第10-01話
目の前を、桜色の風が舞った。
ここは、俺の良く訪れる、五塚の丘の頂上近くにひっそりと建立されている神社だ。俺は社の石段に腰を下ろし、疲れ切った溜め息をついた。
疲れ切ったというのも……
今日は新入生の入学式だから、一部の在校生は休み。惰眠を貪ろうと、昨日はやや夜更かしをしていたのに、早朝にカベからの電話だ。何事かと思って問いただしてみれば、「部活の事で重要な話があるから、学校に出て来い」の一点張りだ。
仕方が無いので、眠い目をこすりつつ坂を登り、部室に顔を出してみれば……新入生の部活勧誘に引っ張り出されたというわけだ。
ありゃ、殆どというか全くもって見世物以外の何物でもない。俺の知名度がかなり高くなってきたのをいい事に、各部活の勧誘の列に混じり、俺も椅子に座らされ、部活動の内容を書いたワラ半紙のプリントを配るだけの見世物だ。
しかし、もともとが俺は人の視線に慣れていないから、ただじろじろと見られているだけで疲労を感じてしまう。本当なら拒否したかったが、ノコノコ出て行った俺もバカだし、カベに「今までの遅刻起こしの貸しの分だ」とか、「お前、雑用をやってくれる可愛い後輩が欲しくないのか?」とか言われては、反論のしようもない。
確かに、遅刻の件では散々迷惑をかけているし、第一控えの選手のいない野球チームなんて、何かしらの拍子であっという間に不戦敗になっちまうからな。
しかし、俺が耐え忍んだ甲斐があったのか、用意したプリント30枚もあっという間に裁けて、こうして晴れて釈放されたのだ。ま、ただ単に、俺の手からプリントをもらう事が目的のようなヤツもいた事だから、この内の何人が入部してくれるのかは全く見当が付かないが。
そう言えば真理のヤツ、出がけに「お兄ちゃんがいるんだったら、覗いてみよっかな」などと言っていたが、結局姿を見なかったな。何日か前から届いていたにもかかわらず、ついぞや俺に制服姿を見せなかったが……何か隠したい理由でもあるのか、あいつ。
今再び、桜色の風が渦巻き、俺を突き抜けて行く。そのたびに、巻かれた桜の花びらが境内におち、さながら桜の絨毯といった趣を成していた。
今は、春。
言うまでもなく、新たな季節の始まりでもある。
神社の周りをぐるりと取り囲んでいる枝垂れ桜は、今年の春が早かったせいもあってか、見事な咲きっぷりから一歩進んで、もう散り始めているのが少しだけ寂しかった。でも、ありきたりな染井吉野の咲き誇る姿とはまた一味違っていて、目を楽しませてくれる。
下界の街並みに目を移すと、家々の屋根の隙間の所々に、薄紅色をした桜が目立っている。落葉樹の方はまだまだ葉をつけていないが、常緑樹の緑色と、色とりどりの屋根、そして桜の薄紅色とのコントラストが目にまぶしい。
目を閉じると、春の柔らかな風に揺られる木々のざわめきが俺の疲れた心を癒してくれる。山形にいる頃から、いや、雪国の山形だからこそ、春の象徴である桜は大のお気に入りだった。じいちゃんの家の庭には、大きな桜の樹が植えてあって、毎年春になると、近所の人を呼んで花見をしたっけな……
そんな、昔に思いを馳せていると、不意に脚の上に重い塊が無断乗車してくる感触があった。が、その正体が何だかは察しが付いている。その証拠に、薄目を開けて確認すると、巨大すぎる白猫がうまくバランスを取って香箱を組んでいた。
「ヴァイス」、神社の神主さんが付けたとは思えない名前のこの大猫は、神主さんが野良だったコイツを見かねて、飼いならしてしまったらしい。初めて見たときは、あまりに薄汚れていた為に薄茶色の毛をしてるのか、という程やつれていたらしいが……今は立派に成長して、体重約8キロ。しかも太っている訳ではなくてこの体重だ。気持ちのいいくらい大きいもんだから、こうして脚の上で香箱を組んでいても、身体の幅が俺の両脚からはみ出している。
それでも、人間に拾ってもらった恩義を感じているからかどうなんだか、やたらめたらに懐っこいから、可愛くて仕方がない。唯一の難点は……
「おいヴァイス、ちょっと……降りてくれ」
にゃん、と、「折角気持ちよく寝てたのに」と言わんばかりに返事をして、脚の上から渋々降りる。そう、あまりの大猫なもんだから、こうしてしばらく脚を貸してやると、痺れてきてしまうんだ。
それでも俺の側を離れたがらず、今度は俺の脚に身体を預け、再び目を閉じるヴァイス。俺も再び目を閉じ、心を落ち着ける。
このところ……いや、ここ2ヶ月以上、俺の精神が休まる事がなかった。
この春の大会の県予選、俺たち五塚はマトモに勝ち進むことも叶わなかった。原因はもちろん俺。カベとの特訓が実を結んでいると思った矢先、秋季大会と同じような敗れ方……つまり、独り相撲からのくだらない失点を許し、打線はカベをマークされて沈黙点を繰り返したのだ。 敗北に打ちひしがれ、絶望感と無常感と罪悪感が苛む俺を慰めてくれたのは……もちろん家族と、そして意外にもチームメイト達だった。奴らは、敗北の原因が俺にあるとは一言も言わず、それより、自分らのバッティングも守備もダメだったからだ、とさえ言ってくれたのだ。その時……俺は初めてこのチームメイトと野球をやっている事の素晴らしさを実感したんだ…… 俺の気の休まらない事は、もちろんそれだけじゃない。
あの時……修学旅行の時、黒木を反射的にフってしまってから……言うまでもないが、それ以来、黒木は俺とは一言も会話を交わさないどころか、視線すら合わせようとしない。例え合っても、すぐさまあからさまに逸らされてしまう始末で……自分が蒔いた種とは、針のムシロとはこの事か。お陰で、何となく黒木と仲の良かった女子連中の反応まで冷たくなったような気さえして……
美奈津は、この春からバスケの推薦を受けて、私立恒常高校の入学。寮に入る為に家を離れてしまった。あまりに唐突な話だったが、どんなカタチであれ、本人が望まれ、そして本人がバスケを愛しているのなら、と家族全員で快く送り出す事となった。……っていうか、美奈津のバスケの腕って、私立の名門から誘いが来るほどだったんだな……自分の野球の練習にかかりっきりで、美奈津の事を殆ど顧みれる余裕がなかったのは、大いに反省の余地があるだろう。
美奈津が家を発ち、入寮する前日の夜。あいつ、俺の部屋まで来て、何事か言おうとしていたが……結局、何も言わずじまいだった。これは……どういう風に捉えたら良いのだろうか。きちんと美奈津の兄をやっていれば、その無言で佇んでいた意味も分かったんだろうか。今は全ての真相が埋もれたままだ。
一応、ゴールデンウィークには帰ってくるような事を言っていたが……新入りの分際で休みが取れるのかどうか。そもそも、そんな名門高校に「GW休み」なんていう言葉が存在するのかどうか怪しいところだ。
そして……
真理が、五塚に入学した。学力的には何ら不安がないどころか、もっと上の高校を狙えるような学力だが、あえて五塚を選んだようだ……まさか、俺と高校生活を送りたいから、とか言わんだろうな……
と、ざっと並べるだけでも3つ。この事を考え出したら、授業中も眠れやしない……だから進級できるかどうかの瀬戸際まで追い込まれたんだぞ。あ~あ~、分かってる分かってる!全ては俺の所為さ。
そういえばカベの奴、新人勧誘が終わった後も、学校に残って部活の仕事をしているらしい。流石、キャプテンともなると大変だ。三年になって、チームメイト全員を束ねなければならない立場になった奴の重圧というのは、どれ程のものなのか見当もつかない。
ともあれ、もう半年以上も続いている『特訓』も今日のところは休みみたいだし、明日からはまた特訓漬けの日々が待っているんだろう。だから、今日くらいは……美しい日本の春に埋もれて、しっかり心と身体を休めておきたいんだ。
膝の上のヴァイスが、ぴくりと身じろぎした。前足をもぞもぞやっていて、随分とリラックスしているようだ。
再び、目を閉じながら、溜め息をつく。……溜め息をついたって、何も変わらないのは分かってはいるが、胸に引っかかった物が大きすぎて、そう簡単に割り切る事が出来ないのも確かそうだが……
どれくらい目を閉じていたのだろうか……時間の感覚がなくなる位だが、長い間なのかほんの数分なのか、大いにリラックスしている身体と頭ではよく分からないが、この神社に至る、かなり急な石段を登ってくる、革靴っぽい音がした。そりゃ、こんな辺鄙な所にある神社といえども、隣には幼稚園もあるし、近所の人が参拝に来る事だってある。今の時間帯は、幼稚園の園児も職員もはけてしまっているから、滅多に人通りがないとはいえ、全くとは言い切れない。
その「誰か」は、俺がこうして目を閉じ、膝に猫を乗せ、尚且つ黙っていれば、ヘンな男子生徒がいるとは思われても、特に何と言うことはなく、去っていってしまうだろう……その時は、そう思っていた。
……石畳の上を歩く革靴の音が、俺の目の前で止まるまでは。
妙な反応を察し、目を開けて目の前の人物を確認しようとした、その刹那……
人影を認めた直後、視界を砂埃と桜の花びら交じりの、春特有の突風が奪った。
目にゴミが入っていないか、薄目を恐る恐る空け、人物を見ると……
目の前の人物が微笑んだ。
瞬間、俺の時間が凍り付いた。
「ウソ……だろ……?」
思わず口に出てしまった。信じたくなかった。でも……目の前の「その人物」は、これが現実であるという事をイヤでも俺に思い知らせたいかの様に、こつ、という黒のローファーの音を響かせ、さらに一歩踏み出した。
「久し振りね、加藤くん」
……河村 蛍子。
中学時代、俺の心を弄んだ、あの女だ。
……いや、その言い方は正しくないか。ただ、俺が勝手に勘違いしただけなんだから。
その河村が、五塚の制服を身に纏い、俺の前に立っている。
「どうしたの?あんまり久し振りだから、私の顔なんか忘れちゃった?」
忘れる筈などない、例え記憶喪失になろうとも、お前の顔写真だけは思い出すだろうよ……
そう毒づいてみようとしたものの、情けない話だが、唇が引きつって上手く言葉が出てこない。
「それとも……あんまり私が綺麗になっちゃったんで、驚いてるとか?」
くすくす、と、絶対に俺が思わない事を承知で、からかう様に言った。そのややハスキーな声も、どことなく自信に満ちた物言いも、紛れもなく一度は心から愛した河村蛍子その人の物だ。バカバカしいとは思っても、頭のどこかで現実を否定したい気持ちがある。それ位、目の前の女は苦手だ。いや、苦手になってしまったというべきか。
言いたい事、質問したい事の全てを、自制心で押さえ込んで、胃の中に隠す努力をしていると、ようやく河村の顔をしっかりと見る余裕が生まれた。
あの頃……4年前よりも幾分尖った輪郭に収まる、悪戯っぽくくりくりと動く大きな瞳、形の良い眉や唇。そのほんの僅かだけの成長は、ほんの僅か故に、"自分の理想"から一歩もはみ出てはいない。……有り体に言えば、顔は"超"が付くほどの俺好みなんだ。
(くそ……相変わらず可愛いな)
素直な感想だ。それはつまり、河村の存在を認めた事になる。
「隣……座っていい?」
河村は俺の瞳を見つめたまま言った。河村とは、視線を合わせるのもつらい。一生懸命過去にしようと思っていた存在が、急に目の前に現れたのだから無理もない……と、誰かに言ってほしい。河村は、俺の返事も聞かずに、隣へ腰を降ろす。
(うぷ……)
視線をちょうど外しているあたりに、滑らかな肌の太ももが飛び込んできて、慌て目を逸らす。
(目に毒だぜ……大体がスカート短すぎるんだよ)
ちらりと河村の横顔を見やると、全てお見通しとでもいうかのような、意地の悪い笑みを浮かべている。こいつ、全て計算ずくでやってるな。気に入らない、全くもって気に入らない。
……とはいっても、俺と河村では……俺のほうがお釈迦様の掌の上で弄ばれている孫悟空状態だ。俺に勝ち目はない。
「無口なんだね……4年前から、ずっと変わらないみたい」
俺をここ前無口にさせたのは、お前にも責任があるんだぞ、と噛み付いてやりたいところだったが……それをやったら単なるかっこ悪いダメ男だ。それを自生するくらいの冷静さは、まだ残されている。
改めて、隣の河村を見る。幸いな事に、河村は枝垂れ桜を楽しげに見つめていて、俺の視線に気付いていない。……いや、ひょっとすると、この河村ことだ、あえて気付かないフリをして、俺に自分の成長具合を見せているのかもしれない。それぐらいはやってのける女だ。
小学生の頃は腰まであったロングヘアを、部活の邪魔になるからといって、潔く肩に届く程度ののセミロングまでに切ってしまっていた4年前だが、今は、明るめに脱色した背中の中ほどまでのロングを、おさげのように左右でゴムで結わっている。清楚なんだかイマドキなんだか分かりゃしない。
しかし……こうして半ば盗み見る形でも、河村の身体つきが明らかに「オンナ」になっていて、4年という時間をイヤでも感じると同時に……ドギマギしちまう。しちまうけど、あの時は、背も俺よりも大分低かったし、身体つきもどちらかというと幼い方だったから、違和感ばかりが先に立つ。
今の背丈は……ほぼ俺と同じくらいか、俺より少しばかり下……か。
「その猫、加藤くんが狩ってる……訳ないか。ここは神社だもんね」
その言葉で、肢体観察から視線を引き剥がされた。河村は、神社の境内をなぞり、その手でヴァイスの頭をそっとひと撫ですると、
「にゃん」
薄情にもこの大猫と来たら、俺の膝の上からあっさり鞍替えし、河村の膝の上、ちょうど制服のプリーツミニと黒いサイハイソックスの中間あたりに腰を降ろした。しかも、猫のリラックスの象徴である香箱をあっさり組んで。
「あら、加藤くんをあっさりフっちゃっていいの?」
優しくヴァイスに語り掛ける河村。あの時……そのハスキーボイスで俺に愛を語りかけてくれる夢想を幾度とした事を思い出した。今となっては……頭を抱えるほど恥ずかしい過去だ。
「ふふ、よっぽど大事にされてるのね。分かるわ、こんなに可愛いんだもの」
しかし、猫好きに悪い奴はいない。自分も猫好きだから言う訳ではないが、猫の自由気ままぶりに構ってやれるのは、気のいい人間にしか向かないからだ。
……いやいや、気を許す事など出来ない。こいつは……女狐の類だ。
「何で……」
「ん?」
一体何しに来たんだ。そう聞きたいが、目の前の河村の服装を見れば大体は分かる。転校していった河村が、五塚の制服を身に纏っているという事はつまり、この春から五塚に転入し、俺と同じ学校に通う、という事だ。
「何で五塚に来たんだ、でしょ?」
「う……」
と言ったところで、俺の考えている事など、河村には筒抜けと同じ事だ。くどいようだが。でも、確かに聞きたい。
「それはね……」
「それは……?」
河村が俺の瞳を見つめ、“タメ”を作っている。まるでどこぞのクイズ番組の司会者のようだ。
ごくり。
あんまり静かに俺を見つめ続けているもんだから、ツバを嚥下する音はおろか、ばくばく鼓動している心臓の音まで聞こえてしまいそうな気がして、少々情けない。
「……やっぱり秘密」
「……」
期待していた俺がバカだった。
「特別話す様な事でもないしね」
どうにも……こいつの思考は読めない。
「というより、はっきり言っちゃうと……編入試験に合格りそうだったのは、五塚だけだったんだ」
いや、聞きたいのはそういう事じゃなくて、何故この地に戻ってきたのかというのなんだが……聞くだけ無駄か。
河村は石段からぴょんっ、と飛び降り、俺の目の前で
「という訳で、これから一年間、宜しくね、セ・ン・パ・イ!」
と、座っている俺の目線で、爽やかにそう言い放った。
「……え?今、何て……?」
「だーかーら、私は今日からぴかぴかの高校一年生だ、って言ったのよ」
い、一年生……そりゃ、河村が俺の前から消えていた4年の間、色々な事があったのは想像に難くないというか、あって当たり前なんだが……高校に通えない程の事情があったというのか。それこそ、聞くことなど出来ない。俺の心情を察したわけでもあるまいが、再び春の嵐と言っても差支えがないくらいの風が吹いた。
「きゃっ」
その時、神社に至る石段の方から、可愛らしい悲鳴が。
驚いて振り向くと、強風に暴れる短いスカートの裾に悪戦苦闘している真理がいた。
「ま、真理ぃ!?」
思わず、叫んだ。こんな所に真理が現れるのが意外だったし、何より……あまり見られたくない場面だったから。
「あ、お兄……ちゃん……」
真理は、俺の姿を認めて手を振ろうとしたものの……俺の傍らにいる人間をも認め、その手を引っ込めた。コイツは赤の他人だ……ととぼけるには、親しげに見えすぎてダメだろうな。オマケに……
「あ!か、河村さん」
河村の名前を知っていた。
「あら、今日は有難う、真理ちゃん」
「入学早々の割にはずいぶんと親しいんだな、お前等」
「ええ、入学式の時、席が近かったものだから、お友達になってもらったの。私、この街に戻って来てから日が浅いから、色々と変わった所もあるだろうし、案内してもらおうと思って」
河村は、頼みもしないのに、そう説明した。でも、河村と真理が面識があるという俺の軽い驚きよりも、むしろ河村と俺がこうして二人きりでいるところを目撃してしまった、真理の困惑の方が大きいだろう。第一、どう説明すりゃいいんだ。
「へーえ、やっぱり兄妹だったんだ」
「……誰から聞いた」
「誰だと思う?」
「……河村、質問してるのは俺なんだけどな」
「それもナイショよ。なんだかバラすのが、教えてくれた人に悪い気がして」
ウインク。これ以上の追求は無意味というか……追求というより、俺が一方的に戸惑ってるだけだが。
「……それより、どうしてここが分かったんだ?」
さりげなく河村と距離を置きつつ、真理に近づく。……ふと冷静に考えてみると、真理の制服姿を拝むの……初めてだな。真新しいプリーツミニと黒いサイハイがよく似合ってる。中学の制服はよく見慣れていたが、こうしていざ同じ高校の制服を着たところを見ると……成長したんだな、ってつくづく思う。俺の視線に気付いたのか、少しはにかんでから、
「真壁さんに聞いたらここに居るんじゃないかって。さっき遠くから覗いたら、お兄ちゃんが部活の勧誘で忙しそうだったから、後で声を掛けようとしたらもう居なくて……」
と、指先を弄りながら言った。そういえば、俺はプリントがさばけると同時に逃げ出したんだっけ……あの時は、一刻も早くその場を逃げ去りたかったから、真理を探している余裕なんてなかったんだ。真理も、初めての学校で心細かったかも知れないのに……これじゃ、シスコンと言われても反論のしようもない。
「結構仲良さそうじゃないの」
河村が、すこーしだけ意地悪に言った。奴としてはからかったつもりだろうが、
「当たり前だろ?兄妹なんだから」
と、胸を張って宣言した。俺には大義名分がある。血の繋がりの問題こそあれ、真理は紛う事無く俺の大切な妹だ。
「ふーーーん……」
それでも疑わしそうな視線を崩さない河村。何がそんなに信頼できないというんだ?
「まあ、いいけど。それじゃ、私はこの辺で。仲のいい兄妹の邪魔しちゃ悪いもんね」
河村は、俺達に手を振って……とっとと石段を降りていった。……ふうう……
「お兄ちゃん……」
「ん?」
俺の大仰な溜め息に、何か感ずるところでもあったのか……真理は勤めて平静を装いつつも、しかし根が正直なものだから不安を隠せずに、俺の袖を引っ張った。
「お兄ちゃんと河村さんって……どういう関係?」
素直なだけに、質問も剛速球ど真ん中、か。
「別に……中学の時の同級生さ、ただ……それだけだ」
俺が同年代と殆ど関わりを持たない事を知っている真理が、その説明に納得したのかは分からないが……それ以上は突っ込む事もしなかった。興味アリアリなのも全く隠し通せていないが、俺の方から積極的に話して聞かせる問題でもない。姉さんに全て白状したのは例外中の例外だ。
「そう……ねっ、ね、お兄ちゃん」
「ん?」
見ると、真理はさっきの表情とはうって変わって、随分と楽しそうだ。
「家に帰る前に、どこかでご飯食べて行こっ」
「メシ?家に昨日の残りモンが……」
言いかけて、真理の瞳が何かを期待しているのに気付いた。隠し事が出来ない性格っていうのは、世間を渡っていくにはどれだけ損なんだろう……
「そうだな、じゃあ……この前、ドイツ料理を食わせるトコを見つけたんだ。珍しいだろ?外見も欧風の建築で小洒落てるし、ランチもやってるみたいだから、行ってみるか?」
「うんっ!」
勢い良く頷いた。
そう、コイツは「俺と初めて寄り道」する事が嬉しくてたまらないんだろう。俺もどちらかと言うと……いや、かなり、楽しい。
……一先ず河村の事は置いておこう。今はただ……
「どうしたのー、お兄ちゃーん!」
「おお、ちょっと考え事してた」
この可愛い妹と、美味しい(に違いない)ランチを食う楽しみを考えていたい。
三たび強い風が吹き、枝垂れ桜と……
「きゃーっ!……お兄ちゃん、見たでしょ」
「あくまで事故だ。ぴんくの布切れなんて“見て”ない」
ついでにスカートと俺の心まで揺らしていったのだった。




