第15-08話
「真理」
「なあに?お兄ちゃん」
携帯からは、いつもと同じく明るい真理の声。でも、今日ばかりは……その明るさが胸に染みる。
準決勝当日の朝。宿舎の中庭、球場に出発する直前のひととき。こうして真理の声から元気を貰っている。
「……」
「お兄ちゃん?」
「……」
「どうしたの?もしもし?……おかしいなぁ、電波が悪いのかな……」
ごそごそと携帯を弄る音がする。ふーふーとスピーカーに向かって息を吹きかける音も混じっていた。仮に電波が悪くたって、ゴミを取り除いたくらいじゃどうしようもないと思うぞ?その天然ボケぶりに思わず吹き出してしまった
「な~んだ、ちゃんと繋がってるじゃない。……お兄ちゃん、何かあった?」
察しが良いな……いや、自分でも分かるくらいに落ち込んでる声出してりゃ誰だって気付くか。『構ってくれ』って言ってるようなモンだろうからな。
「いや……ちょっと、な」
カベと離れなければいけなくなるから落ち込んでる……恥ずかしくてとても口に出来ない。自分が情けない男だというのは痛いほどに理解しているつもりだから、今更何を恐れる必要があるのかという話なんだけど。
「お兄ちゃん」
「……」
「あのね、その……」
「……」
会話が繋がらなくなった。昨日の試合で目の前の事を一つ一つこなす、と誓ったはずなのに……その一試合が終わってしまうと途端にこれだ、情けない。
「次が準決勝だよね?」
「ああ」
「絶対勝ってよね」
「え……?」
真理の方から具体的に要望が出されたのは初めてだ。今まで、勝った負けたに関わらず常に優しく包んでくれていた真理だけに、強烈な発破を掛けられた様な気になる。
「今はまだ言えないんだけど……準備はしてるから」
「何の?」
「だからまだ言えないの」
準備、か。多分、決勝まで行けば『準優勝』という事に必然的になるから、パーティーの準備でも進めてるんだろう。それが祝賀パーティーになるか残念会になるかは、更に次の試合の結果に掛っているわけだが。
「良く分からんが、負けるつもりで試合なんかやらん、心配するな」
「うん、分かってるけど」
分かっているけど言わなければ気が済まない真理の理由とは何なんだろう。そんなにパーティー好きだったっけ、コイツ?
「まあいいさ。一試合一試合全力でやるだけだ」
「それも分かってる。いつもテレビで見てるから」
真理がリアルタイムで俺の姿を見て応援してくれている。何と有り難い事か。この空の下、俺の健闘を願ってくれる人が居てくれる。
ダメだな、迷いは断ち切らなきゃ。そこまで想ってくれている真理に申し訳が立たない。
「真理」
「なぁに?」
「……」
でも、言いたい言葉が出てこない。きっと、自分の頭の奥底で、『それはまだ言ってはいけない台詞』と認識してるんだろう。そう、今はまだ時期が早い。その時じゃない。そもそも、俺は本当に『そうなのか』自覚していない。……要するに恋愛感情』と呼べる物なのかが肝心なんだ。そんな大事な考えを今纏められるわけ無いじゃないか。
「応援しててくれよな」
「うんっ」
縦に大きく首を振る真理の姿が見えるようだ。あいつ、電話口ではどんな表情をしてるんだろう。嬉しそうな顔をしてくれてるのかな。それとも……?
うう、恐い考えになってしまった。ぶんぶんと頭を振って振り払う。
「そろそろ行かなくちゃ……じゃあ、そっちは大変だろうけど姉さんにもよろしく」
「うん……あ、お兄ちゃん」
「ん?」
通話ボタンを押そうとして踏みとどまる。何か大事なことでも言うのかと思っていたら、
「頑張ってね」
只、それだけ。やっぱり大事なことだよな。
「ああ」
言われなくとも頑張るさ……去年の県大会決勝戦の朝にも同じ台詞を掛けられた時は素直に聞けなかったが、今は……心地よい。人の声がこんなにも心を癒してくれるものだとは思わなかった。
名残惜しいながらも通話をボタンを押す。……そして、溜息を一つついた。
どうして真理と話していると心安らぐと同時に緊張するのだろうか。多分、自分の邪な部分を見透かされている気になるからでもあるだろう。そして……完璧な慈愛の人間である真理を羨み、更には少しだけ嫉妬する自分を疎ましく思う事もその一因、か。
とにかく……今はやるべき事をやるだけだ。何回確認すれば気が済むのか自分でも分からないが……今はそれしかなかった。
荷造りを終え、バットケースを担ぐカベは……相変わらず青白い顔をしている。この二年間、ずーっと顔を合わせていれば微妙な変化でも分かるようになってしまうものだ。高校に入ってから去年の六月に野球を再開するまでは、俺は帰宅部でカベはもちろん野球部員。しかし疎遠だったということもなくちょくちょく顔を合わせてはいたが、今から思い出してみれば俺もカベも本心を隠して付き合っていたから実質的にノーカウントだろう。カベ自身がどう思っていたかは知る由もないが、俺の方はというと……カベをこんな弱小高に引き込んだことに申し訳ない気がしつつも、なるべく平静を装って付き合っていた。
今から考えれば、もっと多く接して、もっと多く話をして、もっと早く再会の決断を下せば良かった。五塚に入学してから……いや、正確に言うと中学最後の試合から去年の六月まで、およそ一年八ヶ月の間、俺という人間は死んでいたも同然だ。何もしない、何も産み出さない生ける屍。そのままそこにいたら、大多数の人間と同じように歴史に名を残すこともなく、またその機会を掴み取ることもなく人の波に埋もれていただろう。
確かに俺は甲子園の準々決勝まで駒を進めるところまでは来た。でももう遅すぎる。俺くらいの年なら、無為に過ごして良い時間なんてあるはずがないんだ。少年時代としての残り時間が少なくなった今となっては、余計に無駄に過ごした時間が悔やまれた。
といっても、もちろん美しき姉妹達と接した時間が無駄という意味では無い。つまり、『野球選手としては』ってことだが。
小学生時代に野球を全く経験していない俺だから、その一年八ヶ月の間猛特訓を重ねたからってカベの様な万能の選手になれるとは露程にも思っていない。思っていないけど……少しは近づけたんじゃないかな。もっとカベの負担を減らし、カベの手助けになれるような。おっと、こういう思いこみが『重い』って言われる所以なのかな。
「カベ、待つよ」
玄関を降りたところでカベからバットケースを奪おうとするが……
「余計な事はしないで良い。ピッチャーはいわばエースパイロットだ。特別待遇が認められてるんだよ」
特別待遇って……そんなの、五塚だけじゃなかろうか。しかし確かに……俺が重いものを保った記憶がないな。
「今まで気がつかなかったのか?……ま、お前は『それが当然』って態度をしないからみんなも協力的なんだけどな」
「そっか。俺って、今まで優遇されてたんだな」
「鈍い奴だ。ま、そこが良いとも言えるが。つまり、親切をしても鈍くて気付かれないから、親切してる方も照れずに出来るっていうか、な。ようするにこのチーム全員がお人好しなんだよ。感謝するんだな」
「……ああ」
そうだったのか。
いくら普段俺が肩に負担を掛けないようにとしていても、部員数の問題で雑用をしないわけにはいかないからな。俺としては、部員が沢山居ても全てを後輩に任せっきりにする気なんてないが。
俺は江川氏に関する書物を読んできているが、特に印象に残ったエピソードはというと……氏以外に目立った存在の無かったチームで、氏だけが突出していたから孤立した……という箇所。チームが負けたら、他の選手がエラーしたから、打てなかったからと責任を被せられたという。当時の未熟なジャーナリズムから生まれたということを差し引いても酷い物がある。
文献を読むにつけ、自分もそうなったらどうしようと、思い上がりであることは重々承知しながらも密かにいろいろな状況をシミュレートしていたものだが……どうやらそれもこのチームでは杞憂に終わりそうだ。
本当に俺は幸せだ。しかし、その幸せも長くは続くまい。甲子園でプレーするのもあと二試合、もし国体に出場することになってもせいぜい数試合だ。本当に惜しい。何も、俺が優遇されてるから心地よいとかそんな単純な理由ではない。純粋に彼らの護りで投げてみたい、彼らと共に歩みたいという気持ちだ。この気持ちを表現するには……
そう、マウンドで全身全霊の投球をするしかないのだ。
よし、これで今後の投げる理由には十分だろう。……少なくとも国体まではということになるが。
・
・
・
とうとう準決勝。全国何千校の中から、準決勝にまで駒を進めるのは僅かに4校。つい一年半前まで、このような全国区の、(普通の肝っ玉なら)身も震える大舞台に立てるとは夢にも思わなかった。
試合は……当初から俺の快刀乱麻のピッチングがいつものように(ふふん)続き、そして味方打線もいつものように相手に抑えられるという膠着状態に陥ることしばし。八回の裏まで試合が終了したところで得点は0-0のまま。残すは最終回というところまで来たのだが……状況から鑑みるに、どうやら九回で試合が終わる可能性は低いと言わざるを得なくなった。
何しろ相手投手・稲田は、カベや藤間を俺の目から見てもなかなかの投球術で翻弄しているのだから大したものだ。そして忘れてはならないのが相手捕手・菅生の存在だろう。普段カベから指示サインを受けているだけの俺でもはっきりと分かるくらいに投球の組み立てが老獪だ。稲田という投手自体はそれほどイカした球を放って居るわけではないが、その球種の豊富さと緩急、そしてコースへの投げ分けで打者にマトを絞らせない。五塚への各打者の研究も十分に行っていたらしく、それぞれの弱点と思われる場所に効果的に決め球を投じていた。やはりピッチングの醍醐味は投手捕手のコンビネーションなんだな。それは俺とカベの『水魚の交わり』の例を出すまでもなく明白だ。
そんな訳だから、得点が期待できないのだったらこっちも無失点で行けば少なくとも負けることがないのは道理だ。……道理ではあるが、それが如何に難しいかと言うことは、
……今ピンチに直面している俺が証明しているようなものだ。
九回表、ツーアウトながらランナー満塁。
走者は、安打・エラー・四球によるもの。如何に五塚の守備力が上がっているとはいえ、そこは五塚。しかし打球を弾いた三塁・影屋の悔しがりようっていったらなかったな。俺が気にするなと散々ジェスチャーで示しているのに。多分、緊迫した試合を自分のミスでぶち壊しにしたくないという決意の表れだろう。……意気込んで他のミスを誘発しなければいいが。
状況は極めてこちらに不利。ツーアウトというのがせめてもの救いかも知れんが、迎える打者が……相手捕手の菅生。打撃はそれほど目立つという話を行かないが、これほどまでの配球を捻出する人間だ、読みが良くて当然と踏んだ。事実、今日は奴にヒットを一本打たれてるし……外角のスライダーに踏み込んで手を出したからな。明らかに読まれてたってわけだ。それだけにここも気をつけなければいけないのだが……さてどうなる。
空は青空、『台風も来ていないのに昨日の荒天を招いたのはワシのミスだ』と言わんばかり、お空にはお天道様がぎんぎんと輝いていらっしゃる。こんな悪条件の中で『激しい運動』に属するピッチングを繰り広げ、しかも対してバテていない俺の体力というのもなかなかどうして大したもんだな。
試合中、しかもピンチに立たされているのに空を見上げる俺の神経は、自分が思っているよりよっぽど太いのだろうか。個人的には、そういう状況だからこそ一端頭を空っぽにすることが大切だと思っている。考えすぎず、かといって集中力を乱すことなく相手に対峙する、それが如何に難しいか。しかも周囲は相手校の応援で大騒音だ。そりゃ、人を虜にする魅力があることはこの地に足を踏み入れ初めて理解できたけど……やっぱり野球はもっと落ち着いた環境でやりたいよな。
……それが、俺がアメリカ行きを目指した理由かも知れない。あの晩、カベに『メジャーに行きたい』と打ち明けた。しかし自分にとっては特別な言葉ではなかった。普段から抱いていない思いが言葉になるはずがない……ほら、女の先生に向かって『お母さん』って言っちまうようなもんだ。決して俺が言ったんじゃないぞ。小学生時代、年配の先生に向かって『おじいちゃん』とやっちまう事件ならしでかした事があるが(ちなみに、その年配の先生は面映ゆそうな顔をして苦笑いしてたっけ。俺の家庭環境も知ってる人だったから仕方がないと思われたんだろう)。
アメリカ、メジャーリーグに行く。
俺が小学生の頃から日本人選手が活躍し始め、その広大かつ美麗な緑の自然芝を目の前に突きつけられては……日本の狭苦しく小汚い(少なくとも目に見える範囲は綺麗かも知れないが、クラブハウスやベンチ裏などの設備の質が全く違うのだそうだ)球場をテレビで見慣れている小学生の目には、対比としてあまりにも鮮烈すぎた。そして更に、『National pastime国民的娯楽』として、国の誇り高き文化としての愛され方……その全てが俺を虜にしたと言っていい。
虜にしたといっても、特定の選手のベースボールカードを買ったり、実際に衛星中継の試合を待ち侘びていたと言うことでもない。何て言えば良いのかな……例え裏では筋肉増強剤やマネーゲームなどの暗黒面があったとしても、『原点としての成熟した野球世界』に惹かれた。野球のゲームそのものではなく。
ましてや、人気球団の野球中継の視聴率が下がったからといって、今まで世話になってきたにも関わらず中継を打ち切るという風に、盛り上げよう、心から愛される文化にしようという気概のないどこかの野球世界は興ざめする。そして、マスコミが『野球人気凋落』と煽っただけで実際に興味を無くす浅いファンばかりの土壌にも。
それを疎ましく思うのなら自分で野球界を盛り上げれば良いではないか……という向きも必ず出てくるだろう。しかし俺には興味がない。子供心に興味を無くさせるような世界は滅んでも仕方がない。例え日本球界に名を残す選手になろうとも、それは所詮日本の中だけのこと。逆に、メジャーで活躍すれば俺の名を知っている人間の数はどれほどに昇るだろうか。俺はなりたい、全ての野球ファンの心に刻まれる『フィールド・オブ・ドリームス』の一員に。
その為に今の全てが修行になる、自らの糧となると思えばどんな艱難辛苦も物ともしない、そしてそう自分に言い聞かせる。
手の甲で汗をひと拭い。インターバル中にもっと水分を取っておけば良かったかという後悔を振り払い、カベのサインを覗く。
サインは……外角へのスライダー。
初球は高い確率でストレートを要求するカベには珍しく変化球から入る、か。菅生は当然承知で立ち向かってくるだろうから、その狙いを外す意味か。
各ランナーを目で牽制してからセットポジションへ。ランナーのリードは浅い。ゴロを打たせればまず問題なく片付き、浅い当たりのヒットでも封殺が可能かも知れない。満塁の唯一とも思えるメリットだな。
第一球。
コントロールに細心の注意を払い、投げる!
キレ、コントロールともに申し分なし!あのカベが裏をかいたのだから。打者は当然
空振りするものだとばかり思っていた俺は……それこそ意表を突かれた。
菅生は、外角のスライダーに対してまたもや踏み込んできたのである。
かきっ!
タイミングはばっちり。しかし、菅生の想像以上にボールが切れていたのか、バットの先っぽ、マウンドから見てボールの右側半分をこすっただけのバッティングになった。
打球は力なく、しかし強烈なスピンを伴って一塁側ファウルグラウンドに転がってゆく。あまりにスピンが強かったからか、地面に落ちたあとどんどん右寄りにバウンドして、最後には一塁側ベンチに飛び込みそうになったところで保護用のフェンスに進路を阻まれた。
ワンストライク。
よもやカベの読みについて行ける選手が居るとは思わなかった。それならば……どうする。例え球種を読まれていても力でねじ伏せることが出来る速球をこちらから要求すべきなのか。対応はカベのサイン次第だ。
これ以上ないチャンスということもあって、スタンドの応援は最早半狂乱とも呼べる程盛り上がっている。どんちゃん騒ぎをすれば応援した気になっている彼らは放っておくに限るが、それにしても何度も思っている通り、騒音は暑さによるイライラを募らせる。ひょっとして、俺にとって一番注意しなければならんのは、グラウンド外からのこういった妨害活動かも知れない。
菅生はちらりとベンチを伺う振りをしたが、満塁で他にどんなサインが出るってんだ。そんな小細工は要らないぜ。
二球目。
カベの要求は……内角低めへのカーブ。万が一抜けてしまったら試合を決定されてしまう痛打を喰らいかねない危険なボールだ。しかし俺は信じている、全幅の信頼を寄せてくれているからこそ出されたサインなのだと。
さて、菅生はどう反応するだろうか?二球続けて変化球という組み立てが頭に入っているのか、それとも反応できないか。もしくは……頭に入っているが三味線を弾く・・・・・・か。
もはや走者に気を配る必要はない。セットポジションで……投げる。しかも思いっ切り緩いヤツを。満塁だからこその緩い変化球だ。
ボールのキレ自体は想像通り、理想的なスローカーブの航跡を描いた。
果たして菅生は……そのボールを『待ってました』とばかりに強振。
瞬間、鋭い当たりが三塁線より大きくファウルゾーン側に飛んでゆく。結果としては単なるファウルボール、カウント2-0で俺の有利になったはず。あくまでカウント上は。しかし菅生は確実に配球を読んでいた。初球のスライダーより更に緩いボールを躊躇もせず振り切った、その不気味さがじわじわと俺の頭の中に滑り込んでくる。
大丈夫、大丈夫だ……自分に言い聞かせる。ここで冷静を失って投げ急ぐなど愚の骨頂。そう、もう2ストライク、追い込んでいるんだ。あとはカベがストレートのサインを出してくれるだけでいい。
そして……カベのサインは、
(か、カーブ?しかも外角に外れる……)
スローカーブを外角に外してボールと成せ。だそうだ。
確かに三球勝負は性急に過ぎるかも知れない。しかし……わざとボールを、しかも大きく外れる球を投げる意図が分からない。緩急の差はコースを際どく付くからこそ効果的、つまり最初からそれと分かる、大きく外れるコースに緩い球を投げても、打者は途中で『球を見ること』を忘れてしまうから効果が薄いのだ。それを承知で……カベはサインを出そうというのか。
しかし……カベにはカベの思慮がある。
カベのサインには首を振らない。
それが俺自身への約束事だ。
三球目、やはりランナーのリードは少ない。牽制死という間抜けなプレーでこの激闘に水を差さないようにという意思表示だ。いくらカベといえども牽制でアウトを取ることが困難な代わりに、俺もランナーを全く気にせず放ることが出来る。
セットから……ややボールを長めに持つという小細工をしてから投げる!
確かにキレは申し分ないが、手を離れた瞬間に明らかにボールと分かる、分類するならクソボールに分けられる様な球。
菅生はこのボールには反応していなかった。三球勝負を挑まれると思っていたのか、あっさりと見逃してカウント2-1。もっとも、こんなクソボールなら見逃す以外に何の行動も取れないだろうけど。
それにしてもこの一球の意図が読めない。誘い球でもなければ相手の目を逸らす球でもない。だったら、わざわざ俺のスタミナを消費させてまで要求する理由とは何なんだろう。
いや、考えるな、感じるんだ。
……感じようとしても分からないけどね。
そして四球目、フォークを要求。
満塁という、バッテリーエラーが一切許されない状況での落ちる球。それは普段なら確実に相手の裏をかく配球となるだろうけど、菅生に対してはどうだろうか。これまでの読みを見れば、恐らく奴の選択肢には入っているものと思われる。あまり落ちの良くないフォークをセンター前に弾き返される嫌なヴィジョンが目の前に明滅した。こういうときは自分の直感を信じてサインに首を振りたいところだが……
『オレを信じろ』
『オレのサインに首を振るな』
マスク越しに見えるカベの目がそう俺に言い聞かせているようで、躊躇われた。どうして速球のサインをくれないんだろう。
フォークを……投げる!
またしてもボールのキレ自体は良い。途中からがくりと失速したボールは、低めに構えたカベのキャッチャーミットに惹かれるが如く沈み込んだ。
が。
がつっ!
菅生はこのボールにも反応した。やはり読まれていたと言った方が正しいだろう。しかし球のキレの方が数段上だったらしく、打球は真後ろへ。カベの股間を抜けてバックネットへと転がった。明らかにバットに当たる音がしたファウルだったから、三塁ランナーもパスボールと勘違いすることもなく動きはない。
カベは涼しい顔でボールを拭い俺に返球した。
カベ自身は冷静極まりないように見えるが、俺は内心冷や冷やもんだ。とにかく自分で一番自信があるボールは言うまでもなく速球だ。なぜ『分かっていても打てない』速球を要求してくれないのか?もしいずれの変化球も甘いところに入ったら?そもそも菅生はどうしてここまで配球を読めるのか?
その全ての疑念がカベのリードに向けられかけるが……踏みとどまる。俺はカベを信頼すると決めたんだ。今更……何を迷う。
速球を要求しないのは理由が有るからに決まっている。球が走っていないのか、コントロールに問題があると思っているんだろう。
変化球ばかり要求する訳は?
後に速球を投げる瞬間への布石、だろう。
菅生は何故俺たちの配球を読むことが出来る?
今まで散々研究してきたんだろうし、ひょっとして……夏の甲子園の準決勝という大舞台に於いて、神懸かり的な、超自然的な力が支配していると仮定されたとしても今の俺なら信じてしまう。この場所には神様も悪魔も居たっておかしくない。なんたってここは灼熱地獄なのだから。ま、現実的に考えれば俺の何らかの癖がマトモに出ちまっていると考えた方が自然か。スライダーを投げるときは右脚の踏み出し方が違う、とかな。
明らかにタイミングが合っているからなのか、相手ベンチとスタンドは更に沸き立つ。ええい、鬱陶しい。お願いだ、カベ。早く速球のサインを出してこいつらを黙らせてやってくれないか。
果たして、その願いは叶えられた。
五球目、出されたサインは遂に指一本。
速球。
心が躍る。ここまで速球をメインに……というより頼りに頼り切っていた、俺の投手としての存在意義そのもの。
たった数球投げられなかっただけでフラストレーションの溜まる、手の掛る困ったちゃんだ。
思い出してみれば、中三の夏……初めてカベを相手にして投げてから早三年。その間、俺の時間は少なくとも三分の一止まっていた。それを尻目にカベは俺の追いつけないところにまで上り詰めてしまっている。もし本人に言ってやったら、きっと『まだまだオレは甘ちゃんだ』と答えること間違いなし。だけど俺の目から見れば既に天上人。その差は、大きい。ちょっとやそっとの練習でも……いや、血の滲むような努力をしても敵わないのだ。
何故なら、カベは天才だから。天才が努力するとどうなるか?その報いは常人が努力した事による報いの何倍にもなって返ってくるのだ。1000円しか預金していない人間にとって金利など数える必要もないが、大金持ちは更に儲かるという当たり前ながらも理不尽なこの世の摂理。しかし、努力による報いそのものは不条理ではない。
俺、頑張るよ、カベ。少しでもカベに追いつきたいんだ。捕手と投手というポジションの違い上直接残せる成績で比較は出来ないし、これから進む道も違う。でも、せめて野球選手として……この世の中の全ての尊敬を勝ちうる選手となってみせる。そして……少しでも対等な立場でカベの横に並べるように、『あの頃のカベ』に近づけるよう努力する。
もう迷わない。
絶対に脇目など振らない。
カベと共に歩んだこの三年間、本当に充実してた。この大会で最後なら、せめてその課程を楽しもう。身体がこの時の悦びを一生覚えているように、激しく、切なく。
カベ、俺はやるよ。どこで躓つまづくか息が切れるか分からないけど、全速力で駆け抜ける。
だからカベ、せめてものお願いだ。
ずっと見ててくれよな、例えどんな道を歩いていようとも。絶対に目を逸らしてくれるなよ、一瞬でも目を離したら加速について来れねぇぞ。
満塁だというのにワインドアップを開始する俺の姿を見て、球場全体はおろかカベも息を飲んだ。心配すんな、俺が渾身の速球を投げるって事は、導き出される結果はただ一つしか無ぇんだから。
久しぶりだ、これだけのびのびした気分で球を放れるなんて。三年前なんて何も考える余裕がなかったから、只ひたすらにカベのミット目がけて投げてたっけ。三年間の想いが走馬燈のように蘇る。ははは、こう書くとまるで死ぬみたいだな、俺。
目指すはカベのミットのみ。
思い切り腕を振り、今まで積み重ねてきた全てを掛けて投げる。
結果はもちろん空振り。もはやワインドアップの時点で速球宣告をしたようなものだが、それでも菅生のバットは当然の様に空を切った。
歓声。
同時に意気消沈。
湧き上がる歓声を背にベンチへと走りながらカベへと視線をやると……さも何事もなかったかのようにマスクを外す四角い顔がそこにあった。
やっぱり最高のオトコだぜ。
斗いは九回の裏へ。打順は都合良く一番から。そういえば七回の裏からランナーが一人も出てないんだっけ。0対0という得点差以上に五塚が押され気味なんだ。
打席には屋久が入るけど……初球を打ってあっさりとサードゴロ。続く二番の尾曽は、ショートへのボテボテのゴロで内野安打を稼ぎ出塁した。左打者+俊足というのは本当に得だ。一体何本の打ち損ねをヒットにしてしまうんだろ。ひょっとして、左打者だけで打線を組んだらかなり勝率が上がるのでは……と下らないことを一瞬たりとも考えてしまった俺が恥ずかしい。そもそも、下らない考え事をし始めるってのは疲れ始めてる証拠だ。出来ればこの回で決着を付けてくれると有り難いんだが。
打席に入るは三番・藤間。入学したてでクリーンナップを張り、そして五塚に欠かせない不動の存在となった男。
甲子園でもここまで2本塁打。マスコミは早くも一年生三番の登場を面白おかしく書き立て始めているが、それも頷ける活躍だ。
誰もがカベの跡を継ぐのは藤間しか居ないと信じている。足りないのは後継の投手だけだろう。そう、俺のようなウルトラハイパースペシャルグッレイトォなパワーピッチャーが!……はぁ。考えてみれば、二年生以下の投手育成の算段を全くしてこなかったよな、俺。三年が引退したら部員さえも足りなくなっちまうんだ。秋季大会に向けて練習するどころか部員集めに奔走しなきゃならんとは……後輩のことを何も考えずに自分の事だけを考えていた俺だ、ちょっとだけ……いや、かなり責任を感じる。それとも、カベは俺の知らないところで手を打っているのだろうか?そう願いたい。結局は他力本願だけどな。
藤間はこれからのチームを引っ張っていくという重責に対してどう思っているんだろうか?勝手に自分に大仰な任務を押しつけるなというのが本音だろうが。あいつはマジメ過ぎるくらいに練習をやっていて上級生からの信頼も厚いし、そもそも技量抜群なあいつの発言力は絶大だ。藤間を中心とし、正しい方向に導いてやってくれれば五塚はきっと良いチームになる。『良いチーム』と『強いチーム』がイコールになるかは別問題だが。
さて、一塁が埋まっている状況で藤間が最低限しなければいけない仕事はといえば、とりあえず併殺打を回避するというのが最優先か。高校野球レベルではそうそう内野ゴロでのゲッツーは難しいといえども油断は禁物だ。相手は当然藤間の力量については知ってる筈だし、警戒もしてくるはずだからじっくり攻めた方がいい。しかし……悪夢は直後にやってきた。
藤間が打席に入り、相手投手の稲田を睨み付ける。そして、尾曽がじりじりとリードを広げ、ほんのちょっとだけ大きく取ったなと思うラインに突入していた。あ、危ないな……と思うが早いか、初球のストレートを藤間が見逃したと認識した瞬間!相手捕手・菅生が咄嗟に一塁へ送球。あっさりと尾曽を刺してしまった。その送球モーションの小ささ・早さ、送球スピードの速さ……カベに勝るとも劣らぬ美しさだった。敵のプレーに目を奪われるとは憎たらしいが、痛手を負った紛れもなく五塚の方だ。
落胆の溜息がベンチ内に立ちこめる。出そうで出ないランナーだっただけに落胆の度合いも大きい。しかしここで諦めないのが藤間という男だ。
稲田はランナーを刺して安心したのか、二球目は甘いと言えば甘い外角真ん中の速球。軍配は集中力を切らしていなかった藤間に上がった。
砂を噛むという表現がしっくり来る、鋭利な銘品の槍を思わせる白線が一二塁間を破りあっという間にライト前に達した。再び沸き立つスタンドとベンチ。本当に現金な奴らだな……と批判する権利など有していない。何故なら、打球の行方を見定めようと俺も立ち上がっていたのだから。
一塁上で手袋を外しながら仁王立ちする藤間は文句なしに格好良い。長身が歴史のある球場の緑に良く映えた。
打者は四番、カベ。高校球界最強の打者。天才。どんな美辞麗句で表そうともその中身の凄さを伝えるには足りない。只唯一、プレーを間近で見る事だけがカベの並外れた能力ちからを表現する手段だ。
さて、カベはどう出る。ツーアウトランナー一塁、相手の判断次第では敬遠も有り得る。初球から勝負を避けられては話にならないが、果たしてどういった作戦を考えているのか。全ては相手ベンチの采配に掛っている。もし藤間が二塁に進むなんていうことになれば、カベは当然歩かされるものと覚悟しなければならないだろう。願わくば勝負を。
セットに入った稲田は、ちらりと一塁の藤間を見た。俺もつられて見ると……リードが大きい。藤間め、あれだけの牽制を見せられても一塁に帰れる自信があるっていうのか。案の定、牽制が入る。藤間は慌てて一塁に頭から戻った。牽制の技量も実に申し分ない。こうなると、バッテリー間での盗塁阻止技術も高いと警戒した方が賢明だろうな。そして、バッテリー同士の牽制が上手いという事は、ランナーを塁に釘付けにし、ヒット二本程度では容易に得点を許さない事をも意味する。例えば二塁打の後にヒットが続いても、その打球が速く且つ二塁ランナーのリードが少なかったら?帰還はおぼつかないだろう。つまり確率的に失点しにくい、と。
その後も牽制はしつこいくらいに続いた。稲田も相当ランナーを気にしているようだが、果たしてそっちに注意を向けたままでカベを抑えることなど出来るのだろうか?
一球目。
牽制球を何度となく放っているから、クイックで投球動作に入ったときはいよいよかと思っちまった。
何と、一球目、カベは外角に外れるボールに手を出した。明らかにバットの届かない外のボールに、しかも思い切りタイミングを外された形で。 珍しいな、カベがあんなクソボールに手を出すなんて。気負っているのか?しかも、菅生は球を受けるなり例の如くリードの大きい藤間を刺すべく一塁に投げた。手から一塁に戻る藤間の姿は、さっきの巻き戻しを見ているかのようだ。
二球目。
またもや高めのボール球に手を出し空振りするカベ、一塁に牽制する菅生、そして慌てて帰還する藤間。その胸の辺りは土にまみれて真っ黒だ。
カウント2-0。あんなボールに手を出すカベなど、今までの付き合いで見たことがない。それだけ追い込まれているのか?何しろ長打一本で決まってしまう場面だけに……と考えて、頭の片隅に眠っていたある疑問点が頭をもたげてきた。
即ち、
(いくらなんでも、バットとボールの間が何㎝も開くような空振りをあのカベがするわけがない)
と。
つまり。
(この空振りにも必ず何かしらの意味が込められている?)
のではないかと。
間違いない。その意図するところは分からないけど、何かを意図していることは分かった。さあカベ、だったらその狙いを見せて貰おうじゃないか。
三球目。
ここで敵バッテリーは勝負を焦らず、外角に外した。誠に冷静な判断だ。一打逆転という状況でも周りを見る余裕を忘れない。準決勝まで勝ち残ってきたのも頷ける。
カウント2-1。いよいよ勝負のカウントだ。
稲田はここでも牽制球を挟んでいる。よっぽど藤間の脚が気になるらしい。いや、藤間の脚というよりもランナーの存在そのものか。
正直、俺は稲田がいつ投球するのかさっぱりタイミングも癖も読めていなかった。しかし……走者である藤間は、違った。
稲田がモーションを起こしたと同時にスタートを切ったのだ。散々警戒されておいて、しかも走者が牽制死しているのも構わずに。
カベが強振したのはその直後だった。外角低めの直球を振り抜いた打球は右中間を破る。
一瞬で最高潮に達するグラウンド内。打球はそれほど鋭くなく、間もなく右翼が抑えた。スタートを切っていた藤間だが、脚力はそう速い方でもない。この不利をカバーするために、あえてリスクを犯してまで走ったというのか。何て奴だ。いくらカベでもこの状況ではエンドランのサインには躊躇するだろうしな。つまり、藤間とカベの阿吽の呼吸で成り立ったバッティングだった。
しかも、さっきのカベの空振り二つは、きっと『自分と勝負させる』為の伏線だったんだ。相手バッテリーは、初球の様子を見て勝負するか勝負を避けるかを伺っていた。わざわざ2ストライクと追い込まれ、自分との勝負に持ち込むという相手の中途半端な判断を真っ向からぶった切る作戦だ。
藤間が三塁を回る。コーチャーの佐々木が興奮気味に腕をぐるぐる回すのが見えた。まるで、その回転で藤間の背に風を送っているかのように。それ位ヤツの走る姿はもどかしかった。
返球が来る。
普段は細い目を血走らんばかりに見開き、憤怒の形相で激走する藤間。はっきり言って恐い。どたどた……という擬音がぴったり来るような不格好な走行フォームだが、ホームを護るキャッチャーの視点からこの姿を見たら……俺だったら間違いなく逃げ出すね。
もはやタイミングは微妙。ホームには菅生が立ち塞がる。菅生も体格は良いから、ど迫力ショルダータックル対決の様相を呈してきた。
ホームの手前で送球がワンバウンドした。それと同時に藤間が左肩を前にし、頭を屈めて突っ込む!
どがっ。
自分が出場した試合でなければ目を背けたくなるような激突の後。
藤間の気迫が勝ったか、無様にもでんぐり返しの格好で吹き飛んでいたのは菅生の方だった。ボールはキャッチャーミットから零れ、ホーム周辺に空しく転々としている。
倒れ込んだ藤間の右手は、ベンチからでもホームベースに確かにタッチしているように見えた。
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天呂高校のベンチ前では、敗れた選手達が涙ながらに砂を掻き集めて袋に入れていた。一歩間違えば俺らがその立場に立っていたかも知れない。全国数千校の中から勝ち上がってきた内の四校。ちょっとしたボタンの掛け違えで勝ったり負けたり……ただ俺たちが幸運だけで勝ったとは思いたくないが、その比率は高かろう。
土を集める選手等は、死力を尽くした末に敗れた勇者か、それとも地に這はい蹲つくばる惨めな敗者か。正当な評価を下すのは誰にも出来まい。ましてや、自分たちがその立場に追いやられる可能性があればこそ。
片付けを行う五塚ナインは、とっととこんな灼熱地獄から抜け出そうといそいそと動き回っていた。しかし……
「カベ?」
カベだけはベンチ項垂うなだれて座ったまま動こうとしない。
「どうしたよ、カベ……」
微動だにしなかったカベが再三再四の呼びかけにようやく反応し、顔を上げた。しかし、俺はその顔を見て絶句してしまった。
「いや、疲れた……だけだ」
顔が真っ青を通り越して白い。日焼けをしているはずなのに真っ白で、奇妙な……出来損ないのカフェオレのような顔色だった。目は落ちくぼんで隈が出来、頬はこけ、唇はかさかさだ。
「カベ、平気か?めちゃくちゃ体調が悪そうだぞ」
「何、心配ない……連戦がこんなに堪えるとは思っても見なかった……んだ」
ことさら平静さを装うかのように立ち上がるが、
「お……」
脚がふらつき、再びベンチに座り込んだ。いや、座り込んだというより倒れ込んだんだな。ベンチが無かったと思うと……普通じゃない。いつの間にここまで消耗してしまったんだ。
「おかしいぞ、カベ。立てるか?」
どう対応して良いか分からず、おろおろするばかりの俺に苦笑いを返しながら再び立ち上がろうとしたカベは、
その表情のまま、
うつ伏せに倒れ込んだ。
俺には、倒れるカベの姿が何故かスローモーションのように、ゆっくりと見えた。
まるで、目の前の出来事が現実でないと思いたいかの如く。




