第15-03話
……それから時が経つこと数十分。
五塚攻撃時の投球練習は続けていたものの、体調は相変わらず好転の気配を見せ……つつあった。具体的には、投球時に身体の芯がずれなくなったとでもいうか、とりあえず初回に見せたコントロールの不安定さは影を潜めるようにはなった。
だけど。
だけど、だ。
球威の復活にはまだまだ遠く、ちょっとでも甘めに入れば外野にまで持って行かれる。現に、これまで数回は外野守備のお世話になった。しかし、明らかに上手くなっている外野の彼らには、これくらいの打球が飛んでくるのは朝飯前というか想定済みとなっているらしく、躍起になって俺たちバッテリーの力で抑えなくとももぎ取ってくれる。これは心強い。去年の同じ時期は、とても野手に守備を任せてなど居られなかったから。……ひょっとすると、それすら俺の思い過ごしで、本当はみんな想像よりずっと上手だったのかもしれない。……俺が『打たせて捕る』投球をしてこなかっただけで。
で、
イニングは三回の裏、ノーアウト一塁という場面で打席は誰あろう!
俺だ。
とにかく今までの野球人生でバント練習をする時間すら無かった俺にとって、この場面での定番である送りバントを決めることさえ難しいかと思われた。
結局、初回の五塚の攻撃は、先頭打者の屋久がフォアボールで出塁したまでは良かったが、後続が続かずに……無論、頼みの綱のカベや藤間も打ち損じて……後は三人で終了。続く二回は、投球では俺が何とか踏ん張って(バックに助けられたとも言う)三者凡退、しかしこちらの攻撃も凡退。三回の表も何とか三人で片付けた。サード浦永の、三塁線を鋭く破るかに見えたライナーを横っ飛び捕球という超美技付きだけど。
そして三回の裏。八番の新堀がフルカウントからのフォアボールで出塁するところまではまあいい。どうやらこっちの選手が落ち着いて球を見極めているというだけでなく、相手投手も特別コントロールに自信のあるほうじゃ無いらしいし。
だけど……新堀が出塁したところで、次の俺というバッターがヘボ過ぎるために取り得る作戦の幅が狭いというのが攻撃面での泣き所だ。守備面での泣き所?それも俺がほとんど一人で背負ってるようなモンだよ。
という訳だが、他に立案の余地がある筈もなく、こうして……
「ストライークっ!」
こうして、打席でバントの構えをしているというわけだ。ちなみに、構えをしているだけで既に二球空振りしている。バントはしたいけれど当たりゃしねぇ。
バントってもんは単純に見えてコレがまた複雑だ。普通のバッティングなら、細論はどうあれ打球を場外にかっ飛ばしてしまえばOKだがバントはそうも行かない。ランナーのダッシュに合わせて転がせてナンボ、そして転がす場所とその強さがまた物を言う。バント職人と呼ばれた選手を尊敬するよ、ホント……と同時に、自身の野球経験の浅さにも愕然とする。つくづく、俺は『球を投げるだけ』の、言ってしまえば『野球選手としては奇形』なのだなと実感せざるを得ない。
そんな泣き言を言ってても仕方があるまい……とわざとらしく打席を外し、ベンチでカベが出すサインを見るが……変更などあるはずもない。あくまで俺にバントを課すのか。成功すればチャンスが広がり、そして点が入ればピッチングが楽になるとはいえ……成功率は低そうだなぁ。自分で言うのも情けないが。
打席に入り、構える。バットを構えた状態からバント体勢に移行する、などという芸当が俺にできるはずもなく、そもそもそんなことをやったら気が散って肝心のバントが上手くいかないだろうし、誰かさんに怒られかねない。しかし最初からバントする気満々でいれば当然相手一・三塁手の前進がキツいわけで……
だけど、そこでちょっとした奇跡が起こった。意外と曲がらないカーブが来たと思い当てようとすると……何と当たってしまった!しかも、バットの芯に当たる、本来のバントの意味からいったら失敗臭い飛球が、猛前進してきた一塁手の頭の上をふわりと越した。普段から善い行いをしている心当たりはないが、この時ばかりは天に感謝したくなったね。
慌てて全力疾走する俺。体調が体調だけに無駄な体力は使いたくないが、曲がりなりにも野球選手をやっている身としては本能として走らざるを得ない。
だが、奇跡はそこで一段落したわけではなかった。何と、慌てたのは俺だけでは無かったらしく、打球に追いついた二塁手は何を思ったか、只でさえ間に合うはずもないのに振り向きざま送球した。誰もいない二塁に向かって・・・・・・・・・・・・ 。そう、二塁には誰もカバーに入っていなかったのだ。どんなフォーメーションの乱れだろうか、本来二塁に入るはずの遊撃は、ダッシュした三塁手の代わりにカバーに入っていたのだ。
お陰でボールは左中間を転々。あっけにとられた左翼が打球を追い掛けている間に一塁走者はホームへ戻ってくる。
そして。
(やべぇっ!)
レフトは三塁に向かって全力疾走する俺に標的を定め、実に思い切りの良い返球をよこした。この俺が感心してしまうその送球は、さすが守備のチームと唸らされるだけのものはあった。が、そもそもがこんな守備の乱れを生じていては意味がないな。
俺は一心不乱に三塁へと走る。自分の走力に自信が無いわけでもないが、さっき横目でちらりと見たばかりでは微妙そうなタイミングだった。三塁のカバーに入っている選手が捕球、そして素早くタッチに入れる姿勢を取る。眼前に返球が迫っている証拠だ。ここでも俺は『野球選手』として、そして『高校球児』としての性サガ)から、手を先にしてスライディングする。カベに『投手なら手を大切にしろ』と怒られそうなヘッドスライディングだが、今はそれよりも先に身体が動いた。……要するに、血が騒いでいるのだ。それでも、左手を先に出したのはせめてもの理性が動いている証か。
しかしその意気も空しく、ベースのわずか10㎝手前で、相手のグラブが差し伸べた左手を払っていた。もちろんグラブの中にはボールが入っている。その直後、大歓声と溜息がない交ぜになった、形容しがたい感嘆が場内を支配した。丁度、ホームを境にして一塁側半分と三塁側半分が別々の感嘆を漏らしている感じだ。
ちぇ、カッコ悪いぜ。これじゃあ単なる暴走じゃないか。立ち上がり、照れ隠しに汚れたユニフォームを払いながら急ぎ足でベンチへと戻るが……その間に、暴走に対するカベへの言い訳を考えている自分が少しだけ……いや、かなり情けなくもあった。ところが、だ。「よく走ったな」
俯いてカベの前へ出ようとしてその言葉を聞いたとき、思わず自分の耳を疑ったね。どういう心境の変化なんだろうって。カベの事だ、機嫌がいいから、なんて理由で誉めてくれやしないだろうし、となると……やっぱり、理由が思いつかないな。かといって聞き返すわけにも行かない。とにかく、憤死にはなったが『次の塁を積極的に狙う力疾走』だからこそ誉められたって解釈でいいのかな、そもそも誉められて悪い気はしないから、まあいいか。
で。
その回は守備の乱れから一点を奪っただけの我が五塚高校。これが普段の俺の実力だったら、この一点だけでほとんど安全圏と自負できたのだが……はぁ、これからのことを考えると本当に気が重いぜ。おまけに、全力疾走したばっかりで流石の俺も呼吸が回復しきっていない。
しかし……ツーアウトになってからのキャッチボールもロクに出来なかった筈の俺だが、体調に妙な変化が生じていた。マウンドに登る時の足取りがやけに軽いのだ。あれほどの全力疾走をした後だというのに……おまけに、足だけでなく身体が良い方向に軽くなっている。今までは鉛を身体にくくりつけたかのような重さだったのに。一汗かいたせいだろうか、とにかく一球投げてみなくては分からない。
カベがホームベースに座ったのを見計らい、ついに、甲子園のマウンドでマサカリのモーションを起こす。その瞬間、カベの目が大きく見開かれたような気がした。それと同時に、スタンドからもどよめきが起こる。俺がマサカリ投法の使い手だということは、どうやら俺自身が思っている以上に浸透しているらしく、実に気分が良かった。注目される理由が何であれ、ね。
そして、投げ込んだボールは!
……
…………
それまでのどよめきを一気に沈黙の波で押し流してしまうような、説得力のある……つまり、自画自賛できるほどの快速球となってカベのミットに突き刺さった。
(あれれ?)
自分でも信じられずに、カベからの返球を受けた後にその場でぴょんぴょんと二、三回跳ねてみる。気のせいではない。ここ十日あまりご無沙汰だった『身体の隅々まで感覚の糸が張り巡らされている』状態が戻ってきている。それが待望からくる思い過ごしかどうか確かめるために、もう一球全力で投げる!
……
今度巻き起こったのは狂乱の渦か。
それを起こしたは俺だというのに、なぜか俺だけがぽつん、と置いてけぼりを食らったかのようだった。
つまり、
ものすごい歓声だったって事さ。特に、俺の投球を生で見慣れていたチームメイトから良く聞こえる。現実的に言えば、この甲子園という騒音のるつぼで聞こえるわけはないのだが、フィールドに散ったチームメイトの声が聞こえるのだ、曰く『俺たちは行けるぞ』と。彼らがそう思ってくれる程の投球だったわけだ。さらに調子に乗ってもう一球!
今度は俺の耳もはっきりと捕らえた。自慢の快速球がミットを叩く、胸のすくような音を。頷きながら返球をするカベも感ずるものがあったか、マスク越しの視線が心なしか熱く見えた。
その後は変化球を放るが、このキレも戻っていた。……つまり。今までの不調の原因は、『体調が悪かった』のではなく、『体力は回復していたが体調が元に戻っていなかっただけ』らしかった。一週間以上も本格的な練習をしなかった割にこの球威だ、一年近くの特訓で積み重ねてきたのが物を言ったって事かな。あと足りない物は……自信。こればかりはバッターを料理しながら取り戻すしかないように思える。でも……それも遠くないだろう。何しろ、俺に自画自賛の球威が備わったのだから。
相手打者がバッターボックスに入る。ヘルメットから覗く瞳を見据えてみるが……はは、怯えていやがるぜ、このバッターはよ。
それだけのことで俄然自信が芽生えつつある俺だが……分かってるさ、自分が単純なんてことは……でも、とりあえず慎重を期すに越したことはない。
今日何度目か、空に向かって息を吐き、呼吸を整える。サインは……カベも良く分かっているようで、細かなコース要求なしのストレート。オッケーだ。問題はない。そして……この甲子園に来て初めて実戦のマウンド上でマサカリのモーションを起こす。ここからが俺にとって真の斗たたかいの始まりだ。見ててくれ、カベ!
「ぐいおおおおっ」
思わず声が漏れた。それだけ力が入っている。でも『力んでいる』という意味ではない。本当の本当に絶妙な、連日の特訓で会得したあの力加減だ。
ボールのリリースがなされた瞬間、耳元で風を切り裂く笛のような音が鳴る。もちろん、俺の腕の振りがもたらした現象だ。続けて、びしっと指先がボールを弾く音。そのどちらもが今の投球の確かさを伝えてくれる。確信があった。満足が行った。これが俺の最高のボールだ。
振り上げた右足が地面に着地する前に高らかに鳴り響くはミットの音と主審のストライクのコール。俺はフォロースルーのまま、目深にずれた帽子のつば越しにそれを見た。
俺の感想はというとだな、ただ一言に尽きる。つまり、
カ・イ・カ・ン!
ちょっと前の映画でもないだろうが、今まで(といっても僅か3イニングだが)耐えて来た分だけ鬱憤が溜まっていたようだ。
さて、その鬱憤晴らしの第一号犠牲者となったバッターは……あれれ、顔面蒼白だ。甲子園に出てくるような選手でもこれだからなぁ。そんなに白い顔をされたら、俺の自信回復も速くなっちゃうじゃないか。
第二球。サインは……もはやこうなると定番のリードとも言えるが、それがまた緩急という観点からの組み立てから見ると理にかなってるんだよな。
結果?ああ、もちろんストライクだぞ、右バッター直撃コースから内角ぎりぎりに入るスライダーな。どうせ速球は打てっこないんだから、その他のストライクゾーンを通るボールに手が出ないようでは先行きも知れよう。というわけで、これからはどんな風に快投に花を添えてくれるか、だな。……『自分の球威』が戻ってきたことに半ば舞い上がっている俺は、さっきまでのおそるおそるで歯がみしたくなるような投球は何処へやら、この球が打てるかと思い切った投球に終始することとなった。人間という物は如何に精神に依存している生き物というのが良く分かるというか、開き直って投げられるようになってからはコントロールミスも無くなった。ほぼ百発百中、カベの要求する球種・コントロール共に違いもない投球を繰り広げる。
……それが何を意味するかというと、
加藤聖という投手の快投に直結するんだなぁ、これが。元々が相手チームに目立ったバッターが居ないのも大きいけど、それ以上に自分のペースで投げられる楽しさがすべての不安を吹き飛ばしていた。楽しい、今は投げることが本当に楽しい。おまけに、どれだけ球数を重ねても全く疲れというものを感じることがない。それもそうか、県予選を含めた今までの疲れなんて、この10日あまりの休養で回復しない方がおかしい。
考えてみれば、特訓を初めてから……いや、野球を再開してからこんなに休んだことはなかった。それが丁度いい骨休めになっていたんだ、と割り切れば納得できる。
さて、哀れなのはそんな状態の俺と対戦することになった相手高校だよな。三回までのへろへろな投球を捕まえられなかった、そのツケは大きいだろう。
三球目。いつものように遊び球は要らない。遊び球を投げる程度の相手でもない、とカベが判断したのだ。こっちにもちろん異論はない。大きく振りかぶって、中学時代から俺と共にあるマサカリ投法で投げるっ!
……速球。
一体、スピードガンで何キロ出ているのか知る由もないが、明日辺りには新聞で分かるだろ。それよりも、『そういう道具を使っている人種』の目の前で投げているというのに、五塚にそんな人種スカウトの姿が見えたときのような混乱ぶりはもはや俺には存在しない。自分のやるべき事がしっかり分かっているから。高速道路を適正なスピードで走ってるようなモンだな。道に迷うこともないし、歩行者に特別気をつけることもない。迷いようがないんだ。
楽しい。楽しくて仕方がない。今、この場所でチームメイトと共に野球をやるのが。自分の腕の振りで世界が塗り替えられていく、そんな希有な体験を独り占めしているこの状況、もっと楽しみたい。
もちろん、投げた三球目、渾身の速球は相手のバットに擦かすることすらも許さない。だってほら、下手にバットに当たっちゃったら危ないだろう?打者の手が。俺って優しいなぁ。
一球を投げ終えた後、一瞬遅れて大歓声。五塚を応援してくださる皆様、俺様の復活ですよ。安心して試合をご観覧下さいませね。どうかやかましい応援などに気を遣わず。
……俺の頭の中身もかなり熱でやられているようだが、その実、運動に関する神経回路だけはオーバークールに等しい。あの一汗で、具体的に言うとダッシュ一本と数十球の投げ込みだけで毒素がすべて抜けたようだ。はっきり言ってしまえば『気のせい』も多分にあったのだろう。何しろ人間は想像で病気になったり妊娠してしまえる生き物なのだから。とにかく、身体を動かすことによって風邪がぶり返すのが恐ろしかったが為に、身体全体が縮こまっていた、ということだ。
呆然としてバッターボックスを去る打者を尻目に、これからの投球ペースの配分を考えていた。只でさえへろへろ状態の投球を捕らえられなかったこの打線だ、立ち直った俺を打ち崩す事などあり得ない。それならば、少しくらい力は抜いて大丈夫……とタカをくくりかけて慌てて撤回する。しかし曲がりなりにもここまで勝ち上がってきたチームのことだ、バント責めで疲弊させるくらいの手は打ってくると見て間違いないだろう。ならば、俺とカベはどうやってそれを防いでゆくか?答えは簡単だ、打てないような球を投げればいいのさ。
当然、その後のバッター二人も三振斬り。もはや何番から始まった打順かも気に払わなくて良い。ピッチングの豹変について行けない相手バッターはただただ呆気に取られるだけだ。快感だねぇ。
颯爽とマウンドを降りる俺に、このグラウンド中から何かしらの期待の視線が注がれていると見るのは只の自意識過剰だろうか?ま、どっちにせよ結果は明日の新聞紙面で分かるだろう。今現在気にする事じゃない。
ベンチに帰り、汗を拭きながらスポーツドリンクを飲んでいると、
ぽんぽん。
と、俺の左肩を後ろから軽く叩く輩が居た。首をだらりと後ろに反らすと、そこには天から足を生やしているカベが、心なしか微笑んだような表情で立っていた。驚いて身体を起こし、今度は身体ごと捻ってきちんとカベを見ようとするが……既にベンチ裏へと消えた後だった。今の顔……いったい何だったんだろう。
最近カベは、俺に今まで見せなかったような表情をたくさん見せてくれている。しかも、この数ヶ月に限ってのことだ。どういう風の吹き回しなんだろう。俺としてはもちろん嬉しい。三年間一緒に居るはずのカベをよく知っている訳では決してなかったから。
試合がさらに動いたのはその回だった。二番から始まる打順、尾曽は倒れたもののその次の藤間の打席が圧巻だった。
初球・二球目とも平然と見逃してカウント1-1となったところで、相手投手がその堂々たる姿に萎縮でもしたか、ションベンカーブと形容するのがもっとも相応しい、肩口から入ってくる甘~いカーブを藤間が見逃すはずもなく……
がきっ。
親の仇をぶつけるが如く、コンパクト且つ最短距離を通り、そして見るからに強烈なスウィングは、哀れ白球を数秒間の空中遊泳へと誘いざなった。インパクトの瞬間、風圧でバッターボックスの砂が巻き上げられたと思ったぞ。
打球が舞い上がった後、僅かに遅れて大歓声が球場内を支配する。思わずナインがベンチから身を乗り出す。が、結果は火を見るより明らかだ。
白球は、同じ色の衣服がひしめき合うレフトスタンド上段へと吸い込まれ、その所在を紛れさせた。
恐らくは会心の当たりであったろう藤間は、右手を突き上げるでもなく、ましてや笑みを浮かべることもなく淡々とベースを回っていた。このクールな姿もどことなくカベを思い起こさせる、非常に頼もしいものだった。俺等が引退した後、藤間がボールを受ける相手は一体誰になるんだろう……ふと頭に浮かんだ。未だ斗たたかいの最中だっていうのに、終わった後のことを考えている俺ってどうなんだろう。普通の上級生なら、後輩の面倒くらい見てやるのは普通のことなのかも知れないが。
今、藤間がホームインしてベンチに帰ってきた。その頼もしい姿を一目見ただけで、『こいつが居るなら、この後も大丈夫』ともあっさり思うのであった。
そして……その余韻が冷めやらぬ中、再び大歓声が巻き起こる。打者はもちろんカベ。カベが紡ぎ出す大歓声といったら……だいたい想像は付くよな。ベンチから顔を覗かせてみると、案の定。
カベが涼しい顔をしてゆっくりとベースランニングしていた。初球をスタンドに放り込んだらしい。藤間と同じく、感動をあまり表に出さず黙々と一周する姿は、まさしくサムライそのものだった。しかし、インパクトの瞬間を見物できなくて残念だった。それより、これでカベの知名度が上がることを考えたら万々歳の結果だな。アベックホームランなんてアピール度抜群なのだろうから。
忘れちゃいけないが、これで得点は3対0だ。今の俺の状況から行くと、ほぼ安全圏に入る。自分自身が全く打たれる気がしないというのはいかにも傲慢な考え方だが、現にそうなんだから仕方がない。相手があの手この手を弄してきても、それを力で叩いてしまえるんだから。
……
その後、完全に復調した俺は、予想通り相手に痛打の一本も許さず快投を続けていた。今の状況は本当に理想的だ。序盤3イニングの調子はどこへやら、疲労も全く感じないままに投げ続ける。しかし奇妙なのは、イニングが進むにつれてベンチ内の空気が逆に緊張してきているということだ。自分らが優位になるごとに気を引き締める、つまり『勝って兜の緒を締めよ』の一環……といえば聞こえは良いが、どうにも妙な感じだ。
そして。
最終回。
相手チームにさしたる……いや、全くと言っていいほど見せ場を作らせずにゲームは淡々と進んだ。いつかも県予選の時もこんな快調な試合展開があったが、つくづく野球というのは打って攻撃、投げて守備というメリハリが大切なスポーツなのだと思った。
それまで、相手は何度かバントで俺を揺さぶろうとしてきたにも関わらず、まともにボールを転がせた試しがない。それほど俺のボールが切れてるって証拠だ。気分がいいねぇ、下手な小細工さえも封じ込めちまうなんて。
得点は3対0のまんま、カベも藤間も、そしてみんなも手を抜いたというわけでもないだろうが、結果そのまま来てしまった。まあいいさ、下手に警戒されて、この後の試合で敬遠責めになるよりは。
そんな事を考えながら、カベのサインに従って投げること淡々と。あっというまに打者二人を三振に切って、最後の打者も……今、三振。今日は序盤の三イニング以外は三振をそこそこ奪ったような気がする。奪三振が多いイコール勝敗に直接繋がるということではないのは数々の野球の記録を見てみれば分かるけど、俺の場合は直結するんだよな。
しかし、だ。
最後の一球を投げ終えた瞬間、なぜか外野手連中が頬を紅潮させて駆け寄ってくる。そうか、こんな公立高校が一回戦を突破したこと自体が快挙なのだもんな、と考えてみて、その割には俺の周りに歓喜の輪ができかかっているのを
「おいおい、整列が先だぜ」
と制しながら頭を回転させると答えは簡単に導き出され、よもやと思って両チーム整列の前にスコアボードをちらりと仰ぎ見る。かくして、俺の予感は正しかった。
「ありがとうございましたっ!」
両チーム総勢三十二人がお互いの健闘を称え、握手を交わすが……どことなく相手ナインの俺を見る目がおかしい。何と表現すればよいのか……そう、まるで俺が本当の人間かどうかを疑っているような、端的に言えば一種の信じられない怪現象でも目の当たりにして、しかもそれの真偽を量りかねているといった風だ。ま、それも仕方がないか。
もう一度、スコアボードを見てみる。そういえば、投げている最中は全く実感が無かったな。一心不乱に投げていたせいなのか、余裕の試合運びの割には試合が終わってからこの事に気付くとは。気分が悪いと言えばもちろん嘘になるが、この長い甲子園の歴史の中で、ノーヒットノーランなんていくらでも例があるだろうし、名前に反して、正直そう珍しいとは露程つゆほどにも思っていなかった。むしろ、これからの日程について頭を巡らせていたりね。
……そう思っていたんだ、確かに。ダグアウト裏で開かれる各報道陣からのインタビューに移るまでは。
そのインタビュアーは、俺にマイクを向けるなりこう宣ったんだ。
「加藤くん、大記録達成ですね」
と。
「はあ、そうですか」
何とも気のない返事をしてしまったと思ったが、今までテレビでしか見たことがなかった舞台に自分自身が立っている事への現実感が湧いてなかったんだな。
俺の反応が平然としているとでも思ったのか、その人畜無害そうな顔をしたインタビュアー……恐らくこの試合を中継している公共放送局のアナウンサーだろう……は、逆に興奮を隠しきれないようでいた。
「夏の大会での完全試合は史上初ですが、それを達成したことに何か感想は?」
……史上初?ノーヒットノーランが?いや待て待て。今、このアナウンサーは『完全試合』と言って無かったか?俺の聞き間違いじゃなければ、の話だが。
「完全……試合?」
俺が聞き返したのを受け、インタビュアーは逆に一瞬呆気に取られたような顔をしたが、そこはやはりプロだ、
「はい、完全試合、しかも21奪三振の驚異的な記録です」
と、俺自身も驚くようなことを付け加えた。そういえば、今日は試合後、湯河原にスコアブックを見せてもらってないや。
「はー、そうですか」
俺も他人事のようにその記録を聞くだけ。そうか、21奪三振ねぇ。つまり、三振以外のアウトを6つしか取っていないって事か。それはそれで大した記録なんだろうと思う。とにかく自分がやったことの記録に対して実感がわかない。
この俺の反応に、一体全体どういう受け答えを期待していたのかは知らないが、その場にいた記者全体が困惑の表情を浮かべるばかりだった。
その後のインタビューは何を聞かれて何を喋ったか覚えていない。だが、躍起になってメモを取ったりレコーダーを差し向けている者も見かけなかったから、多分そうするに値しない内容と受け止められたんだろう。まあいいや、俺はプロじゃないし、コメントで目立ったってしょうがない。
粗方の仕事が終わって宿舎に戻ってこれたのは、それから更に時間が経ってから。宿舎の畳を踏みしめたとたんに荷物を取り落とし、大きく溜息を一つつく。こっちとしては一刻も早く眠ってしまいたかった。久方ぶりに身体を動かしたからか、いつものピッチングの後とは違って、身体にまとわりつくような重い疲れを覚えている。初戦と言うこともあって気持ちを張り詰めていたせいか、畳に敷いた布団に身を埋めると、瞼まぶたが瞬間的に閉じられ、意識が深い闇の底に沈んでいった。
試合が終わり、球場からここに戻ってくるまでの間、いろいろな事があったが……それを思い出すことすら面倒臭い。この時、俗世間では俺の快投ぶりに色めき立ち、実のところちょっとした臨時ニュースといった風情で世の中を席巻していたらしいのだが、それを俺自身が知るのは次の日だった。
風呂に入らなきゃという使命感のようなものが頭の片隅に浮かびはしたが、明日の朝イチにすればいいやと至極怠惰な結論で頭の片隅からも消し去ると、待っていたのは……心地よい睡魔だった。




