第16-07話
「結構空いてるね」
真っ直ぐに伸びる道をひたすら駆け抜けている途中、真理は話題を選んだであろう末にそう言った。ごく当たり障りがない。
「盆も終わってるからなぁ……でも何十年か前、盆の真っ最中には三ケタキロメートルの渋滞を記録した事もあるらしいぞ」
「さ……」
絶句した。確かに正気の沙汰じゃない。実際には、渋滞に巻き込まれたって100キロメートル中100キロメートルがノロノロ運転って訳じゃないだろうけど、そのとてつもない数字を見ただけで盆の帰省を後悔させられることウケアイだ。
感覚的にはゆっくりと、法定速度(プラス常識的な上積み)でひた走るレンタカーのトヨタ・ヴィッツ。いくら一泊予定の小旅行とはいえ、フェラーリでは流石に荷物が積めないから、小型車を借りてしまうことにした。家に残ってるムルティプラは姉さんの脚だしな。
……しかし、姉さんは良くあっさりとこの旅行を許してくれたものだ。打ち明ける前に散々伺いのシミュレーションをしたんだが、どんな言い分でも詭弁にしかならないから当初の予定通り正直に打ち明けると、
「そう、東北も良いわね。楽しんでらっしゃいな」
との返事に、緊張してこわばっていた身体から魂までも抜け出す勢いで脱力したものだ。姉さんがどのように旅行の意味を理解したのかは分からない。将来的に『そういう関係となる』事を承知の上なのか、それともただ純粋に『兄と妹』という、邪なものを全く含まない旅行と思ったのか。
……多分、きっと、俺の勝手な理由だけど……真理を俺に託すことを許してくれたのだと思う。だって、旅行の具申をしたとき、俺と真理の顔はあり得ない程、しかし自分たちでも分かるくらいに緊張していたし、姉さん程の人間がそれを見抜けないはずがないのだから。それだけに、姉さんの期待を裏切るような振る舞いだけは決してしてはならない。……プレッシャーだなぁ。
ヴィッツは快適に道路の段差をいなしながらひた走る。流石は日本車、エアコンの効きがばっちりだ。ちょっと古いイタ車に乗っていなければ、世の中全ての自動車のエアコンが効くとついつい錯覚してしまいそうになる。ま、イタ車でも整備次第なんだろうが。
「ふあ……」
ちらりと助手席の真理を見ると、小さな口を可愛らしく押さえてあくびをしていた。その仕草さえもが可愛く見えるから参っちまうよな。美少女はどんな表情をしてもどんなものを着せても物語が成立ちまうようだ。ちょっとずるい。
「眠いのか?流石に四時起きは辛かったかな」
山形まで車で何時間掛るか、計算上では弾き出せても実際の所はどんなハプニングがあるか分からない。余裕を持って出ようとしたら朝の四時ということになった。それにも明確な根拠はないのだが、出来る限り朝の内に距離を稼いでおきたいと思ったんだ。もし渋滞が起こるとしても首都圏側の方が詰まっているという希望的観測もあったし。しかし今のところ、大きく巡航速度を減ずる出来事は無かった。
所要時間が計算されていた方が良いというなら新幹線の方がよっぽどマシだし早いだろうが、車の方が小回りが利きやすいとは思う。……車の旋回半径の話じゃなくてだな。電車なら、どこかに移動しようと思ったらその都度交通手段を見つけなきゃいかん、という意味だ。
「どっかのサービスエリアで止まるか」
未だに目をごしごし眠そうにこすっている真理を横目に、ドライブを開始してから数時間、俺もそろそろ催してきた。
「ううん、まだ平気。お昼ご飯にもまだ早すぎるし」
「というか俺が我慢出来ねぇ」
一瞬きょとんとした真理だが、すぐにその意味を理解したようで、ぷっと吹き出した。
「実は私も。ついでに、何かおやつでも買ってこようか」
「そうだな、なんかSA名物でもあればいいが」
最初は自動車の長旅なんてかったるいかも、と思っていたが、どうしてなかなか楽しい。考えてみれば、パーキング・サービスエリアに降りて楽しむのもまた自動車旅の醍醐味なのだ。昔はPA/SAの食べ物は不味いというのが定説だったけど、最近は流石に運営してる方も思うところがあったのが、大分改善されているようだ。東名海老名のサービスエリアなんてそれだけで名所になりそうなくらい規模がドでかい。運営側の目が冷めるのがいささか遅すぎるような気もするが、いくら利用者が文句を言っても事実上選択肢が無く、独占状態になって経営努力をする必要がなかったのも仕方が……なくはないな。
しかし……日本の高速道路はお節介にも居眠り防止の小カーブがこさえられているとはいえ、この東北道の眺めはいいものだ。道の左右に広がる鮮やかな稲穂の緑は目に優しいし、だんだんと故郷に近づいているという実感も否応なく湧いてくる。
……否応なく。
……つまり、楽しい思い出も、
そして苦しい思い出も否応なく心の中に這い出してくる、という事でもある。
俺は、自分の過去に耐えられるのかどうか。分からない。人の心が変化を来すには、六年という月日を短いとは言えないだろう。果たして俺は……
再び真理を見ると、向こうも俺を見つめていた。当然視線がぶつかり合う結果になって……目を逸らした。そしてバツが悪そうに苦笑いすると、間を持たす様にステレオをいじくり始める。……今まで目が合った事くらい、何度でも発生した。だけど今は、ちょっとだけ意味合いが違うような気がする。いや、目を合わすという行為自体は変えようもないが、瞳に隠された真意を探るというか……多分俺の考えすぎなんだろうけどな。そもそも俺はどうしてこんなに他人の視線に敏感になっちまったんだ。
−−−−次のニュースです。夏の甲子園で優勝を飾った横浜学院が、昨日地元商店街での優勝報告会を開き、多数の応援者が詰めかけて大盛況でした−−−−
ラジオから流れてきたのは、五塚の敗北、そして二週間の斗いの末に行き着いた『敗戦』という二文字を、これ見よがしに突きつけられる内容だった。
「なんか……面白いの放送してないね」
俺に却って気を遣わせてしまった形になっちまったな。
「いいから、眠いんなら眠っておけよ。まだ次のパーキングかサービスまで結構あるかも知れないんだから」
「うん……そうする」
真理は再び小さなあくびをしてから目を閉じた。長い睫に縁取られた大きな瞳が閉じられる。車を運転してなければかぶりつきで凝視するのにな。
その顔から名残惜しくも目を離し、エアコンを弱めにして運転に集中することにした。
現在は東北道が内部にまで発達しているからアクセスは楽になったものの、親父の時代は東北道を降りた後、さらに一時間は市内の下道をトコトコ走らなければいけなかったらしい。今はそれだけでも有り難いのだが、そのトコトコ亀のように下道を走る途中に位置する、とあるドライブインの話には興味を引かれた。未だ写真ですらその姿を見たことのない俺の母親を伴った親父が里帰りするとき、まだ開店時間でもないのに叩き起こして食事を作ってもらったというエピソードを聞いたことがあるからだ。親父が俺とそう変わらない年の時には、既に都会に出て一旗揚げていた。その若かりし親父が何を見て何を感じていたのか。 しかし、今は早く目的地に着くことが先決だ。殆ど道が判らない以上、一刻も早く到着したかった。知らない道をひた走るこの不安感といったらないぜ。出口の見えない迷路に取り残されているようで居心地が悪い。
だがその心配ももう無用のようだ。知った風景が見えてきた。
この地を離れてから六年が経ったといえど、主要な道路には見覚えがあるものだ。ただし大きく異なっているのは、その見覚えのある県道の脇にコンビニやらファストフード店やらが軒を連ねている点。コンビニが出来るっていうだけで話題になったあの頃とは隔世の感ありありだ。何十年も前の話じゃないぞ、ほんの六年前の話だ。
信号待ちのついでに真理を見ると、見慣れぬ土地に目をきらきらさせている。ようやく旅らしくなってきたな。家を出てから数時間、ずーっと高速道路を走っていたから『車旅』という気分にはなっても『旅』気分にはほど遠かった。
車窓から見える景色は見渡す限り緑の田んぼと、雪国特有の大容量灯油タンクを備えた田舎風の民家。植えられている米の銘柄を知る由もないが、今年はきっちりと雨が降ってきっちりと日差しが照りつけたから収穫量は多いだろう。それを示すかのように青々と茂った稲穂は、それを育てている農家の人ならずとも、日本人として思わずほっとさせられる。
「真理、さっきからずっと外を見てるが……何か見えるのか?」
「うーんと……山と、田んぼ……かな」
「ま、それくらいしかないだろ」
街道沿いに店が並んでいるとはいえ、一歩裏に回れば田んぼだらけ。でもこれが田舎ってもんだろう。
時計を見ると、昼飯に丁度いい頃合いになっていた。
「真理、腹は減ったか?」
「うん、かなり」
パーキングで買った菓子を車中でつまんだだけだし、家を出る寸前に、運転するのだから何か腹に入れておいた方が良いだろうと思い立ったはいいが、起き抜けで食欲が湧く前だったからパン一枚を無理矢理詰め込むのがやっと。かなり空腹が進んでいた。
「じゃあ軽く蕎麦でも喰っていくか?」
「あ、食べたいな」
近くに『そば街道』なる、蕎麦屋が軒を連ねる地域があって、その中に俺の当時のお気に入りの店があった。じいちゃんの運転する軽トラに乗せられ、よく通ったものだ。是非ともそこに案内してやりたかった。なにも急ぐことはない。その為に早めに家を出たようなものなのだから、ゆっくりと山形名物を楽しもうじゃないか。……これからに備えて、今は少しでも力を蓄えておくことにしよう。
その店の蕎麦は、木製で細長い、板のようなの入れ物で供されるのが特徴の一つなのだが、普通盛りを注文しても割と量があることをすっかり失念していた。おまけに硬めに茹でてあることもあって、案の定真理には食べ応えがありすぎたらしく、とても『軽く』とは言えない昼食になってしまったようだ。何しろ小食なのに『供されたものは米の一粒残さずいただく』が信条の真理が残すのだから。残りを手伝ってやってようやく二人前を平らげた。
蕎麦屋を出てから、のどかな田園風景をやはり真っ直ぐに突っ切る道路を走ることどのくらいだろうか、ようやく記憶と現実が完全に噛み合うところまでやってきた。
……ここまで来ればもうすぐだ。もうすぐ、俺の故郷。
『その場所』を前方に認めたときは息が詰まりそうだった。望郷、嫌悪、畏れ……全てがない交ぜになったものが容赦なく俺の頭をかき乱す。
「着いた」
「え?どこどこ?」
てっきり宿舎に着いたとでも思ったのか、真理は辺りをきょろきょろ見回している。しかしまわりは民家だらけなので首を捻っていた。
「ここだよ、ここ」
車を空き地に乗り入れ、外に出る。真理も後に続くが……やはりこの場所の意味が分からないようだ。さもありなん、見た目上はペンペン草がボーボーに茂った単なる空き地に過ぎないのだから。
俺は準備していた軍手を嵌め、雑草を辺り構わず引きちぎり始める。そんな事をしたところで、夏なんだし直ぐに雑草まみれになることは間違いないんだが……まあ心がけとして、だな。
ぽか〜んとして俺の異質すぎる行動を見ていた真理だが、やがて腰を降ろして同様に草をむしり始めた。
「お前は手袋してないんだからやんなくていよ」
「でも……」
「いーから。お前の手は野良作業の汚れとは無縁でいて欲しいんだよ」
俺が汗を掻きながら作業をしているのに、自分が手伝わないという選択肢は最初から真理には存在しないのだ。だが、これはあくまで俺が自発的にやったこと。真理の手は綺麗ですべすべなままで居て欲しい。
盛夏には盆地ならではの猛暑を極める山形だが、『暑さ寒さも彼岸まで』という諺が表すように、もう太陽の勢いは衰えている。ましてや、ついさっきまで灼熱の甲子園で負荷の掛る運動をしていた俺だ。大したことはない。
「お兄ちゃん、汗だくだけど……大丈夫?」
15分ほどして、真理が見かねて声を掛けてきた。想像したように、俺のあがきは全く成果を見せていない。草刈り機でも持ってこなくちゃ根絶はとても無理だ。
「やっぱり……心がけは心がけだけにしておこうか、はぁ」
ハンカチ取りだそうとすると、いつの間に取り出したのか真理が柔軟剤の利いた白いタオルで額を拭ってくれた。本来なら照れくさくてたまらないはずの行為なのに、今は何故か素直に拭いてもらいたくなる。
ひとしきり吹き終わった後で
「ここはな、俺とじいちゃんが住んでいた家の跡なんだ」
「え……」
小学校を卒業するまで住んでいた、小さな家。じいちゃんが持っていた農地は、じいちゃんが亡くなってから他人の手に渡ったらしい。今ではこの土地だけが残っている。俺が山形を離れた後、家は残っていたんだが不審火で焼け落ちた。周囲に被害を及ぼさなかったのは不幸中の幸いだし、俺の電話で事のあらましを知った親父も『解体作業がはかどるじゃねぇか』などと不謹慎な憎まれ口を叩いていたが……俺は知っている。密かに電話の向こうで泣いていたことを。何しろ、俺の育ち故郷であると同時に親父の生まれた家でもあるのだ。自分の出生の全てが詰まっていた家が一晩で灰燼に帰すそのショック、さしもの親父にも堪えたようだ。
親父は残った土地を売り渡しもせずにそのまま放置して……今に至るというわけだ。いずれはここに戻ってくる腹づもりなのか、それともここで自分が育ったという事実をこの世から消し去りたくないという意味なのか……俺には知る由もない。
田舎らしく敷地だけは広いから、その分茂っている雑草の量もハンパじゃない。ブッシュと言われても納得しそうなくらいだ。うっそうと茂った雑草の前には俺やじいちゃんや親父が住んでいた家があった、この草むらの前では夢物語としか思えない事実を記憶の中で見つめていると……何だか切ない気分になる。そこから考えると、この土地を残しておく意味は、多分さっきの後者の方の理由だろう。
「聖ちゃん……かい?」
背後で声がした。聞き慣れた、とても穏やかな年配の女性の声。振り向くと、そこには……
「なかなか姿を見せないから外に出てみれば……何してるんだい?」
小柄な、いかにも温厚そうなおばちゃんが目を丸くして立っていた。
「ちょっとね、草むしりをしてたんだけど手に余っちゃって諦めて、休憩してたところ」
「ああそうなのかい。あたしもたまにやってるんだけどね……夏の間はすぐに生えて来ちゃっていたちごっこだから手を付けてないんだ」
「そうだったんだ……ありがとう、おばちゃん」
「いいんだよ聖ちゃん……それにしても久しぶりだねぇ」
「ご無沙汰してました。去年の秋に電話してからでも一年近くにはなるんだなぁ……」
この気の良いおばちゃんは、隣に住んでる高田のチヅさん。ここに住んでいるとき、俺とじいちゃん、男の二人暮らしではなかなか手の行き届かなかった部分をかなり手伝ってもらったことがある。旦那さんを早めに亡くしていて、一人っ子だった息子さんも既に東京に出ていたから、俺を息子か孫のように思ってくれていたらしい。
しかし……おばちゃんもしばらく見ない間に老けたな。六年も時が経てば大変わりこそしないけど、白髪の占める割合が多くなった。
「ところで……その子が電話で言った?」
「うん……ほら真理、この人が高田チヅさんだ」
やや人見知りのきらいがある真理の背中を押して挨拶を促す。
「あ、あの、初めまして、加藤真理と申します」
畏まって、深々と頭を下げる。美少女にここまでやられて、慇懃無礼だと思う人間は居まい。
「良い名前だねぇ。とっても可愛らしくて、あたしの孫に欲しいくらいだよ」
あはは、と冗談だかなんだか分からない感想を言いながら笑う。この点だけは昔からいささかの変わりもない。男二人で無口だった俺らをよく和ませてくれたものだ。
「ささ、早くお上がりよ。それに汗かいたんだろう?先にお風呂にするかい?」
「いや、水浴びだけでいいよ」
「とにかく早く。真理ちゃんも」
「は、はい」
俺と真理を急かして家に連れ込むおばちゃんは、やっぱり楽しそうに見えた。こんなところにも俺を待ってくれている人が居たんだな……と思うと、やっぱりすごく嬉しい。自分がここにいて良いって言われてるも同じだからな。
おばちゃんに「山形に行くから寄って良いか」と電話を入れたのはつい昨日。去年の秋に漬け物類を送ってくれた時以来の連絡だったが、それでも快く滞在を許してくれたのには感謝の一言しかない。ロクに連絡も寄越さない不出来な孫代わりだと思われてるかも知れないけど、それでも可愛く思われてるのもまた心地良いものだ。
「はい、真理ちゃん」
「あ、ありがとうございます」
恐縮しながら、お茶菓子を出されるままに口に運ぶ。何時間にも及ぶロングドライブは初めての経験だったが、運転というのは意外に疲れるものだな。甘いものが美味しい。ちなみに今お茶請けとして供されているのは『ずんだ餅』だ。
かっち、こっち、と古めかしい柱時計の秒針が動く音が、静かで広い部屋の中に響き渡るようだ。それが部屋の中ががらんとしている事実をことさら強調しているようで、落ち着くけど疎ましくもある。天井も高いから、家の中の空間そのものがとても広く感じるんだ。つくづく、俺とじいちゃんの世話を焼いてくれているのも、おばちゃんにとって退屈の紛らわしだったのかな、と今更ながら考えてみる。
真理をちらりと見ると、落ち着かない様子で足下を見つめながらお茶を飲んでいた。人見知りの真理らしく、気の良いことは一発で分かるおばちゃんの顔さえまともに見ようとしない。しかしおばちゃん本人は全く気にしていないようで、常ににこにこしながら俺等兄妹を見守っていた。
「そういえば、片倉さんちの仁君、覚えてるかい?」
覚えてる、と返答する暇ももらえずに話を続ける。ちなみに、仁とは昔の遊び仲間だ。俺と一緒にバカをやっていたんだが、そうか、そんなにデキるヤツになっちまったか。昔は常に鼻水垂らしてて、一体いつの時代の子供だよと当時でも思ってた。
「あの子、県央の企業に就職したらしいよ、ここらへんじゃ一番の出世だって」
推察するまでもなく、おばちゃんは話し相手に餓えているらしい。一端話し出したら抑えが効かなくなる恐れがあった。
「でも聖ちゃんには敵わないよねぇ。何てったってプロ大注目の投手だって言うんだから。あたしゃ嬉しくて仕方がないよ」
やっぱり知ってたか。当たり前といえば当たり前だが、退屈なおばちゃんの日常に少しでも潤いを与えていたんだったら、厳しい斗いをくぐり抜けた甲斐はあったのかな。
……それからおばちゃんは、しばらく近況や昔の仲間のことをぺらぺらと喋り、俺はそれを聞き流すでもなく聞いていたが……
「そういえば、帰ってきたんだってね、瑞穂ちゃん」
その名前を聞いた瞬間、思わず湯飲みが手から滑り落ちた。
「うわっ熱ち!」
「あ〜っ、お兄ちゃん大丈夫!?早く拭いて、ジーンズ脱いで!」
「大丈夫かい聖ちゃん?」
幸いなことに、俺が何故粗相をしでかしたかは気付かれていないようだ。過剰に熱い思いをした分、カムフラージュ効果はあったようだ。
表面上は冷静を装って洗面所でジーンズを脱ぎながら、内心は冷や冷やものだった。だれもあの時のことを知らないとはいえど、やっぱり……恐い。
……しかしおばちゃんは気になることを言ったな。
帰ってきている。
瑞穂さんが。
……いや、それならそれでいい。探す手間が省けたというものだ。
直面すべき俺の過去、俺の他に真実を知る、たった一人の証人にして関係者。
俺の、克服しなければならない、過去がすぐそこまで歩いてきたのだった。




