第12-02話
夏の大会が目前に迫り、いよいよ練習にも熱が入ってくる時期だ。
……ただしそれも天候次第。
そう言っているとおり、昨今はイマイチ天候がよろしくない……といっても、梅雨なのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
その辺りは皆平等なのだし……と慰めてみても、やはり大きな屋内練習場を持つ名門校とはどうしても全体練習に差が付きがちだ。そこで、と工夫を凝らそうにも、狭い校内では、体育館下のピロティでせめてもの筋力トレーニングと、トスバッティングを行う位しか練習が思い浮かばない。
……だが、あくまでそれは一般の選手の話。俺とカベはというと……その雨の中、ぐしゃぐしゃになったグラウンドの中でさえも投球練習を続けていた。結局の所、俺たちにはこれ位しか練習の方法が無いんだ。もう7月も近いだけに、雨に降られても寒くて風邪を引くなんて事はないし、用心のために下校前にシャワーを浴び、衣類を総取っ替えしてから帰ので、悪寒を覚えるとかいった類の、体調不良を覚えるなどは全く起きなかった。しかし、第三者から見たら……びしょ濡れになりながら特訓を続けている姿は、青春と感じるか気が触れているかどちらかとしか取られないだろうなぁ……きっと後者が多いことは想像に難くないが。
そんな過酷な練習の後のささやかな幸福のひととき、それは真理と一緒に下校するひととき。……といっても、真理のバイトのシフトが入っていない日に限るが……今日はちょうどバイトが入ってる日だから、寂しく一人でご帰宅だ。どうせだからカベを誘って『蒼空亭』で腹ごしらえをしてから帰ろうとしたが、カベの姿はどこにも見えず。一緒に着替えていたはずなのだが、いつの間にどこへ行ったのか……
部室を出る寸前、傘を持っていない事に気が付いた。朝練に出る時間は雨が降っていなかったから、そのまま家を出てしまったんだっけ……間抜けだな、俺は。今の今まで雨に濡れて練習をしていたというのに。
仕方がないので、一人寂しく濡れながらの下校の途へ付く。真理が入学してくるまでは、むしろそれが当然だったんだけどな……節操なしと言われればそれまでだ。女が苦手と散々言っておいて、実際がこれだからな。
しかし、神様はそんな『明るく楽しい、健全な青春な下校タイム』に馴れてしまった俺を哀れんだのか、かなり余計な救いの手を差し伸べてくれやがったのだ。その救いの手ととは……
「加藤くんっ」
校門の裏に隠れていやがった、河村だ。もちろん。その姿を見た瞬間、思いっきり、それも嫌みったらしく溜息をついてやったが、河村には全く意図が届いていないらしく、ぴょんっと道に跳び出てきやがった。着地した瞬間に、地面の水がぴしゃり、と跳ねる。余計なことをするなよ、全く。
「何の用だよ」
「分かってるクセに」
それにしても、わざわざ外で傘を差して待っているとは……昇降口や部室の近くとか、雨宿りできる場所を適当に見繕っていればいいのに。……一応、俺に気を遣ってくれているのか……好意的に解釈をすれば。
「はい」
傘を俺の方に傾け、『入っていけ』のサイン。
「じゃあな」
「ちょ、ちょっと!」
そのまま潔くスルーしてしまおうかと思ったが、河村が俺のYシャツの裾を掴んだ。
「何だよ……」
「素直に入っていけば?濡れちゃうでしょう?」
「別に……急いで家に帰ってシャワーでも浴びれば済む話だし」
「あのね……せっかくこんなに可愛い女の子が“相合い傘しよう”って誘ってるのよ?素直に好意を受けたらどう?」
「好意……ねえ」
この前……“河村が加藤家にやってきた”時だ……如何に僅かながらも気を許してしまったとはいえ、河村の行動にはまだまだ不明な部分が多い。
「じゃあ、この前車で送ってくれたお礼、ってことにしようかな」
「それなら、タクシーでも捕まえてくれないとチャラにならないぜ」
「……そんなにイヤなの?私と相合い傘するの……」
ぐすん、と芝居がかった泣き真似をする。考えてみれば……このまま貸しを作ったままにしておくのもどうかな……とは思う。それで河村の気が晴れるなら……という言い訳も出来るし、何より濡れるよりは濡れない方が良いに決まっている。
「加藤くんの身体は大切なものなんでしょう?それだったら、少しでもリスクが少ない方が良いと思うんだけどなぁ……」
……確かに、投手にとって肩を冷やすのは御法度だ。かといって、河村と肩を寄せ合って歩くのも……なあ。
「どうするの?」
若干、ムッとした顔つきで聞いてくる。自分が誘えば、十中八九はホイホイ付いてくると思っていたからなのか、少しだけ気分を害したようだ。そもそも、ここで立ち話をしていると……同じく部活帰りの生徒の視線が痛い。校内では恐らく一番顔を知られている俺と、美貌の出戻り転入生として校内でも同じく有名になっているらしい河村が会話をしてるんだ、人目を引いて当然だ。
「分かったよ……お前の家まででいいから」
河村の家は……この前、車で送ったときに彼女を下ろした地点が近場なのなら、だが……街中で、加藤家はその少し外れだ。
「なに水臭いこと言ってるの。加藤くんの家まで入れていってあげるわ」
「面倒だろうに」
「いいのよ、そんなこと。さ、行きましょっ」
業を煮やした河村は、とうとう俺の左腕を引っ掴み、強引に傘に入れてしまった。ま、いいか。もう悩むのすら億劫だ。
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「どう?練習は」
「まあまあ……としか言えないな」
「ふうん……そういえば、加藤くんクラスの選手になれば、雑誌の取材の申し込みとかいっぱい来るんじゃないの?」
「……ないな、一度も」
「ふーん」
河村は意外そうだが、実際、俺には実績らしい実績と呼べるものは、去年の県大会準優勝しか無い。秋季大会予選敗退、春の大会も惨敗、おまけに横浜学院には三下扱い。そんな不安定な投手より、活躍しそうで喋りも上手い選手はいくらでも存在するだろう。
「じゃあ……スカウトとかは?」
「……今のところ話は来てない……らしい」
「らしい?」
河村が可愛らしく小首を傾げる。狙ってやっているのかはたまた素なのか、凶悪的に可愛いったらありゃしない。
「野球界の決まり事で、選手に直接声を掛けることは禁止されてるって話だ。だから、まずは野球部の顧問なり監督なりに話が行って、選手の耳に届くんだったら、そのルートからしかないらしい」
「へえ……」
俺も大人の世界の都合など良く知らないが、とにかく建前上はそうなっているらしい。あくまで建前上は、だけど。要するに、建前破ってまで接触するほどの選手でもないんだろ、俺は。
河村の相づちで、会話が途切れた。
……どうにも、妙な雰囲気だ。心なしか、河村の頬が赤い……と思ったのも束の間、河村の肩が濡れていた。女性ものの傘だからサイズが小さく、肩を寄せ合うほどに接近していてもはみ出てしまうらしい。……つまり、俺がきっちりと全身傘に入っていて、河村が押し出されているわけだ。
「傘、俺が持つ」
「あ」
有無を言わせず傘を河村の小さな手から奪い取り、左手でそれを持ち、自分は河村の左に移動する。これなら、右腕を庇いつつ河村の肩を濡らさずに済む。……その代わり、今度濡れるのは俺の左肩だが。
「駄目よ、それだと加藤くんが風邪引いちゃう……」
「俺は別に構わない……っていうか、そんなにヤワじゃないし。それより、女の子が身体を冷やす事の方がもっと悪い」
河村がじっと俺の目を見ている。自分で言っておいて、失敗したかな、と反省した。あからさまにいい人を演じてしまったか……と思いきや。
「女の子扱いしてくれるんだね」
「当たり前だろ……お前は自分を何だと思ってるんだ」
「うーんと、……いけ好かない女?」
「よく分かってるじゃないか。感心感心」
「あー、酷いっ!そこは否定してくれても良さそうなものなのに」
「俺は素直なんだよ……時と都合によって偏屈にもなるけどな」
「要するに気分屋ってことなんじゃない」
くす、っと笑う。不意に、心の奥がずきっと疼く。まるで古傷が雨の日に痛むような……事実今日は雨降りだが……そんな感じ。やはり、好みの顔には敵わない……そう、自分で解釈しておいた。
……五塚の丘を降りた頃になって。
どじゃー……っと、シャレにならない程の降水量になった。最早傘など差していてもいなくてもお構いなしなくらいの、横殴りの暴風雨。今日は夕方から雨が強まるとは聞いていたが、これ程までとは。天気予報士は、『だから“予報”と言ってるのです』と言い逃れをするのだろうが。
「ちょ、ちょっと、これは……きゃっ」
ぶしゃあっ!っと、自動車が水たまりを跳ね上げ、もろに俺たちに水が掛かった。バカヤロー、こういう状況で水たまりがあったら、減速するはドライバーの義務なんじゃねぇのかい!アンタの通っていた自動車教習所では、そんな風に教えてたのか!と毒突いてみたところで始まらない。
「ふぇ……」
「これが所謂濡れ鼠というヤツだな」
始まらないどころか、むしろ終わっているというか……
「酷いなぁ……家はもうすぐだけど、ちょっと雨宿りしたいな……携帯が壊れちゃうよお」
哀れ、河村は頭からつま先までずぶ濡れ。茶色のローファーが焦げ茶色に変わっている。
「俺もだ……買ったばかりだからな」
と、ズボンのポケットに入れてあった携帯を取り出……さない。今取り出したら、確実に濡れて故障する。
「で、雨宿りすると言っても何処でするんだ……こんなずぶ濡れじゃどの店に行ったって迷惑を掛けるだけだぞ……」
「かといって、軒下を借りるだけだと……」
ぶしゃあああ。
「全く意味がないと」
「その通り」
再び、水たまりシャワーの洗礼を浴びた。もう怒る気力もない。
「そうだ、一箇所だけ心当たりがあるわ。屋根、乾燥機付きの場所が」
「ほう」
随分と都合の良い場所のようだが……その時、河村の心当たりの場所とは、せいぜいカラオケ程度を思い浮かべていたのだ。なるほど、カラオケなら適当に時間も潰せて喉の渇きも空腹も癒せる。しかし、乾燥機が置いてあるとは妙なカラオケ屋だな……としか。よく考えればカラオケ屋でないことなどすぐに分かりそうなものだが、今はとにかく雨を避けることにしか頭が回っていない。
「じゃあさ、行こうか」
「おう」
怒る気力どころか、練習の疲れからか正常に考える力すら奪われていたから、素直に河村の導くままに街中、そして街の外れへ。こんな所にカラオケボックスなんてあったのか、と首を捻ってみるが、そもそも俺はカラオケとは縁がないからな……音楽は殆ど聴かないし、増してや流行曲なんて……
ふと気がつくと、俺の前に立って歩いていた河村の歩みが、ある建物の前で止まっている。着いたのか、と思って見上げてみると……
それは紛う事なき……その……『ある種のホテル』だった。場末のあざとくドぎつい建物ではなく、あくまでフツーのビジネスホテルと変わらない風を装ってはいるが、建物全体から漂う『空気』が違う。それは、男女がお互いの獣欲をむき出しにし、生殖行為の営みを体現しているかのような、ピンク色の空気にさえ見える。
「ここって……」
「ラブホテルよ、所謂」
……はっきり言いやがったな。人が折角ボカそうとしているのに。
「ここは乾燥機付きだし、シャワーも浴びられるわ」
ははは、なるほど、確かにそうだ。この類のホテルには一・度・し・か・入った経験が無いが、確かに様々な設備は充実していた。俺が入ったところは流石に乾燥機は無かったが、いろいろ……、色々な意味での色々な物が置いてあったな。冷蔵庫やテレビゲームはおろか、カラオケはもちろん、それこそ口に出すのも憚られるような……
「さ、立ち尽くしてないで早く入ろっ」
分からない。わざわざこんな所まで連れてきておいて、何の冗談のつもりなのだろうか。恐らく、鼻の下を伸ばしてほいほい付いていって、いざ事に及ぶ寸前になったら辛辣な言葉を浴びせかけて罵倒する気なんだろう。
「そうだな」
狙いが読めたから、あえて乗ってやることにした。こうすれば、罵倒される直前で『お前の考えていることなどお見通しだわ、はっはっはっ!』と、裏をかいてやれる。……それに、一度は許してやらなくもないと思った河村が、再びこういった強硬手段に出た事への苛立ちも重なっていた。
それ以前に、ラブホテルの前で女の子と二人でいる光景を見られる事自体がかなり危険なのだが……復讐心に凝り固まった俺に冷静な思考など出来るはずもない。つくづく……俺はなんと情けなく小さい男だろうしかし、今は自分の器の小ささにも考えが回っていない。
ずかずかと中に踏み込み、とっとと部屋を……部屋を選ぼうとするが、一体金は誰が出すのか考えてしまい、ボタンを押そうとした手が止まった。急いで自分の財布の中身を思い出してみるが……どう考えても5千円札一枚程度しか入ってない。
「気にしないで。私が払うから、好きな部屋でいいよ」
「そうか」
河村を貶めるのに、わざわざ自分の懐を痛めることもないよな……と安堵しつつ、それでも一応気を遣い、安めの部屋にしておいた。もし……万が一だが、河村が本当に純粋な意味で休憩したかっただけなら、そんな高価たかい部屋に入ってもムダだ。
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部屋に入ると、ベッドにどっかりと腰を下ろした。……何だか妙な……身体中にねっとりとまとわりつくような疲れを感じる。ここまで、河村と歩いてきた事自体が疲れたんだな……只でさえ、猛練習の後だというのに。
河村も俺の隣りにちょこんと座り、もの珍しそうに部屋の中を眺めている。
「何がそんなに珍しいんだ」
「ん……別に」
俺を引っ張ってくる位なのだから、まさか来るのが初めてではあるまい。まあ、場所によって全然設備が違って当たり前だから、珍しいモノがあっても不思議は……しかし、珍しがるほどのものは無いような……
折角だから、とYシャツとズボンを勢いよく脱ぎ捨て、適当に乾燥機に突っ込む。
「乾燥機……使わないのか?お前の方からわざわざ置いてあるって言ってきたのに」
「え?あ、うん」
声を掛けると、河村はおずおずとシャツに手を掛けた。
(こいつ……やっぱりその気なのか?)
俺をからかう為なら、自分の素肌を晒すくらいはなんでもないのか。
河村がシャツをめくり上げる寸前に、
「シャワー浴びてくる」
と、俺の方が慌ててシャワールームへ飛び込んだ。
(はぁ……はぁ……)
心臓に手をあてがうと、尋常ではないくらいに鼓動が早くなっている。あのままストリップを見物していたら、間違いなく……
どんな目的と思惑があろうが、今、俺は……河村とラブホテルに一緒にいる。その奇妙な事実が冷静な思考を消し去ろうとしているが……何とか踏みとどまる。ここで理性に負けたら、それこそあいつの思う壷だ。
トランクスは濡れているに任せ、それを勢いよく脱ぎ捨てシャワールームの外にほっぽり出す。そして熱い湯で身体を流すと、今日の疲れと劣情さえも排水溝から流れ出てしまうような気がした。……いや、流れ出ていって欲しい。目を閉じ、熱い湯が流れ出るのに任せて……あ、熱っ!
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・
・
熱い湯を浴びながら頭を冷やすという器用さで、とにもかくにも頭をスッキリさせると……いや、スッキリしたと自分に言い聞かせると、ようやくシャワールームから出る気になった。
河村は……ベッドに腰掛け、シーツを身体に巻いたまま、俺の顔を見た途端に身体をビク付かせた。
「入れよ」
アゴでシャワールームを示すと、
「う、うん……」
河村はシーツを纏ったままのろのろと立ち上がり、シャワールームへと消えていった。それを横目で見つつ、冷蔵庫からビールを取り出し、プルトップを開ける。
ぷしっ!
という小気味よい音が『その気』にさせた。練習後の空きっ腹喉に流し込んだから、熱いものが食堂を通って胃に流れ込んでゆく感覚が鮮明に感じられ、心地良い。
殆ど一気にビールを流し込み、空き缶をテーブルに置くと……ようやく一息付けたような気がした。ばふ、とベッドに上半身だけを倒し、ふかふかの布団に包まれていると、当たり前だが睡魔が襲いかかってくる……。遠くから聞こえるシャワーの水音もいつしか頭の中から消えていき、ふと意識が途切れかけたところで、シャワーの栓をひねる『きゅ』という音で目が覚めた。しばらくすると……
「お……」
部屋が真っ暗になった。河村が明かりを消したようだ。
今の今まで、目が明るさに馴れていたから何も見えん。安い部屋を選んだからか、窓の類が無いらしく、外の明かりも漏れていない。
「何で明かりを消した?」
問いかけてみるが、返事はない。ただ、河村が俺の傍を通り過ぎる気配がした。と思ったら、
ぱち。
ベッドのそばの蛍光灯の明かりを付けたようだ。と、そこには……
バスタオル一枚のみを身に纏った、濡れ髪のままの河村が居た。
タオルは、上は胸の谷間を隠すことが出来ず、下は……真っ白な太股の半ばまでをカバーしているに過ぎない。思いがけない格好に思わずごくり、とはしたない音を立て、生唾を嚥下してしまう。
「どうしたの?」
「いや……」
それからは河村を直視する事が出来ず、有線でも弄ってお茶を濁そうとした。……分かってる、完全にペースを握られてるのなど。
「早く、しよっ?」
「……は?」
「は?じゃないでしょ?時間が勿体ないよ」
……そ、そうか、そう来たか。こ、ここまでは全く予想の範囲内だな。どこで『バカじゃないの?』をぶつけてくるかだが。きっと、ギリギリまで引きつけておく腹づもりだろう、そっちの方が相手に与えるダメージは大きいからな。
「加藤くんだってその気なんでしょう?じゃなければ、こんな所まで付いてこないよね」
「それは……お前が心当たりがあるって言うから……」
「でもさ、少しくらいは……その気があるんでしょう?」
……お前に復讐するためだ。
なんて、とても言えないな。第一、俺はもう過去の事に囚われるのを止めたんじゃなかったのか。だからといって、過去のことは過去のこととして、河村の誘いを受け入れる?
……出来るわけがない。
「だ・か・ら」
「うおっ!?」
河村が俺を押し倒した。思いがけないほど強い力に面食らい、そのままふかふかの布団の中に二人して倒れ込む……と同時に、俺の唇に柔らかい感触が重なった。
(な、なっ……!)
間髪入れずに唇をこじ開け、今度は舌が侵入してきた。女の子に押し倒されるという異常な展開……真理を押し倒し、犯そうとした人間の言う事じゃないが……に、脳が焼き切れそうだ。いや、それだけじゃない。侵入してきた河村の舌が俺の舌を、歯を、頬を内側から嬲る、その熱い感触も正常な思考を奪おうとするかのように蠢いている。
「んっ、ぢゅ……」
ヤバい。こいつ、馴れてる……ラブホまで来て慌てもしないから、相当ヤり込んでいる事は想像に難くなかったが……それにしても、ヤバい。
「ぶはっ、ま、待て待てまて!」
最後に残った理性で唇を引き剥がす。名残惜しそうに唇同士を銀の糸が繋いだ。それがあまりにも艶めかしくて、慌てて唇を手の甲で拭う。
「あ、ん……何よ。まさか、ここまで来て恐くなったとか言い出さないでしょうね?結構馴れてたみたいだから安心してたけど、ひょっとして初めてだから強がってたとか」
「違う!そうじゃなくて……何でいきなりこんな事をするんだ!」
「私がしたいから……じゃダメなの?こんな事、誰だってやってるよ?」
「他人の事はどうでもいいけど……どうして俺、なんだよ……」
つくづく、呆れ果てた。自分を弄んだ男を、再び掌の上で転がすのがそんなに面白いのか。
「もう、いい加減にしてれくれないか」
河村は、唖然とした顔で俺を見ている。……くそ、何で俺が罪悪感を感じなけりゃならないんだ……
「俺をからかうのが面白いのは分かったから、もう許してくれ」
「……てなんか」
「……え?」
「からかってなんか、いないよ」
「じゃあ、何だっていうんだ、こんな所に連れてきて」
河村は、今度はきょとんとして……それから苦笑い。
「なんだも何も無いでしょう?私は、加藤くんと『えっち』したかったからここに来たの」
「だから、何で俺とヤりたいんだよっ」
ぜいぜいと荒い息をつきながら言い返すが……息が荒いのは、もちろん興奮しているからだ、とてつもなく。今の俺は、ただ『河村への不信感』で持ちこたえている。コレが崩壊すれば……あとは推して計るべし。
「……分からない?」
「ぜんっぜん分かんないね」
はあ、と溜息をつく河村。溜息をつきたいのは俺の方だ。
「こんな形で言うのはどうかなと思ったけど、この際だから、折角ここに戻って来られたんだから……言っちゃおうかな」
「何を……だよ」
河村は、息を大きくすうっと吸い込み、そして、
「私ね、加藤くんのこと、好き……だ・っ・た・ん・だ・」
「はぁ?」
何を言ってやがるんだ。只でさえ切れそうだった俺のマトモな思考回路が、いよいよダメになりかかっているのか。頭の中がぐわんぐわん回り、ワケが分からない。さっき、空きっ腹にビールを流し込んだ所為かとも思ったが、たかがビール500ミリ缶一本で、この俺が酔うはずがない。
「俺を……好き……だと?」
「うん……」
バカな。では……何故……あの時……
「酷いことを言って振ったのに、なんて適当なこと言ったんだって思うでしょう?」
「……ああ、信じられないね。むしろ、あの時の俺に聞かせてやらなくて良かったと思ってるぜ。お前の本性があんなだったと知ったら、そりゃ幻滅しただろうからな」
「うん……あれは……」
言いかけて、口をつぐむ。ここまで口にしておいて、まだ言いにくいことでも残っているのか。
「本当に……悪かったと思ってる……でもね、あれは本心じゃないの」
「本心じゃないなら、何だったんだよ」
「……あの後、私、すぐ転校しちゃったでしょう?」
そういえば……俺より随分と見栄えのいい男と楽しそうに歩いていたと思ったら、その半月後くらいに急に転校しちまってたな。
「だから……安易に『転校するから付き合えない』って言えなくて……」
「言えなくて……?」
「……ずっと、私の事を覚えていて欲しかった。だから……傷付ける言葉を選んでしまった。在り来たりな別れの言葉だと、すぐに忘れ去られると思ったから……」
「それだけの為に……」
「……そう……本当に、こうしてもう一度会えるなんて思ってなかったから……ずっと、ずっと加藤くんの胸の内に居たくって……刻み付けておきたくて……私は、自分の都合のために、自分の気持ちにウソを付き、そして貴方の気持ちを踏みにじったのよ」
俺は、華美なクセに全く人の心を引きつけることのない、部屋の天井を見上げた。
……バカだな、コイツは。
……お前はな、俺の初恋の人なんだぞ?
……どんな風になったって、どのくらい時が過ぎたって、初恋の女の記憶が頭から離れる訳ないだろうに……
「でも、なんであんなに急に転校したんだ……」
「……」
聞くが、河村は辛そうに俯く。……あまりいい思い出じゃないのか。だったら言わなくて良い……と思うが早いか、
「そうだよね、私には全てを告白する義務があるもんね……じゃあ、聞いてくれる?」
「……ああ」
河村の真摯な告白。河村に同情するか、それとも……それはこれからの内容如何だ。告白する義務が河村にあるなら、俺には聞かなければならない義務もあるだろう。耳を塞ぐのは容易い事だが、河村がこれほど真摯にあの時のあらましを言おうとしているんだ。
「……私ね……売られたんだ、借金のカタに」
「……は」
思わず、マヌケな声が漏れた。だって……身売りなどと、ドラマかマンガの中でしか聞いたことがなかったからだ。そんなの、せいぜい戦前かそこらの時代の話だと思っていたから……この法治国家で、そんなことが許されるのか、と。しかし、抜け道はいくらでもあるのも確かだろうし……実際に値段を付けて売買する訳じゃなく……。
「私の父が会社を経営していたのを知っているでしょう?まあ、いわゆる典型的な中小企業の、町工場に毛の生えたような規模だったんだけど、色々と手を出している内にこの景気が重なって、洒落にならないくらいの借金が出来ちゃって……」
河村は、そこで天井を見上げた。まるで……こぼれ落ちる涙を堪えるかのように。
「ウチの技術力を評価していた大企業に拾われたってわけ。そして、私は……その企業のボンボンのオモチャ代わり……多分、その企業はウチの会社が弱まるのを待っていたんじゃないかな」
そんな。だから転校が急な上に、理由もよく分からなかったのか。しかし、かくも酷い話が実在するとは……
「でも、その企業も不況のあおりを受けてダメになって、私たちはまた捨てられた。純粋に私だけが欲しかったのかもね……だけど、そこからお父さんや社員が頑張ってくれて、どうにかこうして陽の当る場所へ戻って来られたって訳」
言葉が出ない。
あまりに……過酷だった。
親の為とはいえ、下衆な人間のオモチャになるなんて、一体どれほどの屈辱なのだろう。並大抵の覚悟では務まらないはずだ。
……きっと、どんな辱めを受けていても、己を殺して、無表情で……それを考えると、何も言う気がなくなってしまう。ただ救いがあるとするならば、そのバカボンの会社も潰れてしまった事だろう。まさしく因果応報というヤツ。
「あの時の事……許してくれなんて言わない。許してもらおうとも思わない。その代わり……お詫びがしたいの。こんな形でしかお詫びが出来ないのは心苦しいけど、加藤くんが受け入れてくれるなら……」
……
…………
………………
しばらく、言葉が出なかった。
迷っているのではない。
俺の心は決まっている。迷っているとしたら……どんな言葉を掛ければいいかについてだけだ。
河村は、ベッドの上にあぐらをかいている俺ににじり寄り、身体をすり寄せてくる。
「私、何でもするよ?あの時の仕打ちに比べれば、加藤くんがあれ以上酷いことをするとは思えないから」
「……」
「本当に……私の事なんて考えなくていい。加藤くんの好きなように……して欲しい。それが私の償い」
鼻腔をくすぐる、髪の甘い香り。真理とはまた違う香りは、使っているシャンプー銘柄の違いだけでもなさそうだ。
「止めろ」
静かに、しかしぴしゃりと言ってやった。大声で一喝するより余程効果的だったらしく、河村は一瞬で押し黙る。
「俺は……お前で性欲処理する気なんて毛頭無い」
「どうしてよ……私が良いって言ってるのよ?加藤くんにとって、これほど好都合な事はないけど……」
「そうじゃないんだ……」
「じゃあ、加藤くんは男の子の方が好き、とか」
「茶化すなよ」
苦し紛れの冗談のつもりだろうが、ちっとも笑えない。まさか、自分の提案がはねつけられるとは思ってもみなかったのだろう。
「俺は……誰かの気持ちを無視してまで、自分の性欲を満たすなんて事はもうこりごりなんだ。ただ自分の欲望を一方的に吐き出すだけなら、自分の右手を使えばいいだけだ」
「……つまり?」
「俺は……気持ちの繋がった相手としかそういう関係になりたくない。もう、独りよがりの気持ちで他人を滅茶苦茶にするなんて、絶対に嫌なんだ」
俺の苦い思い出。小学校六年の頃のあの惨劇を二度と繰り返さない……そう、心に誓った筈なのに……この前真理を押し倒してしまったばかりだし、今だって……危うくその気になるところだった。危なかった。ともすれば、あっという間にその禁を破ってしまうほどに、俺の心はまだまだ未熟だ。
「……要するに、私とは、心が通じることはない……ってこと?」
「ああ。お前だって、今は俺が好きって訳じゃないんだろう?ただ、償いたい一心で俺とここに居て、抱かれようとしている。違うか?」
河村は俯き、ぐっと目を閉じた。
「俺の事ならもういい。大丈夫だ。河村、もう……過去のことに囚われるのは止めよう。……前に進むんだ」
河村と、そして自分に言い聞かせる様に、震える肩に手を置く。その瞬間、わっと、何かが弾けたように俺の胸にすがって泣き叫び始めた。しかし俺は……身を離す。これが最後の意地だ。
冷たく突き放した形になったが、俺の胸で泣いている限り、『昔に囚われている』事に他ならない。そして、胸を貸している俺も。だから、あえて突き放した。
河村も、いつまでも泣いているわけにはいかないと分かったのだろう……涙を拭い、喉を鳴らしながらも何とか泣きやむ。そして……俺に向かって、泣き顔よりは多少マシな微笑みを返した。……河村にとって、それが精一杯の強がりだったのだろう。
「これだけは言わせてくれ……有り難う、俺のことを好きと言ってくれて。それが例え4年前の俺に対してであっても」
河村は、ちょっとくすぐったそうな顔になった。あの時の、無垢で幸せだった頃を思い出しているのか。
「だけど」
そこまで言って、服を着るために河村に背を向け、
「それはあの時に言って欲しかった」
と、呟いた。どう聞いても恨み言だ。河村に、もうこんな思いをして欲しくないと戒めの念をも込めたつもりだが、どう受け止められただろうか。
その後、河村の方を一切見ずに乾燥機から服を取り出し、着て、財布からなけなしの五千円札をテーブルの上に置いて……部屋を出る。
……それが、過去に対する、俺の現時点での精算の全てだった。
・
・
・
ラブホを出てからは自然に早足に、
街中に出てからは自然と駆け足になった。
……真理に会いたい。
……早く、真理の顔が見たい。
……俺は真理に何を求めているのだろう。
でも、今はその想いを止めることが難しかった。自分でも説明するのが難しいほどに。




