その6 4番でキャッチャー
目が覚めると放課後だった。
気分爽快、授業中の居眠りがこんなに気持ちいいものだったなんて、癖になりそうだ。僕は大きな伸びをしてから、まだ机に顔を伏せて眠っている亘一朗の所へ行った。
「鳥居、起きろよ」
肩を激しく揺すると、亘一朗はようやくぼんやりした顔を上げた。
「ん?」
まだ寝ぼけ眼で朦朧としている。僕の脳裏に一瞬、不安が過ぎった。もとの凰に戻ったんじゃないかと、
「どうしたんだ? 顔色悪いぞ」
「こ、亘一朗……だよね」
「ああ、まだな」
亘一朗がキリッと表情を引き締めて立ち上がったので、僕はホッとした。
えっ? なんで? 元の凰に戻ってほしかったんじゃないのか? 僕は自分の気持ちが分からなくなっていた。
「やっと野球が出来るな」
亘一朗は無邪気な笑顔を向けた。お待ちかねだったのだろう。
確かに昨日披露したバッティングは本物だった。しかし本格的にやるとなると話は別だ。
「ほんとに大丈夫なのか? 甲子園を目指すうちの練習はかなりハード、厳しいんだぞ、ついてこれずに脱落して辞めていった部員が何人いるか……。僕が知る限り凰は入学以来スポーツなんかやってないんだ。そんな体が過酷な練習に耐えられるか?」
「心配するな、根性で乗り切る!」
「根性って……」
根性だけでなんとかなるとは思えないけど。
「変わらないんだな、昔も今も球児の夢は甲子園か」
「君も?」
「ああ」
亘一朗は微笑むと、静かに窓の方へ行き、まだ誰もいないグランドを見下ろした。
そんな彼を見て、とても不思議な気がした。80年近くの歳月を隔てても球児の夢は変わらないんだ。かつて同じ場所を目指した彼がとても近くに感じられた。
「でも、まさか甲子園へ出るまでって……」
不安そうに覗き込んだ僕に、亘一朗は白い歯を見せた。
なんてことだ……。
僕の顔面は激しく引きつり、ヒクヒク震えた。
「さ、行こうか」
お待ちかねの練習である。亘一朗は元気はつらつ、グランドへ向かおうとしたが、
「今日は逃がさないわよ」
都築萌香が行く手を遮った。
「なんだ?」
「掃除よ!」
「おっ、そうか」
「えっ?」
性懲りもない抵抗を覚悟していた都築は、亘一朗があまりにあっさり箒を受け取ったので、呆気に取られた。
「なにボサッとしてんだよ、さっさと済ましちまおうぜ」
「え、ええ」
都築も戸惑いながら箒を動かしはじめた。
「昨日の催眠術の成果?」
そう言われて、僕は苦笑いするしかなった。
* * *
真新しいユニホームを着てグランドに現れた亘一朗は、実に颯爽としており、容姿は同じなのにこうも違うものかと、僕を、みんなを驚かせた。
「なんでいきなり野球部なんだ?」
「そう言えば今日の鳥居、いつもと全然違う雰囲気だったな」
「人が変わっちゃったみたいな」
「なんか急に大人びた感じ」
「なにが奴をそうさせたんだ?」
以前から凰を知る友人たちの間に、驚きと戸惑いが蔓延している。もっともな反応だ。しかし、まさか別人だとは疑っていないだろう、そう願いたい。
打撃練習をはじめた亘一朗は、たちまちみんなの視線を独り占めにした。いつもは僕を見に来ているファンの女子たちも、今日は亘一朗に心奪われている。
「アレ、誰?」
「1年の鳥居君だって、今日、入部したらしいよ」
「イケてるじゃん、なんか肉食系でさ」
「あら、あなたの目当ては有村君じゃなかったの?」
「乗り換えようかしら」
「浮気モノ」
などとヒソヒソ話、でも聞こえるんだよな、僕って地獄耳。
普段はこんなふうに注目を浴びることもなかったけど、もともとルックスは悪くないし、スタイルだって申し分ない、ボサボサの髪をなんとかすれば、ジャニーズ張りってとこかな? 表舞台に出れば捨てたもんじゃない。僕は自分のことのように鼻高々になった。
「何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪い奴だな」
キャプテンの言葉にハッとした僕は、いつの間にか亘一朗に熱い視線を送っている自分に気付いた。
「え、いえ、別に」
慌てて表情を引き締める。
「やっぱ、お前も嬉いんだな、鳥居の加入が」
「えっ?」
平常心を取り戻そうとした僕だったが、キャプテンのこの発言に再び心乱れた。なんでキャプテンが僕の気持ちを知ってるんだ?
「あいつが加われば、本当に甲子園が近くなる気がするもんな」
……そう言う意味か、この人の頭の中は正真正銘、野球でいっぱいなんだ。それに比べ僕は……。
凰が消えてからは、今まで押さえつけていた感情が噴出したように以前にも増して彼への思いがつのるばかり、でもその一方で亘一朗にも魅力を感じている。それはもちろん野球選手としての実力だけど……。
こんなんじゃ、練習に集中できない。
「でも俺は4番の座を空け渡さなきゃならないみたいだ」
キャプテンは深刻そうに続けた。そう、喜びの反面は、今まで守ってきた4番を奪われる危機。
「それに正捕手の座も」
「えっ?」
「あいつ、中学時代はキャッチャーだったらしい」
「知ってるんですか?」
「気になって調べた」
さすがキャプテン、抜かりない。
「中学時代、県下一のスラッガーとして注目されてたらしい、千葉での話しだけど」
……どうりで、同じ都内なら知らないはずない。そんな凄い奴がいたら、必ず大会でお目にかかっているはずだ。そうでなくても噂くらいは耳にする。
「中2の時、両親と妹さんを交通事故で亡くしたらしい。事故に遭ったには、地区予選の応援に向かう途中だったそうだ……。お祖父さんの家に引き取られることになって、こっちへ来たんだけど、家族を死なせたのは自分だと苦しんで、野球も辞めてしまったそうだ」
相変わらす打撃投手の球を軽々と外野のフェンスに直撃させている亘一朗に、キャプテンは同情の眼差しを送った。
「よかったよな、立ち直って」
違うんだ! あれは凰じゃないんだから……。
彼の心はまだ病んでいる、彼が時折見せる哀愁の正体はコレだったんだ。なにか暗い過去を背負っているんじゃないかとは思っていたけど、僕は自分の感情を押し殺すのに精一杯で、本当の彼を見つめる余裕などなかった。
そして今も見つめているのは凰じゃない。