第15-07話
暑い。
蒸し暑い。
オマケにグラウンドはぬかるんで足場が不安定。踏ん張ろうにもスパイクの歯が地面を掴まない。何から何まで最悪の状況だ。野球をやる環境とはとても言えない。
空を見上げると、鉛色の分厚い雲から大粒の雨がぐんぐんと迫ってきて……俺の目の中にコントロール良く入ってくる。鬱陶しいことこの上ない。
奈良県代表の天呂高校を相手に迎えた準々決勝は雨模様。夏だというのに……いや、だからこそのブ厚い積乱雲から降り注ぐ雨が球場内のあらゆる物を容赦なく濡らしてゆく。
まったく。
どうして俺はこんなところで投げてなきゃならないんだ。
カベの進路の話を聞いて以来、俺の心にはぽっかりと大きな穴が開いたまま塞がろうともしなかった。また、それを埋めるだけの理由が俺には無い。カベを有名にすることだけを心の拠り所としていた俺は、またその言葉を心の言い訳として野球を続けていたことを思い知らされていた。
今の俺には、このマウンドで投げ続ける意味がない。いや、チームメイトらと一緒に野球をやりたいという気持ちに偽りはないが、その決して小さくはない気持ちをくぐり抜けさせてしまう程に心の穴は大きかった。
現在、回は四回の裏。得点は……3対0。県大会から続けてきた連続イニング無失点記録・連続イニング無安打記録も初回であっさりと途絶え、そして今まさにツーアウト満塁のピンチを背負ってもいた。初回の投球からやることなすこと全てに気持ちが入っていかない。気持ちで野球の全てをコントロール出来るとは思ってないが、投げる俺が『ノッてない』のだから投げたボール自体は死んでいて当たり前だ。
額からだらだらと流れ落ちる液体は、いつ中断が掛かってもおかしくない降水量によるものか、蒸し暑さからお節介にも身体が勝手に流している汗か、それともその両方か。
額を手の甲で拭おうとして、手の甲までびしょ濡れだった。思わず舌打ちをする。タオルでも尻ポケットに忍ばせておけば良かったか、と後悔するが、この雨じゃ結局濡れタオルになっちまうな……と下らないことを考える。
要するに、今の俺は野球をやっている心理状態じゃ無いって事だ。
あの晩以来、カベの言葉の意味を様々に解釈してはその度に結局同じ結論に行き着いて溜息をつくこと幾度か。
『そこまで考えられると重いっていうか』
想いが重荷。
想い続けることが美徳だとばかり思っていた俺に、考えてみればごく当たり前なその事実は辛かった。自分勝手に思い続けて、自分勝手に告白して、そして……落ち込む。俺って何て嫌な奴なんだろう。薄々感づいてはいたけど、こうやって実際に言葉で示されて初めて理解するなんて愚か以外の何物でもないよな。カベにだって気味悪い思いをさせてしまったのだろうし。
……辛い。
まず身体が動かない。体調的には何処も悪い箇所など存在しないのに、集中力が全てあの晩のことを解析するのに振り向けられているもんだから、コントロールも球威もまるでなっちゃいない。自分でも酷いボールを投げていると分かってはいるがどうにもならなかった。
ホームを守護するカベは、現在どんな心境でマスクを被っているだろうか。本人は『ホームを守っている間は心配するな』といった意味をの事を言ってくれてはいるが、その言葉に違わぬ思いなのか、それとも……早くこんな関係は終わりにしたいと思っているのか。普段から寡黙な男だから、マスクの上からでは読み取れるはずもない。
打席に打者が入ってからあまりにもインターバルを置きすぎていたせいか、審判が早く投げろというような仕草を見せた。はいはい、分かってますよ……
……一体、俺は何をやっているんだ。
サインを覗く。ど真ん中のストレート、だそうだ。この走らない直球で何処まで凌げるのかな。
クイックでサイン通りに全くスピンの掛かっていない直球をど真ん中へ。信じられないことに、相手の打者はこのど真ん中の打ち頃のボールを!
あろう事か俺の直前へ打ってくれたのだった。頭では色々ネガティヴな事を考えていても、さっさと試合を進めたい意志の方は紛れもなく強いものだから、身体が咄嗟に反応してホームゲッツー。本当に、この内容で四回を三失点で凌げたのは奇跡と言い切っても良いだろう。真理曰くの『マサカリの聖くん』というハッタリも多分に効果が有ったのか。しかし、この回の相手校のバッティングを見る限りその効果も薄れてきたようだ。
這々の体でベンチに戻り、どっかと椅子に座って項垂れる。俺に声を掛ける人間は誰も居らず、かといってカベに自分から話しかけようとする気すら起きない。大体、どんな顔をすればいいというんだ。
……あの晩以来、カベとは話をしていない。厳密に言うと、野球の意思疎通を図るだけの会話はしているつもりだ。しかし、俺とカベの関係を痛いほどに知っているチームメイトの目からはあまりによそよそしく見えるのか、気遣うような空気はあるにはあるが結局は俺が自らその機会を与えていないということだろう。
四回で三失点、か。強豪私立の天呂高校を相手に、この得点差は致命的か。みんなの手前もあるからあからさまに試合を放り出すなんて出来っこないが、かといって……
だが、俺は思い知らされたのだ、腐っているのは俺一人だと。諦観を抱いていたのは俺一人の勝手な思いこみなのだと。
その情けない、しかも仲間に失礼な考えを改める必要に迫られたのは、一番から始まった五回表の攻撃だった。
一番はもちろん屋久。
その屋久は、カウント1-2からのカーブに積極的に食らいついていったはいいが打球はショートへのぼてぼてのゴロ。しかし、屋久は諦めることなく全力疾走。良い具合に打球の勢いが死んでいた事もあり、微妙なタイミングと映った。しかし勝利への執念か、屋久は臆することなく一塁へヘッドスライディングを敢行し、そして……セーフを勝ち取った。
無論、グラウンドは泥濘状態。そこにスライディングで滑ったものだから屋久のユニフォームはぐちゃぐちゃ……だけど、だけど……そこまでする心意気が俺の心を貫いた。試合を諦めていれば頭から一塁に滑るなんて無謀なことをするわけがない。『正しい高校野球道』に乗っ取ればそれもアリだろうけど、少なくとも俺の目には、心には感じ入るものがあった。
相手の天呂にとってみれば、一人ばかりランナーが出たところで痛くも痒くもないのだろうが、俺たちには意味合いが違った。滅多に出ることのない(と感覚的に思っている。無論甲子園にやってきてからも得点は積み重ねているのではあるが)ランナーだから大事にしようという気概が違う。
現に、二番の尾曽は確実に送りバントを決めた。こういったムードなら、バスターを掛けるなりバントの振りで相手を揺さぶるなりしそうなものだが、あえて普通に確実にバント。つまりそれは何を物語っているかというと……
確実に一点ずつ返していこうという気持ちの表れではないのか。俺を信頼して、俺がこれ以上の失点を許さない事を前提に得点を取りに行っている、と。
そして……三番の藤間。
ここまでの三試合でも自慢の打棒が猛威をふるっている。ある時はカベにつなげるバッティングを、ある時は自分の一振りで試合を決めるバッティングを。一年生とは思えぬ野球センスに、五塚で目立っているのはカベではなく、むしろ藤間の方であるかも知れない。
その藤間がバッターボックスへ。打席に立つだけで『何か』を期待させる姿には、既に格別の貫禄が備わって見える。どんな強豪校にも負けない三・四番打者……このチームで一番貴重なのは、俺などではなくやっぱりこの二人だな。
藤間は、長身から醸し出す強打者のオーラを隠しきることなどとても出来ず、投手は威圧されたように四球を出した。
続く打者は、もちろん。
今大会最強捕手、我らがカベこと真壁大成。……カベ。この大会が終わったら離ればなれになってしまう、俺の、あらゆる意味での愛妻。
カベは、俺の気持ちを重いと言った。本心なのか?それとも……俺を自由に羽ばたかせるための方便か。いずれにせよ、過剰な気持ちを押しつけていたのは確かだろう。……そう思った方が俺のためでもある。
カベはいつものように巨躯を伸びやかに打席でバットを構える。その構えには隙など何処にもない。剣の達人が抜刀しても居ないのに雰囲気で相手を縮こまらせるように、カベもバットを振る前から投手を威圧していた。
しかし……この打席の結果は。
敬遠気味のフォアボール。初球から連続二球大きく外れるコースに投げ、打者が手を出してカウントが有利になったら勝負に変更という姑息且つ中途半端な組み立てだ。カベはそれに動じることなく、さも『チャンスが増えた』といわんばかりの落ち着きで一塁へと歩く。
……呆れたね。いかにカベが強打者とはいえ、対決よりもワンナウト満塁を選択するとは。しかも次の打者は黒沢。そりゃ藤間やカベよりは得点の確率が劣るだろうが、それにしたって満塁だぜ?満塁だと必然的に投球の幅が狭められるし、バッテリーミスも一切許されない極限状況だ。よほどの投手でないとこの難局を乗り切る事など、出来ない。ひょっとして、一点くらいは必要経費とでも捉えているのか。だとしたら大胆極まりないけどな。
でもな、一つ言っておくと……
そういうプライドをくすぐられる場面では、黒沢は!
がっきぃん!
黒沢は、相手投手がコントロールミスを恐れ縮こまった腕から繰り出される、ごく甘い高めの棒球を見逃さなかった。県大会優勝を決めた打者でもある黒沢は、カベや藤間が当初から期待通りの働きをしているなら、マスコミ言うところのその他大勢という扱いの選手だったのに飛躍的な成長を遂げた選手だ。
黒沢の打球は三遊間を猛烈な勢いで破りレフト前へあっという間に到達。三塁ランナーはもちろんホームへ帰還するが、問題は二塁ランナーの藤間。打球があまりに鋭すぎたせいか、さも当然のように三塁を回ったところで、レフトからの返球がホームに戻ってきている。誰の目にもタイミングは『微妙』よりも本塁手前で憤死寄りだと映ったろう。かく言う俺もその一人だ。
だが……
野球センスの善し悪しを論じるには、只単にバッティングがいいとか肩が強いという証拠を並べるだけでは言葉が足りないと思い知らされる。野球の天才とはこういう『総合的に出来る』人間の事を指すのではないだろうか、と。
藤間が頭から滑り込む体勢に入りかけたところで、本塁前に立ち塞がる相手捕手のミットの中に、レフトからの返球がワンバウンドで吸い込まれた。思わず目を背けたくなるような、天呂高校からしてみれば喝采ものの華麗なバックホームだった。
だが歓声の後。
藤間は捕手の脇をすり抜け、ホームベースに手を差し入れていた。しかも相手捕手の両足の間から、スパイクされる可能性にも躊躇せず、だ。
主審が大げさなジェスチュアで腕を水平に広げる。一気に球場全体が沸き立った。一点差に詰め寄る一打で、現金にも五塚のベンチ内に士気が蘇る。まだ行けるぞ、と。
それから……俺もベンチ内の雰囲気を壊すようなことが出来るはずもなく、また周囲に釣られるようにピッチングが安定していった。さっきまであれほど悩んでいたにもかかわらずに。本当に俺っていう人間は周囲に引きずられやすい。言い換えれば、周囲に責任を押しつけることでしか存在できない卑怯な奴なんだよな。
蘇った俺は天呂高校に得点を許すこともなく、また五塚も打順のアヤや鋭い当たりが野手の正面を突いたりで得点を挙げることもなく……回は進んで最終回。八回の裏も完璧に抑えてベンチに帰ってきたはいいが……
二対三、一点のビハインド。打順は一番の屋久からだったが、その屋久に続き尾曽も凡退。二人とも内野ゴロ、どう見ても間に合うはずのない当たりなのに果敢に一塁にヘッドスライディングする姿は、甲子園のテレビ中継などで散見しても、また『正しい高校野球道』か、ケッ!……とうがった見方しか出来なかったものだが……いざ自分の仲間が身体を張って闘志を表す。心に何かしらの熱く滾たぎものが湧き出てこなければ嘘だ。俺の場合はと言うと……目頭が熱くなった。
しかし既にツーアウト。ここで藤間が取るべき手とは、とにかく塁に出るか、それとも……スタンドに放り込んで試合を振り出しに戻すかの二択しかない。藤間の実力と相手投手の投球から考えても、後者の選択が難しいと言えなくも無いが、無理をすればそこで試合が終わってしまう。かといって前者だと、カベに回してもカベが確実に走者を帰せるわけでもない。ヒットが二本続く確率は極めて低いんだ。
それでも藤間は。
外角のボールをしぶとくライト前へ落とす。その軽打が意味する物はつまり、カベへ全てを託すということ。去年の県大会決勝戦最終回の後、カベは悩んでいた。自分がホームランを打って攻撃を切ってしまうのではなく、繋げてランナーを貯めた状態で次の大塚さんに打順を回すべきだったのでは、と。藤間から繋ぎとして打席を明け渡されたカベが何かを感じ取れないわけがない。事実、
「四番、キャッチャー、真壁くん」
アナウンスと共に打席に立ったカベの背中からは、猛烈な闘志のような物を纏っているように見えた。人間の情が目に見えたのはこれが初めてで、実に不思議な体験だった。カベの身体の輪郭の外に浮かぶ蒼い炎は妖しく揺らめく。この雨の中、雨粒を一瞬で蒸発させそうな程熱く、激しく。
マウンドに立つは、六回から先発投手に代わり五塚打線を押さえ込んでいるアンダースロー投手。右投手対右打者の対決だがどうなるか。見たところ、球種はカーブとシンカーだけらしい。直球のスピードも大したことはないし、今まで押さえ込まれてきたのはひとえに良好なコントロールと、下手投げという変速モーションから繰り出される投球に戸惑っていただけのようだ。
カベが、そんな幻惑に踊らされるわけがない。
俺には分かる。
カベは、あの晩の言葉通りにグラウンドに立っている以上は全力でプレーをしているんだと。カベに否定されたくらいで存在意義を見失っている俺とは違う。そもそも、野球は自分が好きだからやるもので誰かのためにやるもんじゃない。当たり前の事じゃないか。何を迷っていたんだ、俺は。
初球。カベは投じられたシンカーに手を出さずにワンストライク。外角低めにコントロールされた良いボールだった。
カベは落ち着いている。瞳が冷静だ。これと比べると、あの晩の瞳は泳いでいたようにも思える。
二球目。
投手はクイックモーションから投じた。
そして……
ぐわっ!
とベンチまで響いてきそうな下半身のうねりが発生し、うねりに釣られ鞭のようにしなって繰り出されるバットがボールを捕らえた。カベ独特のスウィングのうねり。肉眼ではとても軌跡を捕らえられないスピード。それが完璧にボールを捕らえればどうなるか?
答えは簡単。
球場内の歓声が代弁している。雨脚が強くなっても客の引かなかったスタンドには最高の贈り物が、今届けられた。
打球は雨を切り裂いてレフトスタンド上段に突き刺さったのだった。
・
・
・
九回の裏。
相変わらずいつ中断が入ってもおかしくない、ホームベースを守っているカベすら霞んで見えてしまう程の降雨。しかし、俺の調子は万全だ。いつもよりロージンを多めに弄ってから投げる。雨によるピッチングへの影響も意外に少なかった。四回まえの自分が嘘のように球が走る。人間は考える生き物だ。人間の精神状態が如何に身体のバランスに影響を及ぼすかを身をもって知ったわけだ。
先頭打者、三振。
次の打者、三振。
連続三振で球場内のムードは最高潮だ。つい一イニング前まで『後一人』コールを受けていたのは俺らだというのに。
打席には、今大会注目打者の一人、畑中とやらが入っている。どうやら、俺はコイツにヒットを打たれているらしいが……記憶から消えてるな。ついでに言えば、畑中某が今大会注目打者の一人だということも頭に入っていなかった。試合開始前は、そんな基本的な情報を飲み込む余裕もなかったんだな。
でも、今の俺には関係あるめぇ。
俺の存在意義は絶たれた。だったら何をするべきか?答えは非常に単純で、今できることを確実にこなして行くしかない。つまり俺の場合目の前の打者をひとりひとり打ち取っていくことこそ目の前にある正義なんだ。
単純明白だ。今は目の前の正義にすがればいい。目の前の正義が過ぎれば次の目的を捜すだけだ。迷いようがない。マラソンランナーが辛いレースの途中、『次の電信柱まで走ったら止めよう』と繰り返す事でゴールまでたどり着くように。
畑中のバットが空を切った。
歓喜の渦がグラウンド内に満ちる。整列の前にカベの顔をちらりと見ると……大きく、頷いただけだった。
何事にも終わりは来る。俺にはそれが早かっただけの話。どうせ来る終わりなら、目一杯楽しもう、そう、無理矢理にでも考えた方が良かった。




