降りそうな雰囲気でもなかった。
しょっちゅう泊まりに来る俺に、と溪が買ってくれた布団とタオルケット。
まだゴロゴロしていたい気もしつつ起き上がる。
ベッドで寝ている溪の寝顔を横目に、キッチンへ入る。冷蔵庫から勝手に麦茶を出してコップ一杯分を一気に飲み干した。
体中が一瞬で潤ったような、そんな感覚。
空になったコップをシンクに置いて、そのまま脱衣所に向かった。
寝ている間に終わっていた洗濯を取り出して、ベランダに向かう。
まだ寝ている男を起こさないように、極力静かに。
曇り空なだけあって湿度は高い。でも少し風があるおかげか外にいてもそこまで苦にならない。今の職場の環境のせいで多少の暑さには強くなったんだろうか。
シワを伸ばしながら干した服は大した量もなくすぐに終わって、物干し竿には風で揺れる洗濯物が並んだ。
体格の差が目に見えて分かるTシャツ。
「デカいなぁ・・・」
普段一緒にいてもあまり身長差を感じる事は無いんだけど。
体の厚みの違いだろうか。
「―――そうか?」
ベランダと部屋の境目、サッシの縁に寄り掛かった寝ぼけ眼の男。
静かにしていたつもりだったけれど、起こしてしまったらしい。
「悪い、起こした?」
空になったカゴを持ちながら部屋に戻ろうとすると、溪が半身分、体をどけてくれた。
「・・・いや?喉乾いた・・・」
言いながら、寝ぐせの付いた髪をかき上げた。
指とか、腕の筋とか、首筋とか。
―――最近、そんなところに目が行く。
どうしてなのか、自分でもよく分からない。
だから知りたい。
けれど、本当にそれを知っていいのかと自問している自分もいる。
知ってしまったら俺らの間の何かが変わってしまいそうな、そんな予感がして。
―――なんか、こわい。
「・・・どうした?」
一瞬自分の中に意識が飛んでいたようで声を掛けられてハッとした。
焦点が合ったその瞬間の真正面に、溪の顔。
思いっきり目が合って、思わず仰け反った。
「っ!―――どうもしない、けど!?」
真っすぐな視線に盛大に焦りながら、その体を押しのけて部屋に滑り込む。
バタバタと足音を立てながら脱衣所に戻って、持っていたカゴを置くと、熱の塊みたいな溜め息が込み上げてきて、全力疾走した時みたいに息苦しい。
―――なんだよこれ・・・。
訳が分からず、でも落ち着かなきゃと深呼吸を繰り返す。
少しだけ、ほんの少しだけ落ち着いたような気がしたけれど、まだ向こうには戻れる気がしない。
どうしよう、と顔を上げると、洗面台の鏡に泣きそうになっている自分の顔が映った。
―――何で俺、こんな顔してんの?
自分で自分の感情が分からなくて、ただただ戸惑う。
顔でも洗えばまた少しは落ち着くだろうか。
そんな風に思って、蛇口を開ける。
差し出した手の平に溜めた水でバシャバシャと顔を洗う。
濡れた顔のまま鏡を見ると、そこに映った自分の顔はいつも通りのように見えた。
―――とりあえず、大丈夫そう。
ホッとしたら、手元にタオルがない事に気付いた。
「・・・溪ー!タオル借りるー!」
脱衣所から部屋に向かって声を掛けると、「おー」とだけ返って来た。
洗面台のすぐ横の棚からタオルを取りだして顔を拭う。
―――あ。ヤバい。
拭った瞬間に吸い込んだタオルの匂いが溪そのもので、また胸がグッと苦しくなった。
「・・・くそっ!何なんだよ・・・っ!」
使ったタオルを洗面台の中に叩きつける。
―――何なんだ、ホントに。
起きてから続く、よくわかない感情に苛立つ。
自分の感情なのに。
「おい、どうかしたかー?」
キッチン側から聞こえた溪の声にハッとする。
そう言えばカゴを置きにきてからしばらく洗面台を占領していた。
いつまでもここにいるわけにはいかないと、のろのろと部屋に戻る。
キッチンのコンロの前、換気扇の下で麦茶の入ったグラス片手に煙草を吸う溪がいた。
換気扇に吸い込まれていく白い煙と、煙草を持つ骨ばった指。
薄っすらと生えた無精ひげと寝ぐせの付いた髪が妙に男くさい。
留まってしまいそうな視線を無理やりに外して部屋に戻ると、敷いたままだった布団の上に腰を下ろした。
「―――今日、どうする?雨、降るかもだけど。行く?」
治まりきらない動揺を隠すふりをしながら、窓の外に目を向ける。
不自然に見えていないだろうか。
そんな事を考えている自分が、一番不自然。
「・・・あー・・・。どうすっか。バイク動けばな」
残った麦茶を飲み干して、グラスをシンクの中に置いた溪が考える素振りを見せながら言った。
「は?」
「最近、乗ってなかったからバッテリーの調子悪い。バイク屋で注文はしてたけど来週にしか届かないらしい」
キッチンから、自分のベッドの上に移動した溪を目で追う。
「―――行けないって事か・・・」
楽しみにしてたんだけど。
今更言ってもしょうがないかと諦めようとしていると、
「・・・お前のバイクでタンデムか、天気によっては車でもいいかと思ってた」
と提案してきた。
「タンデム?お前のがウェイトあんのに?乗りづれぇからヤだよ」
「・・・いや、何で俺が後ろなんだよ。お前だろ?」
提案はともかく、何で俺のバイクなのに俺が後ろになるのだろうと単純に思う。
「は?意味わからん」
「・・・腕慣らし?的な?」
「誰の」
「・・・俺の?」
「ん?」
ナチュラルにそう返したら、溪が肩を揺らして笑いだした。
「なんで笑ってんだよ!」
胡坐をかいて座っているひざ元にあった枕を溪に向かって投げる。
「いや?何かお前の顔が可愛かったから」
目元に笑いの余韻のようにシワを残した顔で唐突にそう告げられて、驚くと同時に鳩尾のあたりがグッと熱くなった。
―――まただ。さっきのと同じ。
さっきよりは少しだけ冷静さがある。
けれど、いつもと同じ、ではない。
「・・・どうした?」
俺、どんな顔してたんだろう。
「いや・・・?どうもしないけど・・・」
本当なら「何だよそれ!」くらい返したら良かったんだろうし、溪もきっとそれを待っていたんだろうけど。
そんな余裕、1ミリも無かった。
よく行くラーメン屋のカウンターで並んで冷やし中華を食べた後、タンデムで向かったのは前にも一緒に来た桜並木だった。
ヘルメットを脱いで、駐車場から並木道へと歩き出す。
空模様が本格的に怪しくなってきて、今にも雨粒が落ちてきそうだった。
「やっぱ降りそうだな、雨」
小雨程度なら濡れずに済みそうなほど生い茂った濃い緑の葉のアーチは、桜の時期とはまた違う印象を持つ。
湿度が高くてムッとするはずなのに、川からの風と並木の緑が緩衝材になっているせいか、思いのほか過ごしやすい。
桜が見たいって言ったら連れて来てくれたんだった。
―――思ったより寒くて、帰りに「あったかいもんが食いたい」って言ったら、鍋にしてくれたんだよな。
去年の春の事なのに、つい昨日の事みたいに思い出す。
来年も見に来ようって話をしてたけど、そう言えば結局来られなかった。
「そうだな」
数歩先を歩く広い背中。
あの日の帰りにも同じように思った事を思い出す。
伸びた背筋や、Tシャツ越しに分かる肩甲骨。
鍛えている話は聞いた事がないけど、まんべんなくしっかりと筋肉が付いているのが分かる。
その背中に触れたいと思った。
いつもの軽く叩くような、そういう触れ方じゃなく。
体温を感じられるような、そんな風に。
―――なに考えてんだ、俺。
自分の思考に感情が付いて行かない。
「なぁっ溪!」
どうしていいか分からなくて、思わず立ち止まって名前を呼んでしまった。
「ん?どうした?」
呼ぶ声に振り返った男が、同じタイミングで何かに気付いたようで、空を見上げて指をさした。
つられてその指先を追う。
「降ってきたな」
雨粒は見えなかったけれど、パラパラと葉を叩く、微かな雨の音。
「・・・本当だ」
雨の強さを測るように手のひらを上に向ける。
葉の隙間からぽつっと落ちてきた雨粒が手のひらを濡らす。
「帰るか、濡れる前に」
先を歩いていた溪が引き返してきて隣に並んで言った。
「・・・そうだな」
お互いにもう濡れないことを諦めているせいか、歩むスピードは変わらずのんびりと駐車場に向かった。
触れたいと思ったその衝動に戸惑いしかなくて、何を話していいのかも分からない。
視界にあるのは見慣れた自分のスニーカー。
「―――溪は、さ」
「ん?」
「彼女とか作んねぇの?」
いつもなら無言の時間だって苦にならないのに。
今はどうしてもそれが怖くてしょうがなかった。
何か話を振らないと、と咄嗟に出てきた言葉に自分でも驚く。
「・・・は?」
何の脈略もなく唐突にそう聞かれた溪の声色が訝し気だ。
「いや・・・せっかくの休みに俺なんかと一緒とか、さ?」
自虐ってわけではないけれど、いつも一緒にいてくれる事を不思議に思っていたのは本当だった。溪は地元出身だから、友達や家族とも近い。休みの日に遊びに誘われることも多いはずなのに。
「何を言い出すかと思えば・・・俺はお前といると楽しいから一緒にいるんだけど」
訝し気な気配が消えた代わりに、呆れたような声。
楽しいから一緒にいる。そう言われて、嬉しいと思った。すごく。
「でも、さ・・・」
それでも食い下がろうとしてしまった俺の視線の先に、俺と溪のスニーカーが並んだ。
右腕に感じた体温。
「じゃあお前は?俺といるの楽しくないの?」
「いや・・・楽しいけど・・・」
聞こえるかどうか分からないほど、声が小さくなってしまった。
「あぁ・・・でも、」
つかの間感じた体温はすぐに離れていって、何かを言いかけた溪が言葉を詰まらせる。
二人分の砂利を踏む音だけの、少しの間の後。
「―――好きな奴はいるよ、俺」
いつになく真面目な声に、思わず顔を上げる。
見えたのは、真っすぐ先を見つめる横顔。
「え・・・」
「誰か、とか聞くなよ?」
横目でチラッと俺を見て、ニッと笑った顔が少しだけ悲しそうに見えたのは何でだろう。
「・・・溪が言いたくなるまでは聞かねぇよ」
それ以上何かを聞くことも言う事もできなくて、できるだけ冗談ぽくそう返した。
頭上からはさっきよりも強くなった、葉を叩く雨の音。
「これからどうする?とりあえず家帰って―――」
「俺、帰るわ」
自分でも分かるくらい、何の感情もない声で言葉尻を遮った。
「・・・なんか用事でもできた?」
ピタリと止まる溪の体。
つられて俺の足も止まる。
どんな感情が働いて突然帰ると言い出したのか、自分でも分からない。
「あ―・・・」
もっともらしい言い訳が思い浮かばない。
でも、今日これから溪と一緒にいて普段通りにできる自信もない。
だってまともに溪の顔を見られないから。
「・・・ちょっとバテたかも・・・何かさっきから頭痛くてさ・・・」
きっと噓だってバレてる。それでも。
「大丈夫か?」
心配してくれているのが分かる声色に、罪悪感が胸を覆っていく。
「多分、大丈夫・・・とりあえず帰って寝るよ」
「そうか?」
「・・・なんかゴメンな」
嘘をついている事も、心配させている事も。
―――次に会うときはいつも通りだと思うから。
「なんで謝る?俺こそゴメンな?お前の体調に全然気付かなかった」
大きな手が、トントンと俺の肩を叩く。
俯いたままだった顔を上げると、明らかに心配している表情。
「・・・いや・・・うん。ありがと・・・」
どんどん強く濃くなっていく罪悪感に負けそうになりながら、ようやくその一言だけ言えた。
「ちゃんと掴んどけよ」
いつものようにグラブバーを掴んで出発を待っていると、フルフェイスのシールドを上げた溪が自分の腹の辺りを叩いた。
自分の腰を掴んでおけ、と言う事らしい。
迷いながら、右手を溪の腰に回す。
しっかりと掴む勇気は無くて、添えるだけになった。その代わり、グラブバーを握る左手に力が入る。
エンジンが始動して、振動が体中に響く。
ゆっくりとした走り出し。
何度もタンデムした事はあるけれど、その時と今の気持ちは全然違う。
―――なんだろう、何が違うんだ、今までと。
朝から感じ続けているこの思考と感情と感覚で頭がいっぱいになる。
いつものようにスムーズなライディングを邪魔しないように合わせながら、流れる景色をぼんやりとシールド越しに眺める。
―――今日はもう一緒じゃないんだよな・・・。
自分で言い出したくせに、途端に寂しくなって添えるだけにしていた右手に力が入った。
それをどう感じたのか。
溪の左手が俺の右手に重なって、とんとんと叩かれた。そしてその後にギュッと手の甲を覆うように握られる。
すぐに離れてしまったグローブ越しの手の感覚を追うように、思わず服を握る。
―――あぁ、そうか。
なんで俺、今の今まで気付かなかったんだろう。
好きな奴がいると告げられてショックだった。
それってつまり。
「・・・溪が好きってこと?」
シールドを下ろしたフルへイスの中でそう呟いた。
誰かへじゃなく、自分への問い。
言葉として口に出したことで、スッと自分の心の中の何かが落ち着いた。
それと同時に、自分でもたった今ハッキリと気づいたこの気持ちが、易々と受け入れられる訳がないという現実に気付く。
溪は優しい。
もし俺が今の気持ちを伝えたとしても、きっと俺に気を使って今までと変わらないように努力してくれると思う。
でも、今まで通りに戻ることはない。
今まで長期休暇があっても地元に帰らなくてもいいかと思えるくらい、一緒にいるのが楽しくて居心地が良くて。
そんな場所を捨てるなんて、多分今の俺にはできない。
この気持ちをうまく隠す事ができたなら、今まで通り一緒に過ごせるだろうか。
徐々に強くなってく雨で、服が濡れていく。
―――このまま、この感情が雨と一緒に流れていけばいいのに。
目の前の大きな背中。感じてみたいと思った体温。
同僚で、友達で、男で。
「・・・ごめん、好きだ」
気付いたのが今この瞬間で良かったと思った。
だって俺、いま泣きそうだもん。
「大丈夫か?」
アパートの前まで送ってもらってバイクから降りる。ヘルメットを脱いだ途端に、熱を測るように額に手を当てられた。
びっくりして、思わずその手を払いのける。
「っ!?・・・大丈夫、だって!」
払いのけられた事に溪も一瞬驚いたように目を見開く。
「悪い・・・大丈夫ならいいんだ」
払いのけられた手も強い口調も、何も気にしていないように笑顔でいる溪に、どんな顔をしていいか分からない。
「ほら、鍵」
だらんと垂らしたままの腕を掴まれて、広げられた手のひらの上に鍵の束を置かれる。
「濡れたんだから、シャワー浴びてから寝ろよ?」
「・・・うん」
「じゃあな」
俺も濡れたけど、運転していた溪はもっと濡れているはずだった。
そんな事にも気付かず、歩いて帰って行く後ろ姿をただ見送る。
建物の影でその姿が見えなくなって、ようやく部屋に帰ろうとのろのろと動き出す。
鍵を開けて中に入った途端、玄関の扉を背にずるずるとしゃがみ込んでしまった。
―――いつからだったんだろう、好きだったのは。
単身でこっちに来た俺を気にかけてくれていたのは分かっていた。わがままを言っても、嫌そうな顔をしながらも叶えてくれていたし、それに甘えている自覚もあった。
週末にお互いの家に行き来して、メシを食ったり、遊びに行ったり。
一緒にいて居心地が良いとか、楽しいとか。
男同士だからか、恋愛感情のそれと気付かずにいたけど。
でもそれって。
「・・・どんだけ鈍感なんだよ俺・・・」
今日あの並木道で感じた既視感。
あの時はただ広い背中だと思っただけだったけど。
多分そのころには、もう。
「・・・去年じゃねぇか・・・」
一緒に桜を見に行った、あの夜。
はぁ、と吐いた溜息と一緒に全身から力が抜ける。
同時に、ブルっと背中に悪寒が走った。
濡れた服のままでいたせいだろう。
―――風邪なんかひいたら、溪に怒られるな・・・。
自分がどうこうより、これ以上溪にいらない心配をかけたくない。
「・・・風呂・・・」
のろのろと立ち上がると、立ち眩みで視界がブレた。
これは本格的にまずいかもしれない。
壁に寄り掛かりながら靴を脱ぎ、そのまま風呂へ向かう。
脱いだ服を洗濯機に投げ込みながら、浴室に入った。
シャワーのノズルを全開にして頭のてっぺんからお湯を浴びる。
ぐるぐると纏まらない思考のまましばらくシャワーを浴び続けたせいか、逆上せたように熱くなってきた。
そろそろ出ようかとシャワーを止めた時、ふと溪も濡れていたはずだったことを思い出した。
慌てて体を拭いて部屋に戻る。
取り込んだまま放置してた洗濯物の中から下着とシャツを探し出して着こむ。
帰った時のまま玄関に放置していたリュックまで戻ると、スマホを取り出した。
とりあえずメールしなきゃと思って、でも電話の方が早いかと通話ボタンを押す。
数回の着信音の後。
『もしもし?どうした?』
やっぱりメールにした方が良かったかもしれない。
声を聴いた途端に心臓がバクバクした。
「あ、えっと・・・アレだ。どうやって帰ったのお前」
一瞬何を言ったらいいのか分からなくなって、完全に要点だけになる。
それでも何も気にならなかったらしく、
『ん?タクシー拾ったけど?』
ごく当り前のようにようにそう返されて、いつも通りの雰囲気でやりとりできた事にホッとした。
怒っている時の声でもない。
「・・・そっか、なら良かった―――ごめん、送って行かなくて」
本当なら家の前の駐車場で気が付くべきだったのにと、申し訳なく思う。
『俺は大丈夫だから、気にすんな。・・・それより』
「ん?」
『大丈夫なのか?』
自分だって濡れて帰ったはずなのに、そんな時でも俺の心配か。
「・・・ん。大丈夫。今シャワー浴びてきた」
『欲しいもの何かある?買っていくか?』
「・・・大丈夫、だから。―――今日は本当ゴメンな、じゃあな」
『いいって。じゃあな』
―――どんだけ優しいのお前。甘すぎるんだよ。本当に。
その優しさに付け込んで、もっと甘えてしまいそうだから。
この先も”仲の良い友達”でいるために。
俺はどうしたらいいんだろう。
真っ暗なスマホの画面の向こうに、溪の顔を思い浮かべた。