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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第06-04話

 8月の31日。言うまでもなく、夏休み最後の日。

 美奈津は案の定、宿題の残りに追われていた。それらを先に片付けていた真理は、早くから外出し、姉さんはまた大学に用があるらしい。受験生がこんな事でいいのか?と兄貴風を吹かせてやったら、

「いいもーん、あたし、推薦が取れそうだから」

 と、殆ど柳に風、だった。

 美奈津は、無名校……要するに、俺の母校・和泉中学な訳だが……のバスケットボール部を全国大会にまで導いた立役者であるらしく、そこそこ有名な高校から誘いが来ているらしい。これは、俺も全く知らなかった。と、いうより、美奈津がその事を全然口にしなかったからだ。隠す意味がどこにあるのか……と真意を正した所……

「ただ単にびっくりさせたかっただけだよ」

 と。

 素直じゃない奴だから、その言葉をそのまま鵜呑みにして良いものか……

 ともかく、あいつはあいつで、短い高校生活をかけるモノを手にした訳だ。一体それがどれほど辛い道のりなのか、俺には分からない。だって、俺だってこれからその領域に踏み込もうとしているに過ぎない。自分が経験した事のないモノだ、それがどうして他人のことまで分かると言うんだ。今の俺には、他人の苦難を推し量る余裕などない。

 それはさておき。

 今俺は、この暑いのに、我が五塚高校のグラウンドのマウンド付近に立っていた。何故なら、昨日中華街から帰ってくると、

「明日午後2時、五塚のグラウンドで待っている、運動着で来い」

 と、あいつらしく、極めて簡潔な内容の留守番電話が入っていたからだ。練習用ユニフォームではなく、運動着で来いと言われたからには、何かしらの個人的な練習をするのだろう。一応グローブと硬球2個、それにスパイクだけは自主的に持ってきた。

 カベにこれからの方策を聞こうと思っていたところだから、丁度いい。それにしてもカベの奴め、人を呼び出しておいて遅刻か。ま、人のことは口が裂けても言えないが。

 しばらくストレッチなぞをやっていると、校舎の方から人影が。言うまでもない、カベだ。

 奴は、いつものようにちょっと不機嫌そうな表情で、手にはキャッチャーミットしか嵌めずに、こちらへのっしのっしと巨体を揺すりながら歩いてくる。あいつめ、練習すると言っておきながら、何も持ってきてないじゃないか。俺は、カベに話が通じる距離まで待った。

「おい……」

「聖」

 俺の言葉を遮り、カベが短く名を呼ぶ。その声はいつもよりも厳しく、俺に何がしかの変化を感じ取らせるに十分だった。

「な、何だよ、妙に思いつめた顔して」

 カベは暫く黙っていた。暑いのだから、早く何か話せ……なんて軽口を叩ける雰囲気じゃなかった。俺の顔を、瞳をじっと見つめているだけだ……。必然的に、俺も奴の瞳を見つめ返す事になる。

(な……何だ何だ?)

 カベの顔は、輪郭はやや角ばっているが、それが却って精悍な男らしさを際立たせている。もう少し年をとったら、アゴヒゲを生やしてみても似合うかもしれない。年をとってからじゃないと年齢にヒゲが負けるからな。

 しばし無言を貫いていたカベが、

「聖」

 再び俺の名を呼んだ。

「だから何だ、って」

「お前、今の自分……投手としての自分に何が欠けてるか気付いてるか?」

 俺がカベに聞きたかった、そのものズバリを問われる。正直言って、俺とカベの意思疎通は、言葉など要らないかと思った。……本当はそんなんじゃない事は十分わかってる。でも今は、そう信じていたかった。県予選の敗退の原因の殆どが、俺のフォアボールからなる自滅なのだから、今俺が矯正すべき大きな問題は、そこにしかないのだから。

 基本的には孤独なマウンド上で、唯一……俺の拠り所。それが目の前の男、真壁大成。いつまでもカベに甘えていてはいけないと思ってはいても、具体的に一本立ちできるほど、俺は野球の経験がある訳じゃない。いつか……俺とカベが離れ離れになった時、カベが安心して俺を送り出してくれる様になったら……その時は、俺が一端の投手として世に出ていいと言われたも同然の時期なんだ。

「分かってる。コントロールだろ……違うか?」

 俺がそういうと、カベは少しだけ驚いたような表情をした。

「ほお、お前が気付いているとはな」

「おい……いくら俺でも分からないはずはないだろ、あのピッチング内容じゃ……」

「はは、そうだったな」

 カベは一瞬目を伏せて……そして俺へと視線を戻した。今日のカベの物言いは……何だかとてもまどろっこしい。いつも物事を冷静に見極め、核心を的確に助言してくれる人間のものとは思えない。

「聖……俺は昨日、ずっと考えていた」

「何を?」

「それヒントを得る為に図書館に行って、色々な文献を漁った」

 俺の質問には答えず、カベは俺から視線を外し、続ける。

「一日篭って、野球の技術書やプロ野球選手の自伝や伝記を読んだり……な」

 俺は、結局カベの言葉の続きを待つ事にした。俺に、カベの話を遮る程の意見は無い。

「そうしたらな……あったんだよ。コントロールの悪かった投手を矯正したキャッチャーの話がな。俺も読んでいて……正直、自分で怖くなったよ」

「な……何がだ?」

 またまた……カベは黙りこくる。

「この方法を試したら、お前が挫けてしまうんじゃないかな、ってな。そもそも俺は、お前にどの程度の忍耐力があるか分からないんだ」

「そ……そんなに荒療治なのか?」

「ああ……所詮お前は、野球歴が一年とちょっとしかない異色の投手だ。ストライクゾーンに投げるという技術、経験に根本的に欠ける。そんなお前の弱点を残り一年足らずで埋めるには……必然的に荒療治にならざるを得ない」

 カベはそこまで言ってから、再び視線を逸らす。

 それはカベの言う事は至極当然だ。何しろ俺が始めてマウンドに立ったのが中学三年の夏。それから今年の6月に至るまで、約二年間一切マウンドに立っていない。何故なら……俺は逃げたからだ。肩肘の痛みを理由に、その後に待ち受ける困難から。果てしない努力の世界から。



 話は中学時代に遡る。

 あの、中体連の大会、ほぼ全てのイニングを一人で投げ終えた俺は、決勝の翌日、肩肘の猛烈な痛みで目を覚ました。時計はまだ午前の3時頃だったけど、その後の眠気なんて痛みで吹き飛んでいた。

 ロクにフォームも固まっていないうちの連投に次ぐ連投だったし、公立中学のレベルでは入念なアフターケアなぞ臨むべくも無い。どこかに破綻を来さない方が不思議というものだ。いや、正確に言うと、そうなる筈と決め込んでいた訳だ。

 その後も暫く痛みは続き、一週間は投げられない状態が続いた。……そんなある日、俺は昼休みに校長室へ呼び出される。カベも一緒だった。中で俺を待ち構えていた人物は、もちろんウチの校長と、野球のみならず、スポーツの全体的に盛んな有名私学、宝海大学付属相模高等学校、通称宝海大相模の関係者だった。

 その板野の名乗ったおっさんは、しきりに俺のピッチングを褒めた。その時は、この人が直接俺達の試合を見に来ていたのかとも思ったが……そんな訳は無い。各地のスカウトの報告から目ぼしい選手をピックアップしていたら、俺達二人にヒットしただけだろう。

 板野のおっさんは、しきりに自分の学校の良さを上げる。それこそ、パンフを読めば分かるような事しか話さなかったが。

 校長も、よもや自分の学校に有名校のスカウトが来るとは思っていなかっただろうし、増してやその生徒が甲子園に出るなんていう事になれば、鼻も高いだろう。

 そんな理由から、俺達はウンザリするほどの勧めの言葉を聞いた後、ぐったりして家に帰ったものだ。

 結局その日を皮切りに、3日と置かず有名校のスカウトっぽい人がやって来た。その数、およそ10校。その誰もが、自分の学校の長々としたセールストークをカマしてくれるもんだから、いつも帰りは夕方近くになってしまい、迷惑この上なかった。その当時、俺はもちろん一人暮らしだったから、じっくりと料理する暇も無かった。

 1ヶ月は

 そんな状態が続いたが……


 俺はどの話にも興味を示さなかった。

 肩肘がもう限界であると偽って。

 奴らにとって、肩肘の損耗した俺など、何の商品価値も無いガラクタに過ぎない。中には精密検査を勧めてくれる親切そうな人もいたけど、所詮は俺に商品価値が残っているかのの品定めに過ぎない事は分かっていた。だから、それも断った。


 俺に入学の勧誘を……もとい、商品の陳列棚……もっと言ってしまえば客寄せパンダになるように言ってきた高校は、



 県外から、


愛知、東方高校。


東京、国学園久山ひさやま


同じく東京、帝王高校。


 神奈川県からは、


宝海大相模。


たいら学園。


東嶺とうれい藤沢。


高上こうじょう高校。


壱大いちだい藤沢。


豊麗ほうれい二高。


 そして最後に……あの伊東と同じ、横浜学院。


 当時、伊東が横浜学院に行くなんて知りもしなかったから、もし俺が横浜学院を選んでいたら……その時は伊東とチームメイト、か……。俺をあれほどまでに憎んでいる奴をバックに投げるなんて、どう考えても上手く行きそうにないけどね。

 また、あくまで俺はカベとセットだと思われていたらしく、カベも同じ高校から勧誘が来ていた。

 カベも、俺を一人にしてはおけないと、同じ高校を選ぶと言ってくれたのだが……

 俺は全てから逃げた。

 はっきり言って、日本の高校野球の体質が大嫌いだ。

 俺を勧誘してきた高校の野球部に行けば、否応無しに寮に入り、練習漬けの毎日を送り、先輩達の雑用をこなして泥の様になった身体で布団に潜り込む日々を送る事になるだろう……そんな日常が我慢できなかった。俺には、野球よりも大事なものがある。それは、自分の時間だ。あるいは、自分自身と言い換えてもいい。それを犠牲にするほど野球が好きだと言える自信が無かったんだ。

 俺がそういう高校に進学しない事を聞いたカベは、どう思ったろうか。恐らくは落胆したろう。

 


 そう、俺はあいつを裏切った。


 俺と共にその力を示し、甲子園に行って、各種スカウトから高い評価……もっとはっきり言えば、高額の契約金……をもらい受け、あわよくば、さらに上を目指す……。こんな事、本人が聞いたら間違いなく怒るだろうが……あいつの家は母子家庭で、お袋さんは夜の仕事に行っているそうだ。だから、経済的に恵まれているとは言いがたい。有名校に推薦で入れば、授業料その他だってきっと優遇されるに違いない。更に野球に打ち込めるといい事づくめだ。

 その全ての機会を、俺はカベから奪った。カベだけでも「そっち側の」高校へ進学してくれれば良かったのに……あいつは、俺が高校を選ぶ前から、「何があっても聖と同じ高校へ行く」と俺に宣言していた。五塚を受験すると言ったときも、奴は何も言わずに……只何回も五塚に行く事だけの念を押し、そして願書を一緒に出しに行った。……俺に有名校を勧めるまでもなく、俺を咎める訳でもなく、カベは俺の側に居てくれた。

 野球を再開した今、その恩を返さなければいけない。それが、今俺が野球をやる理由の半分を占めている。でも、これは義務とは違う。俺の使命なんだ。一度はカベを裏切った

俺の大切な、ね。


「大丈夫だよ、カベ。俺はもう、あの時とは違うんだ。信じろ」

 あの時……それがいつを指すのか、あいつには瞬時に気付いたに違いない。

「……」

 カベは、今日何度目か分からないが、俺の瞳をじっと見つめた。俺の本気具合を確かめているんだろう。俺も負けずに、真剣である事をどうしても分かってもらいたくて、カベの瞳を見つめ返す。

「………………分かった。お前はこういうことで嘘や冗談が言える人間じゃないからな」

「……ありがとう」

 カベは一回頷くと、キャッチャーミットを持って、グラウンドのホームベースではなく、ブルペンの方に歩いてゆく。何故グラウンドを使わないんだろう……おそらく、俺達二人でマウンド付近を荒らしたくないからなんだろうが。

 俺も続いて、ブルペンのマウンドに立つ。五塚のマウンドは、ブルペン側もグラウンド側もほぼ同じ作りだから、違和感は生じない。

 「いいか、俺の指示通りの球種とコースで、100パーセントのボールを放れ。絶対にボールを置きにいこうなんて考えるなよ。こっちはボールを受ければ分かるんだからな」

「分かってるよ」

 コントロールをつける練習をしているんだから、ストライクを取る事を重視した棒球など投げても意味は無い。普通の指導者だったら、いつストライクが取れるか分からない速球を磨くよりも、多少球威を落としても、ゲームメイクの出来る投球術を学ばせるだろう。だが、欲張りな俺達には、針の穴を通すコントロールと、バットをへし折る速球の両方を得ようとしている。本当に、贅沢な話だ。

 俺はいつものように、ワインドアップからマサカリのモーションを起こす。雲ひとつ無い青空に、俺の脚が高く舞う!!

 そして、カベのミットへ最高の速球を投げ込む!!つもりだった。ボールは、カベが構えた、右バッターの内角高めから、全く逆、対角線上の外角低めへと走ったのが、フォロースルーの直後に見えた。

 右足を着地した後に、いつも胸をすくような、キャッチャーミットへの着弾音はしなかった。代わりにカベの要求から外れたボールはというと……カベを通り過ぎ、転々とグラウンドの隅の方へ転がって行った。

「お、おい、カベ?」

 無論、カベ程の名捕手が取れない球ではない。捕球する瞬間に、カベの目にゴミでも入ったのかと思った。しかし……次のカベの台詞を聞いた瞬間、早くもさっきの自分の決意が甘かった事を思い知る羽目となった。

「取りに行け」

「!!今……何て?」

「いいから取りに行け」

 カベはボールの転がっている筈の背後を振り返りもせず、親指でそっちを示した。

 ひょっとしてこれは……

 最早頭の中はぐちゃぐちゃになっているが、そのまま突っ立っていても仕方が無いから、小走りにボールを追いかける。俺の球威なだけに、迷子のボールはブルペンのホームベースから100メートルも転がっていった。

 ようやくグラウンドの境界線を示すネットの辺りでボールに追いつき、再びブルペンへと引き返す。カベはというと、

「駆けて来~い」

 ……って、また100メートルダッシュかよ!!

 マウンドにたどり着いた頃には、流石に俺の呼吸も上がっていた。

「ほれ、早う投げろ」

 せかすカベに、

「無理……言うなよ、はぁはぁ……今、走ってきたばかりなのに……はぁはぁ」

「そんなことでどーする。お前には時間が無いんだぞ、あと一年弱しかな」

 あと一年……口で言うよりよっぽど経過するのが早いのは分かるが……文句を言いたい気持ちをぐっと堪えて……再びマサカリのモーションを起こす。

「があっ!!」

 身体に力が入らないうちに投げたせいか、口から言葉にならない声が出た。

 で、そのボールはカベの要求したコースに近い、わずかにミットを動かすだけで捕球出来る所に行ったのだが……

「あっ!?」

 カベはそれをも捕らなかった。

空しく転がるボールは、さっきの録画を見ているように、無人のグラウンドに向かって転がってゆく。

(そ、そんな……ボール二個分外れただけで捕らないって言うのか?)

 カベの荒療治の正体。それは、さっき俺が感づいたように、カベの指定したコースに正確に投げ込まないと、いつまでもボールを捕ってもらえず、俺が転がったボールを追いかけなければならない事になる訳だ。

「カベ……お前の意図は分かった。……で、何球指示通りに放れば、今日のノルマは終わるんだ?」

「俺がいい、というまでだ」

 奴は即答しやがった。

「と、言いたいところだが……今日は最初だから、50球にサービスしといてやろうか」

 ご、50球……

「分かったらさっさとボールを拾って来い。日の暮れないうちに終わらせたいだろう?」

 あまりの過酷さの予感にクラクラと眩暈を感じつつ、俺はボールを追いかけた……




 どしん。

 要求通りのコースにボールが行った。

 これでようやく50球目。今日のノルマ達成だ。

 ミットを叩く音が随分と弱まっているのが、自分にもはっきりと分かる。ボールを受けているカベにしてみれば、ミットをはめた手が腫れ上がる心配が無くて結構な事だろうが。

 それもその筈、カベが言った通り、ノルマを達成する頃には、日はすっかり西に傾き、辺りは綺麗な夕焼け小焼け。結局、トータルでは何百球投げたか分からない。間違いなく、今までの俺の投げ込み最多記録を更新した事だろう。


「よし、お疲れ」

 カベはミットを外しながら、涼しい顔でこちらへ歩いてくる。当たり前だ、カベは一歩も動いていないのだから。汗をかく要素といえば、炎天下に座りっぱなしであった事だけだ。……キャッチャーの仕事がそんなに単純ではないのは分かっている。ただ、今は頭を付くのは愚痴ばかりだ。俺のための練習などという事は百も承知なんだが。

「いきなり……初日からハードなんじゃないか?」

「そう思ったから50球にしたんだぞ?これで、今まで自分がいかに無駄球を投げていたか分かるだろう」

「そりゃそうだが……」

 おおよそ3時間投げっぱなしの俺は、既に無駄口を叩く余裕もなかった。水分もロクに摂っていないし、正直、これ以上投げ続けていたらブッ倒れるところだった。

 「そうだ、今日も蒼空亭でお好み焼きしてくか?」

 「いや……今日はもうそんな気力もない……」

 俺はその場に屈み込んだ。これから家に帰る30分の道のりを考えるだけでも億劫だ。

「そうか。じゃ、明日もまたやるからな」

「あ、明日も?」

「そうだ。何か文句でもあるか?」

「いや……」

「明日は、始業式の後に飯を食って、それから60球だぞ」

「ろ、60!?」

「ああ。最終的には120は行きたいな」

 冗談じゃない。今日は50球でこの始末なのに、60球なんて……明日になれば目に見えてコントロールが良くなっていればいいが、そんなおめでたい事はまず有り得ない。

「……カベの顔がだんだん鬼に見えてきたよ」

「教える側がそう見られれば、教官としては本望だな」

「そうかい……」

 柳に風、とはこの事か。俺の為とはいえ、ハードだ……



 鉛のように重くなった足を引きずり、通常の三倍……はオーバーだが、軽く5割り増しの時間を掛けて、自宅の玄関にたどり着く。

「ただいま」

ドアを開けて一声掛けるとすぐさま、いつもの様に真理がぱたぱたという楽しげなスリッパの音と共に、ふりふりの「若奥様御用達エプロン」姿で出迎えてくれた。

「お帰り、お兄ちゃん」

「ただ……今……どぉっこらせぇいぃ!!」

 靴を放り投げて、非常に親父臭い声を出しながら上がり框に身を投げ出す。

「疲れたんでしょ?お兄ちゃん。ずっと練習してたんだから」

 仰向けになったまま、視線を天井から真理に移す……そしてすぐに目を逸らす。何故って、真理の白い太股が視界に飛び込んできたからだ。真理の奴、スカート短すぎなんだよな、大体が。暑いから仕方がないのもあるんだろうが。

「どうしてそれを知ってる?」

 俺は伝言を残す事もなく家を出た筈だ。……筈だ、って……今の思考力では、ほんの数時間前ですら曖昧だ。

「私が帰ってきたら、真壁さんから留守番電話が入ってたの。今日、疲れて帰ってくる奴が一人居るから、ちゃんとケアしてやってくれ、……って」

 カベの奴め、そういう所の抜かりはないわけか。俺にはあくまで鞭を振るい、飴には姉妹達……。あいつ自身が飴を振舞う事は、未だかつてない。

「あいつ……らしいか」

「何か言った?」

「いや、なんでもない」

「ふーん……すぐにご飯にするけど、先にお風呂入っちゃった方がいいんじゃない?顔、真っ黒だよ」

「ああ……そうするかな」

 何とか立ち上がろうとするが……身体に力が入らない。それもその筈、今日は仮に300球を投げ込んだとすると、外れが250球。その殆どがグラウンドの隅の方まで転がっていったから、それを拾いに行くのに往復200メートル。200×250で……ご、50キロ!?

 お、俺は野球選手で合ってるんだよな?長距離の選手じゃないよな?

 間抜けな自問自答をしている俺に、真理はてを差し伸べた。

「早くお風呂に入ってきてー。汗かいたままじゃ風邪引いちゃうよ?」

「お……おう」

 柔らかい手を握り、起こしてもらう。率直に言って、真理の力では俺を引き起こすには足りなかったが、真理の引き上げる力そのものよりも、手が触れ合った事によって、その手から流れ込んでくるエネルギー、みたいなものの方が大きかった。……まぁ、こんな事を考えている自体、俺は疲れに疲れきっているという事だろう。

 ようやく起き上がって、真理の後について廊下を歩く。自然に、視線が真理のふくらはぎの辺りに行った。

 出会った当初は、随分と細っこい子だなと思っていたが、それでも最近は、ちょっとどぎまぎするくらいに肉が付いてきた。無論、付いていいお肉の類だが。

 真理も成長しているんだ。俺も成長しなくていい訳がない。特に俺は、中学の3年から肉体的には殆ど成長していない……悲しい事に。早い話が、背が全く伸びていない、ってこった。

 だけに、自分の中身をもっともっと成長させたい。カベがいつか、俺に何も言わずに送り出してくれるように。


 それには、今はカベの言う事をちゃんと聞いて、それを理解して、進んで行くしかないと思う。カベは、俺よりずっと大人だ。あいつは過去の事を全くと言っていいほど喋らないが、その言動の深みから、相当な人生経験を積んでいるに違いない。そんな人間の言っている事が、奴より人生経験の浅い俺の為にならない筈がない。


 見ててくれよな、カベ。

 俺はやるぜ。


 ……にしても、もうちょっと手加減してくれませんかね?




 こうして、俺の人生にとって、再出発を果たした夏は、慌しく過ぎていった。


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