あなたは知らない
あなたは知らない。自分の胸の奥に芽生えたものの正体に。ざわつく心を押さえつけているものの真実に。
夏の濃い青空にはえる白亜の教会で、一組のカップルが永遠の愛を誓おうとしていた。
荘厳なパイプオルガンの音色、聖歌隊の美しい讃美歌、にこやかな神父と緊張の面持ちの新郎が待つ祭壇。
司会が静かに告げる。
「それでは皆さま、後ろの扉にご注目ください。新婦の入場です」
一斉に振り向く招待客の中には、俺もいた。みな手にスマホやカメラを持って、新婦の晴れ姿を納めようとしている。
しかし、俺は痛みを堪えるのに必死で、写真どころではなかった。どうしたんだろう、一体。昨日何か悪いものでも食ったっけ。いや、それなら腹が痛むはず。
何故こんなにも、胸が痛むのだろう。
歪みそうになる顔を必死に抑え、いつもの感情に乏しい表情を作ることに専念した。
そして讃美歌の高音のクライマックス、扉がゆっくり開かれた。
小柄な新婦は、レースとパールがたくさんあしらわれたウエディングドレスを纏い、白とピンクのバラのブーケを持ち、彼女の父親と共にお辞儀をした。
いつものメガネを外した彼女から目が離せない。
微笑みを浮かべた目元、上気した頬、肌の白さ、艶やかな唇。全てが、きれいだった。
ベールダウンで彼女の母親が何か言ったようで、彼女は涙ぐんでいたが、再び前を向き満面の笑顔を浮かべている。
その視線の先には、俺ではなく、緊張で真っ赤になった新郎。
俺ではなく?
呆然としている間にも、新郎新婦が祭壇の前に立つ。
周りと一緒に、手が痛くなるほど思い切り拍手をした。胸の痛みを紛らせようとして。心の声に気付かないふりをしようとして。
しかし、もう止まらない。
俺が、彼女の隣に立ちたかったんだ。
俺が、彼女を幸せにしたかったんだ。
誓いのキスをする幸せに輝く二人を見て、俺は絶望の闇に静かに沈む。
恋心を自覚した途端に、失恋するなんて。
営業一課の海斗と、秘書課の唯花の結婚披露宴は、二人の人柄そのもののあたたかい雰囲気に包まれていた。高砂に座る初々しい新郎新婦は、今友人たちと写真を撮っている。
挙式で感じた衝撃は、いまだ俺の中でくすぶり続けているが、それを顔に出すほど礼儀知らずではない。きっと美味しいのであろう料理を機械的に口へ運びながら、同じテーブルの同僚たちと歓談していると、新郎の上司にあたる営業部長が赤ら顔を俺に向けた。嫌な予感がする。
「橘くんは、今日の主役の二人と同期だろう? 君もいい人はいないのか? 愛想はあんまりないがそれだけ男前で、開発部のエースとして腕もあるんだから、モテモテだろう」
「もう部長、飲み過ぎですよ。その絡み方は今パワハラとかセクハラとか、デリケートな話になりますから」
「全くせちがらい世の中だよ。心配するのも褒めるのもダメなのか」
営業部長は悪い人ではないのだが、家庭を持つことこそが一人前というのが口癖で、さらに愛妻家ときてる。不満げな部長を隣の秘書課の責任者がやんわりと取りなしてくれて助かった。俺は社会人として、真摯な態度を見せる。
「部長のお心遣い、伝わりました。ありがとうございます。ですが今は独り身で気楽ですし、何より部長の奥様のような素敵な女性は、なかなか私の前に現れなくて」
「そうかぁ! まあたしかにうちの妻ほどできた女性は、そうそう見つかるもんではないからなぁ! あっはっは!」
たちまち機嫌が良くなる営業部長に、周りは苦笑いだ。俺はそつのない相槌を打ち、手洗いに行くと席を立つ。
会場を出る前に、チラリと高砂の二人を見ると、何やら嬉しそうに顔を見合わせているところだった。
明朗快活な海斗はムードメーカーとして同期の中で目立つ人物だ。人見知りな俺にもガンガン話しかけてきた。意外と気が合って、今も二人で飲みに行くことが多い。
一年目から、海斗が唯花に好意を持っていたことは知っていた。海斗本人から何度も相談されていたし、当時恋人がいた唯花の相談相手にもなってあげていたようだった。
健気な奴、自分の好きな人の恋人の話なんて、よく聞けるな。
俺は感心半分呆れ半分で、海斗の話に耳を傾けていたことを覚えている。
同年代より落ち着いた性格の唯花は、相手の心の機微に敏感で、男女問わず自然と周りに人が集まるタイプだった。あまり感情を表にしない俺のこともよく気にかけてくれた。
海斗の計画で、何度も唯花も含めた三人で遊びに行ったりごはんを食べたりしていた。無愛想なので、あまり女性と話す機会がない俺だが、唯花とは気楽に会話ができた。
その後恋人と別れた唯花と一度だけ、海斗抜きで二人だけで夕食を食べたことがあった。
世間話や社内の噂話、あとは互いの恋愛遍歴が話題に上がる中、俺は告白されたらとりあえず付き合うという話をした。唯花はいたずらっぽく笑った。
──久志くんも受け身なのね。じゃあ今、告白したら、私と付き合ってくれるの?
唯花がそんな冗談を気軽に言ってくれるなんて、ずいぶん仲良くなれたんだな。
しかし、嬉しさと共に胸のざわつきを感じた俺は、同時に海斗のことが頭をよぎった。
酔っぱらってんのか? と俺が軽く笑うと、唯花はそうかも、と照れ笑いを浮かべて再度梅酒をお代わりした。
それからしばらくして、海斗の努力が実を結び、唯花と社内の公認カップルになった。俺は二人を祝福しながらも、何だか胸の奥に違和感を感じていた。
その正体に、よりによって今気付くとは。間抜けにもほどがある。
手洗いを済ませ、気が滅入ったまま会場に戻ろうとすると、突然曲がり角から女性が飛び出してきた。すんでのところで転ぶのを回避し、女性を受け止める。見たところ年下のようだ。
「大丈夫ですか? すみません、ちゃんと前を見てなく……」
「うっ……」
「ん?」
謝罪する俺の顔を見たその女性は、大きな瞳を更に見開いたかと思うと、みるみるうちにその目から涙が盛り上がった。
「うわああん!!」
「うおっ、どうした?!」
目の前で盛大に泣かれた俺は、オロオロと焦った。たしかこの子は挙式のとき新郎側の友人席にいたような。でも、社内でも見たことがある顔だ。
さすがに披露宴会場の前で騒ぐわけにはいかず、少し離れたロビーに場所を移した。幸い人はあまりおらず、端のソファに並んだ座ることにした。
女性はペコペコと俺に頭を下げる。
「さ、先ほどは、すみませんでした……あの、開発部の、橘久志さん、ですよね。海斗先輩や唯花さんの、同期の」
「ああ」
「私、秘書課の、平泉紗理那と言います。唯花さんの後輩で、海斗先輩とは大学のサークルが一緒、でした」
だからか。小動物のような彼女の姿は、何度か唯花と一緒にいたところを見かけたことがある。俺は内心納得したが、平泉さんが突然泣き出した理由はいまだ不明だ。切羽詰まった表情から、二人の結婚式で感極まったわけではなさそうだし。
個人的なことかもしれないので聞くこともできず、とりあえず泣き止むのを待とうとする俺に、ハンカチでしきりに目元を押さえていた平泉さんがポツリと呟く。
「海斗先輩には、ずっと妹のようにかわいがってもらいっていました……」
「そう」
「私も、兄のような存在だと、思っていました。でも、違ったんです。挙式のときに、幸せそうな海斗先輩を見たら、ああ何で私が、先輩の隣にいないんだろうって、先輩のこと、好きだったのにって、気付いてしまって……」
まさか、同じ事情の人物がいるとは。
とても驚いたが、表情筋が死んでいると称される俺は、切れ切れに言葉を続ける平泉さんをおざなりに慰める。
「それは辛かったな」
「同じ会社に入ったのは、本当に偶然だったんです。唯花さんが直属の先輩になって、仕事ができるし優しいし、私はとても尊敬していているんです。海斗先輩の想い人だと知ったときも、それは惚れるだろうなって納得するくらい素敵な方で」
「うん」
「当時唯花さんには別の恋人がいたらしいんですけど、あまりにも受け身過ぎて疲れちゃったんですって。それで別れた後、アプローチし続けてくれた海斗先輩の気持ちを受け取ったとか」
「へえ……」
「挙式で自分の気持ちに気付いたらパニックになっちゃって、気付いたら披露宴が始まってて、高砂に仲睦まじい二人がいるし、ひとまず席を外そうって思ったら、橘さんにぶつかってしまって……本当に本当に、すみませんでした!」
「いや、大丈夫。唐突に意識したら、気が動転するよな。パニックになるのも仕方ない」
ようやく泣き止んだ平泉さんは、目をパチクリさせて俺の顔をまじまじと見る。目元の化粧が落ちてしまったが、その分あどけないかわいさがあった。彼女はふにゃりと笑う。
「橘さんって、一見話しかけにくいですけど、優しいんですね」
「平泉さんは案外毒舌だね」
「いえ、優しいって誉めてますよ?!」
「話しかけにくいって言いながらか? ……ははっ!」
慌てる平泉さんを見て思わず漏れた自分の笑い声は本当に楽しそうだった。俺は一人安心する。平泉さんも笑いながら、前をしっかり向く。その瞳には、もう涙はなかった。
「私、海斗先輩が好きです。そして、唯花さんも好きなんです。二人が幸せそうなのが、とても嬉しくて。自分の恋心に気付いてしまった今も、それは変わりません」
「無理してない?」
「強がりではありません。本心です。橘さんに話しながら、心の整理ができました。ありがとうございます!」
きっぱり言い切り、ニカッと笑う平泉さん。目が覚める思いだった。
俺もだ。二人が大事な同期で友人である事実は変わらない。底無しの暗闇にいるような息苦しさを感じていたが、平泉さんに呼吸の仕方を教えられた。
これで、ちゃんと二人に祝福できる。
宴が全て終わり、最後に新郎新婦が両親と共に会場外で待機していた。俺の番に回ると、海斗が目を真っ赤にさせて抱きついてきた。
「久志っ!」
「おめでとう、海斗……って、泣きすぎだろ。お前熊みたいにでかいんだから、もうちょっとどっしり構えとけよ」
「うるせっ! 今日はありがとな! また飲みに行くぞ、この野郎!」
「はいはい……えっと、唯花、ちゃん」
深呼吸をひとつして、唯花に向き直った。さすがに名前を呼び捨てはまずいだろうと、咄嗟に「ちゃん」を付ける俺を唯花はクスクス笑った。
「橘くん、今日は来てくれて本当にありがとう」
「うん……ドレス、よく似合っているよ。本当に、おめでとう。末永くお幸せに」
「ありがとう。新居にも遊びに来てね」
唯花はふんわり微笑んだ。満ち足りた笑顔に、胸が締め付けられる。
あなたは知らない。目の前の男の恋心を。砕け散ったばかりの恋心を。本人も今気付いたばかりだから、しょうがないけど。
好きだった。好きだったんだ。あなたの幸せを心から願っている。
恋する前から終わってしまった愛の告白を胸にしまった俺は、二人に手を振って会場を後にした。
平泉さんの清々しい明るい笑顔のように、俺も笑えただろうか。
◇ ◆ ◇
──数年後
「ただいま」
「お帰りなさい、お疲れさま」
俺の帰りを嬉しそうに出迎えてくれたのは、ニコニコと笑顔を浮かべる小柄でかわいらしい女性。
唐突に口からこぼれ落ちた言葉を俺は止める間もなかった。
「好きだよ」
「橘さん?! 急にどうしたのおなかでも痛い?!」
「別に。というか、いい加減名前で呼んでよ。もうすぐ橘になるんだから。俺も平泉さんって呼ぶよ、紗理那」
「うっ、はい、久志さん……私も好き、だよ」
紗理那の顔が赤くなるのを見ながら、俺も顔に熱が集まるのがわかった。紗理那はわたわたと夕食の準備に戻った。俺は深呼吸してから部屋着に着替える。それでも込み上げてくる幸せに、口角が自然と上がる。
あなたは知らない。あなたの笑顔にどれだけ救われてきたか。あなたの存在をどれだけ愛しく思っているか。あなたに愛を伝えられることをどれだけ幸せに感じているか。