第15-01話
携帯電話のメモリーから番号を呼び出し、かける。
……僅かな時間の後に呼び出し音が鳴る。しかしそれもほんの僅か。つまり、相手がどれだけこの電話を待ち望んでいたかをも物語っている。
「もしもし」
「ああ……俺だ」
俺からの電話ということなど番号通知で既に分っているというのに、言わないと何故か自分だと認識してもらえないような気がしてついつい口に出してしまう。
「待ってたよ、お兄ちゃん」
「いつかけようかと思ったんだけど、やっぱりこのタイミングがいいかな、と思ってな。今一番声が聞きたい。お前の声から勇気が欲しかったから」
ウソ偽りのない気持ち。受話器越しだからこそ素直に伝えられるかも知れない想いだ。人はどうしてワンクッション置くと正直な気持ちを表現しやすいんだろう。例えば、電子メールであったりカメラのレンズ越しであったり……しかし、それ故にどことなく自分の気持ちにフィルタが掛かっていることも事実だ。直接相手の目の前で発する言葉と、受話気越しの言葉やキーボードで打った文字……文字にしてしまえば同じものを紡いだとしても、直接目と目が合っていないだけでこれだけ不安になるものなのか。
「何でも良い、話をしてくれないか」
受話器の向こうでしばらくの沈黙があった。困っている様子ではない。この限られた時間の中で何を話そうかと迷っているようだ。
「ん……とね、昨日までバイトと同じくらい宿題打ち込んでたんだよ。高校になってから授業が難しいから、たっくさん勉強しないとね」
「難しい……か。俺にはとんでもない謙遜に聞こえるけどな」
事実、真理の一学期の成績表を見た俺は、分かっていることとはいえ目眩を堪えるのに苦労した。上の下程度の学力を持つ真理にしてみれば、市内でも下から数えた方が早い学校のテストなんだから当然といえば当然だが。しかし参ったね、同じような授業とテストを受けたものの成績とはとても思えない。
真理は俺の考えを見透かしているのか、否定も謙遜もせずに、唯ひとつだけくすっと苦笑を漏らしただけだ。
「まあ良いことだな。夏休みの最終日に溜まりまくった宿題を大慌てで消化するよりは、最初に力を入れてたほうがどれ程楽か知れない」
そう、『知れない』。俺ももちろん『最終日にラストスパート……すればまだマシな方』な部類だから。
しかし真理は、
「それももちろんあるけど……ね」
と、何か含みを持たせた言い方に留めた。
「何だよ、気になる言い方だな……ま、いいや」
真理にどんな思惑があろうとも、それに突っ込まないのが俺流だ。
「他には?」
「ウチでお勉強会したの、舞依子ちゃんと梨魅ちゃんを誘って。そうしたら、舞依子ちゃんなんて『お兄さんが居なくて居心地が良いったらないわね』って……」
あは……は。あの子は最初から俺にツンツンしてたなぁ。特に恨まれる覚えはないんだけど……
「それから?」
「え?それから?……えーと、えーと」
真理はそれ以上の話をするべきかどうか逡巡してから、
「でもね、舞依子ちゃんったらその後」
「その後?」
「……『でも頑張って欲しいわね、折角甲子園まで行ったんだから』って、壁の方を向きながら言ったの」
ぷ。
くく。
「どうしたの?お兄ちゃん」
「はは、いや、何でもない」
いやいや、あの気の強そうな舞依子ちゃんが言ったその場面、実際に目で見たようにイメージできたのでついつい笑ってしまった。
「……」
「……」
そして、しばしの沈黙。話すネタは尽きないのに、話し出すタイミングと時間が尽きていた。
「さて、そろそろ……行くかな」
「うん」
まだ会話を切り上げるのは惜しいけど、時間が迫っている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
通話スイッチを押そうとした瞬間、真理の声が聞こえてすんでの所で踏みとどまる。しかし、真理はしばらく黙ったままだ。どうしたのかと思って呼びかける前に、
「あのね」
「うん」
「……」
「……」
またしばしの沈黙。流石に焦らなければいけない時間になってきた。
「真理?」
俺の問いかけに、真理はやっと
「お兄ちゃんの声が聞けて良かった」
と、嬉しいことを言ってくれた。そしてそれは同時に
「俺も。少しだけ声が聞きたかった」
俺の心情と同じでもある。とにかく、あの甘くてそれでいて透明感のある声を聞きたかった。携帯電話越しのために声がクリアじゃないのが惜しいところだ。かといって固定電話からかけるのも高いしな。
「同おんなじ、だねっ」
「ああ」
心が通じていたようで嬉しい。通じていたのは自信の錯覚かと思っていたから。でも俺にはそれだけの事実で良い。それだけで根拠のない自信が身体中に満ち溢れてくるのが分るから。
真理は確実に俺の欲するものを与えてくれる。でも、俺は何か与えてやれているだろうか?帰ったら話してみたいことがまた増えた。『また』というのも、家から、そして真理から離れているこの数日間だけで、脳裏にどれだけ語ってやりたいこと、教えてやりたいこと、聞きたいこと相談したいことが溜まってゆくから。
今頃気付いたけど、俺たちは普段何気ない感じで何気ない会話をしていて、しかもそれが重要だったんだな……と。どれだけ真理に甘えていたのか、とも。
「じゃあ」
「うん」
これ以上の未練を断ち切るためにも、ひと思いに通話ボタンを押した。『貴方から切って』『いや、キミから切ってくれ』なんてバカップルの押し問答を体現するつもりはないからな。
……さて。向こうでレガースを付けながら恐い顔してこっちを睨んでいるお兄さんがいるから、さっさと俺も準備をしますか。といっても後はスパイクのヒモを結ぶだけなんだけど。
これから、俺の一世一代の大舞台の幕が開く。相変わらず体調は良くないが、復活の兆しはある。要はその時まで如何に被害を最小限に抑えられるかに掛かっている訳だが、さて我が愛しの女房様はどんなリードをしてくれますことやら。
「さ、俺の方は良いぜ」
ばしっ、と野球少年らしくグラブを叩いて催促するが、
「……」
カベは横目で、じろっ、と目をくれただけだった。不機嫌そう……と見えるのはいつものことだとは思うけど、今日は何故かそれ以上目線がキツく見える。角度の加減か、それとも気のせいか。
「カベ?」
不安になって話しかける。が、何も言わない。こんな時間まで携帯で話し込んでいたのが気に障ったのか……人のこういった態度は全く慣れない。自分が犯してしまった過ちの可能性に素早く頭を巡らせてみるが……いかん、分らない。
カベは一旦頭こうべを項垂れたかと思いきや、次に頭を上げたときにはいつもの、つまりほんの少しだけ不機嫌な表情に戻っていた。
「行くか」
「あ、ああ」
一体、今までの張り詰めた空気は何だったのかと拍子抜けしてしまった。特に俺を責める台詞も無いから、本当に俺の思い過ごしだったのかも知れないが。
俺を先導するようにダグアウト通路を歩くカベの後ろ姿を見ながら、今はとにかく自分の仕事をきっちりこなすだけという当たり前の誓いをするだけだった。
そして、ベンチへの入り口を潜ると……
灼熱の、陽炎立ちのぼるグラウンド。
緑も目に鮮やかな芝生。
ボチボチの入りの白いスタンド。
銀傘。
そこには今まで映像でしか見たことの無かった世界があった。しばらく見入る、いや、魅入られる。
甲子園。
ここが甲子園。高校球児達の晴れ舞台。今まで、そしてこのグラウンドに出るまで特別な想いを抱いていなかった俺でさえ呼吸が止まってしまうような場所。何十年も前から高校球児の憧れの地であり、そして優しく見守り、時には祝福し時には牙を剥く、幾多のドラマを産んできたグラウンドだ。
今なら分る、この場所に魂を惹かれる人間が存在する事を。この場所にはある種の引力が発生している。それは決して物理的な物じゃないのは説明するまでもないだろうけど。とにかく説明するのがとても難しい力だ。
「聖、どうした?」
短くカベが叫んでようやく我に帰る。見れば、カベは既にホームベース上に立っていた。
「いや、立ちくらみがしちゃってな」
「圧倒されるのも分る。落ち着いていけ」
別に圧倒されてなんか……見透かされてるね。参った。緊張するなと言う方がおかしいけど、実のところスカウトが来ているのを見て動揺した去年よりはずっと冷静だ。ここまで『甲子園』というところを意識すると、逆に自分の感覚がリアルじゃないというか、だから冷静でいられるというか。とにかく深呼吸を数回。
……よし、俺は冷静だ。身体中にはなんの力みもない。ただ力が入らないだけだ。……かなり状態が悪いと言い換えても良いが。
マウンド上でぐるぐる肩を回し、軽く屈伸などをしてみる。その程度で身体に力が入るとは思わないが、何となくな。
頭上を見上げると、そこは夏らしいギラギラした青空。太陽だけじゃなく、青空自体が太陽の光を反射して純真無垢な高校球児を射ってるような、そんな感じ。
前を見れば、そこにはカベが居た。カベの後ろにはもちろん主審、そして更にその後ろには……観客の顔が見えて一瞬たじろいだ。そうか、甲子園はテレビで見も分るようにバックネット裏が少しだけ低いんだっけ……横浜スタジアムは、投手から見て少なくともバッターの頭上くらいまではフェンスの高さがあったからな。
いかん、そう考えると本当に緊張してきた。まだボールも投げていないというのに、これから先が思いやられるが。
「せーいー」
見かねたのか、カベが呆れたような物言いで俺を呼ぶ。慌てて投球動作に入ろうとするが、マスクの下の目が笑っていた。……お前が緊張するのもやむを得ない、そう優しく宥められているようで、ちょっとばかりくすぐったい。
よし、行くか。
悪いことは重なるもので、よりによって最も陽射しが強い昼間の第二試合だ。早くも額から汗が滲むが、拭くものはない。タオルでも持ってくれば良かったか……
ともあれ、ロージンを弄って集中開始。
球場の喧噪も、灼熱のグラウンド、もそしてすり鉢状になっている球場ならではの、湿った温風も……全てを意識の中に押し込めて、カベのサイン確認とキャッチャーミットに集中する。
考えてみれば随分久方ぶりにマサカリ投法のモーションを起こし、投球……!
しようとしたところで軸となる右脚がふらつき、投球動作を中止した。カベがそれを見て、慌ててマスクを脱いで走り寄ってくる。俺はといえば、カベ以外に体調不良を悟らせまいと必死に責任転嫁の対象を探し、挙げ句がつがつとマウンドをスパイクで削り始めた。
「聖」
マウンド付近までやって来たカベは、マスク越しからでも分るくらいに不安な表情をしていた。どうも、今日はカベの色々な顔を見られるな。
「お前、やっぱりダメなんじゃ」
「……多分、ね」
あっさり認めてしまった。どうせ隠したって、何回か投げる内に身体がフニャけているのがバレるだろう。むしろ、それを隠そうとしたときの後ろめたい気持ちの方が強くなるに決まってる。
「……」
……あはは。
苦笑いしてみるが……カベは呆れて物も言えないらしい。切れ長の目を大きく見開き、ぽかんと口を開けている。しかし。
「仕方のないやつだな」
最後には苦笑いをしながら肩をすくめ、戯おどけて見せた。本当に珍しい振る舞いだ。しかもこんな大舞台で。いささかも緊張の面持ちを見せないカベの精神は本当に凄いと思う。一本太い鋼の芯が入っている感じだ。
「それなら、リードは全てオレに任せるな?」
「もとよりそのつもりだ……って言うか、それ以外に方法が合ったっけ?」
カベはちょっと小首を傾げるような仕草をして……これも意外な仕草だ……
「無いな」
と、とびきりの笑顔で言い切った。本当なら突っ込みたくなるくらい明快に切り捨ててくれたけど、それよりもその笑顔が言葉にならないくらい透明感があって……見ているこちらが不安になるような、例えば……もちろん実際に目の当たりにしたことはないが、切腹を控えた武士が何の心残りもないと微笑んでいるような、そんな危うい笑顔だった。
「カ……」
既にキャッチャーボックスへと小走りで向かうカベの背中を見ると、呼び止めることすら躊躇われてしまった。
……いったい、この焦燥感はどこから来るのだろうか。分らない。全く理解しがたい予感だが、それは確実に俺の脳裏に刻み込まれようとしている。しかし、今はそれを奥底に、そして厳重に施錠しておくべきだ。
俺の仕事は何だ?
投げること。
カベを更なる高みへと押し上げること。
それだけなのだから。
試合開始が近づく。相手の打者がバッターボックスに入り、ヘルメットを取ってお辞儀をするというごく当たり前の風景が、去年の今頃と同じく嘘くさく感じた。
そして審判の右手が挙がり、試合開始のサイレンが響き渡る。
俺と、カベの長くも短い斗いが始まった。




