第11-01話
時は5月も後半。
夏の予選が始まるまでに予定された練習試合もそろそろ少なくなってきた。実際に数えてみると……多くても4試合。その内の貴重な1試合が行われようとしている。
久々の遠征で横浜まで足を伸ばす。最近は市内校との対戦が多くて、グラウンドから見える風景にマンネリを感じていたから、それも良い刺激だ。しかし……問題なのはその対戦相手だろう。文化祭の時の招待校、日学藤沢も相当な強豪校だが、今回は。
……予選、いや甲子園優勝候補の一角でもある、横浜学院。
そう、俺を一方的にライバル視する強打者、伊東 光との対決が県予選の前に待っていたのだ。しかし、今年は何かの記念大会らしく、俺たちの属する神奈川県を含む、予選参加校が膨れあがっている埼玉、千葉、愛知、大阪、兵庫が代表2校を排出する方式になっているらしい。しかも幸いというか何というか、予選は横浜学院とは別ブロックらしいのだ。つまり……この夏、大会で横浜学院と当るときは……甲子園で、というわけだ。
……しかし。
横浜学院の敷地に入ったはいいが、五塚高校野球部部員一同で迷子になるところだった。横浜ともなれば、地所代のカンケイでグラウンドは校舎とは別の、郊外の辺鄙な場所に築かれているとばかり思っていたのだが……そこは天下の横浜学院。だだっ広い敷地に、サッカーやらテニスやらラグビーやらのグラウンドが点在していた。情けない事に、俺たちは敷地の端から端を右往左往……それだけで疲れてしまう程だった。横浜学院側からの迎えが無ければ、危うく試合をすっぽかしてしまう事になりかねなかった……というのはいささかオーバーにしても、とにかく施設の充実振りに眼を白黒するばかり。俺たち五塚高校一行は、お上りさんよろしくきょろきょろしている。
あの時……中学生の時、有名校からの勧誘を受け入れていれば、自分もそんな中で野球をしていた可能性があるかと思うと、何だか複雑な気持ちだな。……もっとも、そんな野球漬けの環境に耐えられる自信があるかというと……皆無に等しいが。美奈津が加藤家に全く帰ってこない事から、「野球をしに高校に通う」矛盾がどれほど過酷な物かというのが分かろうというもの。本当にその競技が好きじゃなければやってられないよな。
案内の人に連れられ、ひとまずベンチに荷物を置いてから立派な専用グラウンド(内外野スタンド付き……はぁ。)に足を踏み入れると……そこには、どす黒い敵意に満ちていた。たかが弱小公立校である俺たちに、名門校サマがわざわざ敵意をむき出しにするとは思えない。もしやと思って、遠くでストレッチをしている浜学(横浜学院の略称)の面々に目を向けると……案の定、だった。
伊東光らしき男が俺に視線を向けたまま、二人一組でストレッチをこなしていた。相方の方も見ないで、器用な奴だ。
「だから、気にするなと言っている」
俺の戸惑いに、伊東の方に視線を向けるでもなく気付いたカベは、そう耳打ちした。そう、前はふらりと試合の観戦に訪れた伊東にすっかりペースを見出されてしまったな。何も野球で殺される訳じゃないのだから……前と同じくそうは思ったが、やはり……伊東の怨念の籠もった視線は、人を呪い殺せるに値する鋭さ、不気味さを湛えているのもまた事実だった。
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「何い?また出ないのか!?」
カベが書いているメンバー表を見た瞬間、思わず叫んでしまった。この前の試合と同じく、先発メンバーにはキャッチャー藤間の名前がある。カベは、そんな俺の大げさな驚きようを見ても眉一つ動かさない。俺が驚くのは当たり前と思っているのか。
「そうだ。残り試合も少ないからな、こうやって藤間に経験を積ませないと、枕を高くして眠れんよ」
「そんな事言ったって……じゃあ、俺とのコンビネーションはどうなるんだ?」
「それは今までで散々やってきたんだから、ちょっとくらい間が空いたって問題ないだろう」
「それはそうだけど……そうだ、カベがキャッチャーに入って、藤間は他のポジションの経験を積ませた方が戦力的には良くないか?」
「それは次の試合に取っておく。だから、今日はつべこべ言わずに藤間のみを信頼して投げろ」
……そこまで言われては、俺には返す言葉がない。もともと、カベの胃深謀深慮に触れる頭脳など俺にはないのだから。それにしても……代打で登場する気もないのだろうか。それとも、自分が代打で出る事すらもカベの言う『テストケース』なのだろうか。
さて、先攻は我らが五塚高校。打順はいつものように屋久から。屋久も、最近は俺が心配になるほど練習に熱が入っている。それも当然だろう、同じ内野の控え、一年生の坂本という新戦力の突き上げが激しいのだから。坂本はなかなかに野球センスが良くて、4月はまだまだ中学生レベルだと思ったのが、5月に入ってから目に見えて動きが良くなっている。坂本は本来は二塁の控えだが、ひょっとしたら遊撃での起用も有り得る程に、走攻守全てのレベルが上達していた。
ごく短くバットを持ついつものスタイルで、しかも小柄な身体を更に屈めて打席に立つ屋久。一見、ストライクゾーンが大きく縮んだかのように見えるその構えは、ピッチャーにしたらさぞかし投げにくい……
「スットライーク!」
んだろうと思ったんだが、相手投手は易々と直球をストライクゾーンに放り込んだ。制球はかなりのモノらしい。いや……流石は名門校のエースナンバーを背負っている奴らしく、球威も一級品と言える。この俺が言うのだから間違いない。
一端、考えるように打席を外した屋久は、ヘルメットを直して再び入り直す。おいおい、打席でちょこっと考えたら「速球に手が出せそうにありませんので、セーフティーバントをします」っていっているようなものなんじゃないだろうか。
果たして屋久は、一、三塁手がダッシュしてくる前にバントを転がし、あっさりとアウトになった。そう言えば、去年の夏の予選でも同じ風景を見たような……。
続く御曽は4球で空振り三振。幾ら練習を重ねたところで、今日の相手投手の球はそう簡単には打ち返せないだろうな……。御曽の練習が足りないという意味ではなく、今すぐ甲子園のマウンドに立っても活躍出来る技量の相手だ、という意味だ。三番の黒沢も、手も足も出ずにあっさり三振。……この試合は厳しそうだ。それならば、こちらが先に点をやらないまでだ。根負けをした方が即ち試合にも負ける。一丁、ブチかましてやる必要がありそうだった。
ふとベンチを見ると、俺の球威を見慣れているはずのチームメイトが、一様に青い顔をしている。つまり……相手投手は並大抵の相手ではなかった、ということらしい。やれやれ。
そして……俺の孤高のマウンド。夏の大会を占うマウンドでもある。
相手の一番打者は、去年の県予選とはまた違う人物が立っている。確か、あの時の一番打者は三年だったからそれ自体は当たり前なのだけど、こう競争の激しい強豪校とあっては、余程力量に差がなければ、頻繁にレギュラーの入れ替えがあるんだろうな。つまり、甲子園まで進んで対戦したら、今対峙しているバッターと、同じポジションの違う人間が立っているかもしれない。競争は五塚にも勿論あるけど、さてその厳しい競争を勝ち残ってきたこの人の打棒はどれほどのものだろうか?
藤間のサインは……ストレート。先日言ったこと……初球はストレート推奨……をきちんと覚えているようだ。しかしそれを愚直に守っている辺り、やはり言い過ぎかも知れなかった。本当に藤間独自のリードが見たければ、『今日は自由に組み立ててみろ』と言っておけば良かったか。
頷く前にマサカリのモーションを起こし、サインに同意した代わりとする。今までカベとの特訓を続けてきた中で、自分の投球フォームをそれこそ細やかに微調整していたのだが、最近になってその改造の成果が、ボールのリリース時の指先の感触で分かるようになっていた。具体的に言うと、リリースした手を外側、つまりフォロースルー時に手の平が右を向いているように投げるんだ。感覚的には、シュートを投げるときのフォームに近い……かもしれない。何しろ、俺は変化球の殆どを直球と同じ手の振りで投げるからな。あくまで、普通の投手がシュートを投げるときはこうだろう、という想像からの比較に過ぎないけど……
よくよく本屋などで資料などを当ってみると、それはどうやら「新運動原理(NMP、New Motion Principle)」と言われている理論の内の一つであるらしい。本来ならば、もっと様々な事象が複雑に絡み合って構成されるものだが、NMP関連の本を読み進めて行く内、ひょっとして俺の投げ方はもともとNMPに基づいたものであったかもしれないと思うようになっていった。NMPの概念の一つに、要点を掻い摘めば「人間が本来持っている、最も自然でもっとも効率的な投げ方」という点がある。それは、例えば野球の手ほどきを受けたことがない子供にボールを力一杯投げるように言うと、その子供は、人間が自然に産み出す捻りなどの力を使って投げようとする。しかし、旧来のフォームに慣れた大人は、その不格好な投げ方を見て「コントロールが悪くなる」「きちんと投げられない」当の理由で矯正し、結果人間的にぎこちないフォームになる、そう言う理論だった……確か。
ここで思い当たるのが、『誰かに投球フォームを矯正されたりしていない』ということ。つまり、俺は村田兆治氏に影響されてマサカリ投法を導入したが、それ以外……コーチなり誰なり、そしてカベにさえフォームに口出しされたことはない。公園で壁相手に一人黙々と投げ続け、もっとも球威があると思ったフォームを突き詰め突き詰め、そしてここまでやって来たんだ。
指先をボールが駆ける。ボールの縫い目に指先が上手く引っかかって最高のスピンを産む。様々な物理法則に則り、威力を増して弾き出された速球は、
「ストライークっ!」
打者の驚愕に歪む表情を演出し、ほぼ真ん中高めのキャッチャーミットへと吸い込まれていった。ふう、自分でも納得の行くスピードと球威だったな。今しがた自分が投じた一球に思いを馳せ、悦に入る。こういうのを自画自賛というのだろう。
藤間からの返球を受けつつ、次のサインを予想する。今の渾身の一球で、今日の俺の大体の調子は分かっただろうから、きっと次もストレートで来るだろう。このままの調子で行けば、全投球数の9割をストレート、後は適当に緩い変化球を投げ分けていくだけで相手を翻弄できそうだ。そう考えていると……藤間のサインは。
ストレート。
なるほど、藤間の奴も分かってきたようだ。……かなり偉そうな物言いだが、とにかく俺はストレート主体で押すパワーピッチャーなんだ。速球が死ねば投手としての俺も死ぬ。だからといって技巧派に転向など、自分のプライドが許さない。俺が野球を、投手をやろうと思った最大の要因が、速球で相手をねじ伏せることなんだ。
そのサインに珍しく頷き、再びモーションを起こすと!
瞬間、打者がバントの構えを取った。それを見て、一、三塁手が猛ダッシュしてくる、グラウンドの土をスパイクが噛む音が聞こえる……と思ったのも束の間、打者はあっさりとヒッティングに切り替え……
がぎ。
どうにかこうにかバットに当てただけの力ない打球は、本来ならセカンド定位置にすっぽり収まる筈が、無人のグラウンドを転々としていた。二塁手の御曽が打球を掴んだと見るや、ここで何を焦ったか、間に合うはずもないのに一塁手に転送……本人はそうしたつもりだったんだろうが、実際には送球は……一塁手・黒沢の頭上を大きくオーバー、ベンチからの悲鳴を受け、ファウルグラウンドを転々……その処理にすら手間取り、ランナーは三塁まで到達してしまった。……何を焦っていたんだ、御曽の奴は。
御曽にあからさまに不満をぶつけるのは持っての他だが、
「ごめん」
と、御曽の方から謝られても困る。間に合わないと分かっているものをわざわざ追い掛けてどうしようというのだ。『何事にも最後まで諦めない、由緒正しき高校野球道』にでも従ったつもりなのだろうか。
それでも、悪気がないのはその真剣な顔つきからハッキリしている。もっとも、悪気があってやってもらってもどうと言うことはないのだが。
気を取り直し、藤間と軽い打ち合わせ。セオリーなら、初回だけに一点は与えても確実にアウトカウントを稼ぐ方向に落ち着くのだろうが……何せ五塚の得点力は限られている。必然的に対処法は決まっていた。
つまり、
全力でスクイズ阻止、だ。
さしもの横浜学院とはいえ、俺に長打を浴びせられるとは考えていないだろう。それならば、『高校野球道』に基づき取るべき作戦は一つ。相手の目的が絞れれば“対処法”はそれ程難しくないが、“対処”出来るかとなると非常に難しい。何と言ってもまだまだノーアウトなのだ。つまり相手には2回スクイズを試みるチャンスがあるが、下手をすれば虎の子の三塁ランナーを失う事になる。イヤでも慎重に攻めてくる事は間違いないのだが、では実際にどこでスクイズに出てくるのか?
横浜学院は、カベの力量は痛いぐらいに知り尽くしているだろうが、この藤間の実力については未知数の筈だ。そこら辺に付け入るスキがありそうだが……ともかく、ここではとにかくコースを突きながらストライクを先行させるという無理難題に主眼を置く事となった。仕方がないよな、今の五塚には一点でも致命的なんだから。
二番打者は、屋久に負けず劣らず小柄な選手だったが、バットを寝かせた構え方はやはり堂に入っている。俺等とは実戦経験が違うんだよな……幼い頃からリトルリーグ専用バスに乗って各地を転戦、休日ともなれば朝から晩まで野球漬け……。高校生までの野球の実力は日本が世界一なのだ。しかし……彼らは分かっているのだろうか。そこから先の力量の違というものを。最近はメジャーリーグでも実力低下が叫ばれて久しいが、それはごく一部の選手が全体のレベルを引き下げているように見られているからだ、と俺は思っている。だって見てみろよ、メジャーの一流打者を。打球を、古い言い回しだがピンポン球のように飛ばすその技術とパワーは、そんな野球漬けの毎日をケツを掻きながらあざけるかの如く圧倒的なものだ。幾ら努力しても超えられない絶対的な壁……それをいま、奴らに見せつけてやるんだ。
セットポジションに入り、うろちょろするランナーをちらりと見やってからクイックで投げる!
ボールの軌跡が空気の渦となって見えるかのような一球は、右の二番打者の内角高めに突き刺さっている。へっぴり腰になっているのが実に愉快だ。三球目もストレート。一球外してくるかと思ったらしい打者は、高めの速球に釣られて手を出して三振。この一球も実に球威があった。
ひとまずワンナウト。藤間は頷き、今日の速球の感触に確かな手応えを感じていることだろう。内野回しの間、妙に高ぶる感情を持て余し気味の自分を押えつつ、三番打者と対峙する。相手ベンチは遠目からでも分かるほど意気消沈……してはいない。これくらいは想定の範囲内と予め腹をくくっていたのか。そうだとしたら、天下の横浜学院が随分と情けない事じゃないか。マトモにボールが前に飛ばない、かといってバントも出来ない……さあ、どうするんだ?
三番もロクに手だてがないらしいが、それにしてもコーチャーからのサインを確認しない。最も可能性が高いと思われたスクイズは、まだ初回ということと、練習試合と言うこともあって捨てているのか?
第一球。藤間のサインは……ここで初めてウエストのサインが出た。こちらが三振を奪って気分が良くなっている、その1球目を狙うかもしれないという判断だろうが……首を振りたかったが、藤間を信頼してそのまま投げることに。軽い速球で外角に外すが、三塁ランナー・打者共に動きナシ。……しかし、もちろんそれを鵜呑みにするはずがない。
第二球。外角低めのストレート。これが見事に決まってカウント1-1。またしても打者・走者に動きナシ。……どうにも臭いな。かといって、ウエストしてカウントを悪くするのも相手の思うツボだ。相手がどこでスクイズを挟んでくるのか分からない以上、バントに対してもヒッティングに対して、最も討ち取る可能性の高いストレートに頼る他ないんだ。
そして第三球は流石にウエスト。カウント2-2にしてからトドメの一球のサインは……またもや高めの速球。それでいいんだ、どうせ手も足も出まい。自分が打席に立っている時のこともすっかり忘れ、とにかく相手がきりきり舞いしているのを見てほくそ笑む……いつから俺はここまで自分の力に自惚れるようになったんだろう……自惚れている自分とそれを戒めている自分、その2つが心の中で全くバラバラにお互いを観察しているような息苦しさをも覚える。
だが、相手の真の狙いは次の一球にあった。
ここまでの動きから、もうスクイズはないと高をくくっていたその次の一球!
なんとモーションと同時にランナーが動いた。同時に、三番打者がバントの構えに移った。もうバントはないと決めてかかっていたから、俺のクイックも疎かになっている。完全にヤラれた。俺も一・三塁手も慌ててダッシュするが到底及ばない。打者も速球に食らいつき、俺の前に転がしてしまった。それでも、あまり打球は死んではおらず、ほぼワンバウンドでグラブに収まったは良いが、悲しいかなこういったフィールディングの練習を殆どと言っていいほどこなしていない俺は、本塁クロスプレーのタイミングであるにも関わらず、一塁への送球を焦って大暴投する始末……
言うことを聞かなかった送球が、またもや一塁側ファウルグラウンドを転々としている間、バッターランナーは悠々と二塁を陥れてしまうのだった……。
三塁走者が本塁を駆け抜けた瞬間、何とも言えない重っ苦しい空気が守備に散っているナインの間にあっという間に蔓延した。……それにしても打たれ弱いな……しかし仕方がない。強豪校に勝つには、とにかく俺が0点で抑えているのが最低条件なのだから。
しかし、この暴投のツケは大きかった。何しろ、次に待ちかまえている打者が打者なだけに……。




