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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第10-03話


 四月も半ばを過ぎ、枝ばかりで寂しげだった五塚の丘の落葉樹の木立も、徐々に緑で覆われてきていた。

 紅く色づいてから、完全に枝だけになってしまうまで一ヶ月、そして枝だけになってから、再び瑞々しい葉でいっぱいになるまでに約五ヶ月。そんな時間があっという間に過ぎ去ってしまう感覚が、俺の心をどんどん焦らせていた。人間誰しも、歳を取れば時間の経過の感覚が早まるのは知っていたが、実感してみるとこれほどに焦りを生むものだとは思わなかった。

 最近は、カベとの特訓もあっと言う間に終えてしまう。もっとも、俺のコントロールが上達し、余計なボールを投げずとも良くなったからではなく……今では特訓に馴れ切り、時間の経過が早く感じてしまうからに過ぎないのだが。 

「お兄ちゃん、今日の練習はどうだった?」

「別にどうも……いつもの通りだな」

「……ふーん……」

 真理が一体何を聞きだしたいのかは知らないが、本当にこれと言って話して聞かせるような内容でもない。

 細かく言えば……やはり、常に藤間の一年生離れした、卓越した総合的なキャッチャー技術に常に舌を巻いているんだけど……それを真理に話したところで理解してくれないだろうし。

 今日は春にしては珍しい程天気が良くて、5時を過ぎても空に雲ひとつ掛かっていないから、周囲は夕焼け小焼けで茜色に染まっていた。

 オマケに、4月中旬とは思えぬほどのバカ陽気で、気温は20度を遥かに超えて夏日に迫ろうかといった具合だったらしい。そのせいで、練習が終わった後に喉の乾く事乾く事……単なる水道水がやたらに旨く感じるもんだから、今でも腹の中が水でがぽがぽ言ってやがる。

 5時を過ぎて部活を終えると、部室の外で真理が待っていた。「一緒に帰ろう」その一言は、何故か疲れた身体に心地良く、部員達の羨みか何かの……粘着質の視線を背に、校門を出ていた。

 真理がこんな時間まで待っているのは、何も今に始まった事じゃない。最近はちょくちょく部室の前に現れ、こうして肩を寄せて……というほど接近してはいないが……下校する。今までは、一人で帰るか、或いはカベと一緒に帰るか位しか選択肢が無かったのだから、男臭さは大幅に改善された訳だ。……例え俺の隣を歩いている人間が妹だとしても。

 ただ、常に他の部員からのやっかみの視線には全く馴れないが……。

 俺の前を歩く真理は、何がそんなに楽しいのか……短いプリーツスカートの裾を目の毒になる位ひらひらさせながら、舞うように歩いている。こう言うと、まるで落ち着きが無いように聞こえるが……実際にはもっと穏やかで、道端の四季の移ろいにあちこち視線を移しながら歩いているに過ぎない。要するに、真理の後ろ姿がそれだけ楽しげに見えるというだけだ。

「何かいい事でもあったのか?エラく上機嫌だが」

「ううん、何でもないよ」

「本当にか?」

「ホントだよ」

 でも……そういう真理の顔は、心底からの笑顔を湛えている。真理の心の奥底では、俺には分からない幸せを確実に噛み締めているようだ。

 しかしコイツ……クラス、いや学年中……ひょっとすると、学校中の美少女愛好家の話題を独占してるんじゃないだろうか。俺は校内では人付き合いは殆どないから、そういった浮ついた情報も殆ど入ってこないが……兄貴としては少々……いや、かなり心配だ。

 それにしても、真理に五塚の制服がこれほど似合うとは思ってもみなかった。

 五塚の制服は、淡いクリーム色のブレザーに、紺地に紅いワンポイントの入ったセーラーカラー、そしてセーラーカラーと同色のプリーツスカート。足元は個人の自由だけど、サイハイソックスを履いている子が多い。真理は……黒のサイハイソックスに、茶のローファー。……良く、似合ってる。このままアイドル写真集の巻頭を飾れそうだ……あまり良い例え方じゃなかったかもな。

 陣明中学の制服姿の真理を見慣れていた所為か、今まではどうしても"後輩""年下"という印象が強かった。自分と同じ目線ではないというか……とにかく、どこかしら自分の方が立場が上と錯覚しがちだったのだが、今、真理は俺と同じ高校の制服を着、俺と同じ通学路を歩んでいる。その事実が、俺の瞳の中で、真理を必要以上に大人っぽく見せているんだろう。実際、真理はつい一ヶ月前まで中学生だったのだから、急に、総合的な意味で大人に成長する訳は無い。それは分かっているけど……衣装のチカラというのは偉大なものなんだな。言い換えれば、俺が真理に対して兄貴ヅラをしていたのも、精神的上位という不確かなものに頼っていただけということになる。

 真理と美奈津の卒業式には、都合の付かない……というか、というか付けようのない両親に代わり、俺と姉さんが学校を休んでまで出席したというのに……両親は、こういう時だけきっちりと顔を出したのだった。しかも、事前連絡もなしに、いきなり陣明中学の校門前でバッタリ……

 社会通念上、親が娘の卒業式に主席するのは当たり前だが、両親……特に俺の親父は、そんな当たり前の事すら疑ってかからねばならない人間なんだ。お陰で卒業式には、由紀姉さん含む加藤家が勢ぞろいするという事態になって、他の家族に比べてちょっとだけ目立っていた。たまにしか顔を合わせない家族だから、いいきっかけになった事だけは確かなようだ。事実、その日は真理と美奈津の友達も呼んでの大宴会となって……まあ凄いもんだった。

 そういえば……真理は、特に親しかった二人の友達とは高校が別々になってしまったんだな……真理の本来の学力なら、少なくとも二人の友達の内のどちらかとは同じ高校に通えたかもしれないのに……真理は五塚を決め撃ちしていて、滑り止めすら掛けていなかった……掛ける必要もなかったんだろうが。

「どうしたの?お兄ちゃん」

 俺の視線を察したのか、真理が少しだけ頬を染めて振り向いた。その振り向くタイミングに合わせ、艶やかなロングヘアもスーローモーションのようにゆっくり舞う。空と同じ茜色に染まるそれは、まるで穢れの無い、無垢な天使のブロンドのようにも見えた。……疲れてるのか、俺。

「いや……なんでもない」

「そーお?」

 特に気にする素振りもなく、再び前を歩く真理。本当に……綺麗だな。

「美奈津お姉ちゃん、元気でやってるかな?」

「ああ……あいつの事だから、大丈夫だろ?……女子連中のイジメは陰惨だって話だが、美奈津なら上手く馴染めるさ」

 本当を言うと、不安がありまくりだ。俺の前の美奈津は、常に生意気な口を利き、人をからかうのが生きがいにしか見えないところもあるが……真理に言わせれば、それは俺の前"のみ"で見せる姿らしい。学校での美奈津は、面倒見が良く、愛想が良く、オマケに要領もいい、誰からも慕われる人間なんだそうだから。

 二人してうなずき……少しだけ黙り込む。

 真理の奴も……寂しいんだろうな。最近は何故かよそよそしかった双子だが、それでも距離が離れてしまえば、寂しくない訳が無い。常に双子一緒で居る事が当たり前だったのに、突然、美奈津がバスケの名門校で寮生活をすると告げた時の真理の顔は……見ていられなかったぞ。美奈津め、大体進路を決めるのが急すぎるんだよ……

 俺も……口うるさい奴が減って、安らぐかと思いきや……実際はその逆。家の中がどうにも

静か過ぎて……姉さんと三人で揃って食事をしている時でも、食卓ががらんと……美奈津の席だけ空けているのが逆効果になって、余計に寂しさを募らせる結果になっている。

 かといって、美奈津がやりたいと思う事を反対する訳にも行かないし……これはしょうがないんだ。その代わり、俺がもっと会話の出発点となって、家の中を明るくしていかなければ!……とは常々思っているのだが、沈みがちな姉さんと真理を見るにつけ、俺の口にも封がされたように、何となく言葉を発せられるのが躊躇われるような気がした。こんなところでも、俺は姉妹の仲に完全に入り込めていない弊害が出ているようだ。

「さて、今日の晩御飯はなんでしょうか、シェフさん」

 少しだけ沈んだ空気を振り払うように、務めて明るく訊いた。今日は真理の食事当番。美奈津が抜けた分、ローテーションの回りが速くなってしまった。真理にとっては、料理の腕を磨くいい機会とあってか、これ幸いと色々と凝った献立を考えている。……あくまで"考えている"だけであって、実際に食卓に供されるのは、真理の頭の中で描かれた献立から数品が間引かれたものであるが。

「えっとね……昨日の余りものもそんなにないから、これからお買い物して帰ろうかと思って」

 買い物をして帰るには少し遅い時間だけど……最近、姉さんの帰りも遅くて、必然的に食事の時間も遅くなる。加藤家は、家族全員が食卓に座らないと食事を始めない。用事があって家にいないとかの特別な理由でない限り、徹底させている。食卓は、家族の表情を見る良い機会だからな……こんな時だけ家族長を気取ってどうするんだという気もするが。

「お兄ちゃん、付き合ってくれる?」

 小首を傾げる真理。まるで、リスやウサギなどの小動物が他意なくそうするように、真理も全く意図せずに可愛いポーズをしてのける……つくづく美しいというのは恵まれた才能なんだな。

「ひょっとして……俺に荷物持ちをさせたかったんだな?」

 嬉しいのに、思ってもみない事を口にしてしまった。捻くれている性格だな……と言った後で反省してみるが、言った後では全てが遅い。案の定、

「そんなこと……ないもん」

 ちょっとだけ口を尖らせて抗議の意を示す。少しでも俺の頭が回っているんなら、真理が何故俺と買い物に行きたいか、他の理由がすぐに思いつくはずなのに……

「お兄ちゃんは大事な身体なんだから、重いものなんて持たせられないよ」

 ……その言葉に、野球選手としての俺に対して、どれだけの気遣いが込められているのだろうか。真理と姉さんには、ともすればこっちが申し訳ないくらいに気を使ってもらっている。食事の仕度ですらやらなくて良いと言ってくれているのだが……さすがにそこまで行くと、俺は加藤家の食卓のお客さんになっちまうからな……。

 「上」を目指そうという人間は、少しでも故障を負うリスクを減らすのだろうから、俺が包丁を扱う事の危険さは理解しているつもりだけど、きちんと基本を踏まえていれば、怪我などするものではないし。

「いいさ、ちゃんと左手で持つから」

「うん」

 真理は少しだけはにかみ……そしてそこに立ち止まった。何だろうと思っていたが……俺が並びかけると、再び歩調を合わせて歩き出した。俺を待ってくれていた……ただそれだけの事なのに、何故か今は心地良い。

 五塚の丘の下りも半ばを過ぎた頃、俺達の前にある人物が立ちはだかった……というのは大袈裟だが、俺の帰り道を読んで待ち伏せしていたらしい。読んでと言っても、丘を降りる道は僅かしかないから、加藤家の方向を知っていれば自然に絞れる。

「いま帰りなの?」

 そいつは、付近の住宅の門柱にもたれかかるようにして立っていたが、俺と真理の姿を認めると、こちらへ歩み寄って来る。

「……ああ、見れば分かるだろ」

 俺は努めて素っ気なく聞こえるように返事をした。 真理と一緒のところを、こいつに余り見られたくはない。いや、真理がこいつに興味を持って欲しくない。中学の時の同級生……と説明するしかないのに、それならなんであんなに親しげなんだ、と詰め寄られたらどう弁解すればいいんだ。

「だから、河村の話に付き合ってる余裕はないんだ」

「ツレないわねぇ。私と加藤くんの仲じゃない」

 河村がその台詞を口にした瞬間、傍らの真理が不安げに俺の顔を見上げた。良くある冗談かもしれないけれど、あの時……神社で再会した時の雰囲気からか、真理に取っては全く冗談に聞こえていないらしい。

「誤解されるような事言うなよ……只のクラスメイトだっただけじゃねぇか」

「只のクラスメイト、ねぇ」

 苦笑いをする河村が憎らしい。あの時俺を弄んで、突然姿を消して、そして同じように突然に現れ、しかも当たり前のように俺をからかい続ける。そりゃ、お前は軽いお遊びだったのだろうが、俺は本気だった。人生初めての本気を冗談で折られてしまった俺の心は、未だにあの時のまま止まったままだというのに……

 河村は、苦虫を噛み潰したような表情をしているであろう俺を差し置き、「ところで真理ちゃん、お兄さんとは上手くやってるの?」

 いつの間に、真理を名前で呼ぶような間柄になったんだろう……河村と真理の性格の事だ、河村が強引に親しい口を利き、真理はしょうがなく友達のフリをしてるんだろう……最初はそう思ったが、

「うん……仲、良いよ。ね?お兄ちゃん」

 タメ口を利いている事から考えても、意外と打ち解けているらしい。目上の人間には必ず敬語で接する真理だからこそ、そう思える。

「お兄ちゃん、そうだよね?」

 真理がすがるように俺の瞳を見上げる。もとより首を横に振るつもりはないが、実際に……俺達はそこそこ良好な兄妹関係を築いていると自負できるからこそ、

「ああ」

 力強く頷く事が出来る。てっきり、「へー、そうなんだー、ふーん」とか、適当にカラからかわれるものとばかり思っていたが、

「そっか……羨ましいな」

 そう呟いて、道端に視線を落とす河村の表情が、今までのわだかまりをい承知した上でも切なすぎて……その身体に秘められた、諸々の事情を察しない訳にはいかなかった。今の河村は……18歳で俺の2学年下。マトモに過ごしていれば……何処をどうマトモと定義付けるのも難しいが……現代の情勢から言って、俺と同じ3年生として過ごしている筈なんだ。

 そんな沈んだ表情で俯いていたのも束の間、

「じゃあ、お邪魔しちゃ悪いわね。それじゃあ真理ちゃん、また明日」

「あ、は、うん、また明日」

 ふるふる、と小さく手を振る真理に手を振り返し、河村は走り去った。

 相変わらず……河村の意図が読めない。俺と真理の間を引っ掻き回して何が楽しいのか……いや、楽しいのかも知れないけどな。

「随分打ち解けた感じだな」

 河村の姿が角に消えた時点で、真理に訊く。

「うん……河村さんね、私が男の子に色々と訊かれて困ってる時に、そっと連れ出してくれたり、物の貸し借りしたり、お弁当一緒に食べたり……色々とお話してるの」

 それを聞いて。ちょっとだけ……いや、かなり驚いた。俺をからかうだけなら、真理に優しくする必要なんてないのに……でもその疑問は、次の一言であっけなく氷解した。

「河村さんね、同じ学年に親しい人がいないんだって」

 良く考えなくてもそうだ。アイツは一年生……三年には、中学時代に親しかった人間達もいるんだろうが、二年間のブランクがある上に、学年が違ってしまえば、そもそも接点はかなり減る。そこで、少しでも面識のある人間と親しくなろうとした……という訳か。河村は明るくは振舞ってはいるが、やはり寂しいんだろう。中学時代に突然転校して、再び突然地元に戻って来た事から、奇異の目で見られるかも知れないのも勘定に入れる必要がありそうだ。

「私も……転校する寂しさは知ってるから……」

「……そうだった、な」

 ついでに言えば、俺もだ。中学からこっちに引っ越してきたが、始業式に出席していても、周りは知らない人間だらけ……寂しくて、悲しくて、心細くて……俺の場合は、それから友達を作る事も出来ずにここまで来てしまったんだ。

 ……少しだけ、あくまで少しだけだが……河村に同情した。

「さ、早く行こっ!」

「あ、ああ」

 真理が一瞬ためらってから……俺の左手を掴み、駆け出す。それに釣られて走り出した俺を見て、真理はにこ、と微笑んだ。




 今日の晩御飯の献立は、真理特製の野菜たっぷりの長崎風ちゃんぽんだった。麺の上に乗っている野菜があまりに多いんで、どんぶりからはみ出しそうだったぞ。

 具は、筍・木耳・人参・モヤシ・キャベツ・タマネギ・エビ・イカ……とにかく思いつく限りの材料を使ったもんだから、具を食べきる前にある程度腹が満たされてしまうという……でも、真理の味付けが絶妙だったせいか、俺と姉さんはおろか、普段は小食の真理も汁まで飲み干してしまった。……となると、今日のチャンポンの出来は、自画自賛できるものだったようだな。

 俺はどちらかというと、食事が終わり、一息ついてから洗い物をし始めるタイプなのだが、真理は皆の食事が終わり、食器を流しに運んだ瞬間から洗い物をし始る。そして食器類を茶箪笥にしまい終えてから、改めて食後の一服を楽しむ、といったスタイルだ。まあ、そっちの方が「あー、まだ洗い物が残ってた」と億劫になることもないのだけど。

 真理は、自分が食事当番の時は、洗い物をなるべく少なくなるようにな献立を考えているようだから、今日もそれに漏れずあっという間に洗い物を片付け終わった。

 片付けを始めてから、俺たちに茶を淹れてくれるまで、たったの5分。真理もずいぶんと後片付けには慣れたらしく、横目で見ていても手際が良さは際だっていた。たった5分で生ゴミを捨てたり、流しの掃除をしたり、明日の分の米をといだり……無駄が全くない。

 俺たちに茶を出し終わり、エプロンを外す真理。ちなみに、加藤家ではお茶にも手を抜いていない。茶葉は、極上の静岡産川根茶だ。

 しばらくお茶の薫りを楽しんでいると、

「お兄ちゃん、お姉ちゃん、少し……お話があるの」

 と、真理が改まって話を切り出した。何か重大な事かと思いきや、真理の表情はそんなに思い詰めたものではない。

「なあに、改まっちゃって」

 こと、と湯飲みをテーブルの上に置く姉さん。ついでに、テレビのリモコンを操作し、音量まで下げた。

 真理は、少しだけ指先を弄ってから「私、アルバイトしたいの」と切り出した。

「アルバイト……」

 俺と姉さんの言葉が重なった。割と意外な相談だったからだ。どちらかというと、というより、明らかに消極的な性格の真理が、自分から働きたいと言ったのだ。

「バイトって……お前、そんなに小遣いが欲しいのか?」

「ううん……確かにお小遣いは欲しいけど、それだけじゃなくて……折角高校生になったんだから、自分で働いてみたいな、って思ったの」

「ほう……」

 今時の子からはとても出てきそうにない殊勝な台詞に、思わず唸ってしまった。と言っても、俺だってバイトを経験した事などないんだが。

「で、どこでアルバイトするつもりなの?」

「うーんとね……川沿いに『ブラウフォーゲル』ってファミリーレストランがあるでしょう?あそこにしようと思ってるんだけど……」

 『ブラウフォーゲル』という名前を聞いて、ちょっとだけ胸騒ぎがした。何故なら……

「あら、いいじゃない。あそこの制服、とても可愛いものね」

 そう、『ブラウフォーゲル』は……ちょっとした定評がある店なんだ。まあ、食事が旨い店というのもその一つだし、それは飲食店としてはとても良いことなのだろうけど……俺の懸念はもう一つある。姉さんが今言った、「制服」についてだ。

「でも……私が夜アルバイトに出ちゃうと、食事当番がおろそかになっちゃいそうな気がして……あ、もちろんアルバイトに行く前に準備は済ませるから安心して。あくまで『気がするだけ』だから」

 真理も必死だ。そんなに……働きたいのか。小遣いが特別欲しい訳じゃない、社会勉強だというその台詞には感服するが、本当にただそれだけだろうか。

「いいわ、行ってらっしゃい。私も真理の頃には色々……とはしてないけど、アルバイトはしてたもの。働くのって、ただお金を手に入れる手段だけじゃなくて、学校では教えてくれないものを色々と学べるものね」

 姉さんもバイトしてたんだ……えーっと、妹達とと姉さんは4つ違いだから、妹達の手が掛からなくなったのを見計らったのかな?よく考えれば、姉妹達の母親・真綾さんはデザイナーで……正直イヤらしい話だが、結構な稼ぎがあるんだそうだ。姉さんが苦笑しながら話してくれたことがある……バイトなどしなくても金銭的には全く困らないのだから、姉さんのバイトをしていた理由も、きっと真理と同じようなものだろう……本当に、頭の下がる。

「いいぜ、別に。その心構えだったら、すぐに辞めるとかは言い出さないだろ」

 俺が告げてやると、真理は小躍りして

「ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 と、礼を述べた。別に……礼を言われることでもないけどな。それよりも……やはり、ちょっとだけ心配な俺だった。何が心配かって……真理は『超』が付く程の美少女なんだ。そんな可愛い子を人目に付くところに放り出す……どんな心配事かは自ずと分かろうというものだ。

「ま、気をつけろよ」

 とりあえず、現時点で言える事はそれだけだ。

「うんっ」

 真理も、そう言ってにっこり頷く。そうそう、それでいいんだ。

 まあこっちとしては……只でさえ美奈津が欠けて寂しい食卓になっていたのが、真理のバイトのある日は更に人数が減ってしまいかねない……という寂しさはある。しかも、姉さんにも大学の人付き合いもあるから……ひょっとしたら再び独りぼっちの食卓を囲む可能性だって有り得るんだ。

 でも、それを言っても始まらない。そう……独りぼっちの食卓なんて、今までにもいくらでも経験してたじゃないか……経験していても、それに再び慣れるかどうかは別問題として。




 にこにこ、姉さんとバイトについて話し合う真理の顔を見るにつけ……成長してるんだな、としみじみしたものを感じ、そして……俺も成長しているのかな、と自問さえしたくなるような真理の提案ではあった。


 テレビに目を向けると、いつの間に時間が経っていたんだろう……ゴールデンタイムはとっくに過ぎ去り、スポーツニュースの時間になっていた。

 そこには、センバツでベスト8に沈んだ、伊東光率いる横浜学院が、早くも夏の大会に向けて練習に励んでいる姿が映し出されている。



 ……俺も、当面の目標はこれしかないからな。


 まだ楽しげに語らっている仲睦まじい姉妹を背に、そっとリビングを抜け出し、アップ

シューズに履き替え、春が薫る夜の街に向かって走り始めた俺だった。


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