第10-06話
日は恐ろしい早さで過ぎ去り、五月の連休に入った。普通の高校の野球部なら、それこそ連戦で試合を組むなり、朝から夕まで練習漬けとなるところなのだろうが……その日は上手くスケジュールが合わずに休みとしてしまっていた。これだけ休みが多くて、夏の大会は大丈夫なんだろうな……と思うこともあるけど、そこはそこ。俺だって、休みを取らなければ参ってしまうような練習を繰り返していることだし。それに……何処まで練習したら「大丈夫」など、誰にも分かりっこないのだから。
カベとの特訓はしつこいくらいに繰り返されている。去年の8月の終わり、あの炎暑のグラウンドで特訓を始めてから早8ヶ月……自分で成長したと思うところもあるし、そうでないところもまた多々ある。人間は日々成長とは言うけれど、俺の場合は成長しなければならない部分が多すぎて困りものだ。
現在集中して取り組んでいるのが、新球であるナックルを含め、元来の変化球をきっちり狙ったところに投げられるようにする訓練だ……というより、今はそっちの方に特訓時間の殆どを割いている。直球なら、多少コントロールが甘くても、取りあえずボールに威力があればねじ伏せる事も出来るし、それにスピードに気圧されてボール球でも空振りしてくれる公算も高いからだ。
元来、変化球のコントロールには自信のあるほうではなかったし、ここで何とか自信を付けておけば、投手としての引き出しが大きく広がるのは間違いない。今までは何かとなれば速球でケリを付けていたが、これからは変化球でカウントを稼ぎつつ相手の目を遅いボールで惑わせる事も重要になってくるだろう。肩の力を抜いた変化球でカウントが取れれば、スタミナ配分にも優しくなって一石二鳥だ。
マウンド上で、密かに練習していたとカベに耳打ちしたナックルが完成すれば、俺の持ち球はかなり豊富になる。どのボールを放ればいいか、自分で目移りするくらいだ……実際には、どのボールを投げるかの決定権は俺にはなく、実質的にカベ任せなのだが。さてそれでは、現在自分のボールにどのくらいの感触を抱いているかというと……最も自信を持っているのが『S』、それから順番に『A』『B』『C』となるに従って落ちていく、といった形で表現すれば、
ストレート :S……これは当たり前か……俺の生命線であると同時に、過酷な投手家業を続けていられる理由そのものでもある。
カーブ :A……最も単純で原始的な変化球であると同時に、最も難しくそして最も効果的な変化球であろう。コントロール、切れ味共に自信がある。ちょっとやそっとの相手なら、ストレートとカーブのクラシックエーススタイル……俺が勝手に名付けた。昔の名だたる大投手は、主にこのふたつの球種だけで勝利を積み重ねていた……で簡単に料理が出来る。
シュート :B……切れ味そのものは劇的でもないと思うが、俺の場合はナチュラルに近い切れ味の、ストレートとほぼ同じスピードだから、ストレートと混ぜて使ってみるだけで効果はあるだろう。
フォーク :B……これも落ち方が面白い方ではないものの、とにかく低めに落とすコントロールにだけは絶対の自信がある。何しろ、甘く入れば即長打、という諸刃の剣でもあるから、コントロールにだけは気をつけろと某キャッチャーから散々注意を受けているから。特訓でもその事を念頭に置いて投げ続けた結果、満足の行く武器となった。
スライダー :B……何しろこれがなければ現代の投手をやっていられない、とも言える変化球だけに、中学生の頃から試し投げをしていて経験があり、、しかも手応えのある球種だ。俺は、このボールを『変化球』としてではなく、直球の握りから指一本分ずらして握るナチュラルスライダーとして投げている。キレ・コントロール共に上々……だと思う。
ツーシーム :C……マウンドからの見た目では、それ程変化しているようには見えない。勿論、普通のフォーシームストレートと変わらないスピードだから、打者を抑えてもそれがツーシーム独特の変化によるものなのか、が判別しにくいんだ……よってC評価。
ナックル :C……個人的にロマンを感じている球種だ。80キロ台の揺れる魔球に面食らい、そして凡打するバッター……想像するに痛快ではないか。もしこれを常用できれば、肩の消耗などのスタミナ面に関する役ばかりでなく、球速差によるバッターへの目眩ましという面から見てもメリットは計り知れない。……あくまで使いこなせれば、だが。
……といった所だ。特訓では、やはりナックルの要求は少ない。カベに使い物にならないと判断されている公算が大だが……投げたいな。こればかりは自分で練習するのみか。
……一通り自分の力量の整理をしたところで一息付く。自室にて、目の前の机の上には……軽めの般若湯。やっぱり休みにはこれがなくちゃなぁ。リラックスし、椅子の背もたれに最大限体重を掛けてから耳を澄ますと、加藤家はごく静まりかえっていた。真理もバイトのシフトを入れておらず、家で適当にのんびり過ごしている……休日となればバイトを入れまくるのではなく、あくまで金銭的収入は二の次という真理らしい考え方だ。……店の方は猫の手も借りたいような忙しさだろうが……。暇なのにも一応理由があって、友達と遊ぼうにも、その友達……えーと、舞依子ちゃんに梨魅ちゃん、だったかな……は家族と一緒に遊びに行っていて都合が付かないらしい。
GW中には帰省すると言っていた美奈津も、暇が取れなかったと俺の想像通りの電話があった。当たり前だな、バスケをやるために名門校に行ったのだから。バスケ漬けになって、むしろ有り難いと思えるほどでなくては。
姉さんは、大学生だけあって色々と付き合いやら勉強だとかが立て込み、朝から大学へ行ったっきり。休み中だというのに、本当に忙しそうだった。でも、姉さんはそんな忙しさもまた楽しんでいるかのようだ。人生を楽しんでいるという点では、彼女にはとても敵わない。
般若湯を一口啜り、さてこれからどうしようかと考える。これから季節が進んでいけば、ゆったりした時間も限られてくるから、きっちりと……きっちりとどうするんだ?きっちりと休む?きっちりと遊ぶ?……どうにも難しいところではある。
般若湯をもう一口。
……いざこうして暇になると、何をして良いか分からないな……本当だったら、その暇を楽しめるくらいにならないと、余裕がある人間とはいえないんだろうなぁ……
そこで渡りに船の如く、階下で電話の呼び出し音が鳴り響く。真理が都合良く下にいて、しかも電話を取ってくれるだろうかと淡い期待をしつつ、般若湯を啜りながらコールの数を数える……事もなく、僅か3回目でコールが途切れた。ドアを少しだけ開けて頭を廊下に出し、階下の音を拾う。家には俺たちだけだから、真理の小さめな声でもきちんと聞き取れた。
「あ、真壁さん、こんにちは。はい、はい……え?お兄ちゃんとですか?分かりました、ちょっと待ってくださいね」
……何だ?と思っていると、真理が軽やかな足音と共に階段を上がってきた。階段を上り終える前に、俺の顔を認めたらしく、その位置で
「あ、聞いてたの?真壁さんから電話よ」 と、短く言った。
「分かった……けど、その間に何を話してたんだ?俺と代わってくれ、っていう他に」
「その事だけど、とにかく真壁さんから直接聞いてみて」
何が何だか分からずに、取りあえず一回の電話口まで行く。
「もしもし……」
「おう、聖。今日は良い天気だな」
カベは極めて明るい調子で言った。カベらしからぬ、妙におどけた調子でもある。
「そうだな」
「気温も高いし、長袖じゃ汗をかくほどだ」
「そうだな」
「……」
「……」
……話が続かない。俺もカベも、電話で長話をしないからな……長話はおろか、ごく普通の世間話すらしないから、ただの事務連絡といった方がしっくり来るかも知れん。
「話が要点を得ないぞ」
「……オレもそう思う」
傍らにいる真理も、どうしたものかと半ばはらはらしながら俺たちの会話(?)の成り行きを見守っている。
「……このままでは埒が明かないので、はっきりと言おうか」
「そうして頂きたい」
ごほん、とわざとらしい咳払いを一つしてから、
「あのな、海を……見に行かないか?真理ちゃんも一緒に」
「……」
「……どうだ?」
「……それだけの事を言うのに、今まで手間取ってたのか」
「そうだ」
そんな簡単なことを言うのに、少しだけ手間取るカベが……こう言っては何だが、愛おしくて仕方がない。
「くくくっ」
「何故笑う」
少しだけむっとした口調になり、慌てて否定する言葉を探す。
「いや、悪い。そういう意味じゃないんだ。ただ、真理を一緒に誘ってくれたことが嬉しくて、な」
「……何が悲しくて、男二人で海に行かにゃならんのだ。真理ちゃんが居なければそのまま電話を切ってたぞ」
「ふうーん……」
謹厳実直だが、それ故に面白味が足りないと思うところもあったカベにも、こうして『何もない時間』を大切にする面があったんだな。今更ながらに気が付いたのだが、カベとの付き合いももう3年になるが、まだ知らないことだらけなんだな、とつくづく思う。
「で、行くのか行かないのか」
きちんと反省しているのが分かってもらえたのか、カベはそれ以上咎めることもない。
「折角のお誘いだからな、行くよ」
「……分かった、じゃあ今からそっちに行くから、支度して待っててくれ」
電話を切ると、
「お兄ちゃん……行くの?」
「ああ……カベから誘われるのは珍しいからな。お前も行くんだろう?」
「うん。海辺のお散歩もいいよねっ」
「なら、早く着替えてこい。カベがこっちに寄るって言ってるから、多分早足で来るぞ」
「分かった」
真理はそそくさと自分の部屋に戻る。……しかし、珍しいこともあるものだ。堅物のカベといえど、たまには息抜きも必要なんだろう……思い出してみれば、カベが思い切り羽目を外した所など滅多に……いや、殆ど見たことがない。だいたい、カベが普段どうやってリラックスしているかも知らないんだ。そんなカベが、ゆったりした時間を俺と真理との三人で過ごしたいと言ってくれたのが、殊の外嬉しくて仕方がなくて……
「……何をニヤニヤしてるんだ、気味が悪い」
カベが玄関に現れるまで、そのニヤニヤが消えなくて困ったのだった。
・
・
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ざざーん。
ざざーん。
加藤家から南に向かって歩くこと数分……海岸、である。
連休中だけあって、浜辺では釣り糸垂れる者あり、身内でバーべキューをする者あり、或いは恋人同志で親密な仲をより一層育み合う者あり……とにかく人出が多かった。
しばらく三人で、寄せては返す波を避けながらジグザグに海岸線を歩いていると……
「……何やってるんだ、お前は」
俺等の先頭を歩いていた真理が、唐突に靴を脱ぎだした。コイツ、こんなにエキセントリックな事をする余地が残されていたんだな。
「だって、冷たそうなんだもんっ」
「冷たいと思うのなら入らなければいいではないか」
「でも、折角だから……」
何が折角なのか理解に苦しむが、兎に角真理は入水してしまった……あーあ、真理はローファーと靴下を脱いで水の中に入り、至極穏やかな汀で波と戯れている。俺とカベの隣りには、ちんまりとしたローファーと、その中に入れられた靴下だけが座っていた。このまま置いてゆくわけにも行かず、俺たちもその靴の隣りに腰を下ろす。
「なあ……カベ」
「何だ?」
「海岸まで来て何をするつもりだったんだ?」
「……『何をしない』事をしに来たんだ」
「……なるほど」
バカにしてはいけない。俺だって、たまには同じ事をしたくなるのだから。
……しかし、良い天気だ。恐らく、気温は20度を上回っているだろう。今はTシャツの上に薄いシャツを羽織っているのだが、本当ならそれすら着たくなかったんだ。まだまだ夕方になると冷えることもあるし、何より投手は腕が命だからと自分に言い聞かせ、汗ばむくらいなら、と我慢している。
海とは反対方向を振り返ってみると、海岸線を走る国道の上も、自動車ですし詰め状態だ。東は東京・横浜方面、西はバイパス経由の箱根方面……どっちもレジャーに出かける人々だろう。はっきり言って、連休中の自動車移動ほど損なものはない。必然性があるなら……例えば何か荷物を運んだりするなら……仕方がないが、渋滞に巻き込まれる事ほど時間とガソリンのムダになることは無いと思う。それでも、一家四人での電車賃より、ガソリン代+高速料金の方が安いとも言えるが、渋滞のなかではどうしたってイライラするしな……俺の中では、例えば……電車と車、同じ目的地に同じ時間で着いたとしても、電車が動くのは当たり前。自動車が渋滞に巻き込まれるのは、渋滞が無ければもっと早く着くのだから異常、と捉えている。
再び海に視線を戻すと、真理はゆったりとしたワンピースの裾を太股の辺りまで捲って、しかもそれでも裾を濡らしかねないほど派手に遊んでいた。
……本当に、眩しい風景だ。
太陽の光を受けてきらめく水平線の向こうに、白い雲をバックにして多くの釣り船が浮かんでいる。左の遠方を見れば江ノ島の向こうに三浦半島が、西を見れば伊豆半島がはっきり見える、空気も澄んだ実に素晴らしい陽気だった。こんな良い天気なのに、外に出ないのはもったいない。カベが電話を寄越してくれなければ、危うく一日中寝て過ごすところだった。感謝の言葉を言っておこうかと思い、カベの方を向くと……
「……」
海の方のある一点を凝視している。その視線の先には……
飽くことなく海の中ではしゃいでいる真理があった。
その瞬間、俺の胸に不思議な感情が灯る。不快な、そう……あらゆる意味で不快な、そして言葉に表現しがたい、鋭く鈍い痛みを伴う感情だった。
(まさか……カベのヤツ)
今までそんなそぶりを僅かでも見せなかったから、俺の受ける愕きと戸惑いも筆舌に尽くしがたい。そもそも、カベの色恋沙汰という物そのものを見たことも聞いたこともないから、カベが現在どのような想いで真理を見つめているのか分からないんだ。こんなところでも、カベの事を知らなすぎる自分を悔やまずには居られない。
「ほら、真理ちゃんが手を振ってるぞ」
言われて、初めて汀の真理が大きく手を振っているのに気がついた。しかも、
「お兄ちゃ~ん、気持ちいいよー!!」
と、場所が場所ならある種の問題を引き起こしそうな台詞と共に。苦笑いして、手を振り返す。
「何だ、意外と普通に兄貴をやってるんだな」
隣でそれを見ていたカベが、言葉の通りに、さも意外そうに呟いた。
「……意外って言うのはどういう意味だ?」
「別に……それ以上でもそれ以下でもないが」
……カベめ、すっとぼけやがって。一体どんな想像をしていたというんだ?それに、今までだって俺たちの間柄はずっと見続けて来たじゃないか。今更感心したりすることがあるのか。
「真理、そろそろ引き上げないと、いくら何でも冷えるぞ」
女は只でさえ冷え性らしいのに、気温は高いとはいえ海水はまだまだ冷たいだろう。波音にかき消されないように大きな声を掛けると、大きく手を振って答えた。しかし……
「真理ちゃん、上がってこないぞ。聞こえてないようだが」
「……そのようだな」
道理で、『了解』の合図にしては元気すぎる手の振り方だと思った。それにしても……何が真理をそこまで水に惹きつけているんだろうな。見ている分には、思わず写真か絵画に残しておきたくなるような、極上の構図なのだが。
「仕方がないな……」
よっこらせ、と尻を叩いて、波打ち際まで歩くと……
「わわっ」
急に想定外の強い波が来て、
「……」
ジーンズが膝の辺りまで変色してしまいましたとさ。
「お兄ちゃん、濡れちゃったの?」
それを見た真理は、ばしゃばしゃと走ってようやく水から上がった。声を掛けただけではダメで、こうしてびしょ濡れになってようやく目的を果たせた事になる。代償にしては高すぎるきらいがあった。
「……見ての通りだ。お前を呼びに行こうと思ったらこのザマだ……あーあ、靴まで濡れちまった」
真理のように靴下まで脱ごうとしたが、
「あ、何処にガラスが落ちてるか分からないから、お兄ちゃんは止めた方がいいよ?」と制され、尤もだと思いそのままカベの元へ戻った。俺の身体は、もう俺一人の身体ではないらしい。……ま、確かに、俺に夢を見てくれている人もいるんだろうな。
「見極めが甘いな」
俺の変色したジーンズを見て、カベが冷たい一言……
「そんなこと言われてもな……イレギュラーだ、イレギュラー。それまではあそこまで波が来てなかったんだよ、まったくもう……」
「ごめんね、お兄ちゃん……」
「別にいいさ」
歩く度に脚ががぽがぽ言うけど、何となくリズムが取られているようで、ついつい嬉しくなってスキップまでしかねない……他人に見られたら赤面モノだ。
「……本当に安心したよ」
いいというのに、俺のジーンズをハンカチでふきふきしている後ろから、カベが極めて……俺が今まで聞いたことの無いような、それこそ他人の声と聞き間違えたのかと思うような……優しい声で、そう言った。驚いて振り返るが、照れ隠しなのか、カベは明後日の方向に向いて表情を窺い知ることも出来ない。
真理は、そんな俺達を見て、少しだけ……微笑んだのだった。
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本来なら、海を見に行った帰りに街まで食事をしようかと思っていたのだが、俺の靴がずぶ濡れという状態だから、一端家に帰って着替えて行こうと思ったら……
「それじゃ、オレはこれで」
と、カベはそそくさと帰途につこうとした。
「おい、折角来たのにもう帰るのか?」
「ああ……お邪魔しちゃ悪いしな」
「お、お邪魔だなんて……」
「とにかく、オレはここで失礼するよ。それじゃあね、真理ちゃん」
「は、はい……」
気を使われている事で余計に意識したのか、真理の顔は真っ赤。どうしてそんなに意識するんだ。俺までどうにかなってしまいそうだ。
「あ、そうだ」
玄関から出かけたカベが立ち止まり、振り返って
「明日は試合だからな、遅れないようにしろよ」
「お、おう」
それだけ言うと、ふっ、と寂しそうに微笑んで、後は早足で玄関を出て行った。その寂しげな微笑みに、思わず追いかけて行ってしまいそうになったけど……追いかけてどうなるって言うんだ。掛ける言葉なんて……ない。結局、玄関の前から、カベの姿が角を曲がって見えなくなるまで、延々と見送り続けることになってしまった。
……何なんだ、あの立ち去り方は。後ろ姿が……消え去りそうで。カベ、お前は……今までそこに居たんだよな?それに明日も、いつもと変わらない、ちょっぴり不機嫌そうな姿を見せるよな?それが信じられないほど、さっきのカベの姿は……
「お兄ちゃん……?」
その言葉で我に返ると……真理が心配そうに眉を潜めて、俺のTシャツの裾を摘んでいた。
「……いや、何でもない」
「でも、今のお兄ちゃん……すっごく悲しそうだった」
「本当に何でもないんだ、何でも」
さっきの事は忘れたかったが……脳裏にこびりついて離れない。今日は……俺の知らないカベの貌を沢山知ることになったのは良いが、それに比して言いようのない不安も同時に覚えた、微妙な一日だった。
「真壁さん、今日はとっても……」
「とっても……何だ?」
「不思議な顔してたね……上手く言えないんだけど、優しくて悲しくて……私まで泣きたくなっちゃう様な」
真理も感じていた。と言うことは、俺の取り越し苦労では住まされない、のか。
「……気にしすぎだよ」
それは、真理に言ったというより、自分に言い聞かせていたという意味合いの方が強かった。そうしないと、これから先、ずっとカベの憂い顔を気に揉んでいなければならないのだから。俺の中を占めるカベの割合は……半端ではないほど大きい。それこそ、水を失ってしまえばたちまち死んでしまう魚のように。
「そんなにカベの事を気にしてるなんて、お前、ひょっとしてカベを……」
心にもない冗談を言ってみるが、真理はただ……
「そんなんじゃ、ないもん」
と、耳を澄まさなければ聞き逃してしまうような声で否定しただけだった。……それを何とか聞き取った俺はといえば、それ以上はしゃぐ気も茶化す気も無くなって、真理の肩を優しく叩くだけだった。




