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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第13-06話




 朝。

 県大会二回戦を目前に控えた今日、部活は英気を養うために完全休養日だ。本来なら期末テストの勉強でもしなきゃならないところだろうが……生憎と勉学意欲が最低に近いほどの俺だから、端っから勉強などという選択肢は存在しなかった。

 そりゃ勉学は結果的に自分の選択肢を広げる事になりはするだろうが、俺の場合は最初から選択肢が一つか二つしかないようなもんだったからなぁ。

 というわけで昨日までの曇天も何処へやら、カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が眩しい。目に刺さる位に。この朝日に射抜かれて目が覚めたようなものだ。……あと、昼間の暑さを予言するかのような気温も目覚まし代わりにはもってこいだな、ふん。

 上半身を起こしたままぼーーーーー……っとする事数分。時計を見ると、そろそろ1階へ行かなければ例のアレがやってくる時間帯だが。

 今日はわざと『そうして』みたかった。

 そうこうしているうちに、

 とんとんとん……と階段を上がる軽やかな足音。

 足音が聞こえた瞬間タオルケットに潜り込み、寝たふりをする。

「お兄ちゃん、もう朝だよ?」

 と、ドアの向こうから優しく声を掛けてくるのはもちろん真理だ。最初はこうして優しく起こしてくれているが、調子に乗ってそのまま黙だんまりを決め込んでいると……

「入るよ、お兄ちゃん」

 こうして、がちゃりとドアを開けられて部屋に侵入され、

「お兄ちゃん、いつまで寝てるの?早く起きないと遅刻するよっ」

 と身体を揺すられることしばし。

 一向に起きない俺をどう思ったか、身体のシェイク止んでシーツの中からは何も聞こえなくなった……と思ったら。

 

 ぎし……

 

 と、ベッドに真理が腰掛けたと思しき感触。そして俺の身体をシーツの上から触り、

「……本当に眠ってるの?」

 と、起床させるにしては随分小さな声で呟いた後。

「起きないと……きす、しちゃうから。きゃっ!」

 『きす』の言葉で真理を押しのけ飛び起きた。

「お、起きてるんならちゃんと返事してよね!もう……」

 膨れっ面になっているのは、何に怒っているのか……俺が目覚めていたというウソにか、それとも……

「悪い悪い……今目が覚めたんだよ、ホントだぞ?」

 一応謝っておいた方がいいだろう。俺が不誠実だったのは確かなのだから。

「ふーん……」

 真理は半信半疑だ。

 そういえば、県大会が近づいてからはこうして話をする機会も少なかったな。練習で疲れて帰って来て、メシ食って風呂入って眠って……の繰り返しだった。まるで駄目な夫をやっているサラリーマンみたいだ。

「それはいいから早く朝御飯食べちゃってよお、遅刻しちゃうよ?」

「後片付けだったら、俺が帰ってきてからちゃんとやるから……たまの部活休みくらいゆっくりさせてくれよ」

「そういうことは本当の休日に言った方がいいんじゃない?」

「そうかも」

 素直に認めると、真理はいかにも『仕方がないな』という風に肩をすくめ、再びベッドに腰を掛けた。夏服の上にエプロンを着ている真理はいかにも涼しげで、起き抜けにはちょうど良い清々しさだ。

 俺の瞳を何ともいえない目つきで見つめ続ける真理。なんだか……どきどきしてくるな。気分的に余裕があるのかどうかは知らないが、かなり心地がよいどきどき感なのも確かだ。真理が何かを喋ってくれればまた気が紛れるのだが、こうして起き抜けの、決して見られたものではないだろう俺の顔を優しく見つめられていると、彼氏が恋人に優しく見つめられている……を追い越して、息子が母親に起床を見守られている……辺りにまで錯覚してしまった。

「……」

「……」

 しばらくの間、無言で見つめ合う。その内、俺の胸の内に何かしらの温泉が湧き出るような、そんな奇妙なじんわりとした温かい感覚が驚くべき次の一言を言わせたんだ。

「今日……学校をエスケープして遊びに行かないか?」

 真理は唖然とした表情。

 それはつまり優等生の真理にとって不良行為以外の何物でもなく、言ってから後悔しかけたが……

「うん」

 と、小さく頷いた。

「え……」

 まさかイエスが帰ってくるとは思わなかったから、こっちの方がオドロキだ。

「たまには……悪いこともしてみたいかな、なんて」

 ぺろ、と小さな舌を出すその姿が愛らしくて堪らない。そっか、優等生なんてのは俺の勝手な想像でしかないのかもな。中間テストの成績があまりにも出来過ぎだったから、ついつい学校では勉学一筋に励んでいるとしか。……よく考えたら、五塚程度で主席を取ったって社会地位的にあまり意味はないよな。そんなものを気にする真理とも思えないけど。

「そっか」

 てっきり妹から説教を喰らうハメになると思っていたから、安堵感は大きかった。起きたばかりだというのに再び寝込みそうになるくらい緊張の一瞬を過ごしたぞ。

「で、どっか行きたいところはあるか?」

「……んーっと」

 唇に人差し指を当てて考える仕草もまた愛らしい。こんなに良い子と遊びに行けるなら、俺は何処だって良い。

「お兄ちゃんが見つかって補導でもされたら大事おおごとでしょ?だから……ちょっと遠くがいいな」

「遠く……か。でも遠くって?」

「んー……こんなに良い天気なんだから、海に行きたいな。泳ぎたいって訳じゃないけど、何となく……海が見たいの」

 海、かぁ。

「じゃあ横浜の方まで行ってみるか?」

 真理にそう言われると、俺まで海を見に行きたくなってしまった。

「うんっ」

 大きく頷く真理。満面の笑みが眩しいぜ……真理の愛らしさを形容しだしたら、どんな語彙を持っている人間でも言葉が涸れちまうに違いない。。

「そこで一つ問題があるが」

「うん」

「どうやって学校をサボるか、だな」

「制服のまま家を出て、どこかのトイレで着替えていくとか」

「それもアリだが……一昔前の不良じゃないんだから、ちょっと遠慮したいな」

 二人して頭を捻る。しかし最終的に出した結論は。

「まあ学校の方にはどうとでも言い訳がつくだろうけど、やっぱり姉さんにはきちんと話をしておきたい」

「きちんと……って?学校をずる休みしますって言うの?」

「ああ。もし怒られたらそのまま学校に行く。むしろ怒られる方が当たり前だからな。下校してから遊びに行けばいいや」

「……そうだね」

 真理にとっては学校をサボる事そのものよりも、姉さんにウソをついて家を抜け出す事の方が心が痛むのだろう。後ろめたさを抱えたまま遊ぶっていうのも心から楽しめないだろうしな。ここで忘れちゃいけない二人に共通している認識とは、『学校は休んでもいい』っていう点だ。ま、真理は一日くらい休んだって全く平気というか自習でもしていた方が学力はずっと付くだろうし、俺の方は今や勉学そのものにすら意味を見い出せない。要するに『そちらの選択肢は既に閉ざされている』ってことだ。もはやどうでも良いけど。


 着替える前に姉さんに言っておかなければ……と二人して階段を下りる。すると、姉さんは丁度出かける支度をしている所だった。

「あら……二人してどうしたの?まだ着替えてないなんて……」

 姉さんは訝しげな表情で二人揃った弟と妹を見る。その時点である程度の察しは付いているんだろうな、きっと。

「実は……」

 真理に目配せし、頷くのを見てから

「今日は自主休講にして課外学習でもしようかな……なんて思ってるんだ」

 少々茶化した言い方になってしまったのは、正直に言えない俺の根性無しのせいだ。だって姉さんと来たら……

「……」

 何も言わずに腰に手を当てて俺たちを見つめているんだぜ。無表情で。瞬時に怒られるなり何なりしてもらった方がよっぽどマシだぞ、こりゃ。と思ったら、案の定

「貴方たち、自分たちがどんな事をしようとしているか分かっているの?」

 と静かに、しかしはっきりと怒気を含んだ口調だ。下手に怒鳴られるよりもよっぽど恐い。

「……」

「……」

 二人とも黙ってしまった。この家の年長だけあって本当に母親に怒られている気になる。そんな経験は勿論無いが。それにはっきり言って姉さんに失礼極まりないな。

 とにかく二人が萎縮していると……ふう、と姉さんが大きな溜息をつく。その溜息に乗せ、刺々しい空気が姉さんからすぽっと抜け出たような気もした。

 だからといって、

「いいわ」

「え?」

「行ってらっしゃい」

 こんな言葉を聞けるとは到底思っていなかった。いや、ちょっとは期待してたけど。

「基本的には真面目な聖くんと真理がそんなことを言うぐらいなんだから、二人にとってとっても重要な時間を過ごしたいと思っんでしょう?」

「うん……」

 真理は信じられないというような顔。優しくも厳しい姉さんだから無理もない。が、姉さんは厳しくも優しい。だから許してくれた。

「本来、自分に保護者役としての自覚があるならこんな事を許可して良い筈がないわ。でもね……」

 姉さんはそう言って少し俯き、そして顔を再び上げた時には顔一面に悪戯っぽい笑みを浮かべて

「私だって、高校の時にはズル休みくらいしたもの」

 と、小さく舌を出した。その仕草がとっても真理に似ていたからびっくりした。思わず隣の真理を見てしまう。

「学校よりも優先されると思うなら行ってらっしゃい。その代わり」

 一瞬、普段の厳しさを感じられる顔つきに戻って

「今回一度だけなんだからね」

 と、最後にはやさし~く忠告してくれたのだった。



 横浜、港の見える丘公園。遠くにベイブリッジを望む光景は、梅雨には似付かないくらいの清々しい青空のお陰もあって絶景かな絶景かな。風に乗って潮が薫ってくるようだ。

 それにしても俺は横浜好きだなとつくづく思うが、果たしてこの異国情緒溢れる港町に惹かれてしまうのはいったい何の暗示なのか。歴史ある名跡と洗練された都会、その二つが織り成す雰囲気が魅力なのは確かだな。

 そんな横浜は良い。ただ一つ、今日の難点なのは……

「熱い」

 口に出して言えば一緒だが、『暑い』ではなく『熱い』。鼻から吸い込む空気そのものが灼け爛れているかの如く。

 真理はこの暑さにもめげることなく海を眺め続けている。周囲には観光客がそこそこ居るから、俺を知っている人間が居ないかどうか少々心配だが、その時はその時だ。第一、観光客は景色を見ているから観光客なんだ。俺等の方に注意を払っている場合じゃあるまい。


 とりあえず、家から地元の駅までは姉さんが車で送っていってくれたのは有り難かった。補導なんかされたらバカみたいだからな。オマケに試合が目前に控えているというのに。そんな中で学校をズル休みしてまで遊びに行くというのもなかなかスリルがある行為ではある。なにより、真理と一緒にイケない行為をしているという事そのものが楽しい。

「暑いけど……でも見て見てー。良い景色だよ」

 真理は高台の手すりに手を掛けて景色に目を輝かせている。今日のお召し物はいつしか見た……去年俺と動物園に行ったときと同じものだろう……純白の涼しげなワンピース。はしゃぐ度に裾がひらひら揺れているから、見せなくて良いものを見られやしないか気が気じゃない。

 だけど確かに景色は良い。そういうのがウリの場所だからな……こう考える俺はやっぱりひねくれ者だ。真理を相手に何をひねくれる必要があるのかとも……

「今日は空気が澄んでるから遠くまで見えるねぇ」

 手すりから身を乗り出さんばかりにはしゃぐ真理。熱いのにも関わらず元気な奴だ。取りあえず隣へ行って横顔を見ると、本当に楽しそうに笑っている。正直言って眩しすぎて見ちゃいられない。

「ところで……いつまでここで観光してるんだ?」

「あー、どうしてそんな事言うの?折角の良い景色なのに」

「とは言ってもなぁ……」

 折角二人で居るのだから、もう少し話をしたいだけという言葉を何故か飲み込んで

「ほ、ほら、暑いだろ?もっと涼しいところへ行こうぜ。お前はそんなに身体が丈夫な方じゃないんだから」

「……それもそうね。どこかでお茶でも飲もっか」

 一応、俺に身体を気遣われているという解釈をしてくれたのか、大人しく手すりから離れる。腕時計を見るとまだ朝の10時。昼飯にも早いしなあ……よくよく考えてみると『横浜で遊ぶ』なんて言っても、中華街でメシ喰うか横浜公園で氷川丸を見るくらいしか知らない俺なのだった。

 

 結局、中華街でお茶をする事になった。

 メシもここで食うことしか頭にない以上、お茶をした後どこで遊ぶか……と考えたが、まあ色々あるだろう。ここからまた移動しなくても、『横浜大世界』なるものあるようだし。

 さて、俺たちが腰を落ち着けている喫茶店だが、普通のいわゆるマスターが居て、コーヒーを飲ませてという場所ではなく純粋に一杯四桁に近い中国茶を悦しむような店だ。折角入ったのだから、と一杯千円の茶を飲んでいるところだ。

 夏本番も近いとはいえ、平日だから店内に客はまばら。しかしそのお陰で二人ゆっくりとお茶を飲みながら話すことが出来る。普段家の中で話そうと思えば出来るが、こうして出先で会話をする事自体に意義があるんだ。

「それにしても」

「ん?」

 見れば、真理は茶に口を付けつつも上目遣いで俺をちらちら見ている。そんな風に飲んだら折角の茶の味が分からないだろうが。

「お兄ちゃんから誘ってくれて嬉しかったな……」

「ああ……それにしてもお前が乗ってくるとは思わなかったぜ」

「どうして?」

「そりゃ……真理は真面目そうに見えるからなぁ、やっぱり」

「私ってそんなに堅物っぽく見える?」

 不服そうな顔で口を尖らせる。真面目と言われて不服なんて、だったら不真面目と言われた方がいいのか?

「そういう意味じゃなくてだな、こう……何というか、常識というか、社会通念に外れる行為に乗って来るとは思わなかったんだ」

「……私だって、たまにはこういうことしてみたかったんだもん。でも、それがお兄ちゃんとだったから……」

 つまり、今まではサボりなど一切有り得なかったのか。その相手が俺だったからこそ、ここへ来たと。

「それに」

 真理は俯きながら短く呟き、急にもじもじし出す。

「お兄ちゃんが誘ってくれなかったら、私の方から誘おうかな……なんて考えてたんだよ?」

「真理……」

「何でだか分かる?」

 上目遣いを崩さず、俺に何らかの返答を期待している。でも……

「俺が分かるはず無いじゃないか」

「本当にそう思う?」

 ……っていうことは、俺が少なからず関係している……のか。

「お兄ちゃん……自分では気付かないだろうけど、また『恐い顔』になってたんだよ」

 『恐い顔』か。言い換えれば『余裕のない顔』。人間、周囲を悠々と見渡せる余裕が無くて大局的にものを組み立てられるわけがない。

 例えると、平均台の上で足元を見ながら歩くとフラつくが、視線を前方に向けるとしっかり歩ける……みたいなものだろうか。

「私、お兄ちゃんの恐い顔見るのが嫌いだから……」

「……そうか」

 真理には感謝してもし足りない。そして俺は……何度同じ轍を踏めば気が済むのか。その度にこうして真理に気遣われている。

「ありがとな、真理」

 心から素直に感謝の言葉が口をついた。言ってから、実にスムーズに人に感謝できたのは数えるほどしかないと気付いて自分でも驚いた。

「ううん……だって、お兄ちゃんの為だもん」

 はにかみ、頬を染める真理。そのいじましい表情を目の当たりにした瞬間、胸の辺りがちくちくするような、それで居て心地良い忘れかけていたあの感触が蘇る。


 つまりそれは。


「お兄ちゃん?」

 真理が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。

「い、いや何でもない。それより、出ようか」

「う、うん……」

 とにかく行動して今の痛みを忘れることにしよう。……きっと、再び思い出しては胸が苦しく、締め付けられてしまうのだろうけど。

 ……俺の心にはある確信めいたものが宿りつつある。



 それからしばらく、頭の中をカラッポにして遊び回った。食べて、遊んで、歩いて……時間が経つのも忘れる程に。気付いたとき周囲は既に鮮やかな夕焼け小焼け。暑かった陽射しもようやくその厳しさを和らげようとしているところだ。

 俺たちは再び横浜公園に戻り、ライトアップされた氷川丸をぼーっと眺めながらベンチで休んでいた。遊びまくったせいで疲れたが、決して明日の試合に影響のある疲れ方でないと分かるのがなんとも不思議だった。

 明るいうちは家族連れもカップルも沢山居たが、日が暮れるにつれ徐々にカップルの比率が高くなって行く。俺たちは家族連れとカップルどちらに見えるのかな……と左隣に座っている真理を横目でちらりと見ると……目が合っちまって慌ててお互いに目を逸らす。家で会話をしているときはしょっちゅう視線を重ねているはずなのに、今のそれは意味合いが違っていた。

 ……緊張、するなぁ。

 思えば、俺は女の子とデートの真似事など去年までしたことがなかったから、いざこうして二人きりになる機会も必然的に無かった訳で。

 意識すればするほど緊張する……というのはこの時のことだろう。二人して黙り込んでしまい、空が暮れるのに任せるまま時間が過ぎて……ふと気がつけばもう夜の帳が落ちていた。七月でこの暗さということは。


 時計を見ると既に七時を回っていた。


「ま、真理」

「はいっ」

 声を掛けると、真理の身体がびくっと反応する。急に声を掛けたからだろうか……俺まで緊張するから止めてくれ。

「そろそろ帰るか。時間も時間だし」

「うん……」

 明らかに残念そうな口ぶりだが、今日は遊び回った分早めに床に着かないと明日が辛いだろう、俺も真理も。

 理屈では分かっていても真理の身体はなかなか動かない。強引に引っ張っていくことも出来ず、所在なさげに周りを見渡してみると……ピンク色のハートマークが似合いそうな、いかにも甘々でねちっこい空気が充満していた。あちこちから唇をちゅっちゅやりまくっている音が聞こえそうだ。

「あはは……横浜公園ってこんなにハッテン場的な場所だったっけ?」

 戯おどけて言ったつもりが却って真理の頬を染める方向に動いた。真理は辺りをきょろきょろ見回しては視線を泳がせ、明らかに落ち着きを失っている。

 そんな初々しい姿を見せられては、俺の鼓動が加速していくのを誰が止められようか。もちろん俺にも出来ない。ただでさえある確信をさっき抱いたばかりなのに。

 と。

 太股の上に置いていた左手に、肌が触れる感触があった。

 見ると、

「……!」

 真理が右手で俺の左手を掴んでいる。真理の顔は俯いていてよく見えないが……ただただ困惑。

「お前な……そんなことしてたら勘違いしちまうぞ?」

 冗談めかして言った。いや、正確には冗談めかしてでしか言える度胸がなかった、とするべきか。

「いいよ」

「何?」

「お兄ちゃんが良ければ、良いよ」

 基本的に主語が無い会話だけど、二人は『何を』勘違いするのか、『何が』良いのかはっきり分かっていた。

「……」

「……」

 しばらく無言のままで手を重ね合っていると、驚いたことに真理の方から身を寄せてきた。必然的に密着する体勢になる。真理の薄手のワンピースから、二の腕にはっきりと小ぶりな胸の感触が生々しい体温と共に伝わる。と同時に、一気にアルコールを摂取したときにも似たような心地良い頭の痺れが襲い、正常な思考が奪われる……のを必死で堪えていた。人がこれだけの自制心を持てたら世の中に犯罪など一つも無くなっちまうだろう程に。

「帰ろう」

「あ……」

 そこでとうとう耐えられなくなって強引に腕を引き剥がして立ち上がる。何故我慢しなければならないのかという葛藤は取りあえず置いておきながらも、今はこのまま流されてはダメだということだけは理解できた。あと少し、あと少しだけの我慢だ。この夏を乗り切れば、俺は自分に正直に生きることができる。それまで……あと一ヶ月程度……自分を殺す。打者をねじ伏せカベに従う投手マシーン(ピッチングマシーンに非ズ)に成りきる。


 だから今は。


「帰ろう、真理。今日はただでさえズル休みしてきたんだからな」

 俺の意図を酌んでくれたのかどうか……いやきっと酌んでくれたと信じたい。こんな時にだけ真理に『物分かりの良い子』を強要するのは気が引けるが、とにかくあと少しだけの辛抱だ。……辛抱して、自分に正直に生きて、そして何をしたいのかはイマイチ分からないけれど。

「……はい」

 素直に俺の言葉に従う真理は……一瞬、ほんの一瞬、注意してみなければ分からない程の間泣きそうになり、そして満面の笑顔に変わった。ひょっとしたら、今の瞬間の泣きそうな顔は……俺に見て欲しくない、この程度の間だったら気付かれないと思ったと思ったのかも知れない。


 それほど、見ていて辛い顔をしてた。


 それでも……帰りがけ、横浜公園から石川町駅に向かっている間だけは手を繋げていたのだった……。

 小さな掌から伝わる温もりは、言葉よりも雄弁に俺を元気づけてくれる。

 曰く、

『お兄ちゃん、頑張ってね』

 と。

 

 そんな無垢な瞳に対して俺が何を返してやれるのかというと……

「あ」

 小さな手をぎゅっと握り返し、これからの完全燃焼を誓う事ぐらいだった。



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