第10-05話
ある日の加藤家の夕食。
ダイニングでメシを食っているのは俺と姉さんの二人だけ。
この春を境に、加藤家の食卓の人口密度が激減した。バスケの名門校に入寮している美奈津は当然として、真理はファミレス・「ブラウフォーゲル」でバイトに勤しんでいるから、週に半分は夕食をバイト先のまかないで済ましてくるようになった。はっきり言ってしまうと、姉さんと二人っきりの夕食は、この上なく寂しい。それまで始終付き合わせていた顔が急に半分になったんだもんな、そりゃダイニングがスカスカに見えるわけだ。
その分、料理を作る量が少なくても済むし、凝った品を用意することも簡単なんだけど……俺としては、自分の料理を食べ、「美味しい」と言ってくれる人数が減る事の方がよっぽど苦痛だ。
姉さんは、そんな俺に気を遣ってくれているんだろう、食事中はいつも沢山話しかけてくれている。姉さん自身も、妹達が傍にいないのは寂しいんだろうに……そんな姿はちっとも表に出さず、常に明るく振る舞っている。しかし……それが帰って寂しさをごまかしている事だというのがバレバレだった。
今日はといえば、特別お目出度いことはないのだが、手巻き寿司なんぞを盛大にテーブルの上に広げて、楽しく……少なくとも、ハタ眼にはそう見えるだろう努力はしている……マキマキしながら寿司を頬張っていた。
寿司の具は……
マグロ。
サーモン。
イクラ。
ツナ。
イカ。
エビ。
食卓を囲む人数が寂しい代わりなのか、食卓の上が豪華だ。豪華といえば、美奈津がいなくなって大きく変わった事がある。それは、加藤家の冷蔵庫の中身。3月まではそれこそ満杯で、暑い季節だと、庫内できちんと冷気が循環しているのか心配になってくる程だったのに、今ではかなり余裕があった。つまり……その減った分が、全て美奈津用といっても過言ではなかったわけだ。……考えてみれば、それだけの量が全て美奈津用だったというのも凄い話ではあるけど……
また、まかないで済ませてくる真理の手前、あまり豪勢なモノにするのもどうかなと思ったが……真理は真理で
「まかないが美味しい」
と言っているし、まあ遠慮する必要はないんだろう。美味しいといっても所詮はファミレスのメニューだし、気を遣っている俺たちに気を遣っている可能性もあるが……それを考えていたらキリがないしな。
味気のない食卓とはいえ、とにかく腹は満たされる。
酢飯を櫃いっぱい……おおよそ四合は炊いたのにも関わらず、俺だけじゃなくて姉さんまでかなり食が進んだから、飯は全て食べきってしまった。まるで、食卓が寂しいのと、食欲が落ちるのとは関連がない、と加藤家の家訓に書いてあるように。
「聖くん、免許の学科試験は何点だったんだっけ?」
「94点……まあまあってところかな。姉さんは?」
「私は……勿論ひゃくてんまんてーん」
「すげぇ!うう、負けた……」
そう、俺は4月の誕生日を迎える前から、部活の練習が終わった後から終業時間までの僅かな間、休むことなく教習所に通い詰めて、とうとうこのゴールデンウィーク前にめでたく自動車普通免許を取得したのだった。
二俣川で試験を受けている最中は緊張したっけな……大きな声では言えないが、なにしろ土日は練習や試合があるから、木曜日に学校を自主休講して二俣川の試験場へ行った……一発で決めなきゃいけないと意気込んでいたからな。姉さんはその緊張の中で百点満点を取ったというのか。
「聖くんはドライブとかしに行かないの?」
「うん……そうしたいけど、車があれじゃあな……初心者マークをあんな車に貼ってたら、間違いなくバカにされるでしょ?」
前にも言ったけど、俺のオヤジ様は非常な車道楽で、加藤家の地下ガレージには高価なスポーツカーばかり。今、ガレージに鎮座しているのは……脚代わりのフェラーリ456MGTと、親父の狂気と夢の象徴、フェラーリ365GT4BB(512BBチューンドエンジン載せ替え)だ。親父はロクに家に帰ってこないクセに、業者に頼んで車だけウチのガレージに運んでこさせるからなぁ……。いつ自分が乗るつもりなのか。それでも、姉さんがたまに乗って出かけるのが凄い。あんな美人がカッコいい車に乗っていたら、付け入るスキがないぞ。
俺が免許を取るまでは、いくら錆びさせないためとはいえ、こんなド派手な車を姉さんに運転させていたのだから、申し訳ない……と思っていたのだが、
「気にしなければいいのよ。それに私、こういう車好きよ、かなり」
とのお言葉。姉さんは割と……いや、かなり車好きらしい。道理でMT車の運転が上手いわけだ。
しばらく免許の話をしていると……外から、急に雨音が。
「あら……雨?さっきまで星空が見えてたていうのに」
「え……本当だ、夕立……じゃないな、夜だし」
春だけに気候が変わりやすいな……あと少しすれば、再び雨模様に舌打ちする日々が続くのだから、今ぐらいは安定していて欲しいもんだが……要するに日本という国は、気候が安定しているときは寒いか暑いかのどちらかって訳だ。
「そういえば……真理はカサを持って行ったのかしら」
「いや……あの天気じゃ持ってないだろうな……」
店先でカサを借りて帰ってくるかもしれないが……あいつ、自転車で行ったからな。雨の夜道を片手で傘を差し、片手でハンドルを握って帰ってくる……
「俺、車で迎えに行こうかな」
「そうね、そうしてあげて。危ないものね」
女の、特に真理の細腕では、突風が吹いたら傘を吹き飛ばされかねない。それでバランスを崩し、事故にでも遭ったら……
「じゃ、ちょっと行ってくる」
「まだ少し早いんじゃない?」
時計を見ると、8時半ちょっと前。車で10分もかからない距離だから、少し待つことになるが……
「いいよ、店でコーヒーでも飲んでるから」
「いいわね、あそこのコーヒーは美味しいものね。じゃあ行ってらっしゃい。真理をお願いします」
ぺこ、と頭を下げた姉さんは……本当に妹を心配している。何せ、妹の片方が目の届かないところに行ってしまったんだものなぁ。必然的に、残る一人が心配になるのだろう。
「任せといて」
一度は真理の働きぶりを見ておこうとは思ったものの、なかなか機会がなかった。
「お店には来ないでね」
とは直接言われてはいないけど、内心ではイヤだろうし……でも、こうして口実が出来たことで、少しだけ嬉しかったりする。
家を出がけに、玄関の傘立てを確認すると、肩幅相応に小さな真理の傘が差されたままだ。夕方のあの天気では折りたたみを持っている訳はないし……よし、堂々と正面から店に乗り込んでやるぞ。……そもそも、何故そこまで決意を固める必要があるのか。やっぱり……覗き見に近い心境ではあるからだな。
地下のガレージに入り、どちらに乗っていこうかしばらく考えたが……結局、365GT4BBに決める。乗りやすさでは完全に456の方に軍配が上がるが、こっちの刺激には代えられない……と今一度考え直して、やっぱり456にした。雨のような路面μが低いコンディションでは、365改は『アブナい』。
そんなわけで、姉さんのようにスムーズとは行かないが、なんとかアイドリング発進(半クラを使うと、大トルクによってクラッチが滑り、あっという間に使い物にならなくなる、らしい)を決める。しかしこのクルマも365もマフラーを車外品に交換してあるから、ガレージから出すだけで近所迷惑も甚だしいエグゾーストノートだ。俺自身は騒音どころか、この世のどんな楽器よりも崇高な音を奏でると思っている。……こんな事を考えている辺り、俺にも親父の車道楽者の血が流れている事の証明か。
後は、急激にアクセルを開けないようにしていれば、その大トルクが逆に運転を楽にしてくれる。なにしろエンジンの排気量が5.5リッターもあるんだから。
雨の日に高価なクルマを運転するという引け目もあるにはあるが……親父なら「可愛い娘のためなら、クルマなんて幾らでも買ってやる」と言い出すに決まってる。なれば、俺も遠慮はしない。
10分も流すと、川沿いに、小洒落た赤煉瓦の壁が見事な……多分、耐震強度の関係から、外版の化粧にだけ煉瓦を使っているのだろうが……「ブラウフォーゲル」に着く。街中からはやや外れているせいか、駐車場が広くて駐車し易いのは有り難い。時計を見ると……8時40分。真理の仕事が終わるのが……着替えその他諸々の時間を含めれば、9時10分頃か。コーヒーを啜りながら待つにはいい時間かな。
車を止め、中を見てみると……平日な上にディナータイムは過ぎたはずなのに、まだまだ客は多かった。これだけ忙しいとなると、真理も労働の喜びを感じてる暇なんてないだろうな。ヘマをやらかしてなければいいが。
しかし……今まで入ったことのない店に行くのは緊張するな。この性格、姉さん達が「美味しい」と言っている店に、一人でなかなか足を運べない理由の一つだけど、この店に関しては更に勝手が違う。
店のドアを押し開けると、ありがちなカウベルの音が響く。すると、かなり混んでいる筈なのに店員がすっ飛んできた。従業員の教育はそれなりに行き届いているらしい。
「いらっしゃいませ、ブラウフォーゲルにようこそ!」
女子店員が(マニュアル通りに)和やかに微笑む。評判になっているだけあって、結構可愛い子だ。俺よりは年上だろうけど。それより、この店の特徴、「ウリ」の内の一つが、この女子店員の格好だ。
フリルをあしらったモノトーン基調のエプロンドレスに、頭には何だか……これもフリルの付いた……正式名称は知らないが……とにかく、一言で表すなら「メイドさん」だ。最近でこそ有名になったこの類の服装だが、「ブラウフォーゲル」ではかなり昔からこのユニフォームで通している。しかしその当時から「女性の方から『着たい』と望まれる制服の店」として、業界では有名だったそうだ。……俺が詳しいんじゃなくて、野球部の黒沢が詳しいんだよ、そのテの話に。
「お客様は何名でお越しですか?」
ごく短い時間の中、驚異的な集中力で見蕩れていた俺は、慌てて雑念を振り払った。「あ、一人です。禁煙席でね」
「かしこまりました。ご案内いたしますので、どうぞ」
てきぱきとした応対は非常に気持ちがいい。単純に制服が売りのファミレスにするだけでなく、接客も料理も良ければ、そりゃあ繁盛もするわけだ。
こんな可愛い制服なのだから、自分を勘違いしている人が面接に来るはずもなく……必然的に女子店員の質が高くなる、と良い事尽くめだ。……『良い事』の方向が偏ってる気もするが。
当然、俺を適当な席に案内しようとしているこの子も、かなーり可愛い子だ。ややツリ目で、艶やかな黒髪を頭の後ろでお団子に纏めているのが印象的だった……おっとと、女性が苦手とか言っておいて、しっかり観察してるな、俺。俺もオスなんだから仕方が無いと一応正当化してみる。
席まで歩く途中に、店の中を見回して真理の姿を探すが……いない。幾ら髪をアップにして、衣装がいつも見慣れないものを着ていると言っても、2年も一緒に暮らしている人間の顔を忘れる筈がない。きっと、奥に引っ込んでいるんだろう。
「それでは、ご注文がお決まりになりましたら、そちらの」
店員は、テーブルの上のボタンを示して
「ボタンを押してお呼び付け下さいませ」
と、さっさと引き上げてしまった。『ウリ・その2』であるらしい珈琲を速攻で注文しようと思ったのに……すぐに呼ぶのも悪いので、メニューを眺めるフリをしながらしばらく店内を観察する。……意外と客層が幅広いな。もっと濃いのかと思ったら、老若男女色々様々だ。それだけ、色々なウリがあると解釈してよろしいんですね。
ウリの珈琲はというと、普通の所の様に出来合いをポットに入れて保温しておくのではなく、注文が入った時点で一杯一杯ずつ丁寧に淹れるという、店の関係者でも何でもない俺が、採算が取れるのかと心配するようなシステムらしい。
とりあえずその他は、普通のファミレスとそれほど変わりがない。しかし、店員の衣装が特殊というだけで、店の印象まで変わるような気がするのはどうした事だ。本当に……衣装の力とは偉大なものだ……人間は衣を纏い、動物から脱却した存在だ。衣装で雰囲気が違って当たり前だ……と、あやふやな理論で観察を続ける。
その時、さっき俺を案内した人とは別の女子店員と目が合って、気まずい思いをした。多分……俺はだらしない顔をしていたに違いない。ごまかす為に、その子を呼ぼうと思ったが……やめた。早めに真理を捕まえておかないと、行き違いということにもなりかねないしな。
いざボタンを押そうとすると、すっ、とメイド服の店員が注文を取りにやってきた。俺がきょろきょろしていたのを、人を探していたのと勘違いでもしたのだろうか?
「ご注文はお決まりですか?」
顔を見るのも照れるから、既に注文するものは決まっているくせにメニューに目を落としたまま
「温珈琲を一丁」
とだけ、おどけて短く伝えた。
「ご注文を繰り返します、ホットコーヒーが一丁ですね」
「はい……んん??」
俺のボケを苦もなくいなした上に、聞き覚えのある声。驚いて顔を上げると……
……驚いた。真理だった。俺の知らない真理が居た。モノトーンの華やかな、それでいて落ち着いた衣装に身をつつみ、髪をアップに纏めている真理は、いつもより数段大人っぽく見える。
「かしこまりました、少々お待ちください。メニューをお下げ致します」
極めてマニュアル通りの応対で、にこっ、と微笑みながらメニューを取り上げ、
「あ、お、おい……」
声を掛ける暇もなく、風のように去っていってしまった。忙しいのは分かるけど、もう少し……構って欲しかった、かも。それとも、真理の方にも照れがあったのか。もし逆の立場だったらと考えてみると……やっぱり、恥ずかしいかも知れない。それにしては、同様の素振りも見せてはいなかったが。
はぁ、と椅子に深く座り直してから、大きな溜め息をついた。……真理も、あんなマニュアル通りの感情のこもっていない笑顔が出来るんだな……。家での豊かな顔を知っているから、極めて事務的で感情のこもっていないあの笑顔が、まるで《北》チックに見えてしまって、思わず寒気まで覚えてしまう。
しばらく……背もたれに身体を預けたまま、頭の中で、加藤家とここでの真理の姿を比較していると、気のせいではない視線を感じた。どうにも最近、人の視線に敏感になっていけない。でもそれは、もはや自意識過剰で済まされないレベルだ、とカベは言う。そうかも知れない。俺はもう、投げるだけの実力なら全国・全団体のスカウトに注目される所まで来ているのだろうから。大体、俺ほどのボールを投げられるピッチャーが、全国にどれだけ存在するというんだ。これももう……自分への過大評価でもなんでもない。そろそろ自分の実力を客観的に認めておかないと、いざ進路が迫ったときに冷静な選択が出来なくなるかもしれないから。
……とは思ったものの、ファミレスのウェイトレスから『野球人としての注目』を浴びる訳はないし……と考え直した。ひょっとして……真理が仲間に「お兄ちゃんが迎えに来てくれた」とか言いふらしてるんじゃなかろうか。
しばらく経つと、真理がコーヒーをトレイに載せてやって来た。トレイの上に何か載せて運ぶ様も、もう『ソレ』っぽくなっている。
「ホットコーヒーをお持ち致しました」
かちゃ、とカフスを留めた腕が伸び、テーブルにコーヒーの入ったカップを置く。その手つき、指先の動かし方一つに至るまで、すっかり一流のウェイトレスになっている。短期間でここまでになるという事は、かなり新人教育が厳しいんだろう。自給は高価いらしいが、それに見合った仕事内容という事か。
「その……」
「はい?」
あまりにマニュアル通り、そして他人行儀なその振る舞い……金を貰っているプロとしては当たり前だが……に、危うく本題を忘れる所だった。しかし真理も仕事中だから、小声で
「傘、持ってきてないだろ?だから、車で迎えに来た」
「……でも、自転車は……」
「明日、晴れてたら姉さんと俺が取りに行くから、今日はとりあえず帰ろう」
「……はい」
なるべく私語を交わしている風に見えないよう、メニューの質問をするフリをしながら、そっと打ち明けた。
「九時を過ぎたら、外で待ってて。すぐに行くから」
「分かった」
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
最後に、やはり事務的な笑顔を一つ見せてから離れてゆく。ま、そこまで徹底してくれれば、きちんと仕事しているかという俺の懸念も晴れるというものだ。
少しだけ安心した俺は、珈琲を一口含み、舌の上で転がして味わってみる。……お代わり無しというのが頷けるほど上手いコーヒーだった。きっと、これは真理が淹れたんだな、などと根拠のない想像をすると、より珈琲が美味しくなった。……事実は知らないが、知らぬが仏という言葉もあるように、そう思い込む事にした。
・
・
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言われたとおり、9時頃に店を出る。レジ係が真理でなかったのは残念だが……とにかく、車の中で真理を待った。昼間の練習疲れもあってか、シートを倒してうつらうつらし始めた時……
こんこん
窓ガラスをノックする音で目が覚める。見ると、真理が私服に着替え、立っていた。
ロックを解除してやると、
「お待たせー」
と、いつもの笑顔でシートに身体を滑り込ませた。そのいつもの笑顔が何だか嬉しくて、そしてちょっとだけ安心もして……そんな複雑な胸中を、シートベルトを締める行為で誤魔化す。
「ごめんね、迎えに来てもらっちゃって……雨が降ってきたって言ってたから、よっぽど電話しようかと思ってたんだけど……」
「そういう時は遠慮せずに電話しろよ。折角なんだから……そうだ、今度親父に『娘のために自転車を一緒に積める様な車を買ってくれ』って言っておくか。親父の事だ、喜んでデカい車を送ってよこすぞ」
「やだ、そこまでしなくてもいいよぉ」
「いや、趣味の車ばっか買ってるから、これくらいはいいだろう」
「でも、本当にそうしてくれると助かるな。それに……そんな車で荷物を一杯積んで、皆でキャンプ旅行に行ったら楽しそうだし」
「……だな」
恐らく、俺にはこれから旅行をする余裕なんてなくなる……でも、今それを言う必要はない。何故なら……色々と楽しそうな事を考えている真理の顔を曇らせたくないから。
でも……多分、真理だって分かっているだろう。分かっているからこそ、そうできたらいいと口に出しただけなんだ。
「……」
「……」
真理の口が開かなくなった。これからの事を……考えているんだろう。雨に濡れた路面をタイヤが切り裂く音が、やけに大きく聞こえる。大きい筈のエグゾーストノートの方がかき消される。
「旅行に行くぞ、夏になったら。夏の大会がいつ終わるのか分からないけど……仮に甲子園の決勝まで行っても、夏休みが終わるまでは時間があるし……みーんな誘って、海でも山でも行こう」
努めて明るく言ってやった。学生生活最後の記念に、わいわいやるのも悪くない。むしろ、やっておかなければ絶対後悔する。「キャンプ旅行」はいつでも出来るかもしれないけど、「学生時代のキャンプ旅行」は今しか出来ないのだから。
「うん、行こう、皆で。………………絶対、だよ」
「任せとけ」
『絶対だよ』の部分が涙声になっていたのを、俺は聞き逃さなかった。それだけ……その旅行の事、旅行をする意味が大きいのが、真理には分かってるんだ。
なんとも言えない気持ちになって……、俺まで涙が滲んで来そうになった。俺も随分とヤキが回ったようだ。
家のすぐ側の赤信号で停車していると……
「お兄ちゃん」
真理が俺を小さく呼んだ。
「どうした?」
「……良かったら、もう少しだけ……ドライヴしたいな」
横目で見ると……真理は外を見たまま。
「……雨の日のドライヴも悪くないか。じゃあ、姉さんに電話しろ」
「うんっ」
小物入れに入れてあった携帯を取り出し、ダイヤルする真理を見つつ、赤信号が青信号に変化する寸前を見計らってアイドリング発進を試みた。クラッチを踏んでシフトレバーを1速に。
「あ、お姉ちゃん?今お兄ちゃんと帰るところなんだけど……」
1速ギアのままアクセルを踏まずにクラッチをリリース。
「うん、そんなには遅くならないようにするね。じゃあ」
“感触”のあるポイントをしばらく維持すると、まるで姉さんが運転しているように、車がスムーズに動き出したのだった。




