第16-09話
夏休みが終わるまで、あと一週間。
自室の椅子に背を預けながら、カレンダーと、外の大きな入道雲とを交互に見やっていた。
山形から帰ってきて丸一日経っても、カベからの連絡は無い。でも、俺から『連絡を入れろ』などと急かすつもりもなかった。今までの疲れをゆっくり癒して、その上でこれからの事を話し合いたい。やっぱり、俺にはカベが居てくれないと何も出来ないんだ。
その事は随分前から自覚している筈だったけど、しばらく会わない事によって益々思いは募る。カベがどのような理由で俺から遠ざかろうとしたかは分からないが、もっと話し合えば必ず解決法が導き出されるはずだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
振り向くと、部屋の入り口に真理が立っている。ドアは開けっ放しだったから、ノックで注意を惹くことも無かったようだ。
「ちょっと、いい?」
「ああ」
手招きすると、真理は素直に部屋の中に。ちらりと俺の顔を見てからベッドの上に腰掛けた。
「どうした?」
「……あのね、去年の事、覚えてる?」
「去年の事……と言われても範囲が大きすぎてさっぱりだな」
「ほら、上野に行ったときのこと」
「ああ……」
去年、か。
県大会決勝で負けたあと、上野の動物園に遊びに連れて行ってやったんだっけ。今考えると、あれは真理が俺に気分転換をさせ、元気づけようとしたんだと思う。事実、真理の顔を見ていたら活力が漲ってきたしな。ということは、『連れて行ってやった』のではなく『連れて行って貰った』に等しいか。
「あの時、家に帰ろうとしたらお兄ちゃんは何て言ったか覚えてる?」
「……」
記憶を辿ってみるが……残念ながら、自慢にもならないが記憶力に自信のある方じゃない。
「『この休み中にもう一回遊びに連れて行く』って」
「ああ……」
そういえばそうだったかな、真理の言うことだから間違いはなさそうだし。あの夏は、その後姉妹全員で横浜に遊びには行ったが……
(多分、二人だけで遊びに行きたかった、ってことなんだろうな)
それ位しか思い当たる節はない。
なるほど、ね。俺が疲れていると思ってか、自分から『行こう』とは言い出しにくいのか。奥ゆかしい、可愛い奴め。
「よし、折角の残り少ない夏休みだ、山形で遊べなかった分、夏らしい遊びでもやるか」
真理は、俺の積極的な言葉を聞いた瞬間にぱああっと、それこそ見事なくらいに嬉しそうな表情で、
「うんっ」
と力強く頷いた。こんなに喜んでもらえると、俺の方も積極的になった甲斐があるというものだ。未だに床に伏せっているかも知れないカベには悪いが、高校生活最後の夏休みだ、有意義に過ごさせてもらおう。
俺、それ位が許されるくらいには頑張ったよな、カベ……?
眼前には太平洋。
遥か水平線の向こうには、秋の訪れなど微塵も感じさせない入道雲。
周囲には、太陽を白く照り返す美しい砂浜。ひと夏のヴァカンスを楽しむという意味でのロケーションは完璧だ。
「……なのにどうしてこういう事になるのだ」
「ごめんね、お兄ちゃん……」
両手を合わせて平謝りする真理。全く、こんなことになるなんて聞いていない。あくまで真理と遊びに行くという約束だったはずだ。
「どうして真理が謝るのよ」
「ほらぁ舞依子ちゃん、お兄さんにそんなに突っかからないで……勝手についてきたのはあーし達なんだから。お兄さんが気分を悪くするのも仕方がないよぉ」
……そう。
わざわざ伊豆までだぞ!
海が綺麗だという砂浜を目当てにわざわざ足を伸ばしたというのに!
真理の大親友たる梨魅ちゃんと舞依子ちゃんまで同行するハメになってしまったのだった。
「甘いわよ、梨魅!兄妹とはいえ、年頃の男女が二人きりで海水浴旅行なんて、ふしだら極まりないわ!しかも義理よ義理!法的には何の問題も無いんだから、用心に越したことはないのっ!」
用心って……第一、女の子三人に保護者代わりの男が一人という状況には言及しないのはどういうことだ。冷静に考えればそっちの方がよっぽどヤバいような気がするのだが。それとも、彼女たちの両親は俺が保護者代わりを務めるというのを承知しているのか?一応俺の名前も全国区になったことだし、そんな人物が悪さをするはずがない!と思っているとか……
そもそも、舞依子ちゃんは何故行きすぎた心配をしているのか分からないが、俺がそんな事を……する……筈がない……自信ないけど。
で、みんなが付いてくると真理が申し訳なさそうに言うので、結局俺がみんなの保護者代わりになり、姉さんが大学の友人から聞き出したという評判の良い民宿に予約を入れたというわけだ。
しかし、たかが民宿と言うなかれ、『漣』は評判通りに質の高い宿だった。何しろ経営している夫婦の愛想とキップが良くて、人との触れ合いの悦びを噛みしめることが出来る。話では、海の幸がふんだんに盛られた食事も期待して良いらしく、この点も俺の心をくすぐってくれる。
……そんな楽しい旅行になるものという期待は、俺を常に厳しい眼差しで射抜く舞依子ちゃんを見る度に瓦解してしまいそうになるのだけども。
まあ、ここは下手なアイドルなんか裸足で逃げ出すような美少女三人組の水着姿を拝める役得でチャラにしておこう。この境遇、考え方によってはとてつもなく美味しいかも知れないし。
日除けのパラソルをきゃあきゃあ言いながら浜辺に突き刺す梨魅ちゃんは、明るいグリーンのセパレートタイプの水着。お腹の見え具合が絶妙だ。
常に不機嫌な表情でそれを手伝う舞依子ちゃんは、白いホルター形状の、意外に布地の面積が狭い目のやり場に困るデザイン。意図的に自分の魅力を最大限に引き出すものを選んでいるのか。勿論似合っている。彼女の美しい黒髪に純白が映える。
「痛っ」
左腕に鋭い痛みを感じ、振り向くと……
「……」
「な、何だよ」
「お兄ちゃん、何処見てたのっ?」
真理が俺の腕をつねっていた。それでも左腕にしてくれるところが良いというか何というか、しかし思いの外強くつねられたから、その箇所が赤く膨らんでやがる。
「何処でも良いだろ」
「良くないの」
「何で」
「何でって……」
真っ赤になってもじもじし出した。……よく見れば、真理もなかなかどうして艶っぽい、布地の少ない水着を着ていた。ピンクとオレンジを混ぜたような色のセパレートタイプ。特にボトムなんてローライズ気味で腰骨が露わになってるぐらい。そのような刺激的な姿で野郎どもの視線をたっぷり釘付けにされたら、とても護りきれないぞ!
……とはいったものの、この海岸は穴場だけあって地元の人意外は滅多に来ないらしい。俺たちのように、ごく親しい者達の間だけでひっそりと存在が言い伝えられているような、地元民専用と言い切って良いような海水浴場なのだ。地元の人も、シーズン真っ最中に海水浴を済ませてしまったようで、俺たちの他には人っ子一人見えないと言っても過言ではなかった。それだけに、クラゲでも跋扈してるのかと思ったが、『漣』の経営者夫婦に尋ねてみても平気とのことだ。安心して遅い夏のバカンスを満喫できそうだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
さっきまでのもじもじは何処へやら、真理は俺の隣に腰を降ろし、遠く碧い海と蒼い空海の繋がっている水平線を見つめている。天橋立ではいわゆる股のぞきをすると天空に橋が架かっているように見えるそうだが、この海岸で股のぞきをやったらどっちが地上でどっちが大空だか混乱しそうなくらいに『あおい』。
「綺麗だね」
「ああ……こうして入道雲と碧い海を見てると、あと一週間で夏が終わるなんて嘘みたいだな」
「そうだね……」
夏が終わる。
この夏、俺は滅多に出来ない体験をした。甲子園で準優勝まで進み、過去の記憶に一応の決着をみた。でも……それらはあくまで特別な体験であって、課題として残されているのは『普通』な高校生の夏の過ごし方だ。どちらも縁がなく、暇を持てあましていた一昨年までとは違って、今年はあと一週間を遊び倒すことが出来る。
でもそれで終わりだ。新しい季節が始まる。それは同時に、俺の新たな斗いの幕開けでもある。一週間しか休息の時間がないのは残念だが、今はそれでも良しとしよう。
それからしばらく……俺達四人は今までの鬱憤を晴らすかのように遊びまくった。鬱憤というのは、舞依子ちゃんも梨魅ちゃんも宿題やバイトで忙しかったらしく、泳ぐのは今日が最初で最後になるとボヤいていたからだ。それでもマジメに宿題をこなそうとする姿勢には非常に好感が持てる。
……しかしなぁ。
本当なら、女の子三人の中に男が一人だけなんてどんなハーレム状態だよと思うけど……常に舞依子ちゃんの切れ長の目が光っていたから、ちょっとは期待してた様なことも起こらず……
夜になってしまった。
夜になったのはいい。至極当然の、この世の摂理だ、自然の成り行きだ。
だが眠れねぇ。
俺はそもそも相部屋というものが非常に苦手で、お陰で修学旅行や林間学校の時は必ずと言っていいほど眠れずに朝日を拝んでしまう悪癖があった。
隣で物音を立てられるのも気になるし、自分の立てる寝息や物音を同部屋の人間等が気にしやしないかという、まことに神経質極まりないようなことまで考えてしまう。そもそも、寝室というスペースは完全な個人の空間であって欲しいと思うのだ。結婚したら絶対にベッドは別の部屋に置こうと覚悟を固めたところで、
(でもやっぱり夜は寝ておかなきゃ……昼寝なんかしようものなら折角の休みが無駄になっちまうし)
と強引にでも目を閉じる。
が。
眠れるわけがないだろ。
そう、何と、
(どうして相部屋なんだよっ!)
俺の周囲ですやすやと可愛らしい寝息を立てているのは、言うまでもなく真理・舞依子ちゃん・梨魅ちゃんだ。その三人が、俺から真理をガードするような位置取りで床を並べている。全く……よっぽど信用があるのか、男として見られていないかのどちらなんだろうな。
いずれにせよ、こんな衆人環視の中で何かをやらかすほどバカじゃない。大人しく眠ろうとするが……やっぱり眠れない。もともと他の人間と一緒に眠ると言うのが前に述べたとおりの理由で苦手なのもあるが、周囲から良い匂いがするんだぜ……新手の拷問だよ、これは。しかも、俺は甲子園に行っている間ご無沙汰だったんだぞ。家に帰ってきてからも、疲れてばかりでそんなことをする気にもならずに……だが、身体の方はバカ正直に消費も出来ない『ある種の物体』をせっせと製造してくれるもんだから困っているわけだ。
といっても、これまたバカ正直に何かをしでかそうとする訳も勿論無く、何とか解決法を探してはみたけれど、結局こうして無理矢理目を閉じるしかないというわけだ。
……んーむ。
……んーむ。
……ぬむぬぬうぬう。
「ぶはっ」
半身を起こす。
幾ら努力したところで、余計に『眠らなければ』という意識が邪魔をしてしまい、目が冴えるという悪循環。ほら、授業中に『普段あまり生徒注意しない先生の授業に限って眠くならない』みたいなもんだ、多分。
ふと見ると、舞依子ちゃんの性格を表現しているかのような、床に入り仰向けになったまま上掛けも崩さぬ姿と、……これまた梨魅ちゃんらしい、といったら本人に怒られるかも知れないが、豪快に一回転し、枕は足の方へ転がりタオルケットと敷き布団がバラバラになっている向こう、真理の布団がもぬけの殻だった。
二人を起こさないように……もっとも、寝息から判断するに大分眠りが深いからその心配も無用か……音を立てないように気をつけながら立ち上がると、
「お兄さん」
ひぃ、と思わず叫び声が出るのを必死で押し殺すと……
眠っているとばかり思っていた舞依子ちゃんが、光る目つきで下から俺を牽制していた。
「真理に何かしたら許しませんからね」
「何かって……何のことかな?」
特にやり返した覚えはないのだけど、舞依子ちゃんの喉から『ぐっ』と明らかに息の詰まる音がした。
「お、覚えてなさいよ」
何をだ。
舞依子ちゃんは俺とは反対側に寝返りを打ち、それっきり何も言わなかった。……一応は許されたと思って良いのだろうか。
そーっと襖を開けて廊下に出て、念のためにトイレを見てみるが明かりは付いていない。玄関に行くと……真理のサンダルだけが無かった。外に出たのか。こんな場所だから夜歩きはそれほど危険ではないだろうが……気になるな。
急いで靴を履いて外に出てみたが、探すまでもなかった。
「……真理」
真理は、まるで俺が後を追いかけてくるのを期待していたかのように、玄関近くの門に背を預け、星のまたたく夜空を見ていた。
「お兄ちゃん……」
こちらを振り向いた真理の顔が月明かりに照らされていて、ただでさえ白い肌が神秘的なまでに美しく、抜けるような透明感も伴っていた。神話から抜け出てきた人型の妖精が目の前に突然顕現したかのようにさえ錯覚して、心臓がどくんと跳ね上がる。
「お前、何も言わずに出て行くなよ。探そうとしちまったじゃないか」
その心臓の鼓動をなるべく表に出さないように、努めて冷静に振る舞う。……しかし俺の常として、隠し通せているかどうかなど全く自信がないが。
「ごめんね。でも、あんまりにも」
再び空を見上げ、
「空が綺麗で」
俺もそれにつられ、夜空を見た。……確かに、見とれるのも一人で眺めたくなるのも分かる、綺麗な空だ。関東から離れるだけでこんなに澄んだ夜空を拝めるとは。
「お兄ちゃん、港の方までお散歩しない?」
「そうだな」
元より眠気は吹き飛んだどころか無いも同然。軽く散歩でもしてるうちによく眠れるようになるだろう……と自分に理由を付け、並んで歩き出す。
……じゃり、じゃりと石を噛みしめ歩く。
宿から少し離れた港には漁船が数隻停泊していて、波が来る度にちゃぷちゃぷと船縁を叩く音が聞こえる。数メートル置きに立っている街灯が唯一の明かりだが、その仄暗さが却ってここが都会ではない(といっても俺の住んでいる町も大して栄えているとは言えないが)のを物語っている。のどかで良い情景だ。いかにも小旅行に来たって風だな。
真理は、数メートルほど前方を後ろ手に組んでゆっくりと歩んでいる。その華奢な身体の線までもが魅力的に見えてしまって……いよいよ本格的に真理に惚れ込んでしまっている自分が居るようだ。
しばらく海岸線にそって歩くと、おあつらえ向きにベンチが据えられている。近くには自動販売機もあって、その黒く開いた取り出し口が「いかにもここで休んでください」と喋っているようだった。
何も言わずにウーロン茶を二本買って真理に差し出す。本当ならコーヒーが飲みたいところだったが、歯磨きを済ませちまって居たから、歯をなるべく汚したくなかった。
「ありがと」
二人してベンチに腰を降ろす。宿を出るときに時計を見たら、二時を回っている頃だったから……もう十分過ぎにはなってるな。
ちゃぷ、ちゃぷ……
聞き続けていると、そんな波の音でも楽しく思えてしまうから不思議だ。何処までも暗い空と、それに吸い込まれて行く海以外に目に入ってくる情報が少ないから、頭が勝手に楽しいこととすり替えているのかも知れない。
耳を澄ますと、かすかに海岸の方の波の音が聞こえる。夏の夜の常で風は無いが、波の音が割合大きいところを見ると、遥か海の向こうは大荒れなんだろうか。そして、やっぱり漁が出来なくて困っている南方の島国の人が居たりするんだろうか……幾ら何でも思いを馳せすぎだな。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「どうしたの、楽しそうな顔してるけど」
「え……そんな風に見えるか?」
「うん、とっても」
そっか。下らない事を考えていたとはいえ、しかめっ面をしているよりはずっとマシだろうし。
「真理、俺が甲子園で投げてる時は……どんな顔してた?」
「……」
「あ、あの距離じゃ見えなかったよな?」
「ううん、私は目が良いからよく見えたよ」
「そういえば両目とも視力1.5だって自慢してたっけ」
「自慢って程でも……悪いよりはよっぽど良いけどね……それより、お兄ちゃんの顔でしょ?……あんまり、思い出したくないなぁ」
「何で」
「……だって」
「恐そうな顔してた、か?」
「……うん」
自分でも薄々そんな気はしてた。実際、四回戦を迎えた辺りから、目に見えてピッチングへの余裕が無くなってたし。それは連投の疲れによる体力的なものなのか、或いは敵がどんどん手強くなってくる事による、一球のミスも許されないというプレッシャーがもたらすものなのか……多分両方だが、きっと真理の言う『余裕のない顔』になってたんだろう。
「でも、凄かったね、あのピッチング」
「そうか?」
「うん。みんな圧倒されちゃってたみたいで、ロクに声も出せなかったんだよ。応援はしてたけど、つまり『騒ぐ』事しかできなくて、『本心からの応援』は出来てなかったの。あんまりにも凄くて」
「すごい、か」
確かに、俺の残した成績を見てみれば自分でも凄いと言わざるを得ない。投げてる最中は、自分の残した記録になどなかなか頭が行かなかったこともあるが、今更ながらに奮った成績を残したとは思う。
「でもね」
真理は一端言葉を切った後、ぐっと唇を噛みしめるように溜めを作ってから
「ちょっとだけ……泣いちゃった」
と、ぺろりと舌を出し、その言葉がまるで『今日は息を吸っている』とでも、ごく当たり前のことを言ったかのようにさらりと口にした。
「泣いたって……どうして」
「何だかね……お兄ちゃんが消えちゃうような気がして」
俺が……消える?
「一球ずつお兄ちゃんが命を削って投げてるような、って言っても良い。試合が終わったら、お兄ちゃんがマウンドの上から消えちゃうかと思ったくらい」
物理的には全く理解し得ない事を真剣に考えていたようだが……事実、その時の俺は、自分では考えもしなかったが、それ位の魂を込めて投げていたのだとは思う。一球に掛ける意気込みの違いは、間違いなく球威に現れる……俺らしくない考え方だとは思うが、今までの経験から言って、気持ちの入ってないボールは常に痛打を浴びてきた。
「考えすぎだろ」
「私もそう思うけど」
真理はそこでウーロン茶のプルトップを引き上げ、一気に中身を飲み干した。夜とはいえ、まだかなり蒸し暑いから、あっというまに中身がヌルくなっている。俺も倣って一気飲みだ。
俺が消える、か。
もしあそこで俺が消えてしまったら、悲しむ人間はどの位居るだろうか。少なくとも姉妹達は悲しんでくれるだろうが。
「……お兄ちゃん」
「ん」
沈黙。
沈黙。
二人して沈黙。
真理は俺の名を呼んだきり黙ってしまった。何が言いたかったのか。
しかし、沈黙にも慣れそうになってから、ようやく真理が行動を起こした。
ベンチから腰を上げ、わざわざ座っている俺の正面に立った。街灯の逆光で表情が見えなくなったが、その分、発している空気が、これから真理のしようとしている事への決意の重さを感じた。
「ま」
「お兄ちゃん」
俺の言葉を許さない気迫。おおぉ、これまでどんなバッターに相対した時よりも圧倒される。小さな身体から、余計な返答を全て跳ね除けかねない、蒼い情熱の炎が垣間見え、たじろいだ。
「私ね」
「うん」
ぐっ、と唇を噛みしめ、
「お兄ちゃんのことが、すき」
と、短く、簡潔に一言。
「お……」
飾らない言葉はいかにも真理らしいが、問題はその内容だ。思わず腰がベンチから数?浮いちまったぞ。
しかしそのお陰で、逆光から外れて真理の表情が見えるようになった。……夜目でも分かるくらいに顔中を紅潮させ、瞳を潤ませ、そして小さく震えている。俺と接しているときはそうでもないが、基本的に大人しい方だという真理は、どのくらいの覚悟で今の言葉を口にしたのだろうか。
「お兄ちゃんは私の知らないことを沢山知ってるし、いろいろ優しくしてくれたし……それに……すっごく優しいし。私、さりげなく優しい人って、その……大好き、なの。最初ね、お兄ちゃんと出会ったとき、ちょっと恐かった。写真は見せてもらったから人相は分かってたんだけど、実際に会ってみたらあんまり笑わない人だったし、無口だったし」
真理と出会った頃の俺は、今から思い返すのもイヤになるくらいガキだったんだよ……お陰で、姉妹達にはかなり嫌な想いをさせちまったんだったけかな。
「でもね、接する内に……どんどん気持ちが膨らんでいって、抑えきれなくなっちゃって……最初は、単なる年上の男性への憧れとも思った。でも、冷静に冷静にじっくりと考えて……やっぱり一人の男性として好きだったんだなって気がが付いたのは、結構前」
か細い声で続ける。その声さえも儚げだが、余さず自分の中に閉じこめ、自分だけが味わっていたくなる。
しかし、真理から打ち明けられるとは思わなかった。
もし俺が断ったら、フラれたという事実はもちろん、しかも気まずいままで暮らしていかなければならないという大きな恐怖も抱えていたに違いない。そんなリスクを犯してまで口にしたかったのか、その言葉は。……しかし、そのリスクは俺が抱えていたものと全く一緒だ。
「ずるいな」
「えっ?」
真理の顔に怯えが走る。最悪の答えを想像したのか。
「告白は俺の仕事だぜ」
「……!」
もう、こっちも言うしかない。告白されてばかりじゃ漢が廃る!……どんな決意なんだ。
「俺も、真理が、すき、だ」
人生二度目の告白だが、慣れてないのは当然として、何故か言葉ぶつ切りになってぎこちない。
「!」
しかし、真理は……
「お、おい……」
俺の言葉を理解した瞬間、涙をこぼし始めたのだ。どうしていいか分からずにおろおろしてしまうが……単純に考えればすぐに解決法は分かる。身体が瞬時に動かないだけだ。脊髄反射的に動こうとしないのは少々悔しくもあるけど。
で、解決法というのは。
「あ……」
小さな肩をそっと掻き抱いてやればいいのだ。言葉が見つからないのなら態度で示せばいい。実に単純明快だ。
「俺、気付いちまったんだ、甲子園に行ってる時から。いや、気持ち自体はずっと前から持ってた。自分のこの気持ちは何なんだろう、って考えたら、結論は一つしかなかったんだよな」
そんな簡単な事があやふやになっちまう程、自分の心に『義妹』や『女は姦しい』といった先入観のフィルターを掛けてしまい、結果的に真理を苦しめていたんだ。
「お前が好きだ、真理」
一度口にしてしまうと楽になった。すーっと心が軽くなった。もともと結果が分かっている勝負がこれほどまでに楽なものだとは。だから俺はずるいというのに。
「嬉しいよ、私……」
「俺もだ」
たった18年ばかしの人生で初めて、女の子と双方向で気持ちを通わせる。その甘美な陶酔に自分を失いかけた。自分の鼻に、真理の髪の甘い香りが入ってくる事とも無関係ではあるまい。
ぎゅっ、と、少しだけ小さな身体を抱く手に力を入れる。蒸し暑い夏の夜の筈なのに、真理から感じる体温が心地良い。本質的に『暑い』とは無縁のようだ。
「お兄ちゃん、痛いよ」
「あ、悪い」
強くしすぎたらしい。身体を離すと、二人して今過ごした時間がとても濃密且つ、今までにないものだったことに改めて気付く。
「……」
「……」
真理。
「そろそろ帰るか」
「……うん」
ちょっと素っ気なさすぎたかな……と反省しつつも、あんまり帰りが遅いと舞依子ちゃん等に何を勘ぐられるか分かったものではない。
今来た道をゆっくりと引き返す。二人分の足音が暗い海に溶け、潮騒が遠くから代わりに響いていた。
真理は……未だに頬を染め、瞳を赤くしながら俺の横を歩く。
と、ふとした拍子に手が触れあった。お互い瞬間的に手を引っ込めたが、思い直して……どちらからともなく手を繋ぐ。これが今出来る最大の愛情表現かな、情けないけど。
真理の小さな手は、柔らかく、そしてとても温かい。体温の高い人間は、逆に冷たい性格だと言うが、真理には当てはまろう筈もない。真理の心、それは俺が羨み、そして妬みかねないほどに広く、そして温かい。
思い返してみれば、俺は本当に真理に頼ってばかりだったな。
荒みきった日常生活に潤いを与えてくれたのが真理なら、俺を叱咤激励して野球の道に戻してくれたのも真理なんだ。あの雨の日、真理の涙がなければ今頃は……そのまま差し障りはないがその分面白くもない日常に溺れ、いつしか自分という存在を捨てて世間に埋没してしまったことだろう。
感謝してもし足りない。
勿論、現在手を繋いでいるこの気持ちが感謝とは言えないが、多角的に真理に惚れちまったんだな。もともとが恋愛に理由なんて要らないなんて眉唾モンだと思ってたけど、まさかこの俺がそれを実践するとは思っても見なかった。
いや、真理の存在全てが愛するに足る理由と言い換えても良い。
……はは、要するにベタ惚れなんだよな。
繋いでいる真理の手に力が入った。といっても、二桁あるかないかの握力だろうから、ほんの僅かな力の変化だけど……俺も強弱に気をつけて握り返す。心が通っている、そう思うだけで今は十分だ。
空には星。
傍らには真理。
十分過ぎる程恵まれてらぁ。
翌日。
帰りの車中(ここでも足はやっぱりフィアット・ムルティプラ)で、助手席(といってもこの車はセンターシートがあるから、一番左隣の席ってことになる)に座る真理は、昨日の海遊びと告白で疲れちまったのか、すやすやという擬音がぴったりはまるくらいに安らかな寝息を立てている。
真理どころか、後席の梨魅ちゃんと舞依子ちゃんも寝ちまっているんだけど。俺としては会話に気を遣わなくていいからありがたいといえば有り難い。常に俺に対し鋭い視線を投げかけてくる舞依子ちゃんに怯えることもなく、気ままにマニュアルのシフトレバーを操る。
さて、これから何をしようかな、と残り少ない夏休みの過ごし方に思いを馳せた瞬間、俄に自分に恋人が出来た、という実感が湧いてきた。中学生の時などはさんざん夢想しながら叶えられなかったささやかな夢。しかもその相手が真理だなんて恵まれすぎてる。まだまだ休みは数日有るのだと考えれば、一体何処に遊びに行こうかと希望も膨らむ。心が通じ合った子がいるだけでこんなにも幸せな気分になれるとは。
「お兄さん、何ニヤニヤしてるんですか」
「ぶっ」
バックミラーを見ると、いつの間に目覚めたのか舞依子ちゃんが冷ややかな目で見ていた。
「い、いつから起きてた?」
「ついさっきです。目覚めたら、お兄さんが締まりなく鼻の下を伸ばしていたから、面白かったので観察していたんです」
「あ、そう……」
ぐおおお、多分俺の顔はヘラヘラ歪んでいたに違いない。見られたのか、それを。恥ずかしい……
「ちょ、ちょっとお兄さん!前見て前!」
「おお」
くそお、不覚。弱みを握られちまったようなもんだ。しかし、予想に反してそれ以上の追求の類はやってこない。再びバックミラーに目をやると、舞依子ちゃんはドアに肘を突いて外を見ている。……不機嫌そうに。
何だろうと思いつつ道路をひた走る。不機嫌の理由が分からないもんだから、針のムシロ状態だ。
それからどの位経ったのだろう、舞依子ちゃん以外は目を覚まさず、相変わらずすやすやと眠っている中で、
「お兄さん、真理と付き合うことになったんですってね」
と、あんまりにも静だから再び眠ってしまったのかと思った舞依子ちゃんが、外を眺めながらやっぱり不機嫌そうに言った。
「ど、どうしてそれを……真理が言ったのかぁっ?」
「……やっぱりそうだったのね」
俺に突っかかってくる上にカマまで掛けられて、俺は一体どうすりゃ良いって言うんだ。そもそも俺が一体何したってんだ。
「お兄さん」
「何だぃ」
「真理をよろしく」
「はい……え?」
「二度は言いませんよ」
前々から思ってたんだが、舞依子ちゃんってもしかして……もしかするのか?でなければ俺に対する態度の説明が付かない。……あんまし考えたくないけど。
「真理を幸せにしてあげてください」
「も、もちろん」
「真理を泣かせるようなことをしたが最後、私が貴方を」「わ、分かってる。そんなの当たり前だ。一度愛した人間に悲しい思いをさせたいと思う男が何処にいるんだ」
うう、『貴方を』……その先どんな言葉を続けるつもりだったんだろうか、考えたくない。
「口では何とでも言えますよね」
「確かにな」
でも、偽った気はない。真理を生涯を掛けて愛する。護る。幸せにしてみせる。今からそれが俺の大きな目標の内の一つとなった。こうして宣言してしまえば、自分の心にごまかしが利かなくなる。
「信じます」
舞依子ちゃんは最後にそう言うと再び目を閉じ、傍らの梨魅ちゃんの肩に頭を預けた。……嵐は、去ったのか。ふう、と一息吐くと、もう五塚の丘が高速道路から見えてくる頃合いだった。
……そう、俺は自分と真理の思いを乗せているのではない。
俺を愛してくれた人、そして真理を愛している人、全ての人間の思いを背負う。それが代償といえば代償だが、そんなものは屁でもねぇな。人を愛する悦びを教えてくれた真理、愛される悦びを教えてくれる真理。
真理。
真理。
真理。
心に住んだその名前のぬしは、助手席を見れば即目に入る。それがどれだけ有り難いことなのか。世の中、望んでも遠距離の場合だってあるし、この世にさえ居ないこともままあるだろう。それらと比べたら俺は幸せ者だ。
その幸せを噛みしめ、アクセルを踏む。
四人乗ったムルティプラは、それでも快調にアスファルトを蹴るのだった。




