突然の驚きは、涙と共にやってくる。
顔を真っ赤にして走る私を近衛の騎士が驚いた顔で見ていたが、それどころでは無かった。
そのまま自室に駆け込むと扉を乱暴にしめて、そのままずるりと座り込む。
「……っ…何してくれてるのよ…!エドの馬鹿…!」
口元を抑えながら真っ赤な顔で口に出すが、当然ながらそれに答える人物は居ない。
エドにキスされた。
その事実に思わず涙が滲む。
初めてだったのに。あんな風に、簡単に奪って行くなんて。
「ううー……」
何とも声にならないうめき声が出る。何がどうとか良く分からないが、ショックだった。
ロセ様とだって、キスなんてしていない。額に口付けてくれた事は有ったが、それは全然別の話だ。
ごしごしと、強く唇を拭う。いくら擦ってもその事実は消えないが、それでもその手を止められない。
「……もう、やだ……。」
溢れて来る涙が止まらない。9年間ずっと我慢してきた糸が、突然ぷつんと切れた様だった。もう、限界だ。突然求婚して来る様になったエドも、3年前からパタリと連絡をくれなくなった兄様も、あんな事を言って1度も連絡をくれないロセ様も、全部、ぜんぶ。
全部、投げ出してしまえれば良いのに。
そんな事が許される訳は無いと分かっているけども、それでもそう思わずには居られなかった。
そのままどの位過ごして居たのだろう。部屋の中が薄暗くなった事に気付き、顔を上げる。
泣き腫らした顔でぼんやりと外を見遣れば、遠くに城下の明かりが見えた。このまま逃げてしまおうか、と僅かに頭を掠めるが、逃げた所で何処に行ったら良いか分からない。それに私が此処から消えれば国際問題になりかねないだろう。向こうはどう思っているのか分からないが、それでも私は兄様やロセ様に迷惑を掛けたくは無かった。
「……結局、どうする事も出来ないのよ、ね…。」
ぽつりと口から出た言葉が、闇に融ける。エドの事も、兄様の事も、ロセ様の事も。リリーシアの事だって、此処に居る私は何も出来ない。
「もう、忘れられてるのかな…。」
口に出すとそれが真実の様な気がして、また涙が滲む。大分弱気になっている事は自覚していたが、それでもうだうだとした暗い思考が止められなかった。
最初は、学園に通っていて忙しいから。
その後は、成人して忙しいから。
兄様の手伝いで忙しいだろう。
きっと今は、城に居ないのかも知れない。
本当は、何処に居たって、何をしてても手紙位は掛ける事はわかっていたけど。それでも忙しいだろうし、と言い訳して何も報せが無い事に納得した振りをしていた。だって、ずっと信じていたから。
『何年経とうが、僕が何処に居ようが、君の為なら何処にだって、どんな時だって駆け付ける。』
あの星祭の日、星空の下でロセ様が言ってくれた言葉。それを支えに9年間過ごして来たと言っても過言では無い。例えリリーシアとの噂があっても、放置されていると言う現実があっても、それでも私の瞳を真っ直ぐ見詰めてくれたロセ様を信じたくて、ここまでやって来たのだ。
「……何か、しちゃってたのかな…。」
この国に来る前ロセ様と話をした時。本当は、私の話に納得なんかしてなくて、呆れていたのかも知れない。もう嫌になっていたけど言えなくて、穏便に送り出してくれただけなのかも。
あの時は確かにロセ様の気持ちを信じられていたのに、今ではあの時感じていた気持ちが泡沫の様で、どんどん時間に負けて曖昧になって行く。
本当は、気付いていた。認めたく無かっただけだ。
兄様からの連絡が途絶えて3年。丁度その頃リリーシアが城に召喚されたのだと噂で聞いた。その時点で、私はゲームの展開に負けていたのかも知れない。強制力によって私の存在は切り捨てる為の悪役令嬢に変化していたのだろう。…切り捨てられたのだから、何も連絡がなくて当然だ。
エドはクロージアに婚姻の為の書簡を送ったと言っていた。
それでも何も言ってこないのだから、もうロセ様は噂通りリリーシアを選んでいるのかも知れない。
「ずっと居てくれるって…言ったのに…っ…」
泣き腫らした瞳から、再び堰を切ったように涙が零れ始める。責めるように口から出た言葉は1度出てしまえば止められない。もう、嫌だ。信じる事も、信じたいと願う事も、疲れてしまった。
「…ロセ様の…うそつき…っ…」
ぼろぼろと流れる涙と共に零れ出た言葉が、暗い部屋に響いた、その時。
「……嘘は吐かない主義だって、俺、何度も言わなかった?」
突然、部屋の中から記憶より低くなった、それでも良く知る男の人の声がした。
突然の事に思考がついて行かず、それでも其方にゆるりと視線を向ける。余りにも泣きすぎて、自分は眠って夢をみているのかも知れない。だって、こんな所に居る筈が無い。
その声の主は、ぼんやりと眺める私の元にゆっくり近付いてくる。癖のある黒髪も、宝石の様なアメジストの瞳も、何もかも変わらない。それでも昔より精悍に、大人っぽくなった綺麗な人。
「……ゆめ?」
私の言葉にその人は、ちがうよ、と苦笑を浮かべ座り込む私の横に膝を付いて抱き締める。その私より高い体温に、思わず安堵の溜息が漏れた。
「…ロセ様…?」
「…うん。お待たせ、フィリア。」
暗い部屋の中で私を抱き締めて笑うその人は、9年振りに逢う私の婚約者。
ロセフィン=ブルト=クロージア様だった。




