第07-04話
さて、文化祭の二日目は、いよいよ俺達野球部の出番だ。なぜか部員達の鼻息が荒いのが、部室に入った瞬間に気になった。昨日の文化祭一日目は、ラグビー部が近場の三宮高校と対戦して勝利を収めているから、俺達もそれに続け!!という事なんだそうだ。なにも文化祭の時の盛り上がりだけで、そんなに意気込まなくてもいいと思うぞ。
試合は午後1時からだが、野球部員は登校するなり、クラスの仕事もそこそこに部室に集合となった。本当はそんなに急ぐ必要はないのだろうが……昨日のラグビー部の試合でグラウンドが荒れているのを、俺達が直さなきゃならんそうだ。そんな事、試合をした当事者か片付ければいいと思うのだが。それなら、今日の試合の後は俺たちはグラウンド整備をやらずに引き上げてもいいな。きっとカベは、例え日が暮れても整備をしてから帰ると言うだろうが……
9時頃からグラウンド整備を開始する。良く考えたら、カベが試合後の整備をやると言い出さなくても、校庭で後夜祭をやる以上、俺達が後始末をつけなければならないんだった……。くそ、試合で疲れても、すぐに休む事すら出来ないのか……試合後一時間ぐらいは遊べるかと思ってたんだが……ちょっとモチベーションが下がりそうになった。
そして10時頃……相手の日学藤沢が専用バスを校庭の端っこの方に乗りつけ、颯爽と登場した。ところが……あまりに部員が多いものだから、どこに拠点を構えて良いか分からない様だ。第一、公立の無名高に練習試合に来る事自体殆どない事だろうしな……仕方なく三塁側、コンクリート製の階段状のスタンド近くに腰を落ち着けた。そんなに戸惑われると、こっちが申し訳なくなってしまう。
トンボをかけながら少し校舎の方に意識を集中させると、楽しそうな喧騒が聞こえてくる。ああ……本当なら、あの喧騒の中に俺もまったりと身を置くはずだったのに……いや、お好み焼屋の仕事があるから、どのみちそれも叶わぬ夢か。
グラウンド整備が終わり、ようやく俺達もストレッチを終え、校舎に取り付けられた時計を見ると、時間は既に12時過ぎ。スタンド(といっても前述の通り、粗末なコンクリート製の階段だけど)にもちらほらと観客が集まり始めてきた。
軽く投球練習をすると、今日のベストピッチが明らかになる。のだが、今日は何を投げても、指先の感触がお勧めの品を伝えてこない。はっきり言うと、今日は調子の悪い日らしい。
そして両チームが軽く練習をして、いよいよ試合開始となる。
「お願いしまーす!!」
両チームがホームベースで向かい合い、いつもの礼。それにしても……向こうさんは、部員の数が多ければ、こうして礼をしている選手も多いな……あ、五塚が人数ギリギリだから、相対的に向こうが多く見えるだけだ。一人でもプレイ不能者が出れば、即敗戦となるシビアな状況での試合だ。
先行するは日藤(日学藤沢をさらに縮めた、俺らの地元での呼び方)。さっそく、一番バッターが打席に入る。
俺は、その打者の目を見た。そいつは、俺の実力を耳にはしているが、まだ信じてはいない……といった風に、迷いながら打席に入っている……といった塩梅だ。それなら……「一番打者はそのチーム一番のセンスの持ち主が入る」法則を参考に、全力でぶつかる事にする。カベもそれは承知済みらしく、早速100パーセントのストレートのサインが出た。コースは、これまた大胆な、ドが付くほどの真ん中。この、コース的には絶好球にどんな反応を示すのかで、そのチームの力量が測られてしまうのだからたまったものではない。
で、まずは第1球。いつものように振りかぶり、いつものようにマサカリで投げ込む!!当然、俺は確実にキャッチャーミットにボールが収まっているものとばかり思ったが……
がきっ!!
妙にあっさりと、弾き返された打球はセンター前に到達している。
……
…………
………………
いつもの俺の速球じゃない。確かにブルペンで調子が悪いとは思ったが、まさかここまでとは!?カベに理由を聞きたくとも、ここは孤独なマウンド上だ。初回からカベを呼び寄せる訳にはいかないし、結局は俺がどうにかするしかない。
さて、そうと決まれば次なる問題は、二番打者のバント対策だ。案の定、二番打者は送りバントの構えをしている。ひとこと言わせてもらうが、今は後の無いトーナメントの試合中じゃない。あくまで、練習試合だ。わざわざ弱小校と試合を組んだのだから、全員に俺のボールを体感して来い、とヒッティングのサインだけで打者を送り出す監督がいないものか。
そんな小心者には、こちらからたっぷりとお仕置きをしてやらねばなるまい。さっき、見事にストレートを打たれて下がりかけたモチベーションが、再び上昇に転じるのを身体中で感じる……しかし俺と言う奴は、何かきっかけが無ければモチベーションが上がらないのか!?
気を取り直して、セットポジションを取る。一塁ランナーのリードは明らかに大きいが、カベの肩を承知した上でのブラフなのか、それとも単なる命知らずか。ちらりとそっちに目をやり、クイックで投げる!!もちろん、球種はストレート!!
だが。
バッターは、バントの構えを解いてヒッティングに転じる!!
(ち、バスターかよ!)
前進してきた一塁・三塁手が慌てて足を止めるが……
きぃん!!
二番打者は、ストレートをしぶとくミートした。当たりそのものは特別会心というものではなかったが、前進してきた一塁の浦永をあざ笑うかのように、その左側を抜けていった。
さっき鮮やかに上がったテンションが、鮮やかに下がった。
たった2球で、ランナー二人を背負うピンチだ。日藤は、強豪高との対戦を繰り返しているだけあってか、ゆさぶりが手馴れている。まるで、ピッチャー中心のチームだったら、そのピッチャーはこう揺さぶるという教科書があると言わんばかりに。
俺としては、もう打球が転がってからはカベに任せっきりだから、何も心配をせずに、只自分のベストのボールを投げればいいだけなんだが……こう塁上をウロウロされると流石に苛つく。俺はどこぞの球団の外国人投手か、はは。
……自虐的に笑ってみた所でどうなるものではない。未来を切り開くのは、所詮は自分の投球だ。……と頭では分かっていても、その命令が身体中に行き渡らないのが俺の甘い所だ。次の三番バッターにはフォアボールを与え、ドツボのノーアウト満塁で四番を迎える事になった。
これは見ていられないと思ったのか、流石にカベがマウンドまで走り寄ってくる。
「おい、一人相撲をやったって、誰もおひねりをくれはしないぞ」
カベにしては珍しい冗談だ。とりあえず、俺は率直に感じた疑問をぶつけてみる事にした。
「カベ……今日の俺の速球、何かおかしくないか?」
行った途端、カベが身じろぎ一つしなくなった。
「……やっぱりな。何故だか、今日は速球に威力もスピードも乗らない。その原因究明は後回しにして、今はこの難関をどう乗り切るか、をお聞きしたいんだが」
カベは……しばらく思案したあげく、口を開いた。
「こういう時こそ、速球の威力を意図的に封印して、コントロール重視に切り替えるべきなんだが……」
そこで俺の顔色をほんのちょっとだけ伺って……
「無理なんだろうな、やっぱり」
俺の性格を良く知ってるだけあって、物分りがいい。
「そこがお前の投手としての欠点でもあり、アスリートとしての長所でもある」
「……言い換えれば、野球選手としての長所ではないと言う事だな……」
「まあそれはいい。それより、何か策があるのか?」
普段は、俺に策を与えてくれる立場のカベが、今は逆に俺に策を聞いてくる。ちょっとした優越感を感じる……殆ど意味の無い優越感だが。
「新球を試してみようかと思う」
「……そりゃ初耳だな……って、お前はまた、何で俺になんの相談もなしに新球種を習得しようとするんだ?」
「いや……かっこいいかな、と思って」
「あのな、新球をマスターしようとすると、その球の投げ方に気を取られて、直球やその他の球種に悪影響が出る事だってあるんだぞ?それをお前は」
「待った、お叱りは試合の後で聞く。今は議論してる暇は無ぇ」
審判が、早く試合を再開しなさいと今にも言わんばかりにこっちを睨んでいる。
「分かった。じゃ、その新球とは何だ?」
「……ナックルだ」
「な……」
流石にカベも驚き、言葉が続かなかった。それもその筈、俺がナックルの練習を始めたのは、つい最近で、しかも練習場所が自宅の地下にある、親父が作らせたはいいが、当の本人がウイスキーなどの蒸留酒党の為全く使っていなかった、広大なワインセラーだからだ。しかし、自分で投げていても変化の度合いが分からないから、実践で投げてみれば話は早い。
「試してみろ、と言いたい所だが……今現在、お前は修行中の身だ。小手先の変化球に頼る段階じゃない。却下だ。あくまで速球を投げ続けろ。分かったな?」
俺が何かを言う前に、カベは小走りにホームへ帰っていった。……確かに、小手先の変化球かもしれない。なにしろ、未だ訓練中の球を実践で試そうなどというのだから。しかし、カベにそう言われては納得する他ない。
再びマウンドに立ち、自分の状況を確認する。ノーアウト満塁、か。はっはっはっ、絶望的状況ではないか!!……強がって笑ってみた所で、状況が好転する訳は無い。ま、初回なんだから、1、2点はやる覚悟でとりあえずワンアウトずつ確実に取りに行くという選択肢もないわけではないが、五塚の打線から言って、それをやったら即敗北確定だな。以下に練習試合とはいえ、俺達にとっては来夏を見据えた試合である事は確かだ。何故なら、俺らのような弱小高では、練習試合は、近隣の実力が均衡した同志しか受けてくれないからだ。そこで、強豪といかに戦うかをこの試合である程度形作って行かなければならないんだが……
とにかく、速球に威力の無い俺としては、きっちりとコースに投げていくしかないだろう。
そうだ、その威力の無さに忘れていたが、俺が試す術はまだ残されている。取りあえず、こちらからカーブのサインを出す。カベもその意図に気付いたか、何ら否定の気配を感じることなく構えに入った。
四番が内気満々で打席に入る。コイツはグリップ位置を高めに取っていて、大柄な体格な事も相まって中々風格があるが……カベや伊東と比べると、まだまだ小物だな。そんな根拠の無い直感が、相対した時の空気で分かるようになった。
さて、コントロール重視で投げるとは言っても、マサカリを崩す事はしない。それこそ、何の意味もなくなるからだ。かといって、あまりにもコントロール良くしようとすれば、力んだり硬くなったりして、却って甘い球が行く。肝心なのは自然体だ。……と尤もな事を言ったはいいが、俺には、自分が思ったところに投げられるようなコントロールは未だに付いていないんだが。
相手ベンチが盛り上がってきたところで、いい加減にセットポジションを取り、少しは名のあるらしい四番バッターに投げる!!
感触は上々で、ボールがこんな時にだけ思ったとおりの軌道を描くのは何故だろう。右バッターの肩口から外角低めに見事に滑り落ちていった。速球に的を絞っていたらしいバッターは、ボールの切れというよりは、的が外れた事で空振りしたように見える。
カベもこの球種の選択と、球の切れには納得したらしく、頷いて返球した。バッターの顔を見ると、的が外れた事など一切表情に出さずに、再び構え直した。
さて……問題は次の球だ。初球の読みが外れた事で、バッターは狙いを変えるか、それともまたゆるいボールを待つか。一応、バッターのポーカーフェイス作りは徹底しているらしく、特にヒントは得られない。と、なると……自分のベストと思える選択を貫き通すしかあるまい。
どうやら、カベは俺に投げる球種を任せてくれるらしく、サインを出そうとはしない……要するに、自分で招いたピンチは自分で何とかしてみろ、という事なんだろう。それならそれで、自分の球種をフルに活用するだけだ。
では次の球は、内角低めへのストレート。これなら、相手バッターが直球読みをしていても痛打を食らう事はないだろうし、変化球待ちならひとたまりも無い筈だ。全ては、狙ったコースに投げられるかどうかの、俺のコントロール次第。自分のケツを拭くには相応しいだろう。
第2球目。満塁だけに、クイックは使わずに投げる。この球は、いい具合に力が抜けたのか、威力・スピード・コントロールの三拍子が揃った、自分でも惚れ惚れするような入魂の1球だった。バッターは魅入られたように、窮屈にバットを出し、打球は俺の真正面へ。野球歴の浅い俺は、バッティングはもちろんフィールディングにも自信が無いが、そんな俺でも楽々と裁けるような打球だった。これで即ホームゲッツー。一気に状況が楽になる。俺の立ち上がりの不安定さは当然掴んでいるだろう相手ベンチの、落胆の度合いは大きそうだった。
ピンチを脱した(とは言っても、まだランナーが二人も残ってたんだが)お陰で、気楽になった俺は、次のバッターを全く寄せ付けず、センターフライに討ち取った。相変わらず速球の調子は今ひとつだが、その代わりにコントロールがいい。これをまだ修行の成果だと見なすには早すぎるだろうが、それでも思ったところにボールが行くというのは気分がいいものだ。多少スピードが速いより、針の穴を通す精密機械のようなコントロールを持つ投手の方が活躍しやすいのは、過去の野球界を見ても分かるとおりだ。しかし、俺の目標は、小さくまとまった好投手じゃない。速球、変化球、スピード、コントロールを兼ね揃えた完璧なピッチャーなんだ!!……自分でも高望みだとは思うけど。
そしてつつがなく試合は進む……。つつがなくというのも、今日の調子……速球にイマイチ威力が乗らない……でのピッチングのコツを掴んだ俺は、相手打線を完全に手玉に取って零封を重ねていたが、打線もそれと同じくらい順調に討ち取られていたからだ。頼みのカベも、警戒されてロクに打てるボールを投げてもらえない。カベ一人の力が突出しているから、周りが塁に出るなりのサポートをしないと、その能力も十分に発揮されないのだ。
しかし、好機はやってきた。8回の裏、ワンアウトから二番の御曽が内野安打で出塁すると、三番の黒沢も粘りに粘ってフォアボールを選ぶ。とうとうランナーが二人も出て、カベに打順が回ってきた。
カベはあくまで、いつものちょっと不機嫌そうな表情を崩さないが……恐らくは、これが最後の好機であろう事は承知している筈だ。
バッターボックスに入り、ピッチャーを見据えるカベの瞳は、獲物を静かに狙う肉食獣のそれだ。今まで、そこそこ余裕を持ちながら五塚打線を抑えていた相手ピッチャーも、この時ばかりは本気の表情だ。一流の野球選手として場数を踏んでるらしい奴は、目の前のバッターが容易ならざる敵であるとすぐに看破したらしい。俺など、彼が数イニングを投げるまで、相当な腕のピッチャーであると分からなかったのに。
二昔前のスポコン漫画だったら、二人の視線の先で火花が散っていそうな程の緊迫感に、ベンチの中にいる俺たちまで固唾を飲むほどの緊張感に包まれた。これが、有力選手同士の真剣のぶつかり合いだ。この空気だけで、相手ピッチャーは今までのようなかわす投球ではなく、真っ向勝負をしてくる事も分かる。
しかし……この緊張感といったらどうだ。よくよく回りに注意を払ってみれば、ベンチのみならず観客まで静まり返っている。どんなに鈍い奴でも、この打席だけは注目に値するという事が理解できる程のものであるようだ。
今宮……今更ながらメンバー表に目を通し、彼が今宮という名である事を知った……は、ゆっくりとボールの入ったグラブを腹の前に置き、セットポジションに入る。周りの空気が緊張で歪んで行く気がした。果たして、こんな……なんとも形容しがたい空気は、俺と伊東の間にも渦巻いていたのだろうか?俺は、そのレベルのピッチャーだったのか?
第1球。
二人のランナーは、カベのバッティングを頼みにし、大きなリードを取らない。カベほどの打者なら、ランナーがあれこれ小細工するより、遥かに打者の集中力の為になる。そして、今宮が初球をクイックを使わずに投げた!!
どしっ!!
いかにも重そうな音で、キャッチャーミットにボールが納まる。判定はストライク。コースは、外角低め。それでもやや甘めだったが、カベはそれを落ち着き払って見送った。
カベの技量であれば、簡単にヒット出来るボールだった。しかし、初球だったこともあり、確実に長打を狙うために見逃したのではないだろうか。
やや甘く入ってしまったボールに舌打ちするでもなく、今宮はすぐに第2球の構えに入る。最早、役者はピッチャーとバッターの二人だけだ。
今宮は、二塁ランナーの動きを見やり、そして投げた。
これは外角低めを僅かに外れ、カウント1-1。長打を警戒してか、外角一辺倒でくるのか?カベと今宮、両者に表情の乱れなし。場数を踏んでる選手はやはり違う。
3球目。三度、外角低めへ球威のあるストレート。これがギリギリ決まってカウント2-1。カベはいよいよ追い込まれた訳だが、それにしても落ち着き払っている。そういえば、俺が野球を再開してから、カベが三振を喫したのを見たことが無い。夏の県予選からこの試合に至るまで、練習試合を含め約10試合の約40打席無三振はやはり凄い。その卓越したミート力があるからこそ、一流投手に追い込まれても平然としていられるのだろう。
そして4球目。俺が想像するに、まだカウントがピッチャー有利だから、もう2球は外角を攻める筈だ。そこで手を出して凡打してくれれば万々歳、カウントを悪くしても歩かせればいい……俺は、相手の立場を考え、そうシミュレートした。
今宮が投げる!!その瞬間、カベの身体がゆらりと動き、バットが閃いた。
がぃん!!
快音、という言葉がまさに相応しく、これが消音バットから発せられた音かと思わず疑ってしまうような響きと共に、白球が秋の高い空に吸い込まれて行った。打球が舞い上がった瞬間、グラウンドにいるほぼ全員がその行方に目を奪われていた。
打球は、レフトに張られている防球ネットの遥か上空を跨ぎ、そして五塚の丘の下へと消えていった。飛距離、推定150メートル超の特大本塁打だ。そもそもこのネットは、ホームラン対策の為にあるんじゃなくて、他の運動部のボールが外に出ないように張りめぐらしてあるだけだと思うんだが……しかもそれすら役に立たない当たりを放つカベは、弱小高の選手としてはやはり異質だ。悠々とダイヤモンドを一周するカベは、やはり格好よかった。
この一撃で日藤は意気消沈、グラウンドは興奮の坩堝と化した。が、それで今宮から後続が出る筈も無く、5・6番が連続して凡退して、この回の攻撃を終えたのだった。
さて、残すは9回の表を残すのみ。球威が無いなら無いなりに押さえてきた俺にとって、3点の援護は大量点に等しい。いざマウンドへ行き、カベからボールを受け取ったところで、何気なくスタンドの上の方へ目をやると……そこに、上下黒の服に身を固めた、長身の、暗い眼をした男が、腕組みをして立っていた。
その瞳を見た瞬間、背筋に冷たい物を感じた。溢れんばかりの敵意。法が許せば、即俺を殺すと言わんばかりのその暗い瞳は、野球をやっているグラウンドの中ではこれも甚だしく異質なものだった。その瞳に射すくめられた俺は、身じろぎ一つ出来ない。
伊東 光。
その暗い瞳をした人間の名前だ。
ボールを受け取ったはいいが、一点を見つめたままなかなか投球練習を開始しない俺を不審に思い、カベが駆け寄ってくる。
「どうした?せ……い……」
俺と同じ場所を見たカベも、言葉に詰まる。
「………………気にするな。気にするなという方が難しいだろうが、今はこの試合だけに集中しろ」
カベもどうアドバイスしていいか戸惑っているのが良く分かる。あの冷静なカベが戸惑うのだから、あの暗い瞳の威力は相当なものだ。
そのせいか、投球練習は全く身に力が入らず、コントロールもへろへろ。一気に三流投手へ格下げされてしまったみたいだ。
カベも不安なんだろうが、俺も不気味極まりない。そこまで俺を敵視して、果たして伊東の精神が持つものなのか?
打順は下位からだったが、伊東はあの視線で俺の気力を奪いでもしたのか、瞬く間に長短打を連続して浴び、2点を返され尚もランナー一、三塁、それでも何とか三振とキャッチャーフライでツーアウトまで漕ぎ着けたが、迎えるバッターは4番と言うところまで来てしまった。
再びちらりと伊東の方を見やると……奴が、唇を片方だけ上げて俺を嘲笑しているように見えた。
駄目だ、一気にペースを乱された……
「ターイム」
たまらずカベがタイムをかけ、走り寄ってきた。
「まだ気にしてるのか?」
カベも、再び伊東を見た。
「全く、おっかねぇ顔していやがるぜ。ありゃあ、バットはバットでも釘の突き出したバットを持ってた方が似合いそうだな」
相変わらず、カベのジョークは笑えない。
「……お前な、折角ここまで投げてきたのに、この1イニングで無駄にする気か?」
「いや……しかし……」
俺がしどろもどろになると、カベはため息を大きく一つつき、
「信じろ、自分を。お前は、あんな陰湿な視線で崩れるような奴か?」
「……」
「あの時、俺が言った事を忘れたか?」
「あの時?」
「お前と初めてバッテリーを組んだ、あの時の約束だ」
初めて組んだ時……。あの、中学三年時の、夏の大会直前の練習試合だ。その時の、カベとの約定。本当は約定などではないが、俺にとって、あの時のカベの言葉は、神の教えにも等しいものだった。
一つ、コントロールや球速に気を取られず、常に自分のピッチングをする事。打たれるのならともかく、四死球での一人相撲など論外。
一つ、野次や周囲の目に惑わされぬ事。
一つ、送球指示はキャッチャーの物のみに従う事。
そして、最後の一つ。
オレを信頼する事。
つまり、そのカベが、俺に向かって自分自身を信じろと言ったら、俺も自分を信じなければならないのだ。
その一言で吹っ切れた。本当に単純極まりないが、俺はカベを本物の野球の天才だと思っている。奴の言う事を、俺は盲信するつもりなのだ。
そう、何を惑わされる必要があるんだ。あいつの暗い瞳など、単なる薮睨みに過ぎない。俺のこのゴールデン・アームで、その闇を切り裂いてやるぜ!!
……と、いささかテンションが上がりすぎたきらいはあるものの、再び身体中に力の漲って来た俺は、
「分かった。任せろ」
カベの肩を、プロテクターの上から二度軽く叩き、軽くウィンクしてみせる。明らかに俺の目つきが変わったのを見てとったカベは、もう俺に何の問題も無くなった事が即座に理解できたらしく、何も言わずに大きく頷いて、ホームベースに帰っていった。
さあ気合を入れ直し、このバッターを最後の打者にすべく、カベのサインを伺った。球種は……ここで外角低めのストレート。自分に何の疑問も抱かない俺は、ちょっとした球を放るちょっとしたピッチャーだ。
軽く一塁ランナーを見やり、渾身の速球を投げる。
ずっだーん!!
9回の裏にして、ようやく本来の自分の速球と胸を張れるボールが行った。コントロールも上々だ。バッターは手も足も出ない。多分、140キロ後半は出てる筈だ。
2球目。サインはまたしても速球。コースは内角低め。これも見事に決まってカウント2ナッシング。本来の俺はそんなに恐ろしい存在だったのか、今まで散々強気だった癖に俺を打てなかったこのバッターは、今度は泣きそうな顔をしてつっ立っていた。
3球目。もはや遊び球もいらないと言うかと思ったが、カベは慎重に、外へのストライクからボールになるスライダーを要求してきた。まあ、1球だけなら用心に越した事はないか。そう思って、しかし力は抜かずに、いつものように直球の握りを少しずらしただけのスライダーを投げた。この1球は、自分でも納得が行く感触が手に残らない。コントロールミスだ。それも、投げて痛打を食らうコースではなく、外へ大きく外れる感触だ。当然、バッターは微動だにしないと思いきや……
すかっ。
2球目の内角への速球が余程効いていたのか、名門校の四番打者ともあろう者が、身体は内角球を打つように引いたまま、腕だけ前に出して外角球を振ろうとして、無様に空振りしていた。
バッターが空振りしたのを確認した瞬間、グラウンドから一斉に歓声が巻き起こった!!無理も無い、無名校が、県下にその名を知られた日藤に勝利を収めてしまったのだから。
颯爽とホームベースに集まる五塚の選手と対照的に、日藤の選手達の足取りは極めて重かった。ご愁傷様。
そこでふと、最後のバッターに投げる時だけその存在を忘れていた伊東の姿を探すが、もはやどこにもいない。まだまだ暑いというのに上下黒ずくめという暑苦しい格好をしているから、嫌でも目立つ筈だ。いつの間に姿を消しやがったんだ……大きな身体のわりにすばしっこい奴め。自分の学校の練習や試合はどうしたんだ?
・
・
・
お葬式のような沈んだ空気で着替えをしている日藤の選手を尻目に、俺らはごく気楽な気分でグラウンド整備に精を出していた。激戦区といわれるこの神奈川で、常にベスト16には名前を出す高校を破ったのだから、気分が悪い筈は無い。
「聖」
「ん?」
見れば、カベが穏やかな表情で俺を見ながら、器用にトンボをかけていた。
「今日は良くやったな。序盤はどうなる事かと思ったが、よく辛抱した。お前も成長してると言う事かな」
「な、何だよ、急に褒めるなんて……」
「いや、たまには真っ当に褒めてやらないと可哀想かな、と思ってな」
「実際そう思っていたとしても、それは今ここでは口に出さない方がいいんじゃないのか……?」
相変わらず、人を褒めるのが下手な奴だ。
「これでもう、俺がいつ居なくなっても何とかなるな?」
「……?」
俺には、その台詞が一体どんな意味を持つのか、さっぱり理解不能だった。
「何だ?旅行にでも行くのか?」
「いや、深い意味はない。お前の成長を喜んでいるという意味に解釈してくれればそれでいいさ」
それきり、カベは何も言わずに、黙々とトンボがけを繰り返した。
俺はというと、その心理を量りかね、戦勝気分がすっかり萎えてしまうのだった。
空を仰ぐと、俺の気持ちなんてどうでもいいさ、と言わんばかりに、どこまでも高い秋の青空が広がっていた。
いよいよ、夏も終わりだ。そう考えると、忌み嫌っていたこの暑ささえも、夏の形見のような気がして、一抹の愛しささえ覚えるのだった。




