ミセス
8月16日
この手紙を最後に、僕は小説を書くのをやめようと思う。
僕は君がいないと書けないんだ。
君は知らなかっただろうけど、僕が書く小説は全部、君がいないと完成しないものだったんだよ。君は僕にいろんなことを教えてくれたよね。世界に君しかいない、と言うほどではないけど、それでも僕にとって君は大きなものだった。
この手紙が君には届かないことを、僕は知っているけど、でも。
膝よりやや下の草原をかき分けて、ポストヘ向かう。
外はかなり暑く、歩くたびに熱風が肌を撫で、その感触が気持ち悪かった。暑さでかいた汗を肌着が吸い取り、じっとりと濡れる。前髪がおでこに張り付く。垂れる汗を僕は拭わなかった。遠くで蝉が鳴いていた。
ミセスはよくうちに来たけど、手紙もよく書いた。今日会ったこととか思ったことを、文字にして、日記みたいにして、そうやって僕と彼は手紙のやり取りをしていた。
彼が手紙を書くとき、彼はいつも深い青のインクを使っていた。なんという名前かは忘れたけど、僕はその青がすごく好きだった。黒のインクで書くよりずっと綺麗で、真っ白な便箋によく映えた。
僕はその色のインクが欲しくて探し回ったけど、どれも明るすぎたり、薄かったりしてどれも違った。そしてとうとう見つけることはできなかった。
あの色は彼だけの色だ。どんなインクよりも深くて濃い色。でも黒じゃなくて青だと、はっきりわかる綺麗な色。
手紙をポストへ投函する。このあたりは何かを投函しても、郵便局の人が取りに来ないから彼に手紙を書いても届くはずがなかった。僕が彼に手紙を書くときは宛名の所にに「ミセス」と書くだけでよかった。
振り向くと、先ほどまではいなかったはずの、知らない人が立っていた。女の子というには大人びていて、女性というには幼すぎる、そんな不思議な印象だった。
「君は誰」
僕はぽつりと聞いた。もしかしたら声が小さすぎて、彼女には聞こえなかったかもしれないと思った。もしそうだったら無視して帰ろうと思ったが、その心配はなかった。
「私はミセスの友達」
僕はその言葉にわずかに驚いた。ミセスに僕以外の友達がいるのか、と思った。
「友達、というほど仲は良くないけど」
「どうしてミセスを知ってるの」
「さぁ」
何度か問い直したが、彼女は僕の質問に答えなかった。そのかわりに、こういった。
「もう、小説は書かないの?」
僕は以前まで、小説を書くときは、ミセスが僕の中に立てた大きな波を僕が大きくして、今だ、というタイミングで紙という大きな壁にぶつけるだけでよかった。僕の中に起こる大きな波が僕の中で揺れて荒ぶる感触は、心地いいとも心地悪いとも言えないような、そんな次元をとうに超えてしまっているような、まさに筆舌に尽くしがたいような感触で、波が起こるたびに胸がいっぱいになってどうしようもなかった。それをどんどん大きくしていくのも似たような感触で、恍惚とした気分になる。
僕が一番好きなのはそれを思いっきりぶつける時だ。ぴったりのタイミングでぶつけられる時はものすごく気持ちよくて、爽快感があった。一度ぶつけるとしばらくは止まらなくて、僕が疲れて意識を失うか出すものがなくなるまで続く。
僕は小説を書くのがかなり好きだったということは、最近気づいたことだ。
しかし、波が起こらなければ小説は書けない。いや、書けないことはないが、波がなければ壁にぶつけられない。だから、あの胸がいっぱいになる感触も、恍惚とした気分も、爽快感も何もない。そんなものを書くぐらいなら書きたくない。
ミセスがいないと波は起こらない。だから僕は、もう小説を書かない。
ミセスがいないと、ぽっかりと心に穴が開いた気さえした。
「書かないよ」
「どうして」
「波が起こらない」
「波って何」
「僕にもわからない」
「本当に書かないの?」
その質問に僕はとっさに答えに詰まる。いや、何と答えればいいのかわからなかったわけではない。そう答えるのが嫌だと、僕は少なからず思っているからだ。しかし僕に小説はもう書けない。その事実は変わらなかった。
「書かない」
「そう」
僕は家に向かって歩き出した。彼女も付いてきた。
「ねぇ」
彼女は再び声を発した。僕は無視をした。
「もしまた小説を書きたくなったら」
僕はそれを聞いて立ち止まる。
「私を呼んで。『ミセスの友達』って」
僕は後ろを振り向く。が、そこには誰もいなかった。彼女が、先ほども人の気配がいなかったところに現れたから、そういうものなのかもしれない。
だからと言って彼女を呼ぶ気にはなれなかったし、ましてや小説を書こうという気にもならなかった。
***
彼に『ミセス』は、ミセスは既婚の女性に使われる敬称だという。僕が聞いた時に、ミセスがそう教えてくれた。
彼はどこからどう見ても男だったし、一人称も僕だった。だけど僕はどうしてミセスなのかを聞かなかった。彼がミセスと名乗って、ミセスと呼んでと言った時から彼はミセスで、理由がどうであろうと彼がミセスなのに変わりはなかったからだ。
彼がいなくても時間は流れていた。僕も小説を書く気にはなっていない。ミセスの友達と名乗る彼女は時々やってきた。一回目はあれから少し経って、蝉の死骸をよく見かける季節に。
「ミセスはどこに行ったの?」
彼女は僕に聞いた。ミセスの友達を名乗るのに知らないのか、と僕は思った。本当は僕もよく知らないが。
「消えたんだ」
「いなくなっただけじゃないの」
「いや、消えたんだ」
「そんなのわからないのに。消えたと思っているだけで、いるかもしれないのに」
僕は皿の上に乗っていたオリーブをフォークで刺した。僕は食事中だった。
「いや、消えたんだよ」
「どうして」
「本当のところはどうかわからない。だけど、いてもいなくても、僕にとっては消えたのと同じだ」
本当のことがどうであれ、僕がそう思えばそれはそうなるのだ。人は結局自己中心的なのだ。人として生まれたからにはそれは変えられないと、ミセスは言った。そう思いたくはないが、どうやらそのようだ。
ミセスが本当は消えていなくても、消えている。胸の中にある、このぽっかりと穴が開いたような感情を、果たして誰が形容できようか。僕はこの気持ちを表す言葉を、まだ知らない。
僕は次の日、僕の家から少し行ったところにある、草原というには狭い開けた場所に来た。ここはミセスと遊ぶところと言われると、真っ先に思い浮かぶところだった。
ここで駆け回ることもあれば、昼寝をすることもあった。夜に来れば開けているため、夜の空や星が視界いっばいに広がる、綺麗で思い出の詰まった素敵なところだった。
僕は日陰になっているところに寝転がる。さすがに夏で、日陰でも暑かった。でも僕は草の青い香りを胸いっぱいに吸い込んで、ある日のことを思い出した。
その日も僕たちは、こうやって草の上に寝転がっていた。その日の空は、いたって普通の空だ。雲が一つもないただひたすらに蒼い空だったわけでもなく、かといって雲が多くほとんど空の蒼が見えなかったわけでもない。普通の、ほどほどに雲があって、ほどほどに雲が見える、特筆するようなことが何もない空だった。ミセスはそんな空を指差して、『あの雲、オリーブに似てるね』と言った。僕はそうとはちっとも思わなかった。なので、僕は彼にどうしてか聞いた。すると彼はこういったのだ。
『だって、オリーブみたいに丸いから』
僕は心底驚いた。ならオリーブじゃなくたっていいじゃないか。それこそボールとか、タイヤとか、コップを上から見た様子とか、そんなのなんでもいいじゃないか。だからそれはオリーブに見えるという理由にはならない、そう思った。僕はそれを声に出そうと思ったが、それを遮るように、彼が口を開いた。
『君は何に見える?』
僕はミセスとの軌道をなぞる。
木々の葉が萎れて赤や黄色や茶色になり始めた時、彼女はまた来た。
「君は人間じゃないよね」
「人間だよ」
「人間は急に現れたりしないよ」
「それでも人間だから」
「でも人間じゃない」
「私は人間」
僕はそこで押し問答をやめた。
僕がミセスを消えたと思っているように、ミセスがミセスという名前であるように、彼女もそうなのかもしれないと思った。
「君は小説を書く以外でなにをやっているの」
僕は小説をもう書いていないけど、それは指摘しなかった。
「ご飯を食べたり、ひなたぼっこをしたり、本を読んだりしてる」
「寂しくないの」
「寂しくないよ。ミセスが来る前はこんな感じだったから」
「そっか」
彼女はそういうと帰って行った。彼女が聞きたいことを聞けて満足したからかはわからなかったけど、そんなことはどうでもよかった。
彼女が三回目に来たのは、木枯らしが吹いて木々の葉を落としている時期だった。冬が近づいていた。
「君にとって、ミセスはどんな人?」
僕はすぐには答えなかった。答えたくなかった。
「君がミセスの友達なら、ミセスがどんな人か知ってるでしょ」
「もちろん。でも、人によってどういう風に見えるかは変わるし、ミセスが君の前で性格が変わっていることだって考えられるでしょ。私は君の目から見て、ミセスがどんな人だったか知りたいの」
「どうしてそんなこと聞くの」
僕はそう彼女に聞いたが、彼女は答えなかった。彼女はいつも僕が知りたい質問に答えてくれない。ずるい。
彼女は僕をじっと見つめる。
ミセスの瞳は黒だった。誰がどう見ても黒だったし、普通の黒い目の色だった。でも、僕には時々、その瞳の奥が青に、あの手紙のインクのような深くて濃い青に見える時が時々あった。どうしてかはわからないし、僕が勝手にそう見ているだけかもしれないが、それは確かにあのインクのような青で、すごく綺麗だと思った。僕はそんなミセスの瞳が好きだった。
その色が、彼女には見えた気がした。本当は見えなかったのだが、僕の目を覗き込むその仕草がどうしようもなくミセスを思い出させて、僕の心が揺れた。
「ミセスはいい人だった。いろんなことを知っていて、答えのない質問にも、彼は自分なりの素敵な考えを持っていてしっかりした人だった。ミセスの言葉や一緒に過ごした思い出が僕の心に波を起こして、その度に小説ができる。僕の唯一の友達」
彼女は何も言わなかった。彼女の視線はただ虚空を見つめているだけだった。僕の話を聞いていたのかさえ怪しい。物思いに耽っているのだろうか。実際が本当にそうなのか、僕にはわからないが。
四回目は雪がしんしんと降り、世界を白銀に塗り替えている季節だった。僕は毎日暖炉を使うようになった。暖炉の中で木が燃えて弾ける音が、僕の家の音だった。家の外と中の寒暖差で、窓には水滴がたくさん付いていた。窓が凍るほどではないが、いずれそうなるだろう。
「僕は雪が好きだ。ミセスと昔、大きな雪だるまを作ろうとして競争をしたことがある。制限時間の中で作られたお互いの雪だるまの大きさは、どちらもだいたい同じだった。だから綺麗な方を勝ちにしようって言ったんだ。ミセスの勝ちだったよ。ミセスは雪の性質を理解して、大きくするだけじゃなくて、なるべく丸く綺麗になるように作ってたから」
「今雪降ってるけど、作らないの」
「誰と競争するんだい」
「私と競争できるよ。それに、一人でだって雪だるまは作れる」
「いやだ、外は寒い」
「嘘だね」
「嘘じゃない」
再び押し問答が始まった。外が寒いのは事実で、嘘なはずがない。それでも彼女は理解してくれなくて、僕はそのやり取りをやめた。
次に来たのは、雨がよく降って、じめじめとした空気に世界が包まれている季節だった。彼女が現れたその日も雨が降っていて、僕はある廃屋に来て、一人で端っこでうずくまっていた。その廃屋は、僕とミセスがよく来て遊んだ廃屋だった。
家の外からさあさあと雨の音が聞こえる。雨漏りのしている音が聞こえた。その雨漏りの音は、近くの音と遠くの音でお互いに音もリズムも違っていて、僕は遠くの雨の音と、それらの雨漏りの音が一緒になったものに聞き入っていた。
僕は雨があまり好きではなかったが、ミセスは雨が好きだと言っていた。雨の日には音楽が聞こえるらしい。確かに聞こえないこともないが、それは、僕の雨が好きだという理由にはならなかった。
雨の日はじめじめとしているし、世界が全体的にどんよりと暗くて、外に出ると濡れるのも嫌だった。それに、雨の日はなぜか不思議と寂しくなる。だから雨の日はもともとあまり好きではない。
「ミセスがいないと寂しい?」
彼女は僕の近くに来て、僕と同じようにその場にうずくまった。彼女が過度に僕に近づいたことは一度もなかった。
「寂しくない」
「嘘だね」
「嘘じゃない。僕は一回も寂しいだなんて思ったことがない」
「思ったことはないかもしれないけど、寂しいものは寂しいよ」
「それでも、僕は寂しくない」
「じゃあどうして、いつもミセスとの思い出を私に話したりしているの? どうして君はいつもミセスと一緒に遊んだところに来ているの?」
僕は答えられなかった。言われてみれば、僕はいつもミセスのことを思い出していた。ミセスの好きなものとか、ミセスとの思い出とか、ミセスとよく遊んだ場所へ行ったりとか。
「ミセスと会えなくて、ミセスを探していたんだよね。心のどこかでは、ミセスはまだいるのかもって思ってたんだよね」
ミセスと遊んだ、あの暑くて蝉が鳴いていた夏の昼下がりも、夜なのに暑くてうちわを扇ぎあっていた夜や花火で遊んではしゃいでいた日も、枯葉で顔を作ったり落ち葉で火を起こして焼き芋を食べたりして遊んだあの秋や、蟋蟀や鈴虫の合唱を聞いたあの日も、刺さるような寒さの中雪だるまを作って競争したあの冬も、こたつの中に入ってみかんを食べあったり、オリーブ入りのミセスオリジナルのパスタの作り方を教えてもらったあの昼も、くだらない話を草原で寝転んで話して笑いあったあの日も、そのすべてが僕を形作っていた。彼との思い出や知識すべてが僕の糧で、小説の波を起こすものだった。
僕が初めて小説を書いた日は、僕が、書いた原稿をまとめる余裕がなくて、床に投げ捨てるように置いたあの小説をすべて拾ってまとめてくれた。
「君の中に今あるその気持ちを、寂しいって言うんじゃないかな」
彼女が先ほどの言葉に続けるように、優しく、この雨の中に溶けてしまうような声で、僕に言った。
僕はその場からゆっくり立ち上がり、雨の中を傘も差さずに歩いて帰った。
ミセスが雨を好きな理由は、音楽が聞こえるから以外にもたくさんあった。『雨の中、走り回りたくなる時があるんだ』と、彼はそうとも言っていた。その時は、どうしてそんな気分になるのか理解できなかった。
残念ながら、僕はその時走り回りたいとは思わなかったが、彼の気持ちが少し分かったのかもしれない。
僕はその夜、ミセスがいなくなってから初めて泣いた。布団の中で、激しく泣きわめくわけでもなく、声をあげて泣くわけでもなく、たださめざめと静かに泣いた。
夏が来た。彼女が現れたあの時から、気づけば一年が経とうとしていた。太陽が眩しく僕らを照らし、気温はぐんぐん上がった。木々たちが青さを取り戻し蝉がよく鳴く、いつもの夏だった。
ポストの前に行くと、彼女がいた。
「ねぇ」
僕は静かに彼女に呼びかける。
「何」
「ミセスはいなくなったの?」
「うん」
「本当にどこにもいないの?」
「それはわからない」
「どういうこと」
「クサいことを言うけど、君の心の中にいるかもね」
「それはクサいね」
彼女はうん、と小さく言った。
「小説を書く気にはなった?」
「ちっとも。でも」
僕はそこで小さく息を吸った。彼女は僕の顔を覗き込む。
「ありがとう」
僕は彼女と目を合わせた。彼女はきょとんとしていたが、僕にそれがどういう意味かは聞かなかった。僕は続けた。
「ミセスは誰だったのかな。そして君も誰なんだろう」
「ミセスは君の友達。私はミセスの友達。それで十分だよ」
僕はしばらく答えなかった。じっと足元の草を眺めていた。やはり夏は暑くて、立っているだけなのに汗をかいていた。蝉が鳴いていた。
僕が顔を上げると、彼女はもういなかった。
僕は足を家の方向に向ける。
家に帰ったら手紙を書こう。もうミセスはいないけれど。でも。
【あとがき的な】
小説家が小説家の話を書くなんて、変な話だなと私はいつも思っていました。自分の作家像みたいなものがそのまま主人公に投影されてしまうのでは、と思ったのです。主人公はあくまでも主人公であって、自分ではないのに。
でもそれもいいかもしれない、と思ってしまいました。
私が小説を書くとき、まさに今回の話の主人公のような感じになります。さすがにミセスはいませんし、ミセスのような人がいるわけでもないのですが、ほぼ私の話です。あと、さすがに意識を失うか出すものがなくなるまで止まらなくなるほどではありませんが、腰痛くて集中力切れて、時計見たら5時間経ってた、みたいなことはざらにあります。超がつくほどの遅筆なので結構きついですが。
本文は綺麗な世界観になるように力を入れました。これを書く前に、ストーリーに力を入れた一万字超えの小説があったのですが、いろいろ詰め込みすぎてちっとも面白くなかった上に支離滅裂で、視界に入れる事さえ憚られるようなひどい出来です。でも、本文はそれより短いのでちょっと、というかかなり悔しいです。字数がなければ本にさえならないのですから。
自惚れでしょうが、今回の話はよくできていると思いました。これで国語の問題作れますよ。本当に。自惚れですが。
ここまで読んでくれて本当にありがとうございます
またあなたに会えますように。
【蛇足】
8月27日
ミセス、元気にしてる? 僕は元気だよ。最近は、君に教えて貰ったオリーブ入りのパスタをアレンジして、和風パスタを作ったんだ。すごく美味しいよ。そうそう、この前庭にトマトの種を埋めたんだけど、やっぱり埋める時期を間違えたね。トマトは夏野菜だからって夏に埋めてすぐ生えてくるわけないよね。次はちゃんと調べてから育てることにするよ。そろそろ8月も終わりだね。花火がしたいな。今度買いに行くことにするよ。
ミセス、ありがとう(下手くそなミセスの似顔絵)