百合メイド、ボンクラ王子から逃げた先で百合エンドを迎えます!
午前中の仕事を終え、お昼に休憩室でくつろいでいた私の平穏は、ライオネル王国の王子であるクリストファー様によって破られました。
「ケイトー! 聞いてくれケイト! 僕は昨日の舞踏会で、ついに運命の女性と運命的な邂逅を果たしたんだ! そう、まさに運命的としか言いようがないよ! これは運命だよ、運命! あの人と僕は結ばれる運命に違いないんだ!!」
「はあ……クリストファー様。そのセリフ、もう何度目ですか? 私が覚えている限りですと、これで15回目ですよ」
「運命の初恋は毎日更新されるのさ!!」
この人はクリストファー・ロバート・ウェンデル様。ライオネル王国の王子様で、今年20歳です。
金髪碧眼、容姿端麗で背も高く、国内外を問わず若い女性から黄色い声が上がっています。
さらにクリストファー様は容姿が整っているだけではありません。頭脳明晰にして運動神経抜群。文武両道。まさに才気煥発を絵に描いたような、理想的な王子様。
……ええ、私も前まではそう思っていましたとも。ずっと前までは。
「お相手はアビントン伯爵令嬢のクラリスさ! 昨日の舞踏会で少し踊っただけだけど、僕たちは一目で恋に落ちたんだ! ああ、思い出すなあ! 黒い髪に黒い瞳! 何よりあのボイン! ドレスから零れ落ちそうな、白くたわわなおっぱい!! ああ、思い出しただけでもヨダレが出るよ!!」
「……あのですね。もう何回も言っていますけど。女の人に向かってそういう発言をするのは良くないです。本人はもってのほかですが、第三者の立場だっていい気分はしません」
「んん? 第三者といっても、ケイトは僕の侍女じゃないか! 僕にとって不利な噂を流すわけがないだろう? それに僕の要求には、答えてくれなければいけない立場の筈だ!」
「……まあ、そうですけど。没落男爵だった両親を失い、孤児になって路頭に迷っていた私を拾い、生活の糧を与えてくれたのはウェンデル王家です」
「ということで、いつも通りに頼むよ! 明日の昼までにクラリスへの恋文をしたためてくれたまえ! 明日の昼、アビントン伯爵家に用事がある使用人に一緒に届けてもらおう! ああ、忘れるところだった! 恋文には3日後の夜、逢引をしようと書き添えてくれ!!」
「はいはい……」
クリストファー様は嵐のように去っていきました。
もう分かると思いますが、クリストファー様が頭脳明晰というのは、とんでもない嘘です。
あの人はバカの一つ覚えのように同じ単語を繰り返し、女性を褒める時には下世話な褒め方しかできません。
クリストファー様が文武両道で才気煥発というのは、王家が流布したいイメージです。実際の王子はあの通りなのです。
「あらあら、あんたも大変ねえ。ケイト」
「……ナタリアさん。見ていたのなら、止めてください」
「あの王子の勢いに割って入れだなんて、無理を言わないでちょうだい。第一クリストファー王子ったら、私がいることなんてまったく気付いていなかったようだしね」
私に声をかけてきたのは、同僚のメイド・ナタリアさんです。
ナタリアさんも王家で働くぐらいだから、名家の出身です。確か地方貴族の伯爵分家だったかな。分家だから嫁に行くか奉公に出るかの二択に迫られて、後者を選んだと言っていました。
私より2歳年上の19歳。長身でポニーテールがよく似合うつり目がちの美人さんです。小柄で童顔の私とは大違いです。
「で、あんたは今回も王子の代筆をするの?」
「するしかないでしょう……王家で働いている以上、断ることはできません」
「仕方がないわね。あんたはメイドの中でも、ううん、このお城で働く誰よりも文才があるんだもの」
「誰よりも、は言いすぎです。さすがに図書館の司書さんや、学者の先生方には敵いませんよ」
ウェンデル王家が流した偽りの王子像に惹かれる女性は、少なくありません。でもクリストファー様が素を出せば、みんな幻滅して去っていきます。
そこで目をつけられたのが私でした。私は昔から本を読むのが好きで、10歳の頃には自分で詩や物語を書くようになっていました。
ある時、たまたま書いた詩がクリストファー様の目に留まってしまったのが、すべての始まりでした。
「あの頃のクリストファー様は、意中の女性に出した恋文があまりにひどくて……相手の方が怒ってきたんです。あまりにも侮辱的だ、ひどすぎるって。しかも相手は隣国の大臣のお嬢様だったから、あわや国際問題に発展しそうになって……」
「覚えているわ。ひどい事件だったものね」
「『キミのケツはいいケツだ。犬のように子をボロボロ産んでくれるだろう。僕は発情期の雄犬のように、キミのケツから目が離せない』……ですよ。そりゃ怒りますよ」
「あっははははははは!!」
「笑いごとじゃありませんよ! なまじ頭脳明晰なんて嘘の宣伝をしていたから、余計バカにされたと思ったんでしょうね……はああ」
「その件で相手方への謝罪文を、ケイトが書かされたのよね。誠心誠意を込めて書いた謝罪文。傷付けられた令嬢のプライドを癒して、二国間の関係を見事に修復。さすがに恋の方は修復不可能だったみたいだけど。あれ以来、あんたはずっと王子の代筆を任されているのよね」
「ひどい話です。詐欺の片棒を担がされている気分です」
「でもその分、お給金を弾んでもらっているんでしょう?」
「そうですけど、やっぱり気分は良くないですよ。相手の女性を騙しているんですから……」
しかもクリストファー様は飽きっぽいことで有名でした。運命だ運命的だと言いながら、情熱が半年以上続いた試しがありません。
私はクリストファー様の情熱が冷める度に、相手の女性のプライドを傷つけないように、細心の注意を払いながら別れの手紙も書かされているのでした。
「はあ……」
「大きな溜息ね。それもしょうがないか。王子が気に入る相手といえば、あんた自身も好きになってしまうような素敵な女性ばかりだものね」
「なっ、ナタリアさん!?」
「何よ。ここには私とあんたしかいないんだから、構わないでしょ。あんたが女しか好きになれない子だって、今さら私たちの間で隠し立てするようなことでもないでしょう」
「ううう……そうですけど、なんだか弱みを握られている気分です……」
「あらあら、そんなことないわよ。ふふっ、涙目になっちゃって。可愛いわ」
「~~っ、か、からかわないでくださいっ!!」
ナタリアさんの言う通り、私は今まで女の人しか好きになったことがありません。以前そのことを知られて以来、ナタリアさんは何かとからかうような素振りを見せてきます。
「何はともあれ。明日の昼までということは、午後から情報収集でしょう。メイド長には私から言っておいてあげるから、あんたはあんたの仕事を頑張りなさい」
「……はあい……」
午後の仕事開始が迫っていたので、私たちは部屋を出ました。ナタリアさんと別れ、憂鬱な気持ちを抱えながら図書館に向かいました。
***
恋文の道は一日にしてならず。
私はまず図書館の貴族名鑑を見て、今回のお相手クラリス様の基本データを頭に叩き込みました。その後は聞き込み調査です。クラリス様の人柄、趣味嗜好、好きな色、好きな食べ物まで調べ尽くしました。ついでに王都にあるアビントン伯爵邸にも足を運びます。王宮からの届け物を運んできた風を装って、クラリス令嬢のお姿を拝見しました。
「とても麗しいお方でした……あれほどお美しい女性なら、一目見ただけで恋に落ちるのも納得です」
「そんな美人が、どうして今まで王子の目に留まらなかったの?」
「今年社交界デビューしたばかりのようです」
「ああ、そういうこと」
夜。王宮の外れにあるメイド宿舎に戻ってきた私は、同室のナタリアさんに午後の出来事を報告します。
「恋文を書くにしても、相手の趣味に合わせて心に刺さる文章を考えないといけません。令嬢の中にはアウトローな男性に惹かれる方もいれば、深い知性と教養を持つ男性に惹かれる方もいます。安定して良好な関係を築けるような、包容力ある男性を好む方もいます。相手の好みをリサーチして、相手の心に訴えかける内容でなければ、どんな美辞麗句も意味をなさないのです」
「さすがねえ。で、クラリス令嬢のお好みは?」
「クラリス様は知的な男性がお好みのようですね」
「じゃああの王子、ダメじゃないの。あーあ、可哀相に。クラリス令嬢ったら、本当は知的な男性が好みなのに、正反対を絵に描いたような王子の餌食になってしまうのね」
「え、餌食だなんて人聞きが悪いですよ……クリストファー様だって、婚前交渉は慎んでいらっしゃるようですから……」
「だからって、貴重な青春のひと時を、あの王子の詐欺に引っかかって無駄にするのは変わらないでしょう。その時間を活用すれば、他の素敵な男性と巡り合うチャンスだってあったかもしれないのに」
「……」
ちくり、と胸が痛みます。ナタリアさんの言う通りです。私のやろうとしていることは、あの美しいクラリス様を少なからず傷付けてしまうこと。
クラリス様は私のようなメイドにも、「ご苦労様」と言って笑いかけてくれました。たったそれだけで舞い上がってしまうほど、クラリス様は素敵な女性でした。
それなのに私は、そんな人を欺いて、傷付けようとしている……。
それでも私はこうする以外に、生きていく方法を知りません。クリストファー様からの言付けを拒否すれば、もう王宮付のメイドとして働けなくなるでしょう。
「……仕方がないんです。こうするしかないんです。今までだって同じことを繰り返してきたんです。これからだって……」
羽根ペンを走らせる紙の上に、ぽたりと雫が落ちました。
「ひ……っく、うぐぅ……」
「ケイト!」
「ひぐぅっ、あうぅ、な、ナタリアさぁんっ……!」
「もう、バカな子ね。こんなに泣くほど辛かったんでしょう?」
「は、はいぃ……っ! 今まで恋文を書く人は、みんな素敵な女性ばかりでしたっ。私は皆様の情報を集め、実際にお会いして、彼女たちの心を想像して手紙を書くうちに……惹かれていってしまったんです……!」
「知ってるわよ。私はもう5年間も、ルームメイトのあんたを見てきたんだから」
ナタリアさんは私を抱き締めると、頭を撫でてくれます。そんな彼女の体温に包まれていると、これまで抑えてきた感情が溢れ出しました。
「私の恋文を、皆様は喜んでくれたと聞いています……! でも、でも、私の恋文が相手の心に届いても、あの人たちが愛情を向けるのはクリストファー様で……。しかもクリストファー様は、半年も待たずに皆様への関心を失って……! 私は皆様に、お別れの手紙を書かなければいけなくて……辛くて、辛くて……でも、皆様を騙した自分への罰だと思って、受け入れてきました……! でも、もう嫌ですっ。嫌なんですっ!」
「よしよし、可哀相な子。ずっと苦しんできたのよね」
「うっ、うぅっ、ううぅ……!」
「……ねえケイト。そんなに嫌なら辞めてしまえばいいんじゃないの? 代筆も、王宮付のメイドも」
「え……?」
「あんたにその気があるのなら、私も協力してあげてもいいわ。一緒に王宮を出て、リバーサイドでアパートを借りて、中流階級の人々を相手に通いのメイドでもして暮らしましょう。1人では厳しいかもしれないけど、2人なら何とかなるわ」
「で、でも……ナタリアさんを、巻き込むわけには……」
「私ならいいのよ。ていうか私だって王子には辟易していたの。あのバカ王子を容認する王宮の人々にもね。あら、今のセリフはナイショよ。絶対に他言無用だからね」
「も、もちろんですっ。でも本当に、いいんですか……?」
「ええ。私の可愛いケイトを泣かせるような連中の下で、媚びへつらって生きていくのは真っ平御免だもの」
「え、え???」
「ふふっ」
「あ……ま、またからかったんですねっ? そうでしょう、ナタリアさん!?」
「さあ、どうかしら。それよりも今は、クラリス令嬢への手紙を書きなさいな。恋文の他にもう1枚、真実を告げる内容を隠して入れておくといいわ」
「は、はい。そうしますっ!」
私は恋文の他にもう1枚手紙をしたためると、封筒に入れて糊付けしました。クリストファー様は気付かないでしょうが、聡明なクラリス様なら、きっと仕掛けに気付いてくれるでしょう。
手紙を書き終える頃には、もう夜がすっかり更けていました。私とナタリアさんはそれぞれのベッドに入り、王宮を離れた後の生活について話し続けました。
それは久しく忘れていた、楽しいひと時。自分の人生に光が戻ってきたと思えるような、そんな時間でした。
***
「ケイトさん、ケイト・ディキンソンさん! 小包ですよ!」
「まあ、ありがとうございます。サインはこちらでよろしいですか?」
「どうも、ありがとうございます!」
郊外にある一軒家。去年から自宅となったこの家に訪れた郵便夫と挨拶を交わし、私は室内に戻ります。
キッチンではナタリアが昼食を作っています。連日の仕事に追われている私を心配して、今ではナタリアが家事全般を担ってくれていました。
「ケイト、誰からの荷物だったの?」
「オズウェル大学出版局から、再来月出版される新刊の見本が届いたみたい」
「あら、もう? ふふ、後で見せてちょうだいね」
「もちろん。誰よりも先に、ナタリアに見てもらいたいわ」
「オムレツとサラダを食べ終わったら、庭のチェアに2人で座って読みましょうよ。そうだわ、ケイトが朗読してくれない?」
「そ、それはさすがに恥ずかしいわ」
「今さら恥ずかしがるようなこと? ケイトの原稿は私が真っ先に目を通しているのに。それに昨日の夜だって、あんなに――」
「も、もう! 昼間から変なことを言わないで! 朗読してあげないわよっ」
「あらあら、ということは、何も言わなければ読んでくれるのね? ふふっ、楽しみだわ」
ナタリアはウインクすると、2人分のお皿にオムレツとサラダ、スープとパンを盛りつけました。
私たちが王宮を出て、もう5年の月日が流れていました。最初はナタリアの提案通り、リバーサイドでハウスメイドとして働いていた私たちですが。ある時、アビントン伯爵令嬢のクラリス様が、わざわざ私たちのアパートを尋ねてきてくれたのです。
クラリス様はケイト・ディキンソンが私であると確かめると、初めてお会いした時と同じような優しい笑顔を浮かべ、こう言いました。
『優しくて勇気のあるメイドさん。あなたのおかげで私は道を誤らずに済んだわ。あの夜、王子からの逢引の誘いがあった夜、私はあなたの忠告通り指定の場所には向かわなかったの。そうしたらね、その夜のうちに別の出会いがあったの。父を尋ねてやって来た、オズウェル大学の教授の男性。たった数時間の出会いだったけど私たちはすぐに意気投合して、交際を始めるようになったわ。来年には婚約も決まったの。あなたの忠告通り、あの夜王子の誘いに乗らなかったおかげだわ。ずっと感謝していたの。お礼を言いたいと思っていたのだけど、もう王宮から離れてしまったと聞いて、ずっと探していたのよ』
そして、こうも言ってくれました。
『それにしてもあなたの恋文は、とても情熱的で心に迫るものがあったわ。忠告の手紙を見つけなければ、熱に浮かされて指定の場所に向かっていたでしょうね。ねえケイトさん、あなたには文才があるわ。私の夫となる人は、オズウェル大学で文学を研究しているの。失礼かと思ったけど、彼にも恋文を見てもらったわ。とても文学的素養を感じる美文だと褒めていたのよ。ケイトさん、あなたはもう文章を書いていないの? それはもったいないわ。お書きなさいな。……生活が苦しい? なら書いた文章を出版して売ればいいのよ。オズウェル大学には大学出版局――出版社もあるから、私から彼に頼んであげるわ。私はあなたに恩返ししたいの。それにあなたの書く文章をもっと読みたいわ。ね、お願いよ』
熱心に訴えかけるクラリス様に圧され、私は再びペンを手に取りました。
それからは信じられない出来事の連続でした。
約半年後、最新の出版技術で刷られた本が、街の本屋さんに並ぶようになり。
多くの人々が手に取ってくれて、読者からたくさんの手紙が届くようになって。
次に出した本も大人気を博して、印税がたくさん入ってくるようになって。
今では私は、若き新進気鋭の恋愛小説家として、国内で広く名前を知られるようになっていました。
そして去年、それまで過ごしていたリバーサイドのアパートを出て、郊外に一軒家を買ったのです。……ナタリアと一緒に。
ナタリアは辛い時も貧しい時も、常に側にいてくれました。そもそも王宮を出ようと後押ししてくれたのは、ナタリアです。ナタリアがいなければ、今の私は存在しないでしょう。
いつしか彼女は私の人生にとって欠かせない存在となり――ナタリアもまた、私の気持ちを受け入れてくれました。
「あら、また誰か来たみたいよ」
昼食後。約束通り2人で庭のチェアに並んで座り、朗読をしている最中、玄関の呼び鈴が鳴りました。今度はナタリアが玄関に向かいます。朗読で喉が疲れていた私は、ナタリアが淹れてくれた紅茶で喉を潤します。
その時でした。玄関からナタリアの怒声が響いてきたので、危うく紅茶を吹き出しそうになりました。
「ナタリア、どうしたの!?」
「どうしたもこうしたも! この男ったら、今さら性懲りもなく押しかけて来たんだもの!!」
「この男? ……えっ!? もしかして、クリストファー様!?」
「や、やあ、ケイト……」
「『やあ』じゃねええええ! 私のケイトを馴れ馴れしく呼び捨てにするなああああ!!」
「ぐええええっ!!」
「落ち着いて、ナタリア! あなたがクリストファー様を大嫌いなのは知っているけど、首を絞めるのはまずいわ!」
「ケイトがそう言うなら止めるわ」
ナタリアがぱっと手を離すと、クリストファー様は床に崩れ落ちました。よくよく見れば、クリストファー様はずいぶんうらぶれた……有体に言ってしまえば、みすぼらしい恰好をしています。ナタリアはふんと鼻を鳴らしました。
「で、今さら何をしに来たんですか? 言っておきますがお金はビタ一文も貸しませんよ。あんたは私たちが王宮を出てすぐに、大聖堂のシスターに一目惚れして、王位を捨てて駆け落ちしたんでしょう。国王夫妻もさすがに怒り心頭で、勘当されたんですよね。で、王位は妹であるコーネリア王女が継承なされることになったとか。コーネリア様は去年、隣国の王家からお婿さんもお迎えましたもんねえ。今さら王家には戻れませんよねえ」
「ぼ、僕だって今さら帰るつもりはないさ……この数年、僕なりに世間の荒波に揉まれてきたんだ。今さらノコノコと王宮に顔を出せるとは思っていないよ……」
「私たちの前には顔を出したのに?」
「そ、それは……恥を忍んで、仕事を紹介してくれないかと思って、それで……」
「仕事を?」
「王子という肩書がなくなると、僕は無能力だったわけで……還俗して下町の女房となった妻は、すっかり肝っ玉が据わり、毎日毎日働けと口うるさくてね……」
「当たり前ですね」
「とはいえ何のスキルもない、ろくな労働経験もない僕では大した仕事はできなくてね……妻と共働きで何とか糊口を凌いできたんだが……先日、妻の妊娠が発覚してね……僕はこれまで以上によく働いて、お金を稼がなくてはいけなくなったんだ……」
「ご愁傷様です」
「そうしたら、ほら! 昔馴染のケイトが作家として大成功を修めていたじゃないか! これはぜひ仕事を紹介してもらえないかと思って訪ねてきたんだ!」
「本当に図々しいですね。恥を知りなさい」
「まあまあ、ナタリア。クリストファー様……お可哀相に……」
「よしてくれ、ケイト。今さらクリストファー様だなんて。今の僕はしがない下町のボブさ」
「何でもいいからさっさと帰りなさい。今のあんたは王子でもなんでもない、ただのボブなんだから。ボブの頼みなんて聞いてやる必要ないわ。ケイト、塩持ってきなさい、塩!!」
「そ、そんな!? そこをなんとか!!」
「しつこい! 人を呼ぶわよ!!」
「そんなあぁ~~~ッ!!」
「ナタリアったら! 少し落ち着いて! クリス――じゃなかった、ボブさんも大変なのよ! それにボブさんには私も思うところがないわけじゃないけど、奥さんや生まれてくる子供に罪はないでしょう。路頭に迷わせるのは可哀相よ。私も孤児だったから辛さが分かるの!」
「ケイト……! ああ、君という女性は! なんと優しくて素晴らしい女性なんだ! それにこの数年ですっかり腰回りの肉付きも良くなって、抱き心地が良さそうに成長したじゃないか! 以前の君はやせっぽちの子供のようだったが、今の君なら問題なく抱けるだろうな!!」
「……やっぱり帰ってもらいましょうか」
「あんた、よく結婚できたわね」
「何故だああああああッ!?」
ボブさんはこの数年で人生の厳しさについて学んだようですが、相変わらず女性を褒めるセンスは壊滅的でした。何はともあれ。このままでは奥さんや子供が可哀相なので、私はボブさんに印刷工場の仕事を紹介しました。この工場の仕事なら、奥さんと子供を養って生活していけるでしょう。
「助かったよケイト! ありがとう、本当にありがとう!!」
ボブさんは何度もお礼を言って、深く頭を下げて帰っていきました。
「相変わらず優しいのね、ケイト。あんな奴、放っておけば良かったのに」
「そうもいかないでしょう。あの人だって苦労したみたいなんだから。困った時はお互い様よ」
「……ま、そんなところも好きなんだけどね」
「! ナタリアったら、不意打ちは反則よっ」
「ふふっ」
「な、何?」
「甘く切ない恋愛小説でライオネル中を感動の渦に包み込んだケイト・ディキンソン先生が、私生活ではこんなにウブだなんてね。読者が知ったらどう思うかしら」
「~~っ、ナタリアの意地悪! もう知らない!」
「あ、待ってよケイト! 朗読の続きは?」
「知らないったら知らない!」
家の中に戻る私を、ナタリアが背後から追いかけてきます。
熱くなった顔を手で扇ぎながら、私はキッチンに目をやりました。流し台には、庭で採れたハーブと果物が並んでいます。
朗読の続きは、ナタリアがハーブベリーティーを淹れてくれたら考えようかな……なんて。そんなことを考える私の顔は、きっともう笑顔に戻っていたことでしょう。
彼女の存在は、今はもう私の人生になくてはならないもの。
私はこれからもナタリアと一緒に暮らしていきます。
いつも、いつまでも。変わらずに、ずっと。
読んでくれてありがとうございます!
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