第5話 お腹、減った
目を開けた。
灰色の天井が見える。いや、天井ではない。半分崩れた石の屋根。隙間から黒い空が覗いている。
体が重い。頭がぼんやりしている。指先が冷たくて、感覚が鈍い。でも——生きている。
ゆっくり上体を起こした。全身が軋む。酷い筋肉痛のような、熱を持った痛みが体の芯に残っている。
何が起きたのか、思い出そうとした。
少女。ノクスの渦。指先が俺の胸に触れて——喰われかけた。そこまでは覚えている。その後、加護が反応して、何かが爆発して。
周りを見回した。
瓦礫の部屋は、さっきよりもさらに崩れていた。壁の一部が倒れ、石柱の破片が散らばっている。あの爆発のせいだろう。
渦は消えていた。部屋を満たしていたノクスの霧も薄くなっている。
少女は——。
いない。
あれだけのノクスの渦の中心にいた少女が、どこにもいない。消えたのか。あの爆発で。
胸の奥に、微かな熱が残っている。加護の中に、今まで感じたことのない何かがある。重くて、冷たくて、けれど確かに自分のものになっている何か。
あの少女の力の一部を俺の加護が取り込んだもの。
それが何なのかは、分からない。
立ち上がろうとして、足元に違和感を覚えた。
影が、濃い。
自分の足元に落ちている影が、この階層の暗さを差し引いても不自然に濃い。黒い。深い。まるで影だけが別の密度を持っているような。
——気のせいだ。疲れているんだ。
膝に手をついて立ち上がった。体は動く。痛いけれど、動く。剣は——腰にある。抜いた記憶はあるが、いつの間にか鞘に収まっていた。
帰ろう。ここにいても仕方がない。少女がどこに行ったのか気にはなるが、今の体では探す余裕がない。
部屋を出て、来た道を辿り始めた。
歩きながら、体の異変に少しずつ気づいていた。
暗い。この階層はずっと暗い。なのに、さっきよりも見える。輪郭が鮮明になっている。灰色の土の色、遠くの残骸の形、足元の小石の影——来る時よりも、はっきりと。
目が慣れた、で片付けていいのか分からない。
それから——足が軽い。
体は痛いのに、足の運びが来た時より楽になっている。一歩一歩の距離が少しだけ長い。気のせいかもしれない。でも、来る時にかかった時間より早く歩けている気がする。
ふと探索者証に意識を向けた。
存在位階:第六位階・下位 → 中位
信仰神:収蔵神ヴォラクスト
体力:62 → 78
筋力:55 → 71
敏捷:68 → 89
感覚:51 → 74
元素容量:8 → 45
元素親和:なし → ノクス(微)
加護:内なる蔵 ██
技能:薬草識別、短剣術(初級)、片手長剣術(初級)
——数字が変わっている。全部。
「……嘘だろ」
声に出ていた。二年間ほとんど動かなかった数値が、一晩で全部変わっていた。元素容量に至っては8から45。何だこれは。
それから——加護の欄。「内なる蔵」の横に、読めない記号が一つ。昨日までなかったものだ。
何が起きたのかは分からない。でも体の変化と辻褄は合う。
何が変わったのか。あの爆発の後から、何かが。
考えながら歩いていて、足を止めた。
影が動いた。
自分の足元の影が——俺の動きとは関係なく、揺れた。
じっと見下ろす。影は止まっている。普通の影だ。自分の体が作る、普通の。
……気のせいか。
歩き出す。三歩目で、また揺れた。今度ははっきりと。影の端が、ぞるり、と蠢いた。
立ち止まる。影を睨む。
影の中から、何かが覗いていた。
薄紫の——瞳。
声が出なかった。
影の中に、あの少女がいた。
正確に言えば、影に溶け込むようにして、うずくまっている。体の大半が影と同化していて、輪郭がぼやけている。顔だけが、かろうじて見える。
薄紫の瞳が、下からこちらを見上げていた。
虚ろではなかった。あの時とは違う。意識がある。焦点が合っている。俺を、見ている。
何秒か、見つめ合った。
少女の唇が動いた。
今度は——声が出た。
掠れて、細くて、消えそうな声。でも、言葉だった。
「……お腹、減った」
俺は立ったまま、しばらくその言葉を咀嚼した。
お腹、減った。
さっきまで俺の魂を喰おうとしていた存在が、俺の影の中にいて、お腹が減ったと言っている。
思わず、短く笑った。笑いというより、息が漏れた。
「……マジか」
怖いとか、警戒するとか、色々あるはずなのに——最初に浮かんだのは、別のことだった。
こいつ、痩せてたな。
あのぼろ布の下の腕。骨と皮だけの指。折れそうなほど細い体。どれくらい何も食べていなかったのか。どれくらいあの暗い部屋で、一人で座っていたのか。
加護に意識を向けた。「内なる蔵」の中から、干し肉を一切れ取り出す。
しゃがんで、影に向かって差し出した。
「……食べる?」
少女の瞳が、干し肉を見た。それから俺の顔を見た。また干し肉を見た。
影の中から、白い手がゆっくりと伸びてきた。両手で、干し肉を受け取る。壊れ物を扱うように。
口に運んで、小さくかじった。
咀嚼する。ゆっくりと、何度も。
薄紫の瞳が——細くなった。
笑っているのとは違う。でも、さっきまでの虚ろな目とも違う。何かが和らいだような、緊張がほどけたような。
小さく、本当に小さく息を吐いて、少女が言った。
「……美味しい」




