第02-01話
(うーむ……暑い……)
俺は暑さで目を覚ました。ふと時計に目をやると、既に11時を回っている。暑いのも尤もだ。
(うへ……汗でべとべとだぜ。)
パジャマ代わりのTシャツがぐっしょりと濡れていた。寝汗をたっぷりと掻いたらしい。取り合えずシャツを脱ぎ、一階の洗濯機の中に放り込もうと階段を降りて行く。すると、
「おはよ、お兄ちゃん」
と、真理が後ろから声を掛けて来た。俺が上半身裸なのを見ると、ぽっと頬を染める。今時の子にしちゃあスレてない。
「どう?肩と肘は」
「ん、平気だ。全試合一人で投げ抜いたとは思えない位…一試合完投したのと同じ程度の張りだからな」
「そ、良かった」
俺の腕の調子を心配してくれるあたり、「理想の妹」を地で行っている。
そんな真理は何が楽しいのか、後ろ手に組んでニコニコしていた。
「何か……楽しい事でも有ったのか?」
「だって今日のお兄ちゃん、とっても良い顔してるんだもん!!」
真理はそれだけ言うと、呆気に取られている俺を後目にダイニングへと去って行った。
(俺が……良い顔???)
ハンサムになったって意味じゃないのは分かりきってるけど、良い顔っていうのは……。じゃ今までの俺は悪い顔だったのか、という疑問もある。後で真理に聞いてみるか……。
ぼいっ、と洗濯機に重くなったTシャツを放り込む。大アクビを一つかましてから、たまには顔でも洗おうと思い立ち洗面所に立った。据え付けの鏡には、美奈津いわく「結構イケる」顔が映っている。
(良い顔、ねぇ……。)
じーっと見つめても、真理の言葉の真意は分からない。
「何陶酔してんの、自分の顔にさ」
不意に背後から声を掛けられた。
ふっと我に帰ると、鏡の俺の後ろに制服姿の美奈津が映っていた。いつの間に忍び寄ったのだろう。
「陶酔する様な顔に見えたら、お前はよっぽどの物好きだな」
俺はあえて後ろを振り返らずに答える。
「違いないや」
コイツは……。
「まあいいや。それより朝御飯とっといてあるから、食べちゃってよ」
「ん?由紀姉は?」
「姉貴なら学校だよ。調べもんがあるって、朝早く出て行った」
「ん、そうか……」
「あたしもこれから部活だから、よろしくね」
「よろしくって……何をだよ」
「真理に決ってるでしょ!!じゃね!!」
美奈津は俺の反応を待たずに洗面所を飛び出していった。
あいつめ、何故俺が真理を……まあいいか。
ダイニングへ行くと、テーブルの上にラップを掛けられた朝飯があった。そして、俺がいつも座っている席の向いに、真理がやはりニコニコしながら座っていた。
「俺の「良い顔」を見るのって、そんなに楽しいのか?」
「もっちろん」
「ふーん……一つ聞くけど、昨日迄の俺はそんなに「良くない顔」をしてたか?」
椅子に腰掛けてから聞くと、真理はちょっと小首を傾げてから、
「良くないって言うか……何か、余裕の無い恐い顔してた」
と答えた。
「余裕の無い……」
俺は思わず、その言葉を口に出して繰り返してしまう。と言うのも、思い当たる節が有るからなのだが。
(確かに……一試合一試合が勝負だったからとか、頭の中で一日中ピッチングの組み立て考えてたりとか……余裕は無かったかも知れん。)
人の考えは顔に出る。そういう意味では、俺も勝負師としてはまだまだって事か……。
納得すると、急に腹が減って来、食欲が沸いて来た。朝飯のメニューは……白い御飯、豆腐に刻みネギの味噌汁、焼き鮭、目玉焼きにホウレン草のおひたし。由紀姉の好みもあってか、和風だ。
手早くいただいて、緑茶をすすりながらスポーツ新聞を広げる……自分でもややオヤジ臭いとは思うが、どーせ俺は「若さ」から逸脱した存在だ。気にしないでおこう。
さて、二・三面はというと、プロ野球に大した話題がなかったせいも有るのか……。
「150キロ腕・加藤(神奈川・五塚)、無念の敗退!!」
と、俺の力投写真と共にでかでかと載っていた。俺の事はいい。それよりカベだ。アイツの事は記事になってるか?
くまなく紙面に目を凝らすが……。
九回裏、五塚・真壁が特大本塁打を放つが、反撃もここまで。……
試合経過を伝える記事の中に、その名を確認できるのみ。スカウトのコメントも載っていない。今までの働きが地味過ぎた為か、この一発もマグレ当りとしてしか認知してもらえない様だ。
(まだまだか……)
カベが俺の為に弱小の五塚を選んだ事は間違い無い。中学の時、しつこい位に俺の志望校の確認をしてたからな。それに公立高で野球をやるにしても、五塚を選ぶ必要性が考えられないからだ。何故なら、カベは勉強の方も相当出来る。県下に一つや二つ位、野球の盛んな高校は有るもんだ。そういう所は大体偏差値が高いが、奴なら余裕でパス出来る程度だ。
俺の能力を最大限に発揮させてくれる恋女房にして、強力無比な天才長距離ヒッター。そんな人間を、俺のサポートに回るだけで終らさせる訳には行かないんだ。
(きっと俺が、カベの名を全国区に知らしめたる!!)
俺は拳をぐっと握り絞めた。
「どうしたの?お兄ちゃん。難しい顔しちゃって」
真理の声で我に帰る。
「難しい顔?」
「うん。言い替えれば、昨日までの余裕の無い恐い顔」
そうか……きっと、こういう事を考えるとダメなんだな。何事も、少しの余裕がなくちゃいけない。それは、伊東を見て俺も分かっている筈だったのに……。大丈夫、俺がいつものピッチングをすれば、アイツは必ずクローズアップされる。リードとか、キャッチングとか……。そういうのって、見てる人は見ているもんなんだから。
俺は再び拳を握り絞めた。
「お兄ちゃん、ってば!!」
再び真理の声で我に帰る。
「あ、ああ、そうだな、恐い顔してていい事はないからな。気を付けるよ」
「よろしい」
真理は大仰にうなずいてみせた。
「ところでさ、お兄ちゃん」
ずずいっ、と俺の方に身を乗り出して来る。
「明日、お姉ちゃん達二人とも家にいないんだって」
「ああ、聞いたよ。美夏が合宿で、由紀姉が友達の家に泊りに行くんだろ?」
「うん、それでね……」
言葉を切ると、途端にもじもじし始めた。
「何だよ?」 「うん、あのね、えーと……どこかへ遊びに連れて行って欲しいなーって……」
別にもじもじしながら言う事じゃねえが、真理にとってはそうではないらしい。
「……いいぜ、別に」
「ほんと!?やったあ!!」
そのはしゃぎ方があまりにも嬉しそうだった為、俺は思わず苦笑してしまう。
「で、どっか行きたい場所のリクエストは有るのかよ」
「うん……動物園、行きたいな。ダメ?」
「動物園か……そういえば、俺も久しく行った事がないな。じゃ、折角だから上野まで行くか?」
「うんっ!!決まりね。ああ、楽しみっ!!」
真理は相変わらずニコニコしながら、食器を洗いにかかった。
考えてみれば、真理と遊びに行くなんて久しぶりの様な気がするな……俺達が初めて出会ってから一週間位経った、あの桜の時期から数えてみても……。