第12-01話
時は6月初旬。
梅雨の予行演習のような日で、教室の湿度計付き温度計を見ると、気温は30度に近いし湿気は100パーセントに限りなく迫っている。本来なら、気温は高いが湿度は低い、日本で一番過ごしやすいと思われる梅雨入り前の貴重な時間を、朝からの雨で潰してしまった、そんな日だった。
あの日……練習に復帰して以来、なんだか、目の前が開けたような……例えるなら、うっそうと生い茂った森の中の獣道を歩いている途中、一気に森からの出口が開けた、そんな印象が常に頭の中にある。
今まで、一体何を迷っていたのかは自分の事ながら分からなかったが、とにかく……今は夏の大会に向けて、自分の出来る最大の……いや、ひょっとしたら、それを越えている……努力を続けていた。
相変わらず……カベとの『特訓』は続いていて、カベから要求される水準もどんどん高度化しているが、立ち直った俺はそれを何とも思わずにクリアしていっている。例えば、昨日なんかは……カベの要求通りのコースに収まったのが150球目に達した後、今度は連続10球でコースに投げ込んでようやく特訓が終わる、つまりコントロールが悪ければ永遠に終わらない過酷なメニューだったが、それをきっかり最初の10球でこなしてしまったりもした。
三日間引きこもったのも肉体にとっては良い休養だったらしく、明らかに全身への力の漲り方が違う。マサカリを蹴り上げる左脚は無駄な動きをせず、モーションを支える右脚はふらつかず……今なら、自分の頭に描く、カベの要求に応える事の出来るピッチングをする自信がある。ほんの一週間前、その自信をいとも簡単に打ち砕かれた人間の言う事とは思えないが、もう伊東なんて関係ない。只、カベとキャッチボールを続けていられることだけが楽しかった。
ところで、その特訓があまりにあっけなく終わるからというわけでもないが、新球を取得しようと躍起になってもいる。
新球とは……ナックル。
一人で練習していては埒が明かないから、思い切ってカベに打ち明け、そして反対を押し切り、本格的な開発に着手したんだ。結果は……まだまだだけど、きっと夏までにはモノにしてみせる。あと一ヶ月程度しか開発時間がないのにモノに出来る、と言い切れるだけあって手応えそのものは上々だ。
今のところ、変化の度合いはボールに聞いてくれという程度だが、ナックルは元々そういう変化球だから心配はない。たぶん、だが。
それよりも重要なのは、変化するにしろしないにしろきちんと低めに集まるかどうかなのだが、その点でもきちんとしていて、ほぼ確実に打者の膝より上には行かない。これだったら、実戦でもスローボールとして使えるし、その保険としてナックルの変化が付いてきてくれればいい。ともかく、俺自身に速球派としてのプライドと共に、ナックルという魔球への憧憬もかなりのモノがあった。とはいえ、基本は速球。それだけは忘れないようにしなければならないのは確かだが。
さて、そんな猛練習の翌日は、雨で部活もお休み。いや、雨が降っていなくても部活は休みになることが決まっていた。おおよそ、夏の大会を控えた高校生のスケジュールとは思えないけど、練習に復帰してから一週間、前にも増して過酷な練習をこなしていただけあって、素直に身体を休めることにした。復帰前は、練習を休むとどこか後ろめたい気持ちがあったり、休んでいる間にも、ライバル達は力を付けているかもと焦燥に駆られることもあったが、今は違う。休養もスポーツ選手にとっては大事な仕事という、ごく当たり前のことを素直に受け止めることができるようになった。
で、その休みの日。
時刻は3時半を過ぎたところで、担任の帰りのホームルームを潔く聞き流しながら窓の外を見る。
朝……いや、明け方から降り続いていた雨もすっぱりと上がり、雲の切れ目からは青空だけではなく、太陽も差し込んでいた。雨に濡れた民家の屋根が太陽光を反射してきらきらと美しく輝いている。
雨降りは死ぬほど嫌いだが、雨上がりの青空は死ぬほど好きだ。身も心も晴れやかな気分になって、ついつい柄にもない事をしたくなる。
……だからこそ、こうして担任の目を盗んでメールを打っているのだ。ポリシーとして携帯電話は金輪際持たないと思っていたんだが、姉さんがせっかくだからと、いわゆる『家族割引』で持たせてくれたのだ。ま、疑いようもなく便利なものだし、真理のセキュリティの為にも持っていて損はないだろう。
しかし、普段は携帯メールなど送り慣れていないから、そこら辺の女子高生のように華麗に片手で打つ事も出来ずに、悪戦苦闘しながらようやく1行のメールを送信した。たった1行、パソコンのキーボードからならものの数秒で済むところを、たっぷり数分を掛けて打たなけりゃならんとは……お陰で、メールを打ち終わる頃には退屈なホームルームが終わり、担任が教室を出て行くところだった。
外履きに履き替え昇降口を出ようとした時、教室に傘を置き忘れて来たのを思い出したが、これから荷物になりそうだからそのまま置いていってしまうことにした。明日、登校時間が雨降りでないことを祈ろう。
校門の前まで来ると、
「お兄ちゃん」
夏服に身を包んだ真理が、微笑みながら控えめに手を振っている。
……ああ、コイツは男どものみならず、同姓からも人気があるんだろうな……と思わせる、柔らかな、そして何より美しいその姿。妖精ニンフが人間界に降り立ったかと思うくらい、眩しいまでに真理は美しかった。他のどんな形容詞も相応しくない、16歳という年齢のみが紡ぎ出せる危く脆い美しさが、その小さな身体から溢れ出ている。
「早いな」
「うん、私のクラスの担任の先生、用件は手短に伝えるから……お兄ちゃんの方はいつも遅いの?」
「まあ……遅い方かな、話し方も回りくどいし」
「酷い言い方」
くす、と笑うその姿も、とてつもなく……もう止めよう。真理を褒めているとキリがない。
「それより、今日はどうして誘ってくれたの?」
俺の隣を歩きながら、上目遣いで……といっても、真理の方が背が低いのだから必然的にそうなるが……尋ねる。その仕草も、決して狙っているモノではなく、あくまで真理という天真爛漫な少女が素でやっているところに意義がある。
「そうだな……ま、雨上がりだからとだけ言っておこう」
いつもは、こちらから連絡をせずとも、真理が一人で部活が終わるまで待っているんだが、今日に限って俺からメールしたというのが珍しく、そして嬉しいらしい。
「雨上がりだから、か……お兄ちゃんらしいね。でも」
空を見上げ、
「こんなに良い天気なら、そう考えちゃっても不思議じゃないかな」
と、にっこりと笑う。
ああ……
間違いない。
俺は、
真理に、
惹かれている。
ま、無理もないかぁ……と開き直ってみる。
「そうそう、こうして爽やかな初夏の風に吹かれて、ぶらぶらと並木を見ながら帰るのも乙なものなんではないか、と」
「いいよね、そういうのも」
真理を先に歩かせ、、その後ろ姿を眺めながら付いて行く。不思議なもので、一端惹かれた相手の一挙手一投足はどんなことでも瞼に焼き付いてしまう。痘痕あばたも靨えくぼという言葉があるが、今ほどその言葉を現実として噛みしめたことはない。もっとも、真理に痘痕なんて、色々な意味でも皆無だけどな。
両の腕を後ろ手に組み、ゆっくり……ごくゆっくりと通学路の並木道を歩く真理。その歩調がどこか楽しげで、短いスカートの裾と栗色の柔らかなロングが揺れていた。
真理のローファーが、川縁の遊歩道に敷き詰められた砂利を踏みしめる。膝下丈の黒のハイソックスと、茶色のローファーのコントラストが、真理の足首の細さも手伝い、引き締まって見える。入学したときから履いている新品のローファーも、もう二ヶ月も穿いていれば汚れてきていて当然なのだが、よく家の玄関で手入れをしている姿を見かけるから、未だにぴかぴかだった。姉さんからプレゼントされた靴だが、それだけに大事にしているらしい。その気持ちも何となく分かるな、自分にとっての成長の証としてのプレゼントでもあるだけに。
「見て」
「ん?」
真理の足元から顔に視線を移すと、青々と葉の茂った桜並木を眺めていた。毛虫の来襲の季節から一段落付いて、落ち着いて鑑賞できる。
「もう、夏も近いんだね……」
そのしみじみとした言い方に、その言葉に含まれる様々な意味が伝わってくる。そう、夏は俺の総決算。これからの、俺の野球人生の……いや、人生の全てが決まってくると言っても過言ではない。
「そうだ。これから一雨来て、そしてそれが明ければ、いよいよ……だな」
いよいよ。その時が来るのが待ち遠しいと思う反面、やっぱり恐い思いもある。一体、どんな敵が待ちかまえ、そしてそれを封じ込めて行かねばならないか。その極限状況に身を置く、そのプレッシャーがどれだけのものか。
しかし今はどうでも良いことだ。真理が傍に居る、真理が傍に居てくれる、真理が俺を応援してくれている。その事実だけが嬉しくて心強くて……同時に、自分は何と弱い人間なんだろうという思いも強く感じるが、それを隠すことも恥じることもないとも思うようになった。だって……そうでなければ、他人と一緒に居る意味が無いじゃないか。他人と……言葉を交わす意味も、心を重ね合わせる意味も。
「お兄ちゃん?」
なかなか追いついてこない俺を不思議に思ったのか、ゆっくりと振り返る。その拍子に栗色のロングがふわり、と扇状に広がり、甘いシャンプーの香りまで提供された。なんてサービス精神旺盛なヤツなんだ。艶のある髪が華麗に流れる様は、まるで束ねられていた金の糸が解かれるような、幻想的でさえある光景だった。
「いや……何でもない」
いつまでも真理を見つめていても埒が明かないので、再び真理と肩を並べる。ちらりと顔を見やると、少しだけ……頬が紅い。夕日の所為ではなさそうだ。そういえば、随分と日が長くなっている。学校を出てからここまで、かなりゆっくり歩いているから、今は恐らく4時を回っているだろう。携帯を取り出して時間を確認するまでもない。大体の時間は、太陽の高さで測れば良いんだ。第一、俺は腕時計というモノをしていない。時間を常に見る事が出来ると言うことは、それだけ時間の経過が付きまとうという事でもあるからな。
時間柄、遊歩道には犬の散歩をしている人が多い。その種類も、大柄なグレートピレニーズやゴールデンレトリバー、小さいのはミニチュアピンシャーと、かなりバラエティに富んでいる。
その可愛らしい姿にニヤニヤしつつ、目を奪われて歩いていると……
真理が道の真ん中で立ち尽くしていた。
「おい、どうし……」
声を掛けようとして、真理が見ている人物を目の当たりにし、愕然とすると同時にウンザリもする。
「河村……」
河村蛍子が、俺たちの行く手を阻むように遊歩道の真ん中に立っているのだ。
「そんな所に立っていると、通行人の邪魔だと思うんだがな」
「そうね」
意外なくらいあっさりと脇に下がる。俺たちはその中央を悠々通り……そして河村を連れて歩く。
「どうして付いてくるんだ」
「私の目的地が、加藤くんの家と同じ方向なだけよ」
「だからといって、付いてくることないだろう」
「あら、つれないわね。知らない仲じゃないでしょ?」
思わず頭を抱えそうになった。どうして河村はこんなにも俺をイジりたがるのだろう。こっちはもうこりごりだというのに。あの当時のと同じノリでいるのか。自分の容姿でなら、簡単に男が釣れると思っている、あの頃と。
「……げん……しろ」
そう考えると、心の底から沸々と黒い怒りが湧き上がって来る。
「え?なあに?」
「いい加減にしろって言ったんだ!」
いけないとは思いつつも、とうとう噴き出してしまった。あの中学の事件以来、三年も俺を縛り付け、そして最近はそれを克服しかけてきたと思ったらまたこれだ。河村への怒りもそうだが、もう過去の話で事で再び悩まなければいけない、その鬱陶しさといったら筆舌に尽くしがたい。こちとら、真理と野球以外のことにかまけているキャパシティは、精神的にも脳内的にも全く見あたらないから、こと河村との接触は御免被りたかった。
「私……やっぱり酷いことしちゃってたんだね」
「今更気付いたとか言うなよ。そっちには些細なことでも、俺にとっては……」
……そこまで言いかけて、口をつぐんだ。
……俺にとってはどうだったんだ。ましてや、それを河村に言ったからといって、この先どうにでもなることでもない、ただ、真理にみっともない過去を垣間見せてしまうだけだ。
「とにかく、これ以上俺等に付きまとわないでくれ、迷惑なんだ」
「あら……真理ちゃん、貴方のお兄さんは冷たいわねー。ここに戻ってきて2ヶ月しか経ってないのに、突き放すようなことを言うのよ?」
コイツは……何故に真理を絡める。悪趣味な性格の持ち主だったら、うろたえる俺に加え、さらにイジリ甲斐のある性格をしている真理を引き込むのも悪くないだろう。しかし……そこまで性格が悪いとは思いたくなかった。だって……そんな性格の悪い女を好きだったあの頃は、いったい何だったんだ……と聞かれたら、返答に窮するから。若気の至りと言ってしまう事が出来れば簡単だが、世間的には十分に若い今では、その説得力も薄いかな……。
「俺に用があるのなら、いちいち真理を巻き込むなって言ってるんだ!何が面白いのか知らないが、そいつはお前みたいに人をからかったりして遊んだり、三年前の人の古傷につけ込むような悪趣味な誰かさんとは違うんだよ!」
口ではそんなことを言っていても、実際には河村の顔を直視出来ない。悔しいが、これだけはどうしようもない。何しろ、自分が一度は惚れてしまい、そしてショックすぎる失恋を余儀なくされた相手なのだ。
「だから、もう……」
くいくい、と真理が袖を引っ張る。
「何だよ」
真理は河村の方を見て……悲しそうな貌かお。
いったい何だって言うんだ。俺も恐る恐る河村を見るが……
「あ……」
泣いていた。
確かにキツい言い方だったけど、泣かせるほどでは……これ位だったら、河村も笑い飛ばすはずだ、と思ったのに……基本的に、女を泣かす男は悪人だと世間での相場は固定されているだけに、犬の散歩をしている周囲の人の目が痛かった。でも、俺は謝らないからな。悪いのは、あくまで俺を弄んだ河村の方だ。それでも、自分が悪いことをしたという自覚ぐらいはあるようだな。
「……泣くなよ。まるで俺が悪者じゃないか」
「明らかにお兄ちゃんの方が悪いよ……」
真理は、どちら側に付いて良いか迷っているようだったが、結局河村の方の肩を持つことに決めたようだ。俺は、お前の為に言ってやったのに。
「何故そう言える?」
「だって……河村さんは、最初は私がお兄ちゃんの関係を知らなかったって言ってたもの……」
「な……」
……それじゃ、悪いのは一方的に俺か。なんてこった。いや……そういえば、真理が『困っているところを助けてくれた』って言ってたな……真理に近づくためだけに、わざわざ面倒なことに首を突っ込むだろうか?
「いいの、真理ちゃん。私は、加藤くんにそう言われても仕方がないくらい酷いことをしちゃったんだから。自業自得ってヤツよね」
泣き笑いのその姿が痛々しい。河村の言っている事ももちろん真実なんだが、頭ごなしに決めつけてしまった俺も……悪いのか?それより、真理の前で『酷いことをしちゃった』告白も勘弁して欲しい。
「河村さん……」
「でも真理ちゃん、貴女にだけは勘違いして欲しくないの。信じて、貴女に近づいたのは、加藤くんとは関係ない。単純に、良いお友達になれそうだったから……」
涙で語る河村に、真理まで釣られて瞳が潤み始めた。これで俺は完全にカヤの外且つ悪者だ……ふんっ、女二人を同時に泣かせるなんて、ちょっとした遊び人気分を味あわせてくれてありがとよ。
「加藤くん」
「……」
「私には、もうそんな気はないの。ただ……前の私を知っている人があまりにも少ないから……言ってみれば、甘えたくなっちゃうだけなんだ。ごめんね、思わせぶりな態度をしちゃって……加藤くんの気持ちも考えないで」
……今更しおらしいフリをしてどうなると言うんだ。それでお前が俺にしたことが帳消しになるとでも思ったのか。俺は、加藤家三姉妹以外の女の涙など信じない。絶対に、だ。
「分かってるんならそれでいい」
信じない代わりに、もうコイツに対して悪態をつくのは止めよう。複雑な家庭の環境から、可哀想に思えてきたことも確かだ。……あくまでそれだけの理由だからな。
「ありがとう。それで十分だわ」
微笑みながら、真理の差し出したハンカチで涙を拭う。不覚にも、可愛いと思ってしまった俺は……やっぱり、負けたことになるのか。……違うな。一度惚れているということは、その時点で負けているんだ。基本的に好みの顔だから、その辺りで根本的に敵うはずがない。俺が屈するのは目に見えている。
「お邪魔しちゃって、ごめんなさいね。帰るところだったのよね」
気がつけば、もう夕暮れ時だ。いつの間にか時間が経っていたらしい……。
「そうだ、もし良かったら、今日加藤家ウチでご飯を食べていってくれませんか……くれない?今日は私が食事当番だから、腕によりを掛けてごちそうしちゃいま……するよっ」
前に河村に言われた通り、友達と対するのに相応しい言葉遣いへと律儀に直す真理。しかし、そうした真面目な態度が人に好かれるのもまた事実なんだろうな……って、問題はそこじゃない。
「でも、お邪魔じゃないの?一家の団欒に部外者が混ざっちゃって……」
「ううん、すぐ上の双子のお姉ちゃんが春から寮生活しちゃってるから、食卓が寂しくなっちゃって……一番上のお姉ちゃんも、『新しく出来たお友達を誘ってらっしゃい』って言ってくれてるから」
「本当に!?嬉しいな……この所、心のこもった手料理なんて食べたことがなかったから……うん……お邪魔、させてもらおっかな」
にっこりと、本当に嬉しそうに心の底からの笑みを見せる河村。俺たち加藤家の人間にとって、手料理を食べる事なんて当たり前すぎて意識しないが、普通はそういうものなのかな……河村は家庭の事情もありそうだし。真理の方も、『何故こんなに親しくしてくるのだろう』と疑問があったのかも知れないが……どうやら、今の言葉で河村を親友と認めてしまったようだ。表面上だけの友達を、自分の家の食卓に招いたりなんかしないものな……全く、どうしてそうお人好しなんだ。
「いいよね、加藤くん?」
「勝手にしろ」
真理が決めたことに反対するわけがない。……それに、反対してしまったら、自分こそ過去に囚われすぎている事になるじゃないか。もう終わった話、過去の話……と割り切るにはまだまだ心が痛むが、それで俺が先に進めないなら……そして河村が悪いと思っているなら……少しは同情してやらなくもない。きっと、河村は重い事情を抱えていると思うから……一時の気の迷いでとんでもない行動に出てしまう事など良くあることだし、そして俺にも経験があるから……
真理と親しげに会話を交わす河村を見ながら、
(そういえば……)
どことなく疲れた感じがするなあ……と思ったり。どこがそう見えるというのではないけど、身体から発散されている空気が……ね。なんとなく大人びていると好意的に解釈するには疲れすぎていると思っただけだ。
・
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「さ、入って」
真理が、買い物袋をいったん床に置いてから、玄関のドアを開けて招いた。俺が持つと言っているのに、頑なに『お兄ちゃんの身体は大切だから』といって断り続けた。要するに、沢山すぎるくらいの買い物をしてしまった、ということだ。いくら何でも、もてなす気満々過ぎるのではないか。
「お邪魔します」
「読んで字の如く、だな」
「また、お兄ちゃんはそんな陰口叩いて」
「本当の事じゃないかよ」
「ちゃんとおもてなししてあげないと……河村さんはお客さんなんだよ?」
「不覚にも、な」
「もー」
玄関で繰り広げられた俺たちの他愛ないやりとりを見て、くすり、と河村が笑う。
「本当に仲が良いのね……羨ましいわ」
「当たり前だろ?家族なんだから」
瞬間的に、そう当たり障りの無い言葉で誤魔化した。率直に言って、俺は確実に真理に惹かれているが、やはり……河村には知られたくない。それに、そう答えておけば、真理の反応を伺うことも出来るし……ちょっと……いや、かなりズルいけどな。
さて、その真理の反応と言えば……
「そう、ウチでは当たり前なの」
おどけて言うその表情からは、どんな情報も窺い知ることは出来ない。コイツ……自分の感情を押し殺しているのか、それとも、本当に俺のことを家族としか思っていないのか。いやいや、女は生まれながらの女優だという格言もある。これを鵜呑みにしてはいけない。
「ふうーーーーん」
「……不満そうだな」
「別に、そう見えるのならそうでしょ」
俺と真理は顔を見合わせて……肩をすくめた。どうにも、この二人で腹の探り合いをしているような気がしてならない……親友になったんじゃなかったのか、お前等は。
「あら」
リビングへ行くと、姉さんが取り込んだ洗濯物にアイロンを掛けていた。見たことのないお客の顔を見て、少しびっくりしたらしい。
「どうも、初めまして。私、河村蛍子と申します。真理ちゃんとは同じクラスで、仲良くしてもらってるんです」
姉さんが自己紹介をする前に、すかさず河村の方から挨拶し、ぺこりと頭を下げた。この辺り、人との付き合い方にかなり手慣れているな。
「あら、そうなんですか。私は由紀。真理の姉です。どうぞよろしく。蛍子ちゃんって呼んでいいかしら?」
「もちろん大歓迎です!こちらこそよろしく!……それにしても」
「……??」
河村が、姉さんにぐっと近寄った。それこそ、鼻と鼻との距離が20センチも無いくらいまで。
「綺麗ですね、お姉さん……」
「あ、あら……どうも有り難う」
何事にも寛容で、ちょっとやそっとの事では動じない姉さんも、これには驚いたようだ……って、当たり前か。相手は初対面なんだしな……しかし、そこからが流石は我らの姉さん。この相手は『ノリがいい』と感じたのか、河村の頬に手をやり、
「そういう貴女も……可愛い顔立ちしてるわね……」
と、うっとりとした声色で逆襲に転じた。
「いいえー、お姉さんのナチュラルな綺麗さには全く敵いませんよぉ」
「貴女だって、あと少し経てば……」
そんな男からしてみれば恥ずかしくて直視できない絡みを暫く繰り返す。そんな二人を見ながら、俺と真理は苦笑いするしかなかった。
「じゃあ河村、料理が出来るまで真理とゆっくりしててくれ」
「あ、手伝うよ?」
「今日のお前はお客だ。いいから黙って待ってろ」
「はーい」
取りあえずは自分が客人である事を理解したのか、いわれたとおりに真理と談笑し始めた。それを見てからキッチンに入る。
……
今日の当番は確かに真理だったが、あいつには河村の相手をしてもらっていた方がいいな。誰かが台所に立てば、当然姉さんも手伝うだろうから……つまり真理を台所に立たせれば、必然的に俺と河村で二人きりになってしまう。どんな風に弄られる分からないからな……そう考え、料理をしようと買い物袋と冷蔵庫の中身を漁っていると……
「聖くん、私も手伝うわ」
案の定、姉さんが手伝いに来てくれた。
「さんきゅ、助かるよ」
何しろ四人分だからな、と何気なく呟いて、早くも美奈津の居ない生活に慣れているのに思い当たった。まだ二ヶ月程度しか経っていないのに、二年間も一緒に暮らしていた人間が居なくなる事が当然と思うようになってしまっている。人の記憶というものは本当に不確かだ、俺も怠けていればすぐに人の記憶から忘れ去られてしまうから気をつけよう…………と思ったのも束の間、
「姉さん?」
姉さんが寂しそうに顔を伏せていた。泣いて……はいないけど、その横顔を見るだけで俺の胸が締め付けられる。
「いえ……何でもないわ」
俺の視線に気付いて、慌てて笑顔を取り繕う。その笑顔も無理矢理取り繕った感アリアリで、余計に寂しそうに見えた。
……そうだ、この姉妹の結びつきは、俺などが踏み込み、理解してやれる領域であるはずが無いじゃないか。……俺はこの問題を度々蒸し返し、気にするけど……その時点では『姉さんは血の繋がりの有無等に拘らない』と結論を出しても、こういうときにはイヤでも意識しちまうな……
「それより……」
姉さんは悲しい顔を振り払い、俺の耳の傍に顔を寄せる。反射的によけてしまいそうになったぞ。……ああ、良い香りがする。姉さんって、ひょっとして俺のことを完全に男とは見なしてないのか?俺としてはそっちの方が有り難いとは思いつつ、あくまで『男』と『女』ということも少しは意識して欲しい。
「蛍子ちゃんと聖くんって、ひょっとして知り合いなの?結構親しげな口の利き方だったけど」
そっか、さっき河村を呼び捨てにしたからな……疑問を持つのも当然か。真理の友達だっていうのに、俺とも面識があれば尚更だ。そう、この俺とも。
「それは……」
中学時代にフラれた相手だ、とスムーズに口を滑らせそうになって踏みとどまった。kんなこと、あっさり口にしていいものか。確か姉さんは、例の河村に弄ばれた話をしたら『酷い子』だって言ってたし……いや、それとも……その犯人をここに連れてきたということは、もう許してやったと解釈されるかも。
「あのさ……中学の時の……」
「お知り合い?」
「ほら、去年の夏頃だったかな……俺が中学時代に弄ばれたって話をしたの、覚えてる?」
「ええ……思わせぶりな態度を取っておいて、実はからかっていただけ……え……ひょっとして」
「そのひょっとしてなんだよな……そいつが、新入生として入学してきたんだ」
言ってしまった。告白することで、完全に自分の中の過去にしてしまおう。そうやって笑い飛ばしてしまった方が賢い。
しかし、姉さんは開いた口が塞がらないようだ。それもそうか……
「ほ、本当に?」
「うん……俺にとっては例え憎むべき人間でも、真理にとって大切な友達になるんなら……いいんじゃない?今はそんなに悪い人間でもなさそうだし」
「……聖くんがそう言うなら……私がどうこう口出しできる問題じゃないわ。聖くんがきちんと考えて決めたことなんでしょう?」
姉さんは、穏やかな笑みを浮かべ、そう言った。俺も真理も信頼してくれている、その心遣いがなにより嬉しい。万が一河村が悪い人間だったりしたら、真理にまで被害が及びかねない。しかし、その可能性を廃してまで、真理が自分で加藤家に連れてきた選択を尊重しようとして居るんだ。実にいい関係じゃないか。今更納得する事じゃないけど……ね。
「そ。だから、今日はお客としてごちそうを振る舞ってやろうかな、というわけ」
包丁を砥石で軽く研ぎ、水で流す。試しにトマトに刃を入れてみると、トマトの皮を一切潰すことなく、まるで水面を切っているが如く、すっと刃が通る。実に惚れ惚れする切れ味だ。俺も……こんな割り切り方が出来ればいいな……と常々思っていたところだ。過去のことは水に流す……とまでは行かないが、取りあえず、河村の当時の心境と立場を考えてやるぐらいの余裕は生まれているらしかった。
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「美味しいねー!これ、加藤くんが作ったの?」
平たい鉄鍋に盛られたパエリアを頬張りながら、河村が歓声を上げた。女連中がどれだけ食うかイマイチ掴めなかったが、残ったら残ったで河村に御土産として持たせてやればいいや、と思い相当な米の量を炊いた筈だが、みんなの箸……いや、スプーンか……の進み具合からすると、完食間違いないな。
「俺は手伝っただけだ。殆ど姉さんがやったんだよ」
「あら、そんなに謙遜しなくても良いじゃない……蛍子ちゃん、これは殆ど聖くんが作ったのよ。私もたまに作るんだけど、とてもこんなに美味しく出来ないのよね」
姉さんも余計なことを……別に知られたってどうって事はないけど、どうにもこうにも……河村には自分の事を知られたくないんだよな……何をネタにからかわれるか分からないんだから。
「へー……加藤くん、今度良かったら料理を教えてくれない?」
可愛らしく頬杖を付ながら、上目遣いでねだる。媚びるような……いや、媚びているんだろう……その視線、かなり使い慣れていると見た。何故なら……狙ってやっていると分かっていても、可愛いと思ってしまうからなんだよなぁ……
「気が向いたらな」
「あー、つれないんだー」
俺と河村の他愛のないやりとりを見て、姉さんは苦笑いし、真理は……やっぱり苦笑いしているが、どこか物憂げにも見える。何を想像しているんだ、真理。
とにかく……河村は驚異的な早さで加藤家の食卓に馴染んでしまった。俺だって、料理を『美味しい』と言ってもらえるのは嬉しいが、それが河村からなんて……中学時代、一方的な片思いしていた俺が見たら、どんなに羨ましがられるか分からない。
……今も彼女に想いが残っているというわけではないが、その存在は……深く心に刻まれていたのだなぁ、とあらためて実感してしまったのだった。
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結局、米を三合は入れたはずの海鮮パエリアを、女三人男一人で食い尽くしてしまったというのは驚きだった。スープで米が膨らんでいるし、具も沢山入っているから相当な量で、キッチンから食卓に運ぶのも難儀するほどの重さになったのだが……とりあえず、俺の料理の腕に胃袋が屈したと考えていいだろう。
「……それにしても、だ」
「どうしたの?」
365GT4BB改を運転している車中、助手席に座っている河村が小首を傾げる。普通の男なら一瞬で魅了されてしまうような、自分の魅力を熟知した小悪魔の如き可愛らしさだ。チラっと見ただけだが、少女と女性の中間点から、やや女性にシフトしかけたその微妙な色香が俺を……いかんいかん、ちょっと気を抜けばすぐにこれだ。俺って本当に節操がないな……
「どうして俺が送って行かなきゃならないんだ」
そう、俺は片付けが終わった後、さも当然のように姉さんから『送っていってあげて』と命じられたんだ……姉さんに頼むのも筋違いだし、夜だから真理に頼むわけにも行かない。それだったら、歩きで真理も連れて行こうと思ったが、どんな暴露話をされるか分かったものではないからな。
「いいじゃない、男の子なんだから、細かいことは言いっこナシナシ」
「……ふん」
つまらなそうに鼻を鳴らしてやると、河村は困ったような苦笑いをして、
「私、本当に嫌われてるんだね……」
と、溜息混じりに言った。
「当たり前だろ?俺はまだ完全にお前を許した訳じゃないんだからな」
「じゃあ、ちょっとだけ許す気はあるって事?」
「こ、言葉のアヤだ」
「素直じゃないんだー、ほんとに」
「うるさいな……」
誤魔化すために、レーシングパターンのシフトレバーを一番左下に入れたまま、ゆっくりアクセルを踏み込む。コオオオオ、という澄んだエグゾーストノートが車内に流れ込み、それ以上の河村のツッコミを遮った。
「…………だね」
「うん?」
それでも、河村が何か言おうとしているのに気がつき、アクセルを戻してしまう。一速だから、ゆっくり戻さないとエンジンブレーキが効きすぎて、前のめりになってしまうから気をつけないとな。
「すごい車だね、これ」
「ああ……車道楽の親父のオモチャさ。アシ車もあることはあるんだけど、こうしてたまに乗ってやらないと色々と……な」
アシ車として、フィアット・ムルティプラがあるのだから、そっちに乗ればいいものの……結局、何かと理由を付けて親父の車に乗りたがると言うことは、親父の車好きの血を完璧に引き継いでいると認めざるを得ないだろう。
「お金持ちなんだ」
「良く言われるが、親父が『蓄え』という言葉をどこかに置いてきただけさ。河村だって、親父さんは良い車を乗り回していたんじゃないか?……こんな派手な車じゃなくとも、ベンツの大きいヤツとか」
深く考えずに、そう言った後……河村は、しばらくの間一言も返してこなかった。赤信号で停止した際に、再び彼女を見ると……外を見ている。それこそ、不自然なほどに真横を向いて。何か悪いことを聞いてしまったのかな……と、一応は自分の言葉のどこに非があったのか反省してみるが……心当たりがない。やがて……
「乗ってたわ……当時。私も後部座席に乗ってご満悦だった……運転手を雇うほど大きな会社じゃなかったから、主に運転していたのは父だったけど……あんまり上手じゃなかったな。大きな車なんて運転し慣れていないのに、お金が入ったからって急にベンツなんか買ったものだから、高級車が傷だらけ。格好悪いったら……無かったわ」
面白おかしいエピソードを語っている筈なのに、河村はどこか満たされぬ、憂いを帯びた、そして思い出が懐かしすぎて眩しそうな……そんな顔をしている。
『乗ってたわ……当時』
つまり、今は乗っていない。
それにどれほどの意味が込められているのか、薄々感づいた俺は、それより先の事を聞くのが憚られ、以降は黙ったままだった。
……そして、しばらく街中の国道を走ったところで、
「ここら辺で良いわ」
「ここでか?」
言われるがままに傍らに車を止める。
「今日はありがとう……急に押しかけちゃったような形になったのに」
「例なら、明日真理に言ってやってくれ。俺は……何もしてない。せいぜい、こうして送ってやっただけだ」
素直じゃないな……とは何回自覚したか分からないが、正面切って礼を言われるのは照れてしまう。
「加藤くんらしいね」
「そうかい」
河村は、くすっ、と小さく笑って、
「変わってないよね。でも、そう言うところが……」
「そう言うところが何だ?」
「……何でもない」
意味ありげな台詞。きっと……あの頃の俺なら、あらぬ想像をして、勝手に盛り上がったろうな……では今はというと……少しだけ、胸が騒いでいた。ははは、馬鹿な。きっとこれは、当時の思い出がまだまだ癒えていない証拠なのだ。こんな河村に心を動かされるのなんて、そうでしかありえない。
「良かったら、珈琲でも飲んでいく?」
「遠慮しとくよ……車を止めるところが無いし、何よりご両親に迷惑だろ」
ご両親、と言ったところで、またまた塞ぎ込む河村。……そんな反応をされると、さっき薄々気付いた予想がますます真実味を帯びるんだよな……
しかし、河村はそれを振り払い
「また学校で会いましょ」
と、おどけた調子で言った。気分の切り替えは早い。それだけ、気分の切り替えが早くなければやっていけなかった事の証しでもあるだろう……
「なるべくなら会いたくないけどな」
だから、俺も冗談で言ってやった。俺も気にしていないぞ、というジェスチャーのつもりで。
「またまた、そんな事言っちゃって……じゃあ、今日は本当にごちそうさまでした。お姉さんと真理ちゃんによろしく」
「ああ……あ、ドアを開ける時には車に気をつけろよ」
「右ドアだもんね。分かってる」
腰を上げようと脚に力を入れた際、短いスカートから覗瑞々しい太股に力が入り、綺麗な肌が強調され、慌てて目を逸らす。
「……また明日」
「ああ、また……明日」
その瞬間は、何のことはない挨拶のようにしか思えなかったが、河村の姿が対向車線に消えてゆくのと反比例して、自分の『また明日』の意味の深さに愕然としてしまった。
あれだけ憎み、忌み嫌っていた河村を許そうとしている……それがどんな意味を持つのかは未だに分からない。いや……きっと……過去のこととして受け入れないと気が休まらない自分に気付き始めているのではないだろうか。他の誰でもない、俺自身が。
そう考えれば、少しは納得が行く。
今日はそう思うことにして、車のノーズを加藤家ではなく、高速道路の入り口方面へと向ける。今日は、少しだけスピードを感じていたい気分だ。
ウィンドウレギュレータをくるくる回し、ウィンドウを下げて走行風を入れる。夜の涼しい風とエグゾーストノートが車内に入って、えもいわれぬ空間を演出した。……18のコゾーが何を浸っているんだと怒られそうだが、やはりフェラーリの『音』は堪らない。俺はその音をもうしばらく聞くべく、ウィンドウを明けたまま東名への料金所に近づいていった。




