第8話 影から覗く瞳
朝、目が覚めると最初にやることが決まっていた。
加護の中から干し肉を一切れ取り出して、寝台の脇の影に差し出す。
「おはよう。食べる?」
三秒。
影の中から白い手がゆっくり伸びてきて、干し肉を受け取った。やはり両手で。壊れ物を扱うように。
もぐ、もぐ。影の中から小さな咀嚼音が聞こえる。
これが、ここ数日の朝の習慣になっていた。
相部屋の他の住人はまだ寝ている。レフィが影の中にいることには誰も気づいていない。俺が寝台の横に向かって独り言を言っている変な奴だとは思われているかもしれないが。
咀嚼音が止まった。影の端が微かに揺れて、薄紫の瞳がこちらを覗く。
「……もう一個」
「一個って、今ので最後だったんだけど」
「…………」
瞳が細くなる。不満そうだ。
「あとで買うから。行こっか」
こくり。影が俺の足元に滑り込んでいく。
沈み錨亭に入ると、朝の匂いが迎えてくれた。焼きたてのパン、炒めた卵、塩漬け肉の脂。朝食の時間帯は冒険者たちで混み合っている。
カウンターの端に座った。ゲルダさんが鉄鍋を持ってこっちに来る。
「あんた、最近顔色ましになったね。食べてる?」
「食べてますよ。今日は硬パンと……卵つけてもらっていいですか」
「おや、奮発じゃないか。27階が稼げてんのかい」
「少しは」
卵つきの朝食が出てきた。銀貨2枚の報酬と、ここ数日の魔核売却のおかげで、ようやく卵くらいは頼めるようになっていた。
パンをちぎって口に入れる。
足元の影が、揺れた。
俺の膝の下あたりから、薄紫の瞳がテーブルの上を見上げている。焼き卵を見ている。じっと。
「……だめだよ。ここでは」
瞳が俺の顔を見た。それから卵を見た。また俺を見た。
「……後で干し肉買うって言ったろ」
「…………」
不満そうな瞳が影に沈んでいった。
ゲルダさんがこっちを見ていた。
「あんた、誰と話してんの?」
「……独り言です」
「最近多くない? 独り言」
「癖になっちゃって」
ゲルダさんは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。この人はそういうところがある。深く踏み込まない。ありがたい。
食べ終えて立ち上がる。カウンターを離れる時、腰のあたりで何かが引っ張られた。
裾だ。
服の裾を、影の中から引かれている。ちょん、と一回。
振り返っても何も見えない。ただ影が微かに濃い。
「……分かった。干し肉、二本買うから」
影の端が、ほんの少しだけ揺れた。喜んでいるのかどうかは分からないけれど、裾は離れた。
ピッパさんの店で干し肉を二本買い、一本をすぐに影に差し出した。白い手が出てきて受け取る。もぐもぐと咀嚼する音。
「もう一本は後で。27階で食べよう」
「……うん」
深淵門に向かう。探索者証を番兵に見せて、螺旋階段を降りていく。
道標石を使って25階層まで転移し、そこから徒歩で27階層を目指す。もう四回目だ。道順は覚えている。ノクスの圧も、もう慣れた——というより、最初から気にならなかった。
27階層に入ると、足元の影が広がった。レフィの顔が覗く。
「……こっち」
「そうだな。いつものところか」
「……うん」
レフィの案内で荒野を歩く。ボーンウォーカーの群れが点在している場所まで、迷いなく。
一体目を倒した。
魔核を手に取る。手のひらの中で結晶が溶けて、体に沈んでいく。温かさが流れる。もう何度目かの感覚だ。怖さはまだあるけれど、最初ほどではない。
二体目。今度は小さな個体だった。生前は子供だったのか、骨格が細い。魔核も指の爪ほどしかない。
手のひらに乗せた。溶ける。流れ込む。
——温かさが、薄い。
一体目と比べて、明らかに流れ込んでくるものが少ない。体が軽くなる感覚もほとんどない。
そうか。魔核の大きさで変わるのか。
三体目。大きな個体を選んで倒した。骨格ががっしりしていて、魔核も親指の先ほどある。
手のひらに乗せると、一体目よりも速く溶けた。温かさが濃い。体の中を巡る流れが太い。足の先まで行き渡る感覚がはっきりと分かる。
個体の強さ——魔核の大きさで、得られるものが変わる。当たり前と言えば当たり前だ。でも実感として分かったのは初めてだった。
「お前、これ分かってたか」
足元のレフィに聞いた。
「……大きい方が、おいしい」
「おいしいって。食べ物じゃないんだけど」
「……食べてるでしょ」
言い返せなかった。
その日は合計で五体のボーンウォーカーを倒した。意識して大きな個体を選ぶようにした。小さな個体は魔核を喰わずに加護にしまう。サミルに売ればいい。全部喰う必要はない。
探索者証に意識を向けた。数値が微かに上がっている。昨日からの累計で体力が2、敏捷が3。劇的ではないが、確実に動いている。
帰り道。25階層の道標石に向かって歩きながら、ふと加護の奥に意識を向けた。
暗い水たまり。レフィの力の一部が溜まっている場所。
前に触れようとした時は、びりっと弾かれた。近づくなと言われたように。
今は——。
意識で触れてみた。おそるおそる。
弾かれなかった。
水面が波立ったけれど、弾くのではなく、指先が少しだけ沈んだ。冷たい。深い。底が見えない。でも、拒絶ではなかった。
何かが変わり始めている。加護の中で。俺の中で。
まだ触るな、ではなくなっている。ただ——まだ早い、と言われている気がした。
手を引いた。急ぐ必要はない。
干し肉の残り一本を影に差し出した。白い手が受け取る。もぐもぐ。
「……美味しい」
「そうか」
「……明日も来る?」
「来るよ」
「……うん」
岬の道を夕日の中で歩いた。足元の影が、静かについてくる。




