第07-02話
……間もなく月曜日。
あれからもカベとの特訓は続いていて、しかも未だに成長の兆しを見せない俺のコントロールだった。前日の練習試合は、これも近場の三宮高校との対戦で、普段の特訓疲れから球威はヘロヘロ。 マサカリは封印しようかとも思ったが、それじゃ意味がないとカベに制止され……思うように動かない身体に無理やり鞭を入れ、どうにかこうにか2対1で勝利をもぎ取ったのだった。決勝打はカベの右中間への芸術的な流し打ち。
身体に余計な力が入っていなかったからか、奪三振は8つに留まったが、9回を完投した割には球数が109球、四死球がわずかに二つ、と極めて安定した内容ではあった。……ただそれが、俺が望んだ内容だったかというと……無論異なるが。それでも、もし体調に幾ばくかの不安の不安を抱えている登板であっても、それなりには凌ぐ自信にはなったけど。 カベに、今日は放課後の特訓は休むと伝えると……
「そうか。じゃ、そのお好み焼大会が終わってからだな」
案の定、厳しいお答えが。そこを何とか、と頼み込んで……ようやく一日だけお休みをもらう事が出来たという訳だ。
きーんこーんかーんこーん……と、無機質な電子音で放課後を告げられると、調理班の精鋭達8人は、そそくさと校門を後にした。どうやら、ほぼ全員が部活や委員会持ちの様で、文化祭の準備という名目で堂々とお役目を休める事が嬉しいらしい。
取り敢えず、俺の近くのスーパーで食材を購入する事になっているから、そこまでは歩きだ。道幅をいっぱいに使い、他の交通の思い切り邪魔になりながら皆は歩く。
と、気が付くと……いつの間にか、俺の隣に黒木が少し俯きかげんに寄り添っていた。何で俺の隣を歩くんだ、などと聞けるはずもなく、また交通の邪魔になるとも言いづらく、そのまま……15分ばかり無言で歩き続ける。
「加藤くん……」
「ん……何だ?」
いい加減、こちらから声を掛けるべきかどうか迷っていたところ、黒木から声を掛けられた。都合がいいといえばいい。
「本当に、加藤くんの家で良かったんですか?」
「気にするな。今日はたまたま家に家族が居ない日だったからな。こういう集まりを好ましくない家だってあるだろ?だから俺が積極的に引き受けたんだ」
「……はい」
そして黒木は再び沈黙した。俺もそれ以上の言葉を知らず、はしゃいで歩く他の6人の後ろ姿を見つめるだけだ。
やがて、加藤家最寄にして最大のご贔屓のスーパー、「はまや」に入る。ここは、大きな店構えで品物が充実しているし、その割りに値段も安いから、加藤家に限らず近所の評判は高い。一通り中を巡って、お好み焼に適当な食材を見て回る。さすが庶民の味方の「はまや」だけあって、キャベツ、山芋、小麦粉、豚肉……ここで本番の食材を調達しても良さそうな値段だった。実際には、業務用の量販店でまとめて買う方がもっと経済的になるが。なにしろいっぺんに購入する量が量だけに、ね。
店内は夕食の準備どきだけあって、沢山の買い物客が思い思いの献立を頭に、商品とにらめっこしている。俺は適当に……
「これは……値段の割りにいい肉だ」
「こいつは……今日はあまり安くないか。ま、他に見当たらないからしょうがないか」
この会合の予算に合う食材を選び、ぽいぽいと買い物カゴへと放り込んでゆく。それを見ている調理班の面々は、何故か呆気に取られている。
「な……何だ?」
「ううん……こういう買い物に随分と慣れてるみたいね」
福浦が、俺の押しているカートのカゴの中身を見て、感心したように言った。
「ん?ああ……俺はしょっちゅう買い物してるから、価格の差に敏感なんだよな……はは、オバハンと同じさ」
多少自虐的に言ってみる。別に、そんなことをしなければならない理由なんて無いけれど。
「そんな事無いよ……ね、みんな?」
初芝が全員に同意を求めると……全員が首を縦に振った。
「ね?正直に言って、準備がここまでこれたのだって、加藤くんのお陰だし、ね」
「俺の……?」
「そうよ。加藤くんが意見を出してくれなかったら、きっとあのままだらだらと時間が過ぎていって、文化祭が迫っているのにロクな準備ができていないのに焦って……」
……そんなもんか。イマイチ実感が湧かないが……あの時は、ただ単にカベとの特訓の時間がなくなると思って、半ばヤケになって発言しただけだったんだが。どんな言動が人を動かすかなんて、分からんもんだ。俺も少しは言動に気をつけないとな。
「まあ……いいか」
照れ隠しに、ちょっと急ぎ足でカートを押す。皆はそれ以上何も言わずに、さっきまでと同じように楽しそうに、そして黒木は俺の傍にいるのだった。
俺がおしゃべりな人間は苦手という事を誰かから聞いて、少しは遠慮してくれているのかも。
なんだかんだで、皆を引き連れて家に帰り着いた頃には、目論見どおり姉妹たちは出かけた後だった。さて彼女らは、一体何処へ食事をしに言ったんだろう。上手く美味い店を発見してきてくれると良いが。
新聞受けを覗いて、郵便物の有無を確認してから、家に入ろうとするが……家のガレージの車を見て、男連中が唸っている。
「加藤の家って……金持ち?」
「いんや、無理してるだけだ。多少は稼ぎがあるかも知れないが、それを殆ど使い切っているから……常に蓄えは無いよ」
本当はと言えば……親父が再婚してから、家の経済状況は随分と高上した。何しろ、真綾さんは人気デザイナーだというのだから。この家を建てたのも、その後ろ盾があっての事だろう。
どやどやと家に入って……あれこれ準備をしていると、あっという間に外が真っ暗になっていった。本当に日が短くなった。ほんの二ヶ月前までは、天候によっては7時を回ってもまだ日があったというのに。そんな当たり前の季節の移り変わりすら、俺の気持ちを焦らせる一因だ。カベが最近口にする「時間が無い」という言葉を否応なしに実感させられる。
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わいわいと台所を賑わし、生地などをこしらえるはいいが……どうにもおぼつかないものが一つ。
……キャベツの千切り、だ。料理をした経験のある奴などいないという事は前に聞いたが、それにしても……こいつら、包丁すら持ったことがないんじゃなかろうか。なぜなら、包丁を使う基本の手つきは、まず指先を丸める……猫の手にする事。指を切らないための工夫だ。
次に、包丁は日本刀と同じもの。力を入れて引くと見事な切れ味を発揮する、世界最高水準の刃物だ。……が、こいつらと来たら、押して切ってやがる。これでは切り口が滑らかにならないし、だいいち包丁の切れ味をスポイルしかねない。
福浦が、野菜炒めでも作るのかと思うくらい大きな、千切りとは到底呼べないような切り方……そう、これは世間一般では短冊切りと呼ばれているものだ……のまま生地に入れようとしたものだから……
「ちょ、ちょっと待った」
マウンド以外であまり目立つ真似をしたくは無いが、これは流石に目に余る。身体のムズムズが押さえきれなくなって、遂に行動に出てしまった。
「キャ、キャベツは俺に切らせてくれ」
「え、え?」
福浦は奇妙な顔をしながらも、俎板からどいた。しかも包丁を、刃の方を突きつけてよこしたもんだから、俺の余計なおせっかいも爆発してしまう。
「あのな、包丁に限らず刃物は必ず柄の方をこっちに向けて渡せ。怪我するしないの問題じゃなくて、心掛けの問題だけどな」
「は、はあ……」
これで俺は、小うるさい親父キャラ確定だな。……俺が間違ったことを言っている訳じゃないから、ちょっと義憤を感じるけど。
さて、包丁を受け取った俺は、肘の辺りまでシャツを捲り、戦闘準備に入る。まずは一個、キャベツをでんっ、と俎板に載せ、おもむろに中央でざっくり二つに割る。そして割れたうちの一つを、断面を下にして起き、端から千切りにかかる!!
たんたんたんたんたんたんっ!!
我ながら惚れ惚れするような手捌きで、次々と瑞々しい千切りが、ボウルの中に吸い込まれてゆく。周りからも感嘆の声が上がった。どんなもんだい……って、これじゃ自慢してるようなものだ。
本当に「上」を目指しているスポーツ選手なら、すこしでもケガする可能性のある、こういった作業は遠慮するものだ。しかし、料理をするという行為を決して失うわけにはいかない。俺にとって料理とは、ただ単に飯をこしらえるというものではないんだ。何故なら、姉妹達と暮らし始めて、自分の手で何かを製造し、それを他人に食べて喜んでもらうという快感を知ってしまったから。
「ま、この人数ならこんなもんだろ」
およそ3玉のキャベツをあっという間に千切りに変え、包丁を置いた。
ところが……みんな無言のまま。
(しまった……調子に乗りすぎたか)
反省しようとすると……
「すげええー」
「お見事、加藤くん!!」
「ひょっとして、料亭の息子だったりとか?」
思いもがけない歓声が上がった。これには、俺のほうが唖然としてしまう。
「加藤くんって……やっぱりお料理得意だったのね」
黒木を始め、みんなは感心したような瞳で俺を見ていた。どうも……こうやって、正面から賞賛されるのは苦手だ。球場でフェンス越しになら、多少は慣れてきたところなんだが。
「まあ……ちょっと、ね。おさんどんが長かったから……」
照れちまって、ごにょごにょとしか喋れない。
「そ、それよりも、はやく夕飯にしようぜ」
生地とキャベツ、その他具材をさっさとダイニングへと運ぶ。みんなは苦笑いしつつ、それを手伝う。どうやら……俺の想像以上に、彼らは俺の事を分かっていてくれるらしい。有り難い。
その後、俺が焼き方のレクチャーをしつつ、全員でお好み焼をむさぼり食った。余程俺の生地の作り方が良かったのか、焼き方が良かったのか……はたまた、加藤家秘伝のソースの調合具合が良かったのか、最初に用意した生地だけでは足らず、作り足す事幾度か。購入してきた小麦粉をほぼ全て消費しかけた頃、ようやく全員の腹が満たされたようで、膨れた腹をさすりつつ、一名を除く全員が帰っていった。
ごしごしと洗い物をしている間、黒木が皿を運んできてくれた。そう、残ってくれたのは彼女だけだった。全て俺が片付けるからいい、と言っているのに、黒木は手伝いを申し入れてくれた。俺としては、二人きりになるのは苦手だから遠慮したかったが、なにしろ黒木の性格だから、頑として聞き入れなかった。
「これで全部……です」
黒木が最後の食器を水を張った流しに入れた。何しろ8人分だから、その人数分の材料を入れた皿も、食器も膨大な量だ。その他にもホットプレートを洗わなきゃならない。お好み焼大会は盛況の内に幕を閉じたはいいが、後片付けの事を忘れていた。
「ありがとう、助かったよ」
「いえ……」
頬を染めて恐縮する黒木。随分と躾の行き届いた子だ。
「それにしても……みんな薄情だな。黒木一人を置いてとっとと帰っちまうとは」
今日の目的を達すれば、後片付けなどどうてもいいってか……?
「違うんです……」
「何が?」
「……わざと私を置いていったんです、梨絵も恵も」
「梨絵と恵……ああ、福浦と初芝の事か……?でもなんで……」
三人ともファーストネームで呼び合う仲なら、黒木を手伝って残るのが常道だろうに。
「それは……」
それっきり、黒木は口ごもってしまった。何だって言うんだ、一体。しばらく二人で黙々と洗い物に勤しむ。お陰で、案外早く片付いてしまった。時計を見ると……午後9時を少し回った所だった。
「黒木、時間はいいのか?」
時計をちらりと見やって、黒木の正面の椅子に座る。本当なら恥ずかしくて仕方がないが……二人きりという状況で、他の席に座るのも不自然だしな……
「はい、今日は片付けまで手伝うから遅くなる、って言っておきましたから」
「そう……か」
「早く帰れ」と言ってしまったようで、なんだか気まずい。
そしてそれっきり、二人の間には会話がなくなってしまう。考えてみれば、俺と黒木の接点が発生したのは、つい最近の事だ。お互いの事などまるで知らないから、会話も弾むはずがない。
しばらく無言で見詰め合った後……
「か、加藤くん」
「ん、んぅ?何だ?」
黒木が急に呼んだんで、面食らってしまい、間抜けな声を出しちまった。そして、黒木の次の言葉を待つが……特に何の話題があって俺を呼んだわけではないようだ、そのまま再び黙りこくってしまった。ただ、間が持たないから、取り敢えず俺を呼んだだけらしい。
「………………」
「………………」
(困ったな……)
いかに自分の彼女などではないといっても、退屈されるのは面白くない。いよいよ間が持たなくなった俺は、必死に話題を探す……探す……探す……
(そうだ……)
黒木は、料理などに興味があるのかもしれない。それだったら……
俺が急に立ち上がると、黒木はびくっと身をこわばらせた。ごめん、別に怖がらせるつもりじゃなかったんだ。ただ、緊張から周囲への気配りにかけているんだ……
「黒木、紅茶は好きか?」
「え……紅茶ですか?はい、母が良く淹れてくれますから、好きですが……」
女の子はすべからく紅茶が好きだという俺の勝手な妄想だったが、当たりだったか。
「そうか、いい茶葉があるんだ。淹れるから待っててくれるか?」
「はい……」
実を言うと、黒木が紅茶を好きだろうが好きじゃなかろうが、紅茶を淹れるつもりでいた。少なくとも時間稼ぎにはなるし、もし紅茶を気に入ってくれれば、そこから話も弾むかもしれない。
早速立ち上がり、茶箪笥から紅茶の入った缶を取り出す。つい最近、真理が輸入食料品店で買ってきてくれたものだ。あいつは近頃、こういった輸入ものに凝っているらしく、気が付けば外国製の菓子やら調味料やらが台所に増えている。確かに、日本のものよりもパッケージのデザインがヴィヴィッドかもしれない。……肝心の味はというと……どうも国産よりも大味なように感じる。チョコレートは何故か塩味を感じるし、ポテトチップなんか妙に油っぽくて、噛んだら油が染み出してきそうな位だ。結局、それらは殆どが美奈津の腹の中に消える事となるのだが。
さて、かちゃかちゃと作業をしている間も、黒木は何も喋らなかった。というより、何故か俺の手元ばかりを注視しているようだ。その視線が気になると言えば気になるが、取り敢えずいつもの通りに、湯の温度に気をつけながら、茶葉を入れたティーメーカーに注ぐ。自己流で入れるより、いわゆる「ゴールデンルール」に則った淹れ方を守った方が、結局は美味しい紅茶が入れられるんだ。長い歴史の中で培われてきたノウハウだけに、間違いはない。
ティーメーカーをテーブルの上に置き、後は蒸らすだけにし、また茶箪笥をあさって、少しは気の利いたデザインのティーカップを取り出す。……よく見りゃ、マイセンだ。こんな高価そうなもの、いつの間に……多分、外国にいる事の方が多い真綾さんが、古物商で掘り出し物を見つけてきたものだろう。結構古そうなものだから、まともに買ったらとんでもない値段が付きそうな……怖いから考えないでおこう。
再び黒木の対面に座る。今回は、ティーメーカーを凝視していなければならないから気が楽だ。ティーメーカー全体に、じんわりと紅茶の美しい色が染み渡っていく過程を楽しむ。………………良く見ると、ティーメーカーの向こうに黒木が見える。……黒木も、こちらを注視していた。俺を見ているのか、紅茶を見ているのか……どうにも判別がつかないが……
頃合を見計らって、遂にカップに紅茶を入れる。と、一気に格調高いダージリンの香りがダイニングじゅうに広がってゆく。これは……本当にいい紅茶だ。ティーバッグのものや、使い古して容器に入ったままのものでは、ここまでの香りを楽しむ事は出来ない。真理の奴、そうとう高価なものに手を出したらしい。その金はどっから出てきたんだ?
「さ、飲んでくれ」
カップを差し出し、極上の紅茶を勧める。
黒木はおずおずと手をのばし、カップを受け取る。そして両手でカップを包み、じっと紅茶の色に見入る。……いや、魅入られているんだ。最高の茶葉は、最高の色をも生み出す。かつて大英帝国が、現地人から搾取しまくってまで欲しがった茶葉だ。ただ胃に収めるだけの嗜好品ではない。
黒木は……そっと小さな唇をカップに寄せ、熱々の紅茶を啜った。
その瞬間……
「……美味しい……」
黒木の表情が、驚きに変わった。
「家で飲むものよりも、凄く美味しいです。どうしたらこんなに美味しい紅茶が淹れられるんですか?」
今までとはうって変わり、ずずいっと身を乗り出し、俺に迫る黒木。お、お願いだからそんなに顔を近づけないで欲しい!!
黒木も、今までの自分のキャラとは掛け離れた行動を取ってしまった事を感じたのだろう、
「あ」
と一言、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
その余りのギャップに……
「ぷ」
「?」
思わず、噴き出してしまった。見上げた黒木の顔中に、「?」マークが浮かんでいる。
「いや、悪い悪い……こんなに紅茶に反応するとは思ってなかったからさ……」
「ごめんなさい……」
「何を謝ってるのかは分からんが、とにかく気に入ってくれて良かったよ。俺にはこういった、料理や食事に関係する事しか特技がないからな」
「そ、そんなことないです!!」
「……え?」
再び、ずずずいっと前にせり出す黒木。うお、この迫力はなんなんだ。
「特技がないなんて、そんな事言わないでください!!」
「だって、実際にそうだし……」
「野球は……どうなんですか?」
そう問われ、俺は戸惑わざるを得なかった。特技……特技、なのか?確かに俺はもう、一般の人間が努力しても、絶対に届かない領域まで来ている。これ、特技とは言えるんだろうな。
「自信はないけど……そういう事になるのかな」
「そう思います。それも、特別に特別な特技です。そうでなければ、あれ程までに球場の人たちを虜に出来ません」
「球場の……?って事は、黒木は、実際に試合を見に来た事があるのか?」
ツッ込むと……黒木は、決心したように顔を上げ、俺を見据えた。
「はい。私、最初は野球に興味がなかったんです。五塚の初戦が生まれて初めての野球観戦で……クラスメイトのピッチャーが投げるから、見に行かないかって梨絵と恵に誘われて」
黒木は一旦言葉を切り、ぐっと瞳を閉じた。俺にはそれが何故か、黒木の精一杯の勇気を振り絞る為の猶予に感じられた。
だから俺は、それを遮るような無粋なマネはしない。そんな状態の彼女を見つめ、言葉を待った。……よく見ると、黒木って……小柄でかなり可愛い。今の今まで意識せずにいたが、こうしてじっくり黒木を見ると、改めてそう思った。
ようやく黒木が口を開いた。開いた大きな瞳は、ただ俺だけを見つめている。
「……一試合で、魅了されてしまったんです。その、五塚の投手の、全身全霊の投球に」
「………………!!」
「凄かったです。決勝戦の試合なんて、最後の方で涙が出そうになりました」
俺が……一人の人間の心を奪った、虜にした、という事になる。誰でもない、この俺の腕一つで。俺の腕から繰り出される速球は、それほどまでの力を持つまでになっていた。なんだか……不思議な気分だ。ほんの二ヶ月前までは、自分がここまでやれるとは、夢にも思っていなかったのに。
「これからも……野球、続けてくれますよね?」
「え……?何でそんな事を聞く?」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、何故そう思ったのかを聞かせて欲しい」
「……」
「俺のファンになったというなら、是非聞かせてくれ」
俺は頭を下げた。ひょっとして、前に真理が言っていた「余裕のない顔」と関係があるのかもしれない。
「……あまりにも凄すぎたんです、加藤くんのピッチングが。何だか……もうこの後、すべてを止めてしまうんじゃないか、って思えるくらい」
「……」
確かに、投げている途中に、何かが俺の中から剥がれ落ちていくような気はした。それが何なのかも分からないし、なにも剥がれ落ちてなどいなくて、全て俺の気のせいなのかもしれない。要するに、俺は今でも気持ちの整理がついていないという事だ。
「心配ないよ。俺には目標があるんだ。それを達成するまでは……もう絶対に投げ出さない。約束する」
俺はきっぱりと、黒木に約束した。心の底から。もし野球の神様がいるなら、誓ってもいい。俺が嘘をつく事になったら、この右腕を神様に捧げてもいい。
「良かった……また加藤くんのピッチングが見られるんだ……」
黒木の胸のなでおろし方が余りにも大袈裟だったので、俺はまたもや噴き出してしまった。
「ああっ、また笑いましたね?」
「ごめんごめん……俺の事を心配してくれたんだよな?ありがとう」
「いえ……」
黒木は頬を染め、また元の様に俯いた。再び、二人の間に会話がなくなる。だが……
「今までの話を聞くと、ひょっとして県予選には、毎試合来てくれたのか?」
この時は俺から声を掛けた。普段の俺から言ったら、とても考えられないような事だけど……心の中で、彼女は俺を分かってくれると判断したんだろう。俺が何かを削り取りながらピッチングしている事を読み取ってくれたんだから、と。
「はい……最初は梨絵と恵に引っ張っていかれたようなものですけど、もう次の試合からは、私が二人を引っ張っていくようでした」
「俺のピッチングを見るために?」
「……はい」
正直に言って、感動した。繰り返すが、俺は二ヶ月前まで、自分で何も生み出せず、誰にも感動を与えることなく、ただ漠然と生きていた男なのだ。
「そっか……これからも、見ててくれるか?俺のこと」
「え……?それって……」
……何気なく言ってしまってから気が付いた。これではまるで告白じゃないか。俺の方はそんなつもりは毛頭ないが……黒木にとっては……
「あ、いや、そんなつもりじゃないんだ。これからも、俺のピッチングを見ていて欲しい。応援してくれとか、支えて欲しいとかじゃないんだ。ただ、俺の事を見ていてくれないか?俺には、自分の事を見ている、身近な人が居てくれるという事実だけで十分なんだ」
俺は……黒木の瞳を見つめた。自分から、女の子の瞳を正面から見据えるなど考えられなかった。なのに……今は自分でも自分がどういう状態なのかが分からない。
「私でよければ……」
黒木は、短くそう答えてくれた。俺は……一人の強い味方を手に入れたわけだ。人数は一人でも、その存在感は、テレビ越しに俺を応援してくれる人間1万人よりも遥かに大きいのだ。
「ありがとう」
ぼそ、と口にした感謝の言葉は、彼女に届いたろうか。その反応を確かめる前に、
がちゃ
と玄関のドアが開く音と共に、楽しげな会話が聞こえてきた。もちろん、我が愛する姉妹のご帰還だ。……いけね、時計を見ると、もう11時も近い。話し込んでいる間というより……二人して言葉のなかった間に、それだけの時間が過ぎてしまったのだ。その時間が妙に短く感じたのは、緊張から来るものだったのだろうか。
物音を聞いた瞬間、黒木の身体が、ビクっと目に見えて反応した。それを見て、俺も緊張してくる。まるで、自分の彼女を家族に初お披露目する気分だ。
「あら……」
最初に顔を出したのは、由紀姉さんだった。さすがは姉さんらしく、仲良く縮こまって座っている俺達を見て、全てを察してくれたらしい。
「こ、こんに……こんばんは、お邪魔しております」
黒木が慌て挨拶する。
「こんばんは、礼儀正しいのね」
「は、はい」
どうにも、黒木の反応がおかしい。俺と姉さんの関係を訝っているようだ。無理もない、俺が何の説明もしていない上に、こんな美人が俺の家族とあっては。
だが、姉さんだけなら、まだ姉だと説明は付くが、
「どうしたの?由紀姉……あ」
「どうしたの?お姉ちゃん達……あ」
ほぼ同時、美奈津と真理が姉さんの後ろから顔を出したもんだから、余計混乱してしまったらしい。
「あ、あっ……えっと……その」
「聖くん、ひょっとして……私達の事、全く説明してないの?」
姉さんが呆れたように言った。仕方がないじゃないか、そんな余裕なんてなかったんだから。
「しょうがないわね……初めまして、私は加藤由紀。聖くんの姉よ」
「あたしは加藤美奈津。このしょうのない兄貴の妹です」
「あの……私は、真理です。同じく、妹です……」
真理は人見知りするから、こうして初対面の人間に自己紹介をするのもプレッシャーのかかる行為だろう。それでもきちんと自己紹介出来たのは、親の躾のなせる業か。
ただ問題なのは、こうして自己紹介されても、黒木は大きく口を開いたままだった事だ。
「おいおい、どうしたんだよ」
「い、いえ、何でもありません」
そこで黒木は、椅子からすっくと立ち上がり、
「……自己紹介が遅れてしまって申し訳御座いません。私は黒木奈々と申します。加藤くんのクラスメイトをやらさせて頂いております」
いつもより拍車のかかった言葉使いの丁寧さに、悪いとは思いながらも、苦笑してしまった。
「黒木さ、そんなに改まらないでいいよ。彼女らは、そんなにカタい人間じゃないからさ」
「そーそ。お兄はどうか知らないけど、あたし達はとっても取っ付きやすいから」
「自分で言ってりゃ世話ねーや……とにかく、まぁ落ち着いてくれ」
「は、はい……」
再び、黒木は椅子に座った。
「あ、お兄ちゃん、その紅茶……」
と、真理が、テーブルの上の紅茶の缶を目に留めた。
「ああ、これな。いい茶葉だったぜ」
「うん……でも……」
「?どうした?」
何故か真理は複雑そうな表情をしている。何か言いたそうな……でも言い出せない……そんな感じだ。
「そうだ、丁度ケーキを4つ買ってきたの。良かったら、黒木さんもどう?」
「ちょちょちょっと姉さん……4つって……計算が合わないんですが……」
「ふふっ、冗談よ。1つ余分に買ってきたから」
姉さんが、悪戯っぽくウインクしながら言った。はは、姉さんはたまにこういうお茶目な事をするんだよな……
「じゃないかと思ったよ……大方、誰かさんの分でしょ?」
「ちょっとお兄……誰かって誰よ」
「誰もお前の事とは言ってないが」
「言ったも同然でしょ!?」
「自覚してる訳だな」
「何でそうなるのよ!!」
「説明が必要か?」
ま、こうしたやり取りも楽しいもんだが、来客中にする事じゃなかったな。
「わ、私、もう時間なので失礼します」
「あら、そう?残念ね……聖くん、送っていってあげて」
「ん?ああ、そうだな、そんな時間だったんだな。行こうか、黒木の家は何処だ?」
「いえ、一人で帰れますから……」
「まーま、そんな事言わずに……とにかく送っていくよ。最近は何かと物騒だから」
「お兄、送り狼しないでね」
「するワケあるかっ!!」
「由紀お姉ちゃん、送り狼って何ぁに?」
「あとで説明してあげるから、早くお風呂にでも入ってらっしゃい」
そんな姉妹のやり取りを背に、しきりに遠慮する黒木を宥めつつ、ダイニングから出る俺達。
・
・
・
9月も半ばと言えど、風はまだまだ生暖かい湿り気を帯びていて、まだまだ真夏の酷暑の余韻を残している。ちょっと早足で歩けば、たちまち汗だくになりそうだ。
俺達は、しばらく無言で歩く。黒木の家は思ったよりも近く、歩いてほんの10分程度だ。
「加藤くん……」
「……ん?」
「お姉さん達って……すっごく美人揃いなんですね」
黒木は、羨ましそうに……そう呟いた。俺には女性心理など分かるはずもないが、もし俺が女性だったら……やっぱり、美貌の姉妹羨んでしまう事は間違いないだろう。だって、男の俺でさえ、彼女らの美しさには、心底感服し、敬愛すると同時に嫉妬心すら抱きかねないんだから。
「ああ……父親の顔は知らないけど、母親は美人だからな……血筋かな?」
「え……?あ、そうでしたか……」
「父親の顔を知らない」というセンテンスに、過剰に反応しない黒木の心遣いが嬉しかった。
「彼女らはな、親父の再婚相手の連れ子なんだ」
黒木が納得してくれているんから、こんな事、尋ねられなきゃ自分から言う必要なんてないのに。でも何故か、黒木になら話してもいいような気がした。いや、むしろ知っていて欲しいという気さえしている。俺の事を応援してくれるのだから、出来るだけこちらも隠し事はしたくないのかも知れない。
「………………」
ただ、打ち明けたからと言って、彼女の易になるかどうかまでは分からなかったが。
そのまま、黒木は道順の案内以外は無言で歩いて……結構大きな瓦葺の平屋の前で歩みを止めた。表札には、「黒木」とある。確かに、黒木の家らしい。そして表札の横には……「日本舞踊・華彩流宗家」と、道場破りが間違えてもって行きそうな、分厚い木で出来た、年季の入った立派な看板が掲げてあった。
「日舞の宗家の娘さん……だったのか。さぞかし、上手いんだろうな」
何気なく言ったんだが、黒木はやや顔を曇らせて、
「そんな事……ないです」
と、ぽつりと言った。……なにか、有るようだ。
「実は今、悩んでいて……このまま、母の後を継いで行くのか、私にはその資格があるのか、って。……果たして、日舞は自分にとって何なのかが分からなくなってしまったんです。小さい頃、物心付く前から、当たり前のように母に指導を受けていましたから、ここまで日舞を続けてきた事に何の疑問も抱いたりしなかったんです。でも、ある日突然、自分の中の日舞に疑問を持ち始めて、悩んで……もしこのまま日舞を続けるなら、やっぱり好きでやっていたい、そうじゃなければ、人に教える立場になんてなれないって。境遇上、私は将来人を教える立場になるでしょうから」
黒木はそう小さな声で、しかししっかりと言ってから、はっと手で口を押さえた。
「ごめんなさい、こんな事、加藤くんに相談しても迷惑ですよね」
「いや……それ、なんとなく分かるよ。俺にも……そういう時期があったから。野球を好きなのかどうか、自分じゃ判別が付かない時が、ね。でも俺は、野球を続ける道を選んだ。野球がたまらなく好きだという事に気付かされたから」
それはつい最近、先の大会……夏の県予選の出場選手登録が締め切られる直前の話だ。
あの頃、俺は悩んでいた。カベがグラウンドで汗を流す姿をたまたま見て、帰宅部だった俺は激しく心を揺さぶられた。それは多分、今から思うと、生きている事実を実感出来ない焦りと、不甲斐ない自分への怒りの反動だったように思う。
だけど、それでもまだ、野球を再び始める事に恐怖を感じていて、二の足を踏んでいた。誰かに背中を押してもらわなければ何も出来ないくらいに。きっと、再開してもし駄目でも、その人間に「お前の言ったとおり復帰したが、やっぱり駄目だったじゃないか」と責任をなすりつけら得るかも知れないという計算も、心の底ではあったんだろう。俺は背中を押す人間に真理を選んだ。真理でなくては駄目だったかもしれないし、その時家に真理しか居なかったからかもしれない。とにかく、俺は雨の中、真理を、中学生の頃壁当てをしていた公園に連れて行き、その前で速球を投げた。すばらしい球だった。自分でも惚れ惚れするくらいだった。でも俺は二の足を踏んでしまった。また、カベを裏切る事になるかもしれない、と。しかしその時、真理は俺にこう言ってくれた。
「お兄ちゃんは、野球が好きじゃなかったら、どうして毎朝ジョギングしに行ってるの?どうして毎朝素振りしてるの?私知ってるんだよ?」
俺はその頃、朝5時に起き、1時間以上のジョギングを日課としていた。姉妹達は気付いていないと思っていたのだが。真理はそこで俺の右手を取り……
「ほら、こんなにマメがあるのに。これ、野球が好きじゃなきゃここまでにならないよね?私、お兄ちゃんがどういうきっかけで野球を好きになったのか知らないけど……お兄ちゃん、思い出してみて、自分が野球を好きになった時の事を」
言われて、自分が野球を愛した理由が、脳裏に、胸の中にいっぱいに溢れ出していた。全ての不安など、いっぺんに吹き飛んでしまっていた。
そして、
「お兄ちゃん、野球、好き?」
そう、小さな子供を母親があやすように優しく問い掛けれられた俺は、膝から崩れ落ち、真理の細い腰にすがりついた。
「野球、好きだよぉ……野球、やりたいよぉおお!!」
初めて、自分が泣いている事に気が付いた。情けない自分を曝け出して、他人に背中を押してもらって、ようやく自分の進む道を決められる程、俺は弱い人間なんだ。そんな俺が、また他人の生き方を変える事なんて出来るんだろうか?
「だから、もし迷ったんなら……自分が日舞の事をどれだけ想っているか、自分が日舞を始めて良かったこと悪かった事を考えていけば……自ずと答えは出ると思うよ」
当たり障りのない答えだろうけど、結局はそれが真実なんだ。
「………………分かりました。今度、母と相談してみようかと思います。また、自分の思いと向き合う必要もあるんですね」
「ああ。なるべくじっくり考えて、なるべく早く決断した方が良い。俺達に残された時間は余りにも少ない」
……いや、残された時間が少ないのは、あくまで俺の場合だけか。偉そうな事を言ってるけど、俺だってまだ迷う可能性はある。
「分かりました。色々と……今日は有難う御座いました」
黒木がぺこりと頭を下げた。そういう事をされると、何だか自分が偉くなったみたいで背中がむず痒くなる。
「いやいや……失礼ながら言うけど、黒木はぱっと見はトロそうに見えたんだよな。でも……こう、なんと言うか……表現し辛いな……そうだな、鋭さ、見たいなものが立ち居振る舞いの中に見える気がするんだよな」
「え……そうですか?」
「ああ……今ようやく合点が行ったよ。日舞で鍛えられたんだな」
「そうでしょうか……自分では良く分かりません」
「まあそういうものだろうけど」
照れて俯く黒木を、俺は素直に可愛いと思った。
「じゃ、俺行くわ」
踵を返すと、背後から
「あの……文化祭の時の試合、見に行きますから」
俺は振り向かずに、手を振った。
変える道すがら、やけに饒舌だった自分の変化に戸惑う。いくらなんでも、俺が個人的な事にアドバイスするなんておこがましいんじゃ……とも思うけど、つい口を出たのは何故なんだろう。俺も少しずつ変わってきているんだろうか?人間、毎日何かしらの変化が起こっているなんてのは分かりきっているんだが。
空を見上げると、雲一つない夜空が俺を見下ろしていた。こんなに雄大な自然の下では、俺なんかちっぽけな存在なんだろうが、そのちっぽけな一つ一つの存在が、また別々に物事を考えているからこそ、この世は面白く、また複雑になるんだろうな……
自分の力ではどうしようもない事を考える俺の悪い癖が、また顔を出していた。




