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とわの祝福

作者:

 城のバルコニーと城壁に建つ尖塔の屋根をつなぐ縄の上を、少女が走っていた。

 夜空に浮かぶのは三日月と満天の星だけ。

 普通の人間がやれば、昼間の明るい時間でも難しいことである。それを夜の闇の中で危なげなく、軽やかに走る。

 バルコニーが近付けば飛び上がり、バルコニーの中に音もたてず、まるで羽毛のように軽く着地した。

 バルコニーと室内をつなぐ、一面の大きな窓。

 それに近づき、優しくノックする。

 コツコツと微かな音しか発しなかったのに、カーテンが勢いよく揺れて開かれた。しかし、これだけ大きな窓だ。カーテンも大きく、そして重いのだろう。人ひとり分の幅だけしか開かなかったが、それで十分。

 中にいた人間と窓ガラス越しに会う。

 少女だ。

 造りの小さな整った顔立ち。鮮やかな紫色の目は宝石のようで、磨き上げられた肌はキメが細かく、なめらかに見える。豊かで艶のある黒髪が背中に流れていた。

 対する侵入者の少女は怪しかった。

 まず格好だ。全身黒一色でまとめられた簡素な服だったが、袖口だけが広くなっている。

 うなじから流れる一本のみつあみ。日に焼けた肌。整った顔立ちとは言えない。だが、大きな琥珀色の目から溢れる、力強い生命力が彼女を魅力的に見せていた。

 部屋の中の少女が慌ただしく窓の鍵をはずして開ける。

 開いたと同時に飛び出し、バルコニーに立つ少女に抱きついた。

「会いたかった!」

「あたしも」

 自分の首に抱きつく少女の背中に腕をまわし、ぎゅうっと抱きしめる。

 お互いが相手の存在を感じ満足したところで、体を離すと二人は目を合わせた。

 紫の目を持つ少女は目をキラキラさせて、きれいに、晴れやかに、笑った。

 そして、言う。

「さ、駆け落ちしましょ」

 突然の言葉。

 黒ずくめの少女は苦笑を浮かべた。

「誰とするつもりか聞いていい? 更紗さらさ

「もちろん十郎じゅうろうよ。決まっているでしょ、兎和とわ?」

 そして二人はもう一度笑った。


 *****


 この白羅はくらの国では、四年前に国王が崩御した際に王位継承の争いがあった。

 もともと第二妃の子供であった、当時六歳の王子が玉座に就くことになっていたのだが、死んだと思われていた正妃の子供が現れたのだ。当時十三歳の少女である。

 突然現れた王女は、十年前に自分の母親が第二妃によって暗殺されたことを国中に発表。自分も殺されそうだったところを、当時のお庭番に助けられたことを語った。

 もちろん第二妃はでっちあげだと主張。王女も偽者だと断言していた。

 だが、当時の王妃の主治医が残した手記が残っていた。

 そこには第二妃に命令され、体の弱かった正妃に少しずつ毒を飲ませたことが書かれてあった。

 それすらも自分をはめる策略だと主張した第二妃だが、暗く深い悔恨の念がこもる字は、間違いなく主治医のものだと判断された。正妃の暗殺から日を置かず、主治医も死んでいる。でっちあげる時間などない。

 色々と揉めたが、結局王位を継いだのは正妃の子供である王女だった。

 それが紫の目を持つ少女――更紗である。


 *****


 部屋の中は豪華な天蓋付の寝台があり、その傍らには水差しが置かれた卓がある。

 広い部屋の割には、置いてあるものは少ない。

 ただその中で、一際目の引くものがあった。

 更紗はそれに近づくと、体に合わせた。

 真っ白なウェディングドレスである。

 首と胴体部は体の線に合うように作られ、スカート部分はボリュームこそ抑えてあるが、後ろに長く布地が流れてなめらかな線を描いている。

「どう? きれいでしょう」

 体に合わせたまま、くるりと回転する。

 黒い髪とドレスの裾がふわりと舞った。

「きれいだけど、寝室に置いてあるとは思わなかった」

 正直に兎和は答える。

 更紗は楽しそうに、幸せそうに笑う。

「ふふ。置いてもらったの。どうせなら、これ着たいなって思って」

「……なんだって?」

 とんでもなく苦い顔になる兎和。

 更紗は兎和の表情に気付かないのか、うっとりした目でドレスを見下ろしていた。

「だって、せっかく十郎に会うのよ。十郎のお嫁さんにしてもらうために、城を出て、駆け落ちするんだから。ウェディングドレス着ていきたいの」

「ダメ」

「えーっ」

 更紗の顔が上がった。不満を湛えている。

「ちゃんと動きやすいように、シンプルなデザインにしたわよ。みんな、もっと派手にしたほうがいいって言ってたんだから。もっとスカートにボリュームつけろとか色々うるさかったんだから!」

「あのね、あまりにも目立ちすぎるでしょ! 駆け落ち前に捕まっちゃうよ。それでもいいの?」

「いくない。……分かったわよ」

 更紗はウエディングドレスを、ベッドの上に投げ出した。

 更紗だって、ダメで元々のつもりで言っていたのだ。

 肝心なことは、十郎に会うことである。その前に捕まるなんて更紗だってごめんだ。

 兎和はやれやれと言うように首を振り、ため息一つ吐き出す。そして、更紗の全身を上から下まで見て言った。

「動きやすい服なんて……持ってないか」

「そうね。女王様って無駄に動きづらい服ばっかりだし。それに、ここに服も置いてないし」

 ちなみに今、更紗が着ているのは寝巻きである。薄く、手触りのいい生地で作ったワンピースタイプのものだ。あえて言うなら、これが一番動きやすい服である。

「じゃあ……これに着替えて」

 兎和が背負っていたものを下ろした。

 大きな風呂敷である。それに包まれていたのは、兎和が着ていたものと似ている黒装束。

「懐かし~!」

 更紗は楽しそうに言うと、ためらいもなく寝巻きを脱ぎ捨てる。

 下着一枚で、今まで来ていた寝巻きとはまるで違う手触りの黒装束を抱きしめた。

 そして、いそいそと着替え始める。

 その間に、兎和はベッドに近づいた。

 豪華な刺繍の入ったカバーが掛けられたベッド。

 こんなにも豪華なベッドを見ることができるのは、一生に一度の経験だろう。

「うりゃ」

 掛け声ひとつ。さっき更紗が放り出したドレスの横めがけて、兎和はベッドにダイブした。

 軽く弾む。ふかふかな感触。今まで味わったこともない。

「豪華~。こんなの初めて~」

 頬ずりすると、ふと何か思ったのか体を反転して腹ばいになる。ぐるぐると横向きに方向転換をしていき、着替え途中の更紗の方へ頭を向けると、肘をついて、両手で頬を挟むように顔を支えた。

「この四年間、ずっとこれの上で寝てたんでしょ? ここから外に出ると、もう二度とこんなふかふかベッドで寝られないよ。それでも行くの?」

「行くよ」

 更紗はなんでもないことのように答える。それが当たり前だと言うように。

「好きでもない男と政略結婚するなんて、絶対いやだし。十郎がいるなら、あたしはなんにでも耐えられる。ここで生活して、なおさらそう思ったわ」

 更紗は黒装束を着終わる。帯の位置から巻き方から、全部が完璧だった。

 この装束は少々変わった着方をするため、知らない人間が着ようとしても説明されない限り出来ない。

 更紗の素性も知らず、村でただの幼馴染として一緒に過ごした四年前までの日々。それを完璧に忘れたわけじゃないと知り、兎和は顔を緩めた。

 勢いよく身を起こすと、ベッドから降りる。黒装束を包んでいた風呂敷を胸元に入れた。

 ふと更紗が聞いた。

「どうやって来たの?」

「そこのバルコニーと尖塔の屋根をつないで走ってきた」

 更紗はバルコニーを見て、兎和に顔を戻した。

「言っておくけど、いくらなんでも縄の上を走ることは出来ないから」

「分かってる。ちゃんと城内も調べてある。もちろん退路もね」

「だったら、最初からその通路で来なさいよ。あんなとこ走って危ないでしょ、とはあんたには言わないけど、見つかったら危ないじゃない」

 もっともな更紗の言葉だったが、兎和はにやりと笑って返す。

「お城に忍び込むんだったら、ああいう派手な演出は必要でしょ。誰も見ていないとしてもね。さ、そんなことよりさっさと行きましょ。お姫様」

「……やめてよ、そんな呼び方」

 拗ねる更紗に、兎和は「ごめんごめん」と笑って謝った。


 *****


 白羅の王城を囲む城壁。大きな正門には王家の紋章が刻まれている。正門とつながる城壁の上から、垂らされた縄を使って二つの影が降りてきた。

 地面に着地すると、縄を回収して、闇にまぎれるように走り出す。

 王城前は広場のようになっており、そこから四方に道が伸びている。その中でも正門からまっすぐ伸びる大通りを影は走っていった。

 明日になれば女王の結婚を祝うパレードが行われるところである。

 そのために飾り付けされた街路樹に隠れるように、それを見ている影がまた二つ。

「思ったとおりだ」

 影の一つが呟いた。

 男の声である。

「どうする?」

 もう一つの影が答える。その声もまた男のものだった。

「どうするって、そりゃあ……なあ?」

「決まってる、か」

 男の影二つ。

 走り去った少女二人の後を追った。


 *****


 更紗と兎和は幼馴染である。

 三歳のころに吾妻あずまという名のお庭番によって助け出された更紗は、兎和の住む村で保護された。

 その村に先代のお庭番であり吾妻の師匠でもあったおぼろが住んでいたのだ。

 先代に更紗を預けた吾妻は、違う村で親無しの子供を王女の身代わりとして連れて逃げ始めた。そして、第二妃によって放たれた刺客に吾妻も子供も殺された。

 そんなことも知らず、更紗は十三歳まで村で平和に暮らしていた。朧に護身術と言う名の戦闘術を教えられながら。

 兎和とは同い年ということもあり、また兎和がもともと朧に懐いて、よく家に遊びに行っていたために、二人は出会い、自然と仲良くなっていた。

 そして、更紗と兎和が十三歳になったころ、城から迎えがやってきた。

 唯一、吾妻から事情を聞いていた男がいたのだ。吾妻の親友だった男。吾妻が更紗を連れて逃げたころは部隊長だった男も、ついには近衛隊長に昇進していた。

 立場が立場である。表立って動くわけにはいかず、男は息子を迎えにやった。

 名前はすばる。当時十六歳。

 自分の出生を知らなかった更紗である。驚きは酷かったが、親代わりの朧にも勧められ、更紗は王都へ行くことにした。

 朧から戦闘技術を教え込まれていた兎和もまた、護衛として、更紗の支えとして、共に行ったのだった。


 王都への道は長かった。


 途中、どこから嗅ぎつけたのか、第二妃からの刺客に襲われるようになった。

 だが、そんな中で仲間も増えていった。

 蛍に嵩佐紀かささき詩華しいかつづみ。そして、十郎。

 十郎は大きな少年だった。歳は更紗たちの四つ上なのに、大人ほどに大きかった。腕も脚もとても太い。力持ちで、更紗や兎和を同時に楽々持ち上げていた。

 仲間思いの少年だった。とてもいい人だった。それなのに、更紗たちと会うまで彼は孤独の中で生きていた。

 彼の顔が、とても醜かった。

 象にでも踏まれたかと思うほど、顔が崩れていた。鼻は潰れ、唇もなく、まぶたは晴れあがり両目は隠されているようだ。そして、顔全体に大きな痣があった。頭髪もなく、頭蓋骨も変形しているのか、丸見えの皮膚はぼこぼこしていた。

 その醜さゆえか、十郎は親に捨てられていた。

 森に捨てられた十郎は森に住む浮浪者によって育てられた。

 その浮浪者も死に、一人森で暮らす彼に初めて出会ったときは、さすがに兎和たちも驚いたが、彼は刺客を倒し、兎和たちを助けてくれたのだ。それがきっかけで仲間になり、そして。

 いつの間にか更紗と十郎は恋に落ちた。

 王都に着いて更紗が玉座に就いたため、十郎とは離れなければいけなかったのだが。


 *****


「わたしとしては、ただ殺されたお母さんのために、第二妃のことを告発できれば良かっただけなのに、まさか玉座に就かされるとは思わなかったんだよね」

 街を抜けた更紗と兎和は、野原に伸びる道を歩いていた。

 更紗が四年前のことを思い出して言った。

 先を歩く兎和も、そのときのことを思い出したのか、ちょっとムッとする。

「あたしも驚いた。更紗が本当に即位するなんてね」

「でしょ。十郎とあんたと一緒に村に帰ろうと思ってたのに……」

「でも、それを選んだのは更紗だ」

「うん。暗殺を企てた第二妃の息子を即位させることは出来ないって泣きつかれて、それしか道はないような気がしちゃったんだよ。でもね、それで、何かが変わるなんて思ってなかった。……そりゃあ、まあ、ちょっとは変わるとは思ったけど、ここまで酷くなるなんて思わなかった。十郎とも兎和とも、誰とも連絡取ることを許されないなんてね。ずっと手紙出してたのに、燃やされてたなんて知らなかったのよ」

「……あたしも手紙出した。城に会いにも行った。十郎も一緒にね」

「十郎も!」

 その顔のため、十郎は街の中に入ることを極端に嫌がっていたのだ。

 それなのに城まで会いに来てくれたことに、更紗は泣きそうになった。

「顔は隠していたけどね。……でも、会えなかった。会わせてくれなかった。……昴には会えたから、そのときに聞いた。もう会うのは難しいってね。仲間だって言っても、女王様と一般人なんだ。もう住む世界が違うって」

「相変わらずズバズバ言うね~」

「本当にね。でも、それが真実だった」

 更紗は答えられない。

 兎和は振り返ると、後ろ向きに歩き始めた。

 更紗と目が合う。

「『じゃあ、更紗は寂しがるだろうから、出来るだけ傍にいてあげてほしい』そのとき十郎が昴に向けて、そう言ってた」

 くしゃりと更紗の顔が歪む。

 目が潤み、ぽろぽろ涙を流し始めた。

 自分を気遣ってくれた十郎が愛しく、また申し訳ない気持ちだった。

 兎和はまた前を向いて歩き始める。

「『俺はただの兵士だ。親父が近衛隊長であっても、それは俺とは関係ない。だから、俺も常に更紗の傍にいられるわけじゃないんだ』なんて、昴の答えは本当に素っ気無かったけどね」

「でも、今じゃあ昴は国を守る十の兵団の隊長に、二番隊隊長になったの。隊長は王族との謁見も許されてるから、少しは顔を合わせられるようになったの」

 後ろから聞こえる震えた声に、兎和はにっこりと笑った。

「頑張ったんだね。本人の思いもあっただろうけど、十郎の言葉も守りたかったんだろうな」

 昴と十郎は歳が近いせいか仲がよかった。友人の思いを、少しでも叶えてやりたかったのだろう。

「……みんなと連絡取ってる?」

 更紗の声は少し落ち着いたようだった。

「離れてすぐのころは、まだ連絡取ってたけどね。だんだん、みんなとも会わなくなったし、連絡も取ってない。でも、嵩佐紀と鼓と詩華には結婚式で会ったかな」

 旅をしている頃から――いや、もっと前から詩華は、兄である嵩佐紀の親友である鼓が好きだった。それはもう見ていればバレバレな想いだったが、究極に鈍感な鼓はまったく気付いていなかった。

 あの頃は見ていてじれったいくらいだったが、その二人も旅が終わってしばらくしてからやっと付き合い始めたのだ。

「結婚式って、確か一年前くらいだったよね」

「そう。よく知ってるね」

「昴から聞いたの。昴は仕事で結婚式には行けなかったらしいけど、今度祝いの品を持って行く、って。ついでに、わたしからの祝い品も持って行ってもらったし」

「そうだったんだ。蛍はね、ほら根無しだから招待状が送れなかったって言ってたし」

 根無しとは、故郷を捨てた、もしくは持たない旅人のことである。

 旅の途中で知り合った蛍は、興味本位に一行についてきていたが、旅人特有の情報網には何度となく助けられていた。

「十郎は人前に出ることを嫌がったみたいで来なかったし」

「でも、人目のない夜にこっそり祝い品だけは渡しに行ったんだって」

「昴情報?」

「そう。昴が行った前の日に十郎が来たって、鼓が教えてくれたんだってよ」

「せっかくならドレス姿見れたら良かったのにね。詩華、最高にきれいだった。幸せそうだったよ。やっと鼓のお嫁さんになれたからね」

「詩華の念願が叶ったわけだ。うらやましい」

 目元をぬぐうと、更紗は前を歩く背中に近づいて、隣を歩いた。

 じっと隣を歩く兎和を見て、そして。

「……言わなかったし、聞かなかったけど、聞くわよ」

「なにを?」

 二人の目が合った。

「なんで城に来たの?」

 兎和は小さく吹きだした。喉の奥で笑っている。

「いまさら聞く?」

「聞くわよ。答えなさいよ」

 更紗の目は真剣そのものだった。

 この四年。手紙のやりとりも何もしていない。それなのに好きでもない男との結婚式前夜にいきなり現れた。

 ――祈りが通じたかのように。

 ふと、兎和の目も真剣な光を湛えた。

「その前に、聞いていい?」

「……いいわよ」

「あたしが来なくても城を出るつもりだった?」

「もちろん」

 なにを当たり前のことを言っているんだ、と呆れたように更紗は答えていた。

「それで十郎のところに行くつもりだった?」

「ええ。お嫁さんになるなら、相手は十郎が良かったんだもの」

「十郎が、もう更紗を好きじゃなくなっていても?」

「……」

「もう更紗が来ても、困るだけで、迷惑かけるだけだったとしても?」

「……」

「更紗たちが好きあっていたことは、あたしだってよく知ってる。でも、もう四年も経ったんだ。心変わりだって、気持ちが冷めることだってあるよ。それでも城を出る覚悟はあった?」

 そして、更紗は深々とため息をついたのだった。

 なにを言っているんだか、と呆れ返った顔。目の前の友人の発言が信じられない目だった。

「十郎とわたしは、絶対結ばれる。そういう運命なの。何度も言ったでしょ」

「あのね」

 そういうことを言いたいんじゃないと、兎和が言おうとする前に。

 更紗はニッと、誇らしげに笑ったのだ。

「それでも十郎がわたしをいらないというなら、傷心旅行でもしようと思ってたわよ。まあ、ありえないことだけど!」

 答えは得られた。

 十郎が受け入れても、受け入れなくても、城を出ることに変わりはない。それだけの覚悟はあったということだ。

「それで、もうわたしの質問には答えてもらえるのかしら?」

 兎和はごく普通の表情と声音で答えた。

「更紗が今回の結婚に納得してるかどうか聞きたかっただけ」

「それだけ?」

「それだけ。納得してるなら『おめでとう』って言って、明日のパレードで晴れ姿でも見ようと思ってた。違うなら」

 チラリと更紗の顔を見る。

 いたずらっぽく笑って。

「攫うつもりだった。十郎にも頼まれてたし」

「えっ!」

 更紗は思わず兎和の肩をつかむ。

 紫の目がまん丸になっていた。

「十郎に会ったの?」

「会ったよ。あんたの結婚が国中に知らされてから、十郎がうちに来たの。じっちゃまを紹介してほしいってね。城に忍び込む方法を教えてほしかったみたい。ほら、じっちゃまが前のお庭番だったことは十郎も知ってるわけだし」

 じっちゃま、とは朧のことである。先代のお庭番であり、更紗の保護者でもあった老人。兎和にとっても師匠にあたる人である。

「更紗が幸せなら身を引くけど、違うなら一緒に生きていきたいって言ってね」

 更紗は息をのんだ。口元に手をあてて、涙をこらえているようだった。

「でも、あの図体でしょ。四年前以上に成長してるし、見張りも厳しい城に忍び込むのは難しいから、あたしが代わりに行くってことになって。もともとあたしも忍び込むつもりで、じっちゃまから城内の様子を聞いてたから、ちょうどいいってことになってね。それで、忍び込んだってわけ。まさか、更紗も乗り気だったとは思ってなかったけど」

 最後の言葉に、更紗はにやり笑って試すように聞いた。目は潤んでいるが。

「本当にそう思ってた? わたしは乗り気じゃないだろうって?」

 ……見抜かれている。

 悔しくも楽しい気分で、兎和は首を振った。

「まさか。もう逃げた後じゃないかって、それが心配だった」

 更紗は楽しそうに声を上げて笑った。

「待ってみたかったの。十郎か、兎和が来てくれるんじゃないかと思って」

「じゃあ、行ってよかった」

「本当にね」

 そして、二人は顔を見合わせるとまた笑った。

 二人とも再会してからずっと楽しくて仕方なかった。


 野原の先には日天山ひあまやまがそびえている。

 王都と他の街の間にそびえる山であるため、王都へ出かける人も、王都から出て他の町に行く人も必ず通る。そのために山道は整備され、歩きやすいようになっている。

 だからといって、好んで夜の山道を歩く人間はいない。

 鳥の鳴き声、風に梢が揺れて鳴る音。昼間に聞こえたなら気にもしないような音も、夜に聞けば恐怖の対象でしかない。

 しかも、夜には盗賊も出没する。

 そんな中を、二人はカンテラの明かりを頼りに歩いていた。

 中腹まで進んだころ、目の前に明かりが見えてきた。

 誰かがいる。

 カンテラを持つ兎和の隣で、更紗が期待に息を呑む。

 明かりに近づいていく。

 同じくカンテラを持った人影が認識できて、兎和は自分たちの顔を照らすように、カンテラを掲げた。

 闇の中で、二人の少女の顔が浮かぶ。

「更紗!」

 低く太い男の声は歓喜と信じられない気持ち、驚きに満ちている。

 更紗は体を震わせた。

「十郎!」

 我慢できないように、更紗は飛び出すと十郎の首に抱きついた。

 しっかりと受け止めて、十郎も強く抱きしめた。

 しばらく二人は無言で強く抱き合っていた。会えなかった時間を埋めてしまうように。

「……感動の再会のところ申し訳ないけど」

 急に聞こえた声に、二人はやっと気付いたようだった。

 この場には兎和がいたことに。

「あたしのこと思い出してくれる?」

「悪い」

 半眼で自分たちを見る兎和に、十郎は気まずそうに言う。

 その腕はまだ更紗の肩を抱いたままで、更紗も十郎の胸の中で顔だけを兎和に向けるだけの状況。

 兎和にとっては、なんとも居心地が悪い。

「ありがとう、兎和。また、こうして更紗と会えるなんて思ってなかった」

 素直な十郎の言葉に、ふてくされていた兎和もちょっと機嫌を直した。

「どう? ひさしぶりに会った更紗は?」

 言われて、胸の中の少女を見下ろす。

 最後に会ったときは、まだ十三歳の幼さを残す顔立ちだったのに。

 目の前の少女は確かにあのころの面影を残している。だが、その中に確かに女性として羽化する気配を漂わせて……。

「とても、きれいになった」

「本当?」

 とても嬉しそうに、更紗は十郎の胸に頬を寄せた。

 幸せに満ちた、女の表情をしている。

「十郎も大きくなったね。また、たくましくなったみたい」

「……そうか?」

「そうよ」

 十郎もあのころと顔立ちは変わらないようだが、体は大きく成長していた。

 大人の男の頭一つ分は背が高い。身長が高い分、体格もよく、立派なたくましい体である。ごつい体だ。

 十郎は笑った。

 口の端が引き攣っている。晴れあがった目が、細められたかも分からない。

 笑ったかどうかも分からない表情の変化であるが、更紗がこの変化に気付かないわけがない。

 見つめあう二人。

 そんな二人だけの世界からはみ出している兎和。

「あのね!」

 少しだけ大きな声で言うと、また十郎はハッとした。

「悪い」

 また謝る。

 兎和はため息をついて、言った。

「もういいよ。さっさと二人だけの世界に行っちゃいなよ。更紗を無事に十郎に届けたし、更紗を無事に十郎と会わせられたし、あたしの目的は果たされた。ここで、あたしはさよならするわ」

 これには十郎が驚いた。

 また微妙な表情の変化だったが、その変化を兎和も気付いている。

「なんでだ?」

「なんでって、お邪魔虫になるつもりはさらさらないし」

 いたずらっぽく兎和は笑った。

「今から女王を攫ったのはあたしじゃなくて十郎ってことで……それでいいのよね?」

 女王を攫ったのだ。

 重罪であるのは間違いなく、犯人は死罪を免れない。

 攫ったのは兎和なのだが、その罪を十郎に押し付けようというのだ。

 兎和が更紗を攫うと約束したときから、罪は自分が被ると十郎は言っていた。

 まっすぐと兎和を見ると、十郎はうなずいた。

「ああ。すべて俺がやったことだ。この罪が暴かれるときがきても、俺がお前の名前を出すことはない。絶対に。誓う」

「そう。じゃあ、そういうことで。……早く行ったほうがいいよ。夜のうちに出来るだけ遠いところまで進んでおかないと」

「兎和!」

 更紗が十郎の胸から離れると、まっすぐと兎和を見つめる。

 十郎の隣に立つと、ごつい手を取ってつなぐ。

 つないだ手を兎和の前に掲げた。

「神に誓ってもいいけど、なによりあたしたちの門出を祝ってくれるあんたに誓う」

 厳かに、静かな声で。

「あたしたちは、十郎とあたし更紗はもう二度と離れることはない。二人で必ず幸せになると、兎和に誓う」

 更紗は誓いの言葉を告げた。

 更紗を見下ろすと、十郎も兎和を見つめた。

「俺も誓う。もう彼女を離すことはない。更紗とともに生きて、二人で幸せになる。死ぬときまでともにいると、兎和に誓う」

 深い声で、十郎も誓った。

 二人の誓いに兎和は少し驚いたが、ちょっと苦笑をした。

「十郎からなのか。更紗からなのか。どっちからか知らないけど、最初にお互いに告白したほうがよかったんじゃない?」

 よく考えなくても、再会してからの今までの短い時間の間に、二人の間にプロポーズの言葉は交わされていない。それに二人は今気付いたようで、顔を見合わせた。

「……ずっと一緒に生きていこう、更紗」

「もちろんよ、十郎」

 二人の顔が近づき、そっと誓いのキスを交わした。

 見届け人になった兎和が祝福を送るため拍手した。

 ポロポロと涙をこぼして泣いて、それでも最高に幸せそうな笑顔を見せて、更紗は言った。

「ウェディングドレスも着てないし、司祭に誓ったわけでもない。結婚誓約書に名前を書いたわけでもないけど……でも、最高の結婚式だわ!」

 十郎の手を引っ張って、兎和に近づく。

 そして、更紗は、十郎と兎和に抱きついた。

 十郎は兎和と更紗を抱きしめる。

 兎和は二人の背中を優しく叩いた。

 三人の体が離れる。

 兎和が優しく笑った。

「ほら。早く行かないと」

「……うん」

「行こう、更紗」

 二人は手をつなぎ、兎和に背中を向ける。

「振り向かなくていいから」

 先に言われた言葉に、十郎と更紗は振り返ろうとするのをこらえて前を見ていた。

 背中に言葉がかかる。

「更紗。十郎。幸せになってよ」

 祈るように告げられる。

 兎和の思いが深く沁みるような声、言葉。

「ありがとう、兎和」

 また十郎が礼を言う。いくら言っても言い足りなかった。どれだけ感謝してもしたりない。自分に出来ることがあったら、なんでもしてやりたいのに。

 自分は何も返せない。

 深い感謝と申し訳なさとが声ににじみ出ていた。

「十郎! あたしに申し訳なく思うことないからね。その分、ちゃんと更紗を幸せにしてあげてよ」

「分かった」

 更紗の手を握る力をこめる。更紗も強く手を握り返した。

 決して振り返らずに、涙声で、でも笑った声で言う。

 偉大な、大切な、かけがえない親友へ。

「あたし絶対に幸せになるから! 兎和も幸せになってよ!」

「当たり前でしょ。あんたらに負けるつもりないっての」

 兎和も笑って返すが、声は震えていた。

「さよなら。更紗、十郎」

「……さよなら」

「さようなら」

 そして、二人は歩き始めた。

 遠ざかる背中を見送っていた兎和だったが、目元をぬぐうと自分たちが歩いてきた道を振り返る。

 虫の鳴き声。風に梢が鳴る音。濃い夜の気配。

 ひっそりと静かな、でも満たされている別れの後なのに、無粋な気配が近づいてくるようで……。

 兎和は顔を引き締めた。


 *****


 予感はあった。

 いや、確信といってよかっただろう。

 政略結婚が決まったときから、いや、その前から彼女はいつか去るのだろうと。

 彼女が愛した男、彼女が信頼した友、彼女と強い絆を結んだ仲間。

 彼らと半ば強引に引き離されたときから、彼女は戻ることだけを決意していた。

 それは新たに彼女を取り囲んだ側近たちにも分かっていたことで――彼女があまりにも分かりやすく不満顔をしていたから――でも、それでも。新たな生活。環境。彼女が覚えるべきことは山ほどあって忙しくなる。そのうちにだんだんと慣れてしまい、もう不満を覚える暇もなく、忘れてしまうだろうと誰もが思っていた。

 その証拠に、彼女は王としての完璧な振る舞いができるようになっていた。微笑みは慈愛に満ちて、人々から愛される王になっていったのだから。

 だが、その微笑みを見るたびに、昴は苦い思いをするようになった。

 仲間たちに囲まれた彼女は明るく自由に笑う。

 陽だまりにあって輝くような笑顔を見てきたから、王らしい静かな微笑みがあまりに似合わないと分かってしまった。

 微笑むたびに、旅してきた彼女が、自分たちが知っていて、愛した彼女が死んでいくようだった。

 それをなにより恐れ、不安に思っていたのは、彼女自身だっただろう。

 いつだったか。二人きりになったときがあった。

 即位して三年が過ぎたころ。やっと隊長職に就けたときだった。

 懐かしそうに寂しそうに彼女は言った。

『王様って全部他人任せにしなくちゃいけないんだね。体を洗うのも、服を着るのも、全部人に手伝ってもらうの。このままだと、わたし、なんにも出来ない奴になっちゃいそう』

 遅かったかもしれないと思った。

 友人は言った。

 更紗が寂しがるだろうから、せめてお前だけでもそばにいてあげてほしい、と。

 やっと近くにいられる地位にはなったが、もうあのころの更紗は消えてしまったのかと。それを一番嘆いているのは彼女かと思った。

『王様生活に慣れたら、なにもかも他人にやってもらうのに慣れてしまったら、誰かに命令して、そのすべてが叶えられるなんてことに慣れたら』

 怯えた表情で言うのだ。

『わたし、十郎に嫌われちゃう。兎和に見捨てられる。詩華に軽蔑される。蛍に嘲笑されて、嵩佐紀に哀れまれて、鼓に怒られて。昴は……悲しむんだね』

 更紗の眼に闘志が灯る。

 負けてたまるか。失ってたまるか。

 彼女が愛したすべてを握り締めて。

『わたし、きっと最後には王であることを選べない』

 あのころの彼女はまだ死んでいない。

 お転婆な村娘は、彼女の根っこの部分でまだ生きている。

 そのことに予想以上に安堵した自分に、昴は苦笑したくなったのだ。

 国に、王に仕える兵ならば喜んではいけないことだ。王がただの村娘でいたいことを望んでいると知ったら、それを諫めて、王としての自覚をうながさなければいけない。

 だが、それも無駄だろう。彼女が強くそれを手放そうとしないのだから。

 国に忠誠を誓う兵として昴が言えるのは一つだけだ。

『では、それまでは立派な王として務めてくれ』

 彼女は楽しそうに笑った。あのころのように。

『……昴、甘くなったね。前だったら、王となる人間が何を言ってるんだって怒ってたよ』

 それ以降そんな話をすることはなかった。

 彼女は立派に王としての務めを果たしていた。

 そして、王族の傍系にあたる豪族の男との政略結婚が決まったとき思ったものだ。

 ああ、ここまでだ、と。

 ついに、そのときが来たと。

 だから結婚式前夜の城内の警備にあたっていた昴は、女王が部屋から消えたと聞いても焦りはしなかった。

 捜索命令が出されたときは、自分の隊の精鋭十五人を集めて馬を駆り、日天山に向かった。

 そして。

 山の中腹あたり。昴を先頭に走っていたが、すぐ後ろの二頭の馬がいきなり暴れ始めた。騎手はそれでも必死に手綱を使い、馬を落ち着かせようとしたがしばらく馬は暴れ続けると倒れてしまった。騎手も放りだされる。

 部下たちは突然の異変にさすがに動揺し、緊張を走らせる。

「なんだ、なにが起こった?」

「おい、大丈夫か」

「ああ、俺たちは大丈夫だ」

 倒れた一人が起き上がり、馬に近づく。

 馬は痙攣し、立ち上がれないようだった。

「敵か」

 同じく放り出された一人が警戒するように、剣の柄に手をかけたところで。

「ぐあっ!」

 放り出された一人の兵士が倒れた。

「おい!」

 同じく放り出された兵士が倒れた仲間に駆け寄ろうとして。

「うっ!」

 倒れた。

 いきなりである。敵の姿も見えない。それなのに仲間が倒れていく。

 男たちの動揺は酷くなる。

「落ち着け!」

 鋭く昴が叫んだ。

 それだけで兵士たちはハッとして動揺を押さえた。

 訓練の成果もあるが、昴が兵士たちに信頼されているからこそ、兵士も冷静になれるのだ。

 仲間を闇討ちした敵に対しての闘志を燃やし、その姿を見定めようと辺りを見回す。

 その中で昴が馬から下りた。

「隊長」

 兵士が驚く中で、昴は言った。

「俺たちは先を急いでいる。俺が相手になろう。出て来い」

 普通の敵相手では、こんな真似はしない。

 相手が分かっているからこそ、昴は馬から下りたのだ。

 兵士が動揺しているのと同じように、彼らを襲った敵も動揺したようだ。

 葉がこすれる音がして、それは姿を見せた。

 袖口が広く取られた黒一色の装束を身につけた小柄な人間。頭と顔は頭巾で覆われ、琥珀色の目だけが見える。

 やはり、と思った。

 出て来いと言われて、素直に出て来るなんて。

(相手が俺だと油断したか。相変わらずツメが甘いな、兎和)

 騎乗する部下たちには手を出さないように言い、昴は剣を抜いた。

「かかってこい」

 対する兎和は戸惑った。

 焦げ茶の髪に、鋭い黒の眼。鋭さを持った端正な顔立ち。均整のとれた、しなやかな引き締まった体。最後に会ったのは四年前。あれから成長しているが間違いない。

 昴だ。

 かっこよくなったなと思ったが、今はそれよりも。

 一体どういうつもりなのか。

 それが分からない。

 このまま兎和と戦ってみせて、更紗たちが逃げるための時間稼ぎをするのか。

 それとも本気で兎和を倒し、更紗たちを追いかけるのか。

 四年前から昴は国に強い忠誠を誓っていたから。国から逃げる女王を取り戻そうとしてもおかしくない。

 考えている間に、昴が間合いをつめてくる。

 無駄のない動作で振り下ろされた剣をなんとかかわすが、そのまま斜めに振り上げられた剣の切っ先が服をかすった。

(本気、ってことね!)

 後ろに下がり間合いをあけた兎和は、昴が間合いを詰める前につぶてを投げた。

 剣を使って、昴は礫をはじいた。

 接近戦は避けたい。

 兎和がそう思っていることは昴も気付いている。

 どんどん攻めて、逃げることを許さない。

 剣で押されて整えられた道からはずれる。

 木が茂る場所に足を踏み入れることになる。

「行けっ!」

 同じく道からはずれて、昴は鋭く叫んだ。

 彼らの行動はすばやかった。副隊長が「行くぞ」と声を上げて、馬が駆け出した。

(これが狙い!)

 兎和を自分に引き付け、仲間に更紗を追わせるつもりだったのだ。

「行かせない!」

 背中に木があたり、昴に追い詰められている状況。

 それでも兎和は左手を横に振った。

 左手を振った方向、高く生えた草が兎和の足元から遠くまで切れる。

 そして、また馬が暴れ始めた。

「まだ仕掛けがあったか」

 呟く昴に、袖口から太い針を4本、指の間に挟んで取り出すと同時に投げた。

 昴は距離をとってそれらをかわす。

 その隙に道まで出ると、暴れた馬に振り落とされた兵士に対してまた左腕を振る。

「ぐあっ」

 倒せたのは一人。

 倒れた馬も仲間も置いて、他の兵士は行ってしまった。

 それを追いかけようとする兎和の背中が危険を感じた。

 振り返って、突き出された剣をかわした。

 また距離を取る。

剣糸けんしか。それで仕掛けを切り、痺れ針を飛ばして馬を痺れさせ動きを止めた。最初は礫で、今は剣糸であいつらを倒した」

 剣を構えて、昴は兎和が仕掛けた行動をすべて言い当てる。

 剣糸とは武器の名前である。糸のように細く長く、剣のような鋭さを持つ。裾の広がる袖の中に仕込まれた、兎和がもっとも得意とする暗器である。

「嵩佐紀たちはいないようだな。お前一人で、二人を見送ったのか」

「なんだ。駆け落ちしたって分かってたんだ」

 倒れた兵士はすべて気絶させられている。

 だからこそ、対峙した二人は言葉をかわすことが出来た。

「こうなるだろうとは思っていたからな」

 昴が息を吐きながら言った。

 兎和の眉根が寄せられる。責めるようでもあった。

「それなのに追いかけてきたの?」

「それが俺の仕事だ」

「……あたし、このまま昴の仲間を追って倒したいんだけど、見逃してくれない?」

「そういうわけにはいかない」

「戦わないといけないの?」

「……お前が諦めればいい」

「本気で言ってる?」

 兎和の声に怒気がこもる。

 そんなことを言うなんて信じられないと、立ち上る気迫が告げている。

「厳重な警備がされた城から王を攫うなんてことは十郎には出来ないだろう。お前が、実行犯だな」

「……」

「分かっているか? それは、重罪だ」

「十郎が攫ったってことになってるけど?」

「そうか。あいつが、全部の罪をかぶると言ったか」

 表情は変わっていないようだが、それでも十郎らしいと……変わらない仲間を喜んでいるように見えた。だが、それも苦いものに変わる。

「だったら、お前はここにいるべきじゃなかった。俺たちの邪魔をするべきじゃなかった。分かっているな。ここで俺たちの邪魔をしたことで、お前はもう無関係を通すことは出来ない」

「罪人として、城に連れて行く?」

「行け。お前のことは見逃してやるから」

 兎和の顔はまだ頭巾で隠されている。

 唯一見える眼が、悲しそうに、寂しそうに、揺れる。

「じゃあ、更紗と十郎のことも見逃してよ」

「……あの人は、この国に必要な人だ。どうして攫ったりした?」

「分かってるでしょ?」

 昴と兎和の視線が交わる。

「大事な友達や仲間に幸せになってほしいって思うのは当然でしょ。たとえ政略結婚でも幸せになるかもしれないって賭けるより、更紗も十郎もそれが嫌で悲しんでいるなら。もしそうだったら、もう会うことなくても、もう関係ないことだと言われても、放っておけない。だって、スッキリしないでしょ?」

「それだけか? それだけで、国を敵に回す重罪を犯すか?」

「それだけって、十分な理由じゃない」

 ふと、昴が笑った。

 いつもは鋭い眼も、今は柔らかく優しい。

 一緒に旅をしていたときだって、なかなか見られなかった貴重な微笑みである。

「そうだな。お前にはそれだけで十分な理由だったな」

「……それじゃあ!」

「お前に部下たちを倒すことは出来ないし、倒させるつもりもないが、止める必要があるな」

 剣を腰の鞘に収める。

「俺だって、仲間の幸せを願ってる」

 兎和は笑った。楽しそうに笑って、気安げに昴に近づくと腕を叩いた。

「融通がきくようになったじゃん、昴!」

「うるさい。叩くな」

「それにしても大きくなったよね。大人になった!」

「うるさい。ガキがなに言ってんだ。さっさと追うぞ」

 草を食んでいる自分の馬に近づいていく。

 兎和も倒れた馬に近寄って、手綱を持つと馬の暴れる動きに合わせて起こしてやる。

 痺れ針に塗られた痺れ薬は短時間で効果が切れるようになっていたのだ。

 他の二頭も同じように起こしてやると、そのうちの一頭に乗った。

 昴も自身の葦毛の馬に乗っている。

「追うぞ」

「おう!」

 駆け出した葦毛の馬を、兎和の乗る栗毛の馬が追った。


「ねえねえ! 昴、はじめからこんなつもりだった?」

「……」

「ねえねえ! はじめから見逃すつもりだった?」

「……」

「ねえねえってば!」

「黙って走れ!」

 全力で馬を走らせながら話すのは難しい。

 それを兎和も昴も苦もなく出来るだけの力はあったが、昴に話すつもりがさらさらないようだ。

「そうか~。はじめからそのつもりだったんだ~」

 それでも昴の態度で分かったらしい兎和は、浮かれたように言う。

 昴は顔をしかめた。不機嫌そうだ。

「でも、だったらなんで、あたしの邪魔するようなことしたわけ?」

「部下の目の前で、自分たちの邪魔をする敵を見過ごすわけにはいかない」

「それはそうか。だったら、どうやって部下の目の前で二人を見逃すつもりだったの?」

 昴の性分を思えば、部下たちにまで命令違反――駆け落ちする女王を見逃すことをさせるとは思えない。

 わざと見つけないようにしても、見当違いなところを探そうとしても、優秀な部下がいるならすぐにおかしいと気付くだろう。

 そこまで考えて、兎和は気付いた。

 なんだか苦笑したいような、ため息つきたいような気分になる。

「もし二人が見つかったら、自分で部下たちを止めるつもりだったんだ。そうすれば職務違反は昴だけ。部下たちは関係なし。部下の人たちは隊長さんの突然の心変わりについていけなくて戸惑うだろうし反発するだろうけど、昴を倒して二人を連れ去るほどの力はない。なるほど、昴が損な役回りをする予定だったわけだ」

 昴は答えない。

「あたしのことも本当に見逃すつもりだったんでしょ。だから先に部下たちを行かせた。その隙にあたしを逃がすつもりだった」

 昴は答えない。

 だけど、兎和は確信していた。

 昴は誰も責められないために、自分ひとりが責を負うつもりだった。

 まったく損な性分だ。

「そういうところ変わってないね」

 しみじみと、「仕方ないな」というように、兎和の声音は柔らかい。

 それでも昴は答えない。

 木々に囲まれたところから、目の前が開けてくる。

 ここから先は崖となっており、左手に曲がって進まねばならない。

 馬の速度を落として曲がると、二人は止まらないわけにはいかなかった。

 馬から落ちて倒れている兵士たちが道をふさいでいたのだ。

 その中で立っている二人の男。

「嵩佐紀! 蛍!」

 兎和は喜びと驚きであふれて、彼らの名前を呼んだ。

 ニッと笑って立っているのは嵩佐紀。

 背は高く、手足が長い。見るからに人の良い顔に、四年前はなかった無精ひげは生えている。年は二十代半ばほど。

 その隣に立っている小柄な男が蛍。

 帽子を被っており、そこから出ている髪はくねくねとうねっている。眼は糸目で、口元はほころんでいる。嵩佐紀と同じか少し上くらいだったはず。

 馬から下りると、兎和は二人に駆け寄った。

「二人とも、どうしたの!」

「……兎和だよな?」

 まだ覆面をしているため、兎和の顔は見えない。

 兎和は急いで覆面を取った。

 馬を下りた昴は、倒れた部下を見て顔をしかめつつ三人に近づいた。

 そのころには兎和も顔をさらしている。

 夜の際が白み始めている。

 明るくなってきた世界の中で、兎和の顔もよく見えた。

 それを男三人は見下ろし、しみじみと呟いた。

「大きくなったなぁ」と嵩佐紀。

「ほんとになぁ。見違えるよ」と蛍。

「でかくはなったな」と昴。

 ちょっと不機嫌そうに、兎和は口をとがらせた。もともと小柄な兎和には、ある意味嫌味にも聞こえるが、それよりも。

「きれいになった、とかそんな言葉はないわけ?」

「ああ、きれいになった、きれいになった」

 蛍が笑って付け加える。心がこもってないことが、よく分かる言い方だ。

 ため息をついたが、兎和は晴れやかに笑った。

 ひさしぶりの再会だ。

 嬉しくないわけがない。

「本当にひさしぶり! で、どうして嵩佐紀と蛍までここにいるのよ!」

「どうしてって、なあ?」

 嵩佐紀は蛍を見下ろし、蛍も嵩佐紀を見上げ、同時に二人は兎和を見た。

「あの姫様がこのまま素直に政略結婚するなんて俺たちの中の誰が思うんだ?」

 嵩佐紀がもっともなことを言う。

「更紗の単独か、それとも兎和が手引きするか。どっちかは分からないけど絶対に逃げ出すと思って、この数日、城を見張ってたんだ」

「隣の国にいたら、更紗の結婚なんて噂が流れてきてさ。急いで戻ってきて、城を見張ってたら、同じように見張ってた人間がいて、それが嵩佐紀でさ。俺たちもすごい再会の仕方したもんだ」

「夜中の城の門前で再会なんて、なかなかないよなぁ」

「それで二人で見張ってたら、今日だ。怪しい二人組みが門から出てきたから、これは間違いないと思って」

「まあ、目指すは日天山で間違いないだろうし。蛍が知ってる根無しだけが知る道で先回りしたってわけだ」

「それで、この兵士さんたちを倒した、と?」

 倒れた兵士を見回して、兎和が聞いた。

「そういうこと」と嵩佐紀。

 蛍が立ち並ぶ木の奥に眼をやった。

「実はこの人たちじゃなくて、最近この山に住み着いた盗賊を倒そうと思ってたんだけど。安全に駆け落ちできるようにさ」

「でも、十郎が倒しちゃってたみたいでな。全員、ぶっ倒れてたんだよ」

 嵩佐紀が苦笑した。

「あ~、十郎も言ってた。更紗を危険な目に合わせられないし、待ってる間に掃除しておくって」

 兎和が言えば「十郎らしい」と、それぞれが表情を崩した。

「ちょうどいいから、兵士倒したのは盗賊ってことにしとかないか? それで、その盗賊を昴が倒した。これで俺たちが厄介なことにならないし」

 蛍があっさりと言う。兎和が勢いよくうなずいた。

「良いじゃない! そういうことにしよっ。昴もこれで戻っても責められることないんじゃない?」

「……盗賊ごときに倒されるのも情けない話だがな」

「俺たちにやられたのは情けない話じゃないのか?」

 嵩佐紀がおもしろそうに笑って言えば、昴は不機嫌そうな顔になった。

 嵩佐紀、蛍の実力は知っている。

 夜の闇の中で奇襲を受けたなら、しかも兎和が仕掛けたような罠も用意したのなら、いくら訓練された兵士でも倒されても仕方ないかもしれない。

 今まで厳しく部下を訓練してきたことを思えば、悔しい思いもあるが。

 そこまで考えて、昴はここにいない人間に気付く。

「詩華と鼓はどうした?」

 もし、あの二人がいたなら被害はこんなものではすまなかったはずだ。

 そして、情に厚い熱血男である鼓の性格を考えれば、彼がこの場にいないことはおかしい。詩華がいないのは、鼓がいないからと考えられるが。――彼女の行動基準はいつも鼓だったのだ。

「あの二人な~」

 詩華の兄であり、鼓の義理の兄兼親友である嵩佐紀は、ニヤニヤと……いや、デレデレと甘ったるい表情になった。

「出産予定日と重なって来れなかったんだよ」

 キョトンと、兎和はマヌケな顔をさらし、昴は言葉を失くしている。

「出産……」

「詩華と鼓に子供……?」

「そうらしいよ」

 もう先に聞いたらしい蛍が、呆然とする二人に気持ちは分かると言いたげに笑っている。

「それでも鼓は気にしてたんだけどな。身重の詩華を置いてここに来るわけにはいかないだろ」

「詩華が許さないだろうしね」

「そういうこと。心配してたけどな。……帰ったくらいには、もう生まれてるかもな」

 嵩佐紀が心底嬉しそうに、何故か照れつつ言う。

「そっか。おめでとう! お祝い持って行かないと!」

「なんで、嵩佐紀がそんなに嬉しそうなんだ」

「ありがとな、兎和。昴! お前な。姪か甥が生まれるんだぞ! すっごい楽しみじゃないか! どんな子が生まれるんだろうな」

「嵩佐紀はとんでもなく甘い伯父になりそうだ」

 蛍の言葉は確実な予言のように思えて、兎和は楽しそうに笑った。

 しかし、ふと崖の向こうを見て、悔しそうに地団太を踏んだ。

「あーもうっ! 先に知ってたら更紗と十郎にも教えたのに!」

 この知らせを聞けば必ず驚きつつも喜ぶ二人を思うと、伝えられなかったことが悔しい。

「……二人はあいつらに会わなかったのか?」

 昴が聞くと、蛍は首を振った。

「会えなかった。どうもすれ違ったみたいだ」

「わざわざ探し出して引き止めて、兵士たちに追いつかれても困るからな」

「そうか」

「だから、ちゃんと二人を見送れたのも祝福できたのも兎和だけってことだ」

 その言葉にハッとすると、兎和は何を思ったか、なにかを探すように視線をめぐらせる。

 崖とは反対側。乱立する木には、小さな白い花が咲いている。

 兎和が目に見えぬ速さで剣糸を操ると、白い花がはらはらと落ちてきた。

「なにやってんの?」

 代表して嵩佐紀が聞けば、兎和は落とした無数の花を拾い始めた。

「ほら、みんなも拾って」

 拾った花を昴におしつけて、また拾い始める兎和に、なにがなにやら分からないまま嵩佐紀と蛍も拾い始めた。

「なにしたいんだ?」

「いいから」

 全員が手に花を持ったところで兎和にうながされて崖のふちに立つと、兎和は崖下に向かって手を開く。

 明るくなってきた空の中で、白い花が風に吹かれふわりふわりと流され落ちていく。

「きっともう更紗も十郎もこの下くらいにはいるから、花だけでも送ってお祝いしよう」

 晴れやかに笑って言う。

 少女が成長したことを感じて、それでも確かに変わっていないとも思えて。

 男たちは穏やかに、楽しげに、嬉しそうに、笑った。

 昴が手を開き、花を贈った。

「おめでとう。更紗。十郎」

 花がふわりと落ちていく。

 嵩佐紀は手を開き、花を贈った。

「幸せにな、二人とも」

 白く小さな花がひらりと落ちていく。

 蛍は手を開き、花を贈った。

「更紗。十郎。お幸せに。頑張れよ」

 花がはらはらと落ちていく。

 風に流れ落ちる花を四人はいつまでも眺めた。

 それが崖下に生い茂る木に吸い込まれるときまで。


 *****


「あっ」

 明かりがいらないほど、山道も明るくなってきている。

 歩き続け、崖下までたどりついたころ。

 何かに気付いて更紗が顔を上げた。

「どうした?」

 十郎が歩みを止めた更紗に気付いて、そして同じように見上げた。

 白い花が舞い落ちてくる。

「きれい」

「ああ……」

 この山に多く生える、この季節に咲く花を持つ木々たち。

 そのために二人が進む道の両脇にも奥にも、その白い花を持つ木はあった。

 その白い花が風に揺られ落ちてくるのだ。

「なんだか、祝福されているみたい」

 くすぐったそうに笑って言う更紗に、十郎もうなずいた。

 舞い落ちる白い花は本当に自分たちを祝福し、背中を押してくれているようだった。

 だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかない。

「更紗、行こう」

 十郎が手を差し出せば、更紗は迷いもなくその手を取った。

 そして、二人は歩き出す。

 二人が行く道を朝日が照らしていた。





はじめまして、弥と申します。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。この作品に関しては、あるかもしれない物語のその後、を書いたものになると思います。更紗と兎和が村を出て、仲間を増やし、ついに殺された正妃の仇をとるという物語、の後の話です。そのため分かりづらいところもあったと思います。感想、指摘などあればよろしくお願いします。

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