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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第16-08話

 翌日。

 結局おばちゃんの家に泊めてもらった俺らは、朝食を作って(おばちゃんは勿論遠慮したが)一宿一飯の恩義へのお返しとしたけど、それでもおばちゃんは全く満足してないように見えた。それもその筈、六年という歳月は思いの外長かったようで、今日で山形を去るのが名残惜しくて仕方がないらしい。メシを作るなどという程度の奉公よりも、話し相手になってあげた方がよっぽど喜んだのかも。

 昨日、ほんの僅かばかり草むしりをしたじいちゃん(の成れの果ての草むら)の前に立ち、ここで暮らしていた当時を思い出す。

 あの頃はじいちゃんと二人でいるのが当たり前だった。父親がいないことには大して寂しさを覚えなかったが、母親の顔を知らないというのはちょっぴり苦い思い出として残っている。でも、学校でもそれをネタに虐められるような事もなかったけどな。みんな気の良い奴らばっかりだったし。そのお陰で寂しさを紛らわせることが出来たのもまた疑いようのない事実だろうな。

 ……もう六年、か。早いもんだ。じいちゃんの顔はまだまだ忘れる訳がないが、残っている記憶は、頭が勝手に主要なそれだけに整理してくれつつある。そうやって人の記憶は時間と共に風化して思うと、分かっていてもやるせない。

 ……無口だったじいちゃんは、甲子園の斗いを見て何て言ってくれるかな。誉めてくれるかな、それともまだまだ精進が足りない、と苦言を呈してくれるのかな?己にも他人にも厳しいという意味では、驚くほどじいちゃんとカベの性格が似通っている事に気がついた。俺がカベに気を許した原因はこんなところからも来ているらしい。

「お兄ちゃん、今日はどうするの?」

 気がつくと、いつの間にか傍らに真理が立ち、俺の顔をを下からのぞき込んでいた。可愛いからやめてくれ。いやもっとやってくれ。……つまり、人間を支離滅裂な思考に誘うほど魅力的って事だ。

「……ちょっと寄るところがある」

「そうなんだ」

「お前はどうする?今のままじゃ折角山形まで来た意味がないが」

「ううん、私は全然……それより、何のお手伝いをすればいいの?」

「手伝い?」

「うん……だって何かできることがあるからこそ、私を誘ってくれたんじゃないの?」

「そうか……そうだったな」

「それで何をすればいい?」

「……」

 真理の瞳は、何かしらの期待感できらきらと輝いている。自分が役に立てると思うのがそんなに嬉しいのか。ひょっとしたら厄介事を押しつけられてしまうかも知れないのに……本当に純真なヤツだな。

「何もしてくれなくていい」

「それって……私が何にも出来ないって事?」

 形の良い細い眉を悲しそうにひそめる真理。誤解……するとは思ったが、曲解しすぎのような気もしないでもない。

「違う違う、断じて違う!その……」

「違うなら何なの?」

 そんな恥ずかしいことを言わなければならんのか。そこまで鈍感だとこの先が思いやられる。が、真理はじっと俺の瞳を見つめ、明確な答えを切望している。……やれやれ……

「側にいてくれるだけで俺の役に立ってる……とお前は考えられはしないのかな、と」

「……!!」

 瞬間的に顔中に紅葉を散らしたように真っ赤になった。紅葉の季節はまだまだ先だぜ。これだけ弄り甲斐のある真理だ、意地の悪い人間に捕まったらとことん遊び倒されそうだな。微笑ましくもありちょっとだけ心配でもある。

「私で……いいの?」

 真っ赤な顔を継続しつつも上目遣いで同意を求めてくる。殆ど『懇願』に近い……と見えたのは俺の一方的な見方だけだろうか……しかし答えはすぐに出た。

「ああ」

 返事を聞いた瞬間に、真理はほーっと胸をなで下ろしたからだ。裏表のない人間は見ていて心地が良いな。この世は自分を偽る人間ばかりだから余計にそう思えるのだろう。

 その愛らしい姿を目にした瞬間、思わず手が動いた。抱きしめたくなった。でも……『この土地』で逸る気にならないのもまた事実で……瞬間的に手を引っ込め、真理の頭を撫でるに留まった。初めは、急な行動に驚いた様な素振りを見せていたが……次第に目を細めて、猫だったら間違いなく喉をぐるぐる言わせてるような、幸せそうな顔で身を任せていた。ちょっとだけ子供扱いしすぎたかな……と思ったけど、そうでもなかったようだ。取り敢えずはスキンシップの範疇には収まるんだろうか。

 しかし……本当驚いたのは、我に返って周囲を見回した後だった。後ろに立って俺たちの姿を見つめていた、ある一人……いや、その人は子供の手を引いていたから二人か……に目が止まった。

「……」

「……」

 俺と『その人』は互いに見つめ合ったまま一歩も、いや……指の一本すら動かせない。真理は二人を交互に見つめたまま、滅多にお目にかかれない反応に目を丸くしていた。二人の理由で固まったまま動けなかった時間が、真理の瞳にどのように映ったのか……恐くて、考えたくもなかった。

 それからどの位経っただろうか……

「久しぶりね、聖くん」

 過去の呪縛から解き放たれたのはその人の方が先だった。穏やかな、大人っぽい微笑みは、しかし確かにあの時の面影を残している。大きく異なるのは……その手に引かれた、5歳くらいの男の子を連れているという境遇だけ。

 真理はただごとならぬ雰囲気に飲まれているようで、何も喋らない。

「……立ち話も何だから、ちょっとお茶でも飲みに行きましょうか」

 その人は、困ったように苦笑いしながらそう提案した。




 からん……

 と、グラスに氷の当たる音が、丁度BGMの途切れた店内に響く。

 喫茶店・ソーレ。

 イタリア語で太陽を意味するらしいが、屋号?に太陽と名付けるなんて、普段は雪に埋もれてしまう、常に春の日差しを求める雪国の人間らしいとは思う。……『おてんとさま』とでもした方が周囲の雰囲気には合ってると思うが。

 ここはちょっと栄えた街道沿いに位置する喫茶店。つい最近出来たのかと思ったが、話を聞けば20年以上前から営業してるらしい。気付かなかったのは、ひとえに俺がそういう店に意識を払う前にこの地を離れたからだろう。そう考えると、背伸びもせずに喫茶店でお茶をしているなんて、純朴田舎少年そのものだった当時の俺には想像も付くまい。テーブルを挟んで向かい側に座っている相手が女性なら尚更というものだ。

 ……そう、俺の向かいでホットコーヒーを飲んでいるのは、若い女性。

「それにしても立派になったねぇ、聖くん」

「まあね……六年も経てば大きくもなるさ」

「身体の事を言ってるんじゃないわ。見たわよ、甲子園。テレビで初戦から応援してたんだから。とにかく、三振を取りまくるピッチングが凄くて、胸がすーっとしたわ」

 その人は、それがさも自分のことのように自慢げに言った。ここにも応援してくれていた人が居たなんて……でも、目の前に居るこの人に対しての感情は、ファンに対しての感謝だけではとても説明が足りない。

「本当に凄かったね〜、もう毎日聖ちゃんフィーバーでさ」

「フィーバー……つまりいつかは終わりが来る一過性の流行って事だよな。しかしそんなに盛り上がってたんだ」

「自分で気がつかなかったの?」

「宿舎にいるときはテレビなんか見る暇なかったし」

「なるほど……テレビ見てる暇があったら寝てる、と」

「そういうこと」

 さも我が意を得たり、とばかりにうんうんと頷く。そう、この人は元々お茶目な性格だったんだ。……あの時以来見る影も無くなってしまったが、今は元に戻って結構なこと……待てよ、それが彼女の本心だと誰が証明できる?それは彼女の中にしか……ひょっとしたら彼女すら知らないかも知れないのだ。

「……」

「……」

 沈黙によって表面上の平穏が解かれれば、中から出てくるのは封じ込められた過去の、『近所のお姉さん』という記憶のみ。それ意外に俺たちの繋がりは……無い。世間的には。

「あのこと……まだ気にしてるの?」

「……忘れようとしても忘れられるモンじゃないだろ、あれは。もし忘れられる奴が居たら、そいつは記憶喪失になったかよっぽど良い性格してるかのどっちかだろうし」

「そうね、そうだったわね」

 寂しく笑った。

 

 喫茶店の中は、決して装飾過剰とは言えないが、調度品もBGMも落ち着いていて良い雰囲気だ。店内には何人か客が居たが、その中でも特に雰囲気にそぐわない、ハタから見れば『らぶらぶで〜と』しているようにさえ見えるかも知れない男女が二組。

 彼女が連れていた、彼女自身の面影を色濃く残す男の子は近くの実家に預けたらしい。真理も俺たちの間のただならぬ雰囲気に気が付き遠慮したのか、高田のおばちゃん家で料理の講習を受けている。

「それにしてもいつこっちへ?」

「今年の春から。もうそろそろいいだろう、って。早い話、叔父夫婦から厄介払いされた格好ね」

「そんな……」

「分かってるのよ、私は……」

「言わなくていい」

 言葉を遮った。

 これ以上、彼女の自虐話など聞きたくない。

 あの三ヶ月、世間的な接点なぞ超越していた間柄の相手として。

「聖くん」

 彼女は涙を湛えた瞳で俺を見つめている。いつか見た記憶のある……そう、衝撃的な事実が彼女の口から紡がれた、あの日のあの瞳で。

「だから言うなって」

 やや強めの制止に、何か反論したげに口を開きかけたが、結局は応じ、浮き上がらせかけた腰を再び降ろし、首を振った。



 ……その人に少年愛好趣味のケがあったのかは定かではないが、俺とその人の接点は非常に単純な物だった。町内会の先輩と後輩……みたいなもの。町内会だけにお互いの家と家との距離も離れているわけではなく、実際に小学校低学年の時は同じ登校班だったし、それからも同じ町内会イベントで顔を合わせることもしばしばだった。

 眼鏡をかけた知的な印象からは想像も出来ないくらい明るい性格で、年上集団に気後れしている俺を気遣ってか、話の輪の中に入り易いように取り計らってくれてもいた。そんな人柄だから、俺もどちらかというと好意的な印象を抱いていたことは今考えても疑いようがない。

 ……そんなありきたりな、『田舎のやんちゃ坊主と、優しいお姉さん』の関係が一瞬にして瓦解してしまったのは、俺が小学六年生、12歳の時。相手は二つ上だから14歳、中二か。

 見せたい物があるから、と彼女の家に誘われた俺は、誘われるがままにのこのこ付いていって……そこでいきなり裸になられ、誘われた。

 彼女が何に傷つき、何を考えていたのかは分からない。

 断る事は簡単だっただろうけど、出来なかった。じいちゃんに割と厳しめに躾けられた為か、12歳のクセに他人の立場をハンパに考えることが出来た俺は、ここで断ったら彼女を傷つけてしまうだろうと考えて(『女に恥をかかせる気?』って奴だ……どこからそんな知識を仕入れてきたんだか)いたこともあるし、何より……というよりこれが最大の理由だが、当時は女性に興味が出てくる年頃でもあったんだ。

 俺もじいちゃんを亡くしてばかりで寂しかったのと、厳しかった親代わりが居なくなったことで理性のタガが緩んでいた影響も考えられる。

 加えて、彼女の心が泣いていたことも分かった。彼女を受け容れる事が最高の慰めになると自らを正当化していたんだろうな。まさか受け容れることで更に傷つける事があるなんて、当時では考えも及ばない。自分が人を癒してあげられる悦び……なんていう、恥ずかしいどころか的外れすぎて頭を抱えたくなるくらいの自惚れももちろん存在していた。

 ……要するに、全ては狂った行為への正当化を頭の中で組み上げていたわけだ。


 俺たちは交わった。


 身体を重ね合った。


 世の中にこんな気持ちの良いことがあるなんて知らなかった。12、14歳の幼い身体と精神が抵抗する術なんてある訳ゃない。本当なら別のことを詰め込まなくちゃいけない最中のちっぽけな脳みそは、あっという間に快楽に染まった。

 ……その間はといえば、サルの方がよっぽど節度があったかも知れない。ことある事に身体を重ね合った。一日三回、放課後に判で押したように交わったし、時にはお互い学校を早退してまで行為に耽ったこともあった。彼女の両親も共働きに出ていて、帰りは大概遅かったから好都合とばかり、彼女の自室をホテル代わりに悪行三昧。生憎、『そういうこと』に貪欲な年頃であることも重なって、背伸びして入手した『そのテの本』を参考にしながら、手に入れたばかりの知識を大人になったつもりの浮かれ気分で試したり試されたり……

 狂っている事を狂っていると気がついたのは、最後の行為が終わってから、彼女の告白を腕の中で聞いてからだった。


 どんな告白かと言うとだな。

 要するに。


『するべき事をせずにする事をしていたから出来るものが出来てしまった』


 だ。

 最初から最後の百何十回に至るまで『するべき事』をしていなかったから当然の報いだろう。もちろん、俺だってその知識はあった。だけど、最中は露程にも考えなかった。彼女が要らないって言うもんだから、てっきり不要だ、そういうものなんだと信じ込んでいたんだ。……これじゃあ彼女に罪を被せているも同じか。つまりはここでも自分を正当化していたわけだ。


 そして悪事は露見……しなかった。彼女が口をつぐんでいたこともあるし、電話で俺に『絶対に何も喋るな』と釘を刺されていたから。

 ただし彼女が身籠もったという事実、そしてそれに付随する根も葉もない噂だけが爆発的な速度で広がるのに時間はさして必要なかった。とりわけ狭い狭い地域だけに、情報の普及率もハンパじゃなかった。近所の俺よりも年下のガキが『森村のお姉ちゃんってハラんじゃったんだって。でもハラむって何?』と口に出しているような。


 その人は、道を歩いていようが買い物に行こうが常に好奇の目に晒され、次第に家に引きこもらざるを得なくなってゆく。

 俺はといえば、彼女が宿した子の父親が誰なのか、白日の下に晒される瞬間を恐れるしかなかった。彼女との身の回りの事になど全く配慮が行かない。しかし待てど暮らせど俺に咎めが訪れる日は来なかった。

 黙して語らずを貫いていた彼女に対し、周囲はどうやら『乱暴された末に孕まされた、故に羞恥で泣き寝入りしているのだ』と勝手に解釈したようで、どちらかといえば同情論が強かったように思う。こういう非常事態にこそ普段の行いがモノを言うらしく、そのあたり彼女は普段の生活態度が非の打ち様は無い。

 何度も白状しようかと思った。が、彼女が俺の沈黙を望んでいるのだから……と結局は自分の都合を優先することにしてしまった。本当に償う気があるのなら名乗り出るべきだったんだ。

 ……同情論が起こっていたとはいえ、やがてその人は厄介払いも同然に実家を追い出され、遠く離れた叔父夫婦の元へ。

 後には何も残らなかった。ただ、交わっている最中の生々しい身体の温かさだけが今も手に、記憶に残っている。


 森村瑞穂、それが彼女の名だ。

 名前の通り、作物が青々と育つ季節に出会い、そして刈り入れの時期に別れた、俺の最初のひと


「聖くん」

「ん?」

「すごく、大人になったみたいね」

「そりゃ、六年も経てば」

「茶化さないの。外見だけじゃなくて、もちろん中身のことよ」

 ふわ、とくすぐったそうに笑う瑞穂さん。昔のことに触れられるほど年齢を重ねたという当たり前のことが彼女の心をくすぐったらしかった。

 瑞穂さんの笑顔は、幼いという意味でハタチにはとても見えない。色々と苦労を経験してるんだから、年齢より老けていても全然おかしくないのだけど。

「……」

「……」

 言いたいことが沢山あるはずなのに、上手に言葉に出来ない。自分が口下手で損をしたことなんて幾らでもあるが、今ほど口が動かないのがもどかしいと思うこともなかった。

「聖くん」

「ん?」

「あの子は?恋人?」

「……取り敢えず妹、義理の」

「そうなんだ。噂には聞いてたけど、やっぱりあの子がそうなんだ……でも取り敢えずって??」

 どんな噂だよと思ったけど、何しろ狭い町だ。特に俺はマスゴミの取り上げられ方もハンパじゃないらしいし……あんまりテレビを見ない人間だから自覚に乏しい。

「取り敢えずは……取り敢えずだよ」

「煮え切らないわねぇ。つまりこれから『妻』にでも変わりうるって解釈で良いのかしら?」

「好きにしてくれ」

 ちゅーっとストローでアイスコーヒーを一気に吸い込む。氷で大分薄まってはいたが、紙パックの出来合いをそのままグラスに注いだのではなく、きちんとこの店で淹れたものらしく味がしっかりしていた。その証拠に、薄まったとは言えどガムシロップを入れないと苦いくらいに濃い。

「……」

「……」

 再びの沈黙。重苦しい。こんな筈じゃなかったのに……いや、そもそも俺はどうやって贖罪をするつもりだったんだろう。彼女に付けた傷がどんなことをしても癒える筈がないのは明白だというのに。

「聖くん」

「ん……?」

 床に落としていた視線を上げると、穏やかな、聖母のような顔つきの瑞穂さんが居た。

「今、楽しい?」

「……うん」

 私は苦労したのに、自分一人だけ楽しんでるなんて何様のつもり?……などという恨み節を口にするような瑞穂さんじゃないとは分かっていても、そう考えられてもおかしくないという気持ちも強い。

 しかし。

 楽しい。真理と一緒に居る今この時が一番楽しい。それは覆しようのない事実だ。楽しいし嬉しい。真理の事を考え、言葉を交わし、接する。人と、自分の惚れた女と心を交わしている瞬間がこんなにも心地良いとは思わなかった。今までの……例えば瑞穂さんと交わっている間とか、河村に片思いしている時などは、今の心地よさから比べると、明らかに緊張していた節がある。

 真理とは、それがない。実際に会ってからは間もないけど、一つ屋根の下で暮らすという密接な関係が、本来別物の筈の接ぎ木同士が融合するように、ごく自然に馴染んでいたのだった。

「だったらいいのよ、気にしなくても」

「でも!」

「でも気にしなくて良い、なんて言われて、本当に全てを忘れてしまうようなドライな子じゃないものね、聖くんは」

「……」

 お互い、似たようなことを考えていたらしい。六年間離れる前に、ほんの三ヶ月だけ密接な時間を過ごしていただけだというのに、ある種の信頼関係のようなものが芽生えているのには心底驚いた。それとも、時間そのものの数字は関係ないのか。

「じゃあ……私がどうしてあんなことをしたのか、それだけでも聞いてくれれば聖くんの自責も少しは軽くなるかもね、聞いてくれる?」

「……うん」

 瑞穂さんの罪滅ぼしでもあるだろうそのあらましとは……

 両親の不仲。

 仲裁に入ることすら出来ない自分の不甲斐なさに憤り、家庭は荒んで自暴自棄に。結果的に無茶苦茶な行動のお陰で両親の状況は改善されたらしい、ケンカなんかしてる場合じゃないと。家庭が荒めば子供も荒む、その事を恥じ入って、両親は腹を割って話し合って……和解。

 俺と瑞穂さんの一件に光明を見出すとするならこれしかないだろう。俺は格好だけはエサにされた形だが、瑞穂さんに言わせれば、狙ったのではなくあくまでイレギュラーな効果だったようだ。狙ったにしてはリスキーなだけに説得力はある。形はどうあれ、それならそれでいい。皆が不幸になっただけではなく、こうして一つの家庭に平穏が戻ってきたのだから。

「家に久しぶりに帰ってきたとき、両親が笑顔で歓迎してくれたのよ、息子も一緒に」

 息子……。そういえば、小さな男の子を連れてたっけ。

 ……。

「瑞穂さん、あの男の子って……何歳?」

 敢えて『あの子は瑞穂さんの息子?』とは聞かない。いや、恐くて聞けなかった。

「今年で五歳よ。年の割には大人しくて心配しちゃうくらい」

 年齢的にも符合する。つまり。

「瑞穂さん、ひょっとし……て……」

 それ以上続ける前に、瑞穂さんは人差し指を一本、自分の唇の前に立てて『静かに』のジェスチュア。

「これ以上は私の為にも貴男のためにもならないわ。あの子は私の息子、それ以外の事実がお互いに必要?」

「……」

 暗に認めたということでもある。

「確かに過去は大切だけど、この過去は必要ないわ。聖くんが思い悩むのも分かるけど、私……聖くんの足かせになりたくないの。自分自身は振り切ったつもりよ?だからこそこうして山形に戻ってきた。多分あの時の騒動を覚えていて、騒ぎ立てる人も居ると思うわ。でも、必ず時が解決してくれると思ってる。だから聖くんも……ね?」

 基本的に被害者は瑞穂さんの筈だ。

 その瑞穂さんが過去を振り切ることが出来たのなら、俺は?言葉に甘えてもいい?そんな訳が……

「……あの子の名前、教えてあげる」

「は?」

 尋ねても居ないのに妙だな、と思いつつ頷いた。興味が無いわけでもない。

「みずき。いい名前でしょ?ちょっと女の子っぽいかなと思ったけど」

「どんな字を?」

「瑞兆の瑞に記念樹の樹、よ。良い名前でしょ?」

「……」

 わざわざ俺に名前を教えたってことは……俺の解釈は、『せい、或いは聖を連想する文字は使っていないわよ』……という事なんだろうと纏まった。つまり、俺に対しての全ての感情は抱いていない……と。それはそれでほんのちょっとだけ寂しくもあるけど、この状況ではただただ頭を下げるしかない。

「あれは一時の夢、私の見ていた夢だったの、一方的な、ね」

「形が残る夢なんて聞いたことない」

「そんな夢があっても良いじゃない」

 どっちの『夢』なんだ。『Dream』か、それとも『Nightmare』か。

「とにかく……聖くんは気にしなくて良いの。私は聖くんの脚を引っ張りたくないだけ」

 瑞穂さんは、これ以上の話は不毛とでもいわんばかりに席を立ち、テーブルの井隅っこに置かれた伝票を手に取ろうとした。俺はまさにその手を掴み、席に引き戻す。

「……強引なのね」

「今だけさ」

 そうだ、俺はここで立ち止まってはいけない。俺には先があるんだ。どうせこの議論は、どちらかがどちらかの意見に従ったってどちらかのカドが立つに決まってる。それだったら……お互いの為になる選択をしよう。つまり、お互いに過去のことは忘れる、と。

 果たして、自分がそんなにドライになれるのかどうかは自信がないが……瑞穂さんがそう望むのなら、と、結局『あの時』と同じく自分の都合の良い方に解釈した方が利口そうだった。

「分かったよ」

「そう……」

 短く、それだけ言った瑞穂さんは、いかにも人の良い微笑みを浮かべた。……見ようによっては寂しそうともとれる。もともと明るい人だったはずなのに、何処の誰が太陽のような笑顔を奪ったのだろう。……基本的には俺が主犯なのか。

 それから、二人ともしばらく無言で居た。数分か、数十分か……お互い、席を立つタイミングを外したみたいだ。元はといえば、懐かしい人にあったのだから去りがたいのも当然だけど、こうしているとまた余計な事を考えてしまいがちだ。意を決し、今度は俺が伝票を取って立ち上がる。

「聖くん」

「……ん?」

 瑞穂さんは、視線を合わせずに俺を呼んだ。

「ありがと」

「俺の方こそ」

 そのまま金を払い、外に出た。

 ……心中は複雑だが、これでいい。これでいいんだ。

 とりあえず、六年前から俺の良心を苛み続け、そして悩み続けた事件は一件落着をみた。今はどうしてもスッキリしないが、全ては瑞穂さんの為。俺が気に病んでいては、きっと瑞穂さんも心苦しいのだろう。

 空を見上げる。未だに日中の日差しは衰えていない。手をかざして遠くの山を見ると、青々と茂った木々があの頃と変わらぬ景色を成している。……変わらないのは自然の摂理だけ。俺は変わらなくちゃいけないんだ。

 ……もし、後々までも瑞穂さんとその息子のことが気になるなら……自分が稼げるようになったときに、どんな形でも良いから援助しよう。あからさまにお金を渡すなどではきっと受け取らないだろうから、なんとか上手い形を見つけなきゃな。


 俺は、煉瓦造りの小洒落た『ソーレ』を背におばちゃんの家へと戻る。

 ……『ソーレ』の窓にかすかに透けて見える人影を振り返って確認しながら。

 心なしか、その人影の視線も俺をじっと見つめているような気がした。




 ……その後。

 おばちゃんに漬け物を教わっていた真理は、戻ってきた俺の姿を見るなり、顔を瞬間的にくしゃくしゃに崩しながら駆け寄って来るなり俺の胸に顔を埋めた。俺と瑞穂さんの姿を見て、そしてその僅かな反応から推し量って、真理なりに色々と深く考えちまったらしい。俺の背中でTシャツを掴む力の強さが、真理の不安の強さを物語っているような気がした。

 やっぱり、真理についてきてもらって良かった。

 真理が居てくれるだけで勇気をもらえる。

 こんな扱い、真理はどう思ってるんだろう。

「何泣いてるんだよ、お前は」

「だって……だって……」

 仕方がない奴だなぁ、と頭をなでなでしてやる。おばちゃんは年の功か、大して動じることもなく、目を細めている。まるで『若いって良いわね〜』とでも言ってるかのようだ。年上に掛っちゃ俺たちも形無しだな。

何もない(・・・・)から。何がそんなに心配だったんだ?」

 無言でふるふると首を振るだけ。多分、真理自身もこの不安の実態を理解しているわけではないのだろう。ただ、何となく『女の勘』で察してしまったんだ。

「大丈夫、大丈夫……」

 よしよし、とまるで赤ん坊をあやすように頭を撫で続けると、徐々に嗚咽が小さくなっていった。

「ほら、おばちゃんが待って……ないか」

 俺たちに気を遣ってくれたのか、おばちゃんは台所から今の方に引っ込んでいってしまっていた。

「それに」

「……?」

 充血した瞳で俺を見上げる。くそ、可愛いな。

「ヌカミソ塗れの手で触られるのはちょいと困るんですけど」

 言ってから自分の手の状態に気付いたらしく、慌てて胸から離れ、水で洗い流し始めた。そんな事をしても、俺の背中の方はすでに良い具合にヌカミソまみれになってるんだろうけど。


 それから……

 俺の方の都合が片付いたのを悟った真理は、明るさを取り戻して、夏の妖精のように振る舞った。去年、上野に行ったときと同じ白いワンピースが舞う様は、まるで妖精が透明な羽を羽ばたかせているかの如く美しい。


 そんな真理を楽しみながら、結局レジャーの一つもこなせずに帰路につく。真理には明日の昼間っからバイトが入ってるんだ。自分の都合一つでドタキャンするほど身勝手な人間じゃない。

 おばちゃんに、あの時口に出せなかった最大限の感謝を伝えようとしたけど、そんなものより定期的に顔を出す方が何倍もマシだ。今年の冬はまたお世話になりに来よう、今度はスキーでも真理に教えてやろうか、と色々楽しみは膨らむ。


 バックミラー越しに、いつまでも手を振り続けるおばちゃんの姿が遠ざかってゆく。それは俺の故郷を離れるという意味も同時に併せ持つ。

 また気分を切り替え、前に進んでいこう。だって、それしかないじゃないか……。


 助手席に座る真理はいったい何を考えているのか……俺には知る由もないが、何故か落ち着いた表情だった。




     

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