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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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番外・伊東光


 オレは、本当は加藤聖が憎くてたまらないのだ。


 そう気がついたのは、打席でヤツと対峙しているときでもなく、増してやヤツに凡退させられた後でもなく、練習疲れで泥のようになった身体を布団に横たえ目を閉じた、丁度その瞬間だった。

 それまでどう思っていたのかというと、ただ打ち倒さなければならない、オレの前に立ち塞がる大きな壁だと、自分に課せられた大きな試練だとばかり……言ってみれば、自分の境遇をスポーツマンの立場で味わおうとしたとき、血湧き肉躍る、それこそ自分が物語の主人公になった悦びを噛みしめなければいけない、その噛みしめた先にある『旨み』を引き出す格好の材料と捉えていた。

 だが、違った。

 加藤は、オレを嘲笑し、おちょくることに全身全霊を掛けているとしか思えない投球をしてきた。しかも、オレと初めて対戦したあの時、中学生時点のあの県大会に。だから、あいつの中の何がそうさせたのかは全く分からないが、はっきりしていることは、あいつの投球がとても打者に敬意を払ったものではないとことだけだ。それこそ、緩急の差を付けるなんていうことはピッチングの常道だし、周りの投手があの手この手でオレを幻惑し、討ち取ろうとする様は、自分で見ていても自分がそこまで恐れられる存在になった、世の中から、少なくとも同じ野球のグラウンドという土俵の上で一目置かれている証拠なのだと言うことも十分理解している。


 だが、加藤聖、あいつは違う。

 オレを討ち取るという最終目的、即ち投手がマウンドに立っている以上当たり前に考えている事の他にも、よこしま極まりない意識を持っているような、例えるなら100m走を全力疾走しつつ、しかし美しい景色に脇目を振りながら終える、そんな奇妙な感覚を抱いた投手だった。

 

 初激突するちょっと前から評判は耳に入っていた。たとえ県大会と言えども、決勝となるとそれなりのデータ収集を行なうものだが、そんな事をせずとも並み居る豪腕投手の中でもいの一番に『剛速球投手』『中学生離れした腕の振りと速球のキレ』等々の勇名が耳に届いていた。

 それがどんなものかというと、最高球速140㎞に届くだとか、全く同じモーションから様々な変化球が繰り出されるだとかの、醒めて聞けば与太話に尾ひれが付いたかのようなものだったのだが、それでも自分が打者として、スポーツマンとして武者震いを押さえられない、血湧き肉躍る対決を望んでむに足る存在と認識するには十分すぎた。さしずめ、剣豪同士の果たし合いにも似たような、触れれば切れるような極限の空間の中での紙一重の相対を。

 だが、その一方的な、恋慕に近い好投手との逢瀬の幻想も、初対決の、しかも初球でもろくも破られることとなる。


 ピッチングに常道があるとするなら、それはどういったものだろうか。最終的にその打者からアウトを奪うこと?それとも、それを二十七個積み重ねて最終的に敵チームを零点に抑えること?

 自分がマウンドに立っている時は、常に前者を心掛けていた。試合の趨勢なんてものは途中でいくらでも変化するし、例え同じ点差・ランナーで同じバッターと対峙することになっても、そしてボールカウントが同じになっても、そこまでの展開……即ち、得点経過やボールカウントのいきさつ、打者の心境の変化……その全てを織り込まなければ最適の選択は導き出されない。だから、オレは余計な考えを振り払い、常に目の前のバッターに集中することを是としてきた。

 だが、加藤聖……あいつは、どこまでもどこまでも遠い存在、思考の持ち主だった。捕手の思惑がどれほどまで及んでいるかは定かではないが、少なくとも投手が気に入らないサインなら首を振れば済むはずだ。あのバッテリーの二人が、単なる投手と捕手の関係ではなく、サインに異を唱えるようなことさえ憚られる、例えば主従に等しいものならいざ知らず、だが。

 あの試合、初打席、そして初球。本来なら、全力の力で持ってオレの技量を計ってもよい場面だ。イニングは二回、ランナーは無し。例え長打を打たれても、後続を断ち切れば済む話だ。事実、初回のヤツの投球をベンチから見た限り、どうやって打ち崩そうか、そもそもそんな展開が現実やって来るのかと思わせるほどの投球をしていた。それだけに。

 それだけに。

 ……今思い出しても、度肝を抜かれたとか呆気に取られたとか意表を突かれたとかではなく。

――裏切られた――

 その思いが強かった。

 ヤツが、噂通りのダイナミックなフォームのアクションを起こした瞬間、そしてその脚を振り下ろし、少し遅れて右腕が撓るその瞬間に、オレの脳髄のど真ん中に氷水をぶちまけられたかのような、いや、冷たい氷の刃のような得体の知れない、恐怖にも似た何かが突き刺さった。それはあまりに低温すぎるが故に感覚を鈍らせ、おまけに凍傷を引きおこしかねない、とてつもなく厄介な代物だ。


 スローボール。


 『ハエの留りそうな』という陳腐な表現がしっくり来るような、山なりのボール。淡いセピア色に変色した視界の中、縫い目の断層までがくっきりと見えるような、それでいて何の変化もしない、しかも外角に大きく外れるクソボールだ。

 これが打者を侮辱していないと誰にどんな言葉をかけられれば納得できるのだろうか。いや、誰も満足の行く説得をできないに違いない。ヤツの中に例えほんの僅かでも、この投球が今後オレを数打席討ち取るための策略でありエサ蒔きであるという意図があったしても、オレはそれを頭からけなしてやる。それくらい、投げ終ったあとに捕手からの返球を受け取る際にほくそ笑みが見えたように感じるくらい、僅か一球に込められた悪意は明白だった。

 大勢の有名高校関係者が集まる中、こうまで愚弄されようとは思わなかった。だが、まだその一球だけなら『よし、ならばあのふざけた投球をするふざけた心構えのふざけた投手を打ち砕いてやる、そしてそのふざけたニヤケ面を涙で歪ませてやる』と意気込むのも悪くない。むしろ、『そういった方々』に対して、どちらが善玉でどちらが悪玉か、お互いがどちらに属するかをアピールする方法が明解になる。

 ……なるべく自分を冷静に押さえつけようと務めたその思いも、保持することが出来たのは一球目まで。

 何故なら、二球目も三球目もそれだった。全く同じ、クソ&スローボール。

 侮辱。

 それ以外にどう解釈しろと?常に自分の頭の中に閉じこめ、施錠し封印してあるつもりだった激情が、頑なな扉をもこじ開けるような勢いで押し出される。一度荒れ狂った奔流は、その他のどんな感情も堤となるに相応しくなく、冷静さも相手への畏敬も全て押し流して、オレの身体の指先一本一本に至るまで支配した。

 しかし、問題はそこからだった。いくら冷静を欠いていると自覚していたオレでも、カウント0-3からのカウント球、主役に立つ最上の機会とも言うべき絶好球を狙わない手はない。だからこそ、次はど真ん中に来るであろう絶好球に狙いを絞り、思いっ切り、それまでの侮辱を受けて鬱屈した気持ちを吹き飛ばす想いを込めてスウィングした。だが……その時点で既に相手バッテリーの策略に乗ってしまっていたらしい。

 『それ』は、ただカウントを取りに来ただけではなく、きちんとコントロールされた、外角低めのとてつもない速球だった。弾き返してスタンドに叩き込まれているはずの白球は、加藤聖の共謀者たる捕手、真壁大成のミットにすんなりと収まっている。

 自分の予想が外れたからでなく、そんなに素晴らしい速球があるのにまともに投げようとしない相手へのやり場のない憤りが、抑制することには慣れている目鼻口ではなく、全身の毛穴という毛穴から噴出しそうになった。目の前が真っ暗になりかけるのを、打席を外すフリをしつつ目を閉じ、必死にこらえる。

 自分とこれほどまで価値観の異なる相手と闘やりあうのは初めてだ。だったら、細かいことは考えずにやることはただ一つ、シンプルイズベスト。即ち、絶好球だけをコンパクトなスウィングで弾き返せばいい。それだけのことだ。

 だが……やはりどう考えてもあの三球続けて愚弄されたイメージが残っていた。只でさえ極度の緩急差を付けられた投球というのは対処に困るものだが、それはストライクゾーン、あるいはその近辺に投げ分けられて初めて効果を生むものだと信じて疑わなかった。何故なら、打者というものは、それまでの自分の経験と合わせて、自分の感覚で『この時点でここにボールが見えるのなら、それはもうストライクゾーンに入りはしない』と判断を付けなければ、自身の処理能力の限界を超えてしまう。分かり易い例を出せば、相手投手の手を離れたボールを認識した瞬間、自身の判別する低限のストライクゾーンより下を走ると予想すれば、その時点で身体は動くことをやめる。上昇するボールはあり得ない、つまり低めのストライクゾーン外からホップしてゾーン内に入ってくるボールなど世迷い言に過ぎないからだ。

 だが、アイツの投げるボールは何故かオレの目に焼き付いた。初対戦ということもあってか、まさか初球からあんな行動に出るとは思って居らず、思わず『全て』を自分の目に擦り込んでしまったのだ。加藤聖と真壁大成は、それすら織り込み済みでクソボールを投げ、投球の組み立てを行なっていたとでもいうのだろうか。真っ向勝負を信じたオレの方が愚かだと罵られるのだろうか。違うと信じたい、信じていたかった。


 ……その願いも空しく、後はほぼ同じような組み立てで自分のバッティングを封じられることになる。確かに加藤聖の球威と速度、変化球のキレは、オレのライバルと認めるにやぶさかでないものがあった。だが、終始オレが抱いていたのは、『何故それ程までの力を持ちながら真っ向勝負に出てこない』という、もはや一方的な片想いが破られた挙げ句、ストーカーになってしまった哀れな人間のそれにも似た、しかし明白な負の感情だった。

 試合には勝ったが、オレの個人成績だけを見るなら乾杯と言い切っていい。何しろ四打席全てが三振、数字の上では手も足も出ないとしか判別出来ないのだから。同じ四打席凡退といえど、真芯で捉えた当りが正面を突いた、なんて生易しいもんじゃない。つまりオレは、そういった野球を愚弄する人間に鉄槌を下すことなく、小賢しい陰謀にあっさりと引っかかってしまいねじ伏せられた愚か者として生きるしかなくなってしまったのだ。しかも、衆目の中で。オレの将来を決めかねない状況で。


 ……あれから二年が経った。

 二年が経っても、情念の炎は今でもオレの中に燻って……いや、燃えさかり続けている。周囲は不倶戴天の好敵手への対抗心程度としか認識できないであろうそれは、しかしオレにとっては、打ち倒すべきライバルでもなく、敬意を払うべき偉大な野球選手の内の一人でもなく、ただ一つだけ、復讐の相手として焼き尽くし灰にしてやろうかという地獄の業火なのだ。

 明日、オレはヤツと二年ぶりの対決を迎える。お互いがどれほど成長したのかを見定める良い機会だ。県大会の決勝まで、しかも前年度まで全く無名の県立高を、二年生バッテリーながら事実上たったふたりでここまで引っ張ってきたのだから油断はできない。そもそも油断などしない。オレの頭にあるのは、ただ加藤聖をマウンドの上で打ち崩し、自身の二年前の汚点を精算するだけだ。

 そう、オレは正しい。神聖なる野球を汚す、あのニヤケ面を涙で歪ませてやることこそがオレの正義であり、主張であり、そして生き甲斐なのだ。高校野球は結果だけが全てではない。その得点に至る過程、27個のアウトを相手より多い点差で奪う行為、それは決して一つだけの意味を持つもの、即ち野球というゲームに勝利するということだけではなく、人間として、野球選手として正々堂々と闘わなければいけないのだ。その意味を担う自負が今のオレにはある。世間だってオレの味方をしてくれる。オレが間違っているのなら、新聞やテレビなどの辛辣なメディアがオレらの味方になってくれる訳はない。だからオレは間違っていない。そっちが策を弄するなら、オレはその上を行く圧倒的な技量で打ち克ってみせる。王道と覇道の闘いは、果たしてどちらが勝つかと問われたら。

 もちろんオレだ。

 オレは正しい。

 加藤聖は間違っている。

 だからオレは勝つに決まっているのだ。

 

 ……ふと、携帯電話を手にとって、ある番号へダイヤルする。時計を見ると、まだまだ十一時だ。いくら試合で泥のように疲れた身体を横たえたとはいえ、この瞬間は心が躍り、頭がスッキリと晴れ渡る。

 数コール目で、期待するとおりの、携帯の安っぽいスピーカーからとは思えぬ、何処までも何処までも透明な声がオレの鼓膜を優しく通過してくる。その言葉の音の波形一つ一つがオレの脳波を安定させるために形成されているかのように。

「お兄ちゃん」

「美葉みよう、まだ起きてたか?」

「うん。今夏休みの宿題をやっていたところ」

「そうか、邪魔してしまったかな?」

「ううん、全然」

 中学時代は安アパートで一緒に住んでいた、この世でたった二人だけの兄妹。オレが県内随一の有力校である横浜学院の野球部寮に入ることになってから、美葉には一人暮らしを強いてしまっているが、それもこれもオレたちの将来のためだ。美葉がどんな道に進んでもいいように、オレは兄としてしっかりとした稼ぎをしなければならない。すなわち、美葉こそオレの生き甲斐、オレの全てと言い切って過言ではないのだ。加藤聖を打ち砕くという目的は、その最大目標に付随するものだ。と言って優先順位など付けられないが。

 しかし美葉が居なくなったら、或いは今既に居なかったら……恐らく、オレは生きる意味を失ってしまっているだろう。だからオレは美葉を全力で守る。美葉もそれを望んでいるはずだ。

「明日は応援に来てくれるんだろう?」

「お兄ちゃん、それを確認するの何度目?」

 くすくす、と、『鈴の音を転がすような』という古典的かつ情緒的な表現が似合う、可憐な笑いだった。オレはこの笑いを聞くために生きている。この声を聞くのを生き甲斐にしている。

「そうだよな。いや、何も心配していない。美葉が約束を破ったことなどないものな」

「……うん」

 電話の向こうで、美葉がはにかんでいる様子が手に取るように分かる。きっと、頬を染めて、小さな両手で電話を握りしめているのだろう。美葉はどんな姿でも愛おしいが、特に……電話をしている相手がオレ、即ち確実にオレのために時間を割いている美葉の姿を想像すると、幸せ以外の何物でもない。さらにはこんこんと湧き上がり続ける、打倒加藤聖へのどうしようもない渇望。美葉の声を聞いているとどんなことでも出来るような気がしていた。

「明日も早い、切るぞ」

「うん」

 とりとめもなく、そして短いやりとりだったが、オレにはそれで十分だ。

 愛している、と言えなかったのがもどかしい。口にしなくても判っていることだとは思うが、やはり口にするのはさすがに照れくさい。


 時計の短針と長針がいつの間にか重なっている。携帯の通話時間は、気がつかぬうちに数十分を数えていた。自分が確実な稼ぎを手にするまで、少しでも節約しなければならないというのに。だから当然の如く通話料金プランは最低限のものでしかない。それを理由に短い会話になるのだが、それでも十分だった。むしろ、通話し放題に近いプランなどを選択したが最後、歯止めが効かなくなるのが目に見えていたからこその選択だったとも言える。

 明日、オレは憎き宿敵・加藤聖を打ち破り、堂々と胸を張って衆目の憧憬を集め、勝利の凱歌を挙げるだろう。

 オレは正しい。オレの行為は、絶対に正しい。加藤は間違っている。それを明日、教えてやるだけだ。


 観ててくれ、美葉。

 お前といつまでも一緒にいるために、オレは全ての手を使って、知恵を振り絞って、自分の正義を貫くから。だから、オレの側を離れないでくれ。


 いい加減に眠ろうと身体を再び横たえる、と。自分の目線に、異様な……異様なとしか表現のしようがない……あえて言うなら、思い詰めに思い詰め、自ら死地に飛び込む他に問題の解決法が無いと思い込んでいるような……男の顔が飛び込んできた。思わず跳ね起きるが……そこには何もない。当たり前だ。きちんと施錠されているし、ここは寮の三階だ。月明かりに目を凝らしてみるが、そこには大きな姿見しかなかった。きっと、何かを見間違えたのだろう。明日への興奮が漲っていて疲れを感じないとはいえ、身体が正直に疲労の蓄積を訴えているのだろうか。思い当たる節はある。流石のオレも、真夏の登板はキツかったと言わざるを得ない。それもひとまず明日までの辛抱だ。

 安心したオレは、今度こそ本当に目を閉じ、どろりとした眠りへと誘われる。願わくば、夢も加藤聖を完膚無きまでに叩きのめしているようなものでありますように。




 FASTEST!伊東光編 -了-

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