第08-02話
季節は、暦の上でも天候の面でもようやく秋へと移行し、生徒達の装いも、それに伴ってタンスの奥から引っ張り出してきた冬服に一新された……筈なのだが、この日はしつこい暑気が残っていて、半数の生徒が半袖のままだった。俺も半袖だったんだが、登校中に冬服の生徒と出会うと、「あれ?半袖のままって、ひょっとして俺だけ?」などと小心者な不安を抱いてしまう事数回。教室に入ったら、最終的には夏服の比率が五分五分になっていたから、俺と同じように迷っている人間が沢山居た事は間違いないのだが。
そんな暖かい一日というより暑い一日、いつものようにカベと特訓を行う。文化祭の試合の、気になったカベの一言、
「これでもう、俺がいつ居なくなっても何とかなるな?」
……そう、俺はその言葉を聞いた瞬間、どうしようもない不安に襲われた……んだが、カベは俺の前から消えるなどという事は当たり前ながら無く、いつもの様に少々不機嫌に見える表情で、黙々と俺の投球を受け続けていた。だから、アレはカベ特有の、素直じゃない褒め言葉として取っておくのが一番なような気がした。
しかしそのカベの言葉には、言葉に出来ない続きもある。
「これでもう、俺がいつ居なくなっても何とかなるな?」
……だからといって、何でもかんでも自分で出来ると思ったら大間違いだぞ?今は俺のいう事を良く聞き、精進するべし……
きっと、そう続くのだろう。
くやしいが、実にその通り。俺がカベを必要としなくなるのは、それは俺が野球から足を洗う時だけなのだから。
カベと分かれ、とっとと部室で着替えシャワーも浴びずに校門へ近づく。すると、校門の影から……
「加藤くん……今、練習終わったんですか?」
黒木が姿を現した。
「そうだけど……ひょっとして、授業が終わってからずっと待ってたのか?」
「い、いえ、少し用事があったものですから……」
「ふう、ん……」
黒木は、特に委員会の仕事に携わっていないと思ったが……まぁいい。
「で、何か用か?」
言って、ちょっと冷たい言い方だな、と後悔した。ちょっとでも気配りの出来る人間なら、世間話の一つでもしてから、スムーズに話に入れるようにするだろう……そんな当たり前のことも出来ない俺は、殆ど人間失格だ。
案の定、黒木は悲しそうに俯いてしまい、何も喋らない。その心の中で、「用事があるから話しかけたのに。用が無ければ、貴方になど話しかけない」と抗議しているだろう。
「あー、今日は暑いな……」
だから、冷たい言葉を言った後じゃ遅いっての。
「はい、そうですね……」
会話は続かない。会話の手順を間違えたのだから当然だ。全ては俺のせいである。それでも、どちらからともなく歩き始め、並んで校門を出る。黒木とは途中まで帰り道が一緒だから、それ自体は不自然な行為じゃないんだが……
「あの……」
「なあ……」
期せずして、二人の呼びかけが重なってしまった。どうしてこういう所で息が合うんだろう。
「あ、加藤くんからどうぞ」
「いや、黒木から」
これもタイミングがビンゴ。
「……」
「……」
非常に気まずい。それでも、歩調を合わせながらしばらく歩くと、目の前が一気に開ける。五塚の丘の中でも、特に見晴らしのいい箇所に出たのだ。すると、秋らしく澄み渡った、宇宙まで突き抜けているかのような高く青い空と、遥か遠くの太平洋が目に飛び込んできた。
「いい、天気だ……」
思わず、口をついた。田舎生まれの俺は、どうしてもこういう自然の織り成す風景に心を奪われやすい。俺の田舎の山形は、四季折々がはっきりと、、特に夏と冬が極端に強調されてやってくる。それだけに、次の季節の兆候にはとても敏感なのだ。なにしろ、冬は家に篭って寒さに震えている他は無いし、夏は盆地だけに極めて暑い。冬は暖かな春の兆候……例えば平均気温より1~2度高い気温や、春の訪れを告げる草花の芽生え……には敏感だし、夏なら、やはり気温が低くなったり、湿度が低くなったり、日が短くなったり……にはそれこそ全員が冬支度に掛かかる時期が近くなる事を知る。本当は、それが四季と共に暮らす日本人の正しい姿なんだが。
「本当にいい天気ですね……」
言ってしまってから、全く脈絡がないと思って後悔した言葉だけど、以外にも黒木はそれに乗ってきた。黒木も、四季の移り変わりにきちんと目が行く、感受性の豊かな、心に余裕のある人間のようだ。
「本格的な秋が来たみたいですね」
「ああ……でも、涼しくなるのは歓迎出来ても、寒くなるのはなー……」
俺の持論から言って、寒い国の人間ほど寒さに弱い。寒さに慣れてるだけだ。何故なら、寒い国の人間は、それこそ始終暖房を焚いているから。それでも、北海道出身の人が東京駅に外に降り立った瞬間、小雪がちらついているのにも関わらず、こっちは暑いな!!とか言って、コートを脱ぎ出してしまい、東京人を仰天させた事もあるらしいが。
「寒いの、嫌いなんですか?」
「まあね……血管が縮こまるような気がして、どうしても活動的にならないんだよな……」
「そうですね……私も、どちらかというと冬は苦手です。それでも、次に春がやってくる為の試練だと思えば、何とか過ごせます」
「黒木は、春は好き?」
「はい、とっても!!」
「そうか、俺も好きなんだ。春はいいよな……ぽかぽか陽気の時に、草むらに寝転んで惰眠を貪る事の贅沢といったらないな」
俺の言っている事に偽りは無い。ともすれば、黒木の話に合わせているように見えるかもしれないが……北国に住む人間にとって、春ほど待ち遠しい物はない。
意外な事に、そんな他愛も無い話題で、俺たちの会話は弾んで行った。さっきまで気まずい空気を纏い、話題を探しながら歩いていたのは何だったんだ。
それからしばらく、俺たちはお互いの事を話し合った。お互いの事といっても、そんなに踏み込んだ話じゃないけど、好きな食い物の話、好きな音楽の話、文化祭の話……今まで知らなかった黒木の事を、僅かだが理解できた様な気がした。
こうして接してみると、印象よりはずっと積極的に話を振ってくれる。今までのおずおずとした態度はなく、俺の話が終わると、すぐに次の話題をふってくれるもんだから、こっちもスムーズに会話を継続できる。今まで黒木と接した僅かな時間の中でも、余り会話が弾まなかったのは、「話題」ではなく、「会話をする」きっかけを掴めなかったせいかも知れない。
「それで……こんな物を貰ったんです、お父さんから」
「ん?」
会話がひと段落した所で……決して話題が無くなった訳ではない……、黒木がカバンの中をまさぐった。何かと思うと……
「これ、なんですが……」
差し出した物を見てみると、それは
「横浜スタジアムの……プロ野球のチケット?しかも、内野の指定席だ……」
「はい……父が上司から貰ったそうです。何でも、その上司の応援するはずのチームが優勝争いから脱落した所為で、見に行く気がなくなったそうで……」
「それで親父さんが譲り受けた、と」
「ええ。私も、あの試合を見てから野球に興味が出てきたので、見に行こうと思っているんですが……」
優勝争いから脱落したチーム……ねえ。大体想像は付くが。……チケットを良く見ると、対戦カードは……YBチームとGチーム。上司がどっちのチームの肩を持っていたのかは知らないが、どっちのチームもペナントレースを早々に放棄せざるを得なかったよな……って事は、結構前からこのチケットを手に入れてたのか?どっちにしろ、今季は一チームの独走のお陰で、既に殆どのカードが消化試合と化し、タイトル争いだけが焦点と成り果てているが。
「一緒に、どうですか?」
……え?
「一緒に、って……」
「あ、ひょっとして、その日は都合が……」
日付を見てみると、明後日、日曜日のナイターだ。俺はバイトもしてないし、夜が都合が悪いという事は殆どない。いや、問題はそっちじゃない。黒木は俺の妙な態度に気付いたのか……
「!!あ!!」
瞬時に顔を真っ赤っかに染め、俯いた。そう、それは「野球観戦デートをしよう」というお誘いに他ならない。
しきりに照れる黒木をヨソに、俺は考えていた。
(そういえば最近は、プロ野球の中継を殆ど見なくなったな……。俺も今は野球をやるために生きているんだから、たまには最高レベルのプレーを間近で見るのも悪くはないか……)
未だにもじもじしている黒木の正面に回る。
「あ」
「行くよ。明後日だったよな?」
「え、あ、はい」
黒木は、何故か呆気にとられたような表情をしている。……ん?一体何がそんなに不思議なのかな?と追求する暇もなく、俺たちが分かれる地点まで来てしまった。楽しく話をしていると、本当に時間が経つのが早い。といっても、俺には余り経験がない事だが。
「じゃ、じゃあ、これ……渡しておきます」
「ああ、有難う、俺を誘ってくれて」
「いえ……」
「良かったら、家まで……」
「いえ、それには及びません。ここでいいです」
それから、俺たちはどちらからともなく、控え目に手を振って分かれる。その時の黒木は……少し嬉しそうでもあり、少し悲しそうでもあった。絶好の教科書を生で見れるとあっては、この好機を逃す訳には行かない。例え、それがデートの隠れ蓑を纏っていても、だ。黒木を利用しているようで少々心苦しいが……いや、一応……黒木と遊びに行くのも楽しみなんだがな……。とは言え、野球を見に行くのでない、普通のデートだったら……どこに行っていいかさっぱり分からないという事を自身を持って言えるのは確かだが。
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当日。練習試合も組まれていないし、練習も3時までだったから、急いで家に帰り、すぐに着替えて駅に向かう。それにしても、連日カベの特訓を受けているにしては、随分と疲れを感じなくなってきている。ようやく身体が慣れてきたようだ。それはそれで、特訓後に疲れ果てて帰宅し、そのまま眠って気が付けば翌日、なんていう事がなくなって結構だ。実際には腹が減って、飯の時間には必ず目が覚めるから、「帰宅即翌日」は一回しかやってないけどね。
幾ら急いでいるとはいえ、待ち合わせ場所の改札口に付いた頃には既に時刻は4時近く。待ち合わせ時間ギリギリだ。しかし、時間に正確そうな黒木の姿が見えない。どうしたのかな、と思ってみると……柱の影から、ひょっこりと姿を現した。
「はは、どうしたんだよ、そんな所に隠れて」
「あの……目立つ所に立っていると、男の人の視線が気になるもので……気のせいだとは思うのですが……」
はは、誓って言うが、それは気のせいなんかじゃないぞ、黒木。俺だって、黒木くらい美人の子が立っていたら、視線くらい送ってしまうと思う。
「そうか、それなら仕方がないな。さ、行こうか」
「はい!」
そんな黒木だが、俺と一緒になった事で安心したのか、すぐにいつもの落ち着いた姿を取り戻した。そうそう、黒木には、そういう……控えめながらも優雅な立ち居振る舞いが良く似合う。
チケットは天下御免の指定席だから、全く急ぐ必要はない。試合開始直前にでも球場入りすれば良かったのだけど、
「黒木、関内に着いたら、すぐ球場に入ってもいいか?練習から見てみたいんだけど……」
「え?あ……はい。加藤くんがそう言うのでしたら、私には是非もありません」
「済まない」
黒木には、本当に悪いと思っている。彼女にしてみれば、試合開始までどこかでゆっくりと時間を過ごしたかったのだろうけど……俺には、プロの選手の見習う箇所、吸収できる箇所を余す所なく見ておきたかった。でも、よく考えたら……いや、よく考えなくても黒木に失礼だよな。全て自分のためにというなら、自分で金を出し、一人で見に来ればいいだけの事だ。シーズンも終盤だけど、探せば幾らでも機会はあるだろう。やっぱりヤメヤメ。
「……いや、やっぱりいいや」
「え、え?」
突然の心変わりに、黒木は面食らったらしい。そりゃそうだ、俺が前言撤回するまで約5秒しか経っていないんだから。俺が黒木の立場だったら、こいつはどれだけ自分の意見に責任を持ってないんだろうと思うぞ。
「悪いな、コロコロ考えが変わって。さ、折角関内に来たんだから、少し中華街でも歩くか?」
「……はい、いきましょう」
人が大して入っていかない黄昏の横浜スタジアムの脇を通り抜け、中華街方面に向かった。ま、黒木にしたって、こっちの方が良いに決まっているだろうし。しっかし、俺って中華街が好きだよな……つくづく。
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結局、試合開始までそうそう時間もないから、本格的に食事をするのは野球を見た後ということにして、二人してタピオカ入り紅茶などを啜っておしまい。6時が近づき、慌しく球場の中へ。
席に座り、改めて辺りを見回すが……スタンドはガラガラ。只でさえ集客に頭を悩ますYBチームと、人気凋落に歯止めが掛からないGチーム、しかもほぼ消化試合の対戦とあっては、客が入ろうはずもない。お陰で、どんどこ煩い応援団の太鼓や笛の音が良く聞こえる事といったらない。
……でも、プロの球場はやっぱりいいな。広くて、大きくて、スタンドが高くて、独特の雰囲気がある。これで客が入っていて、優勝争いが掛かった試合なら、さぞかし盛り上がるんだろうが。
黒木はというと、あちこちをきょろきょろ。どうにも落ち着きがない。
「黒木、野球場に来るのは初めてか?」
「は、はい。なんだか、とっても賑やかですね」
「え、これで……まあ、それでも1万は入ってるだろうけど」
いくらスタンドがガラガラとはいえ、この面積に1万人以上の人間が密集していれば、少しは賑やかとは言えるか。
「実を言うと、俺も野球場に来るのは二度目なんだけどな。やっぱり間近の雰囲気は悪くない」
「私も、なんだかわくわくしてきちゃいます。こんなに広い球場なのに、プロの選手はホームランを打ったり、バックホームしたり……自分の身体でボールを隅から隅まで、一瞬で移動させちゃうんですもんね」
黒木は、未だ目にせぬプロのプレーに目を輝かせている。割と野球観戦が性に合っているようだ。
そして試合が始まる。守るYBチーム、先発はM。反則ギリギリ、二段モーション紛いのフォームが特徴的な、背番号18のエースピッチャー。持ち球は……何だっけ。個々の投手の持ち球を覚えているほど、俺はプロ野球に興味がない。
で、M氏はさくっとGチームを三者凡退に切って取る。実にテンポがいい。それに、制球も。この1イニングを見た限りでは、緩急を上手く使う投手と見た。
対するGチームは、こちらもエースのU。優勝争いから脱落したとはいえ、一つでも多くの勝ち星を挙げておきたいのは、どこのチームでも同じだろう。さてUの持ち球は、俺でも覚えられる。何故なら、メインに使うのはストレートとフォークだから。しかし、彼の真骨頂は、9イニング平均で四死球約一つというコントロールと、古い表現ながらちぎっては投げ、ちぎっては投げ、というのがぴったり来る、テンポのよさにある。
今日も、その持ち味を最大限に生かし、初回をあっさり三者凡退。球数も僅かに9球と、ほぼ完璧な立ち上がりだった。両投手とも調子は良さそうで、今日は投手戦になりそうだ。
気が付くと、俺は椅子から身を乗り出していた。
「はは……やっぱり間近で見る野球はいいな」
苦笑いして、深く腰掛けなおす。それを見て、黒木はくすっと笑う。
「本当に野球がお好きなんですね、加藤くんは」
「だな……日本のプロ野球には余り興味がなかったんだけど……いざ見だすと関係ないや」
ふう、と息を吐き出し、空を仰ぐ。時期的にも、この時間でもう真っ暗だ。その夜空に、大観覧車の照明が浮かぶ。そして隣には黒木。……本当に、悪くないな、こういうのも。
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それから、俺たちは飯を食うのも忘れて、野球観戦に没頭した。その中で、黒木が分からない所を聞いてきた時は、分かる範囲で教えてやる。俺の知識で分かってもらえるかどうか不安だったが、黒木は頭も良いらしく、すぐに飲み込んでくれた。試合内容も行き詰る投手戦とあって、ここまで野球を「観る」のを楽しいと思ったのは初めてだ。
結局、試合はそのまま最終回まで0対0のまま進んで、9回の裏にYBチームがノーアウトから二塁打、バント、犠牲フライの渋い展開でサヨナラ勝ちをもぎ取った。
「いやー……なかなかにいい試合だったな……派手な打撃戦も良いけど、野球の緊張感を味わうんだったら断然こっちかな」
「そうですね……ピッチャーの息遣いまで聞こえてくるみたいでした」
これで、カベが俺とやっている特訓の意義がより明確になったな。投手に必要な能力、それは速球や消え味鋭い変化球だけではない。コントロールと、テンポも重要な要素だ。野球は、守っている時間が短い方が勝つという格言が頭をよぎる。そう考えると……完璧なピッチャーになるのって、当たり前だが遠い道のりだ……
二人で球場を出ながら、今日の試合の見所を話し合う。一瞬、俺に話を合わせてくれているのかとも思ったが、試合中の細部まで覚えている所をみると、かなり野球観戦が気に入ったらしい。俺が投げた試合から野球に興味を持ったと言っていたけど、この分なら本格的な野球ファンになってしまいそうだ。それもこれも、今日の試合内容が非常に引き締まっていたからに他ならないと思う。これが捨て試合で、無様に一方のチームのピッチャーが打ち込まれる展開だったら、こうは行かなかっただろうな。しかしそのお陰で……
「まだ8時過ぎなんだよな」
「本当に早かったですね……」
両チーム合わせて安打5、与四死球1、登板したピッチャー2人……要するに両チームとも先発投手が最後まで投げきった訳だ……という、これ以上無いスピーディーな試合だった。これだけ早いと、弁当やビールをちゃんと売り切ってないだろうから、飲食関係の人にとっては有り難くないだろうな、なんて余計なお世話をしてしまいそうになるほど、実に早い試合終了だ。
「ま、そのお陰で飯をゆっくり食っていけるかな」
「はい!私、中華街でご飯食べるの、初めてなんです」
黒木は、嬉しそうに言う。彼女も、食にはかなりのこだわりがありそうだ。たかだか文化祭の模擬店のお好み焼き一つに、あれほど俺の意見を求めたのだから。
「そっか……俺もよく来る訳じゃないけど、適当な所に入ってみるか。でも黒木……門限とかないのか?」
「あ、ウチは大丈夫です。そういうところには妙に理解があって」
「そっか……ならいいが」
例えそれが本当でも、あんまり遅い時間まで女の子を引っ張りまわすのは気が引けるが……最近の、スピードアップが叫ばれて久しいプロ野球にあっては奇跡とも思える試合時間2時間のお陰で、少しはゆっくりする時間が取れそうだ。
それから、2人でしばらく中華街を歩き、適当な店に入って舌鼓を打ち、野球の話や、自分達の話をして……気が付けば、もう良い子は帰る時間になっていた。
「そろそろ帰ろうか?」
「そうですね、でも……」
黒木はそう言うと……もじもじしだす。ど、どうしたんだ?
「あと少しだけ……一緒に居たいです。ダメですか?」
真っ赤な顔で、そう続けた。そ、それって……もちろん、「そういう意味」でない事は明白だが、そんな表情で言われたら……
「わ、分かった。取り合えず……山下公園でも行くか?」
在り来たりでベタな選択だとは思うが、余りに唐突に言われて、他に行く場所も見当が付かない。とにかく、早足で公園へ向かう。公園に来たなら来たで、周りはカップルだらけ……俺の混乱に益々拍車をかける。
「うわー、綺麗ですねー」
俺の混乱をよそに、黒木は楽しそうに公園を歩く。ライトアップされた氷川丸やらマリンタワーやらは確かに綺麗だが、俺は最早それどころじゃない。ハズだったけど……
まるで何かのステップを踏んでいるかのように軽やかに歩く黒木。長く艶やかな黒髪が舞い、照明が天使の輪っかを産み出すその光景は、俺の胸のどきどきや混乱を一発で吹き飛ばす位に美しかった。
それにしても黒木は楽しそうに歩く。そんなにここに来るのが楽しみだったのかな?まあ山下公園といえば、「そういう場所」のメッカではあるだろうが……
「今日は、楽しかったです」
「あ、ああ、俺も」
短くしか答える事は出来ない。何故なら……黒木が美しかったから。でも、不思議とそれ以上の感情は湧きあがってこない。例えるなら、美しい風景写真の中に、美しい少女が写っているだけで、劣情も何も抱かない、そんな感じに似ていた。
そして黒木は、遥か遠くに見えるベイブリッジを背に向き直り、ずっと俺を見据えた。その瞳は、何かを言いたそうにしている様にも見えるし、何かを期待している様にも見えるが、俺はそれが何を示すものかが分からなかった。
それ以降、黒木と俺は言葉が続かず……しかし黒木は、相変わらず何かを言いたそうにしているようにも見えたが、結局、電車に乗って黒木の家に送っていくまでに、なんら言葉を交わす事はなかった。いままで、楽しく会話をしていた事がウソのように。元々俺は、そう話題の豊富な方じゃないから、黒木を退屈させてしまったのかも知れない。その話題だって野球が中心だし、俺の野球経験もごく短いとくれば、自ずと話題は尽きてしまうものだ。
その玄関先で、
「じゃあ、また明日……」
そう言い、寂しそうに手を振る黒木。その余りに寂しそうな表情は、親しい人間と今生の別れを惜しむものにも似て、言葉では言い表せない程、失意というか……とにかく、悲しそうな顔だった。そんな表情をされては、益々何も言えなくなる……。そんな俺がやっと紡ぎ出した言葉といえば、
「ああ、また明日」
こんな言葉しか返せない俺は、まったく気が利かない人間と蔑まされても仕方あるまい。でも、俺に一体どんな言葉を期待していたと言うんだ、黒木は。
全く気の利かない、世のプレイボーイが聞いたら頭を抱えそうな位に気の利かない台詞を聞いた、黒木は踵を返し、玄関の引き戸を開け、中に入っていった……しかしその瞬間、俺はとんでもないものを黒木の顔に、頬に発見してしまう。
それは、一筋の涙、だった。
(……え?)
呼び止めるよりも早く、黒木は家の中に身体を滑り込ませてしまう。そして俺はと言えば、不審人物張りにその場に立ち尽くすのだった。
(な、なんだよ、あれ……俺、何か悪い事したっけ!?)
見に覚えの無い涙。俺が何かをしたから涙したのか、それとも……何もしなかったからの涙か、それとも別の要因か……いずれにせよ、それは俺の理解の範囲を当に超えている。
自分にどうしようもない事は悩まない方がいいとは分かっていても、本当は、頭の底でその原因が分かっているような気もして、要するに再び混乱して……それは眠るまでずっと俺を苛み続けたのだった。
ああ、俺は一体どうすればいいんだ……答えは容易に出せず、また容易に出してはいけないのも確かそうだった。




