第4話 喰らう器
渦の中に、人がいた。
いや——人の形をしたものが、いた。
黒い霧が部屋の中心でゆっくりと回っている。その渦の奥に、小さな輪郭が座り込んでいる。膝を抱えて、うずくまるようにして。
少女だった。
ぼろ布を纏っている。もともと何かの衣服だったのかもしれないが、原形を留めていない。破れて、汚れて、ほとんど布切れだ。
髪は長い。銀がかった黒。闇の中でも微かに光って見える。肌は白く、折れそうなほど細い。腕も脚も痩せている。
動かない。
死んでいるのか、と思った。でも渦はまだ回っている。ノクスが彼女を中心に集まり、渦を巻き、また散っていく。呼吸のように。
声は——この少女から出ていた。
低い唸りのように聞こえていたのは、彼女の呼吸だった。苦しげな、途切れ途切れの息。それがノクスの渦に増幅されて、遠くまで響いていたのだ。
剣を構えたまま、俺は動けなかった。
怖い。
本能が叫んでいる。これは人間じゃない。この渦の中心にいるものは、ボーンウォーカーとは比べものにならない何かだ。ノクスの濃度が、この一角だけ桁違いに跳ね上がり空気が震えている。
逃げろ。今すぐ逃げろ。
だが、足が動かない。
恐怖で動けないのか、それとも——。
少女が、顔を上げた。
薄紫の瞳。虚ろで、焦点が合っていない。こちらを見ているのか、何も見ていないのか。光のない目。けれど、確かに生きている目だった。
唇が動いた。何か言おうとしている。声にならない。喉が枯れ切っているのか、音が出ない。
口の形だけが、繰り返し同じ言葉を作っていた。
——読めない。暗くて、遠くて。
一歩、近づいた。本能が悲鳴を上げる。でも足は前に出た。
もう一歩。
少女の唇の動きが、少しだけ見えた。
短い。一音か、二音の言葉。何度も何度も、同じ形。
もう一歩。渦の縁に立った。ノクスが俺の腕を撫でる。冷たい。でも、痛くはない。
少女が、手を伸ばした。
骨と皮だけの細い腕。白い指先が、俺の方に向かって伸びてくる。
掴もうとしている。何かを。目の前にいる俺を——いや、俺の中にある何かを。
指先が、俺の胸に触れた。
世界が裏返った。
触れた瞬間、体の内側を何かが貫いた。冷たい。冷たいなんてものじゃない。骨の髄まで凍るような、存在そのものを掴まれるような感覚。
意識が引っ張られる。体の奥へ、もっと奥へ。自分の中に落ちていくような感覚。いや——吸い込まれている。
少女の指先から、何かが流れ込んでくる。黒くて、重くて、底のない力。ノクスそのものが、俺の中に入ろうとしている。
違う。
ノクスじゃない。もっと根源的な何か。魂の形をした、巨大な闇。
——喰われる。
理解が追いつかないまま、本能がそう告げた。こいつは俺を喰おうとしている。魂を、存在を、丸ごと。
少女の瞳に光が灯った。薄紫の光が強くなり、虚ろだった目に意志が宿る。飢えた意志。底のない渇きを満たそうとする、剥き出しの衝動。
声が聞こえた。今度ははっきりと。
低い、重い、人の声ではない何かの声。少女の口から漏れているのに、少女の声ではない。もっと古くて、もっと深い場所から響いてくる声。
俺の意識が薄れていく。視界が暗くなる。膝が折れそうになる。
——死ぬ。
このまま何もしなければ、俺は死ぬ。魂を喰われて、何も残らない。
「——やめ、ろ」
声が出た。掠れて、震えて、ほとんど音にならなかった。でも確かに、声を出していた。
その時、胸の奥で——何かが、弾けた。
熱い。
体の中心から、熱が湧き上がってきた。冷たい闇に呑まれかけていた意識が、一瞬だけ引き戻される。
——加護だ。
「内なる蔵」が反応している。今まで感じたことのない動き方。収納するための加護が、収納とは違う何かをしている。
少女の指先から流れ込んでくる闇の力。俺の魂を喰おうとしている、底なしの飢え。
その流れが——逆転した。
吸い込まれていた俺の意識が、踏みとどまった。それだけじゃない。少女から流れ込んできた力の一部が、加護の中に引きずり込まれていく。
喰われるのではなく——喰っている。
加護が、少女の力を取り込んでいる。
「……え」
自分の声が聞こえた。何が起きているのか、分からないまま口が動いていた。
胸に触れた少女の指先の周囲で、俺の肌が薄く光っていた。暗い紫の光。脈打つように明滅している。まるで加護そのものが表面に浮き出したかのように。
理解できない。こんなことが起きるはずがない。「内なる蔵」はただの収納能力だ。物をしまって、出す。それだけの、ハズレ加護。
なのに今、俺の加護は目の前の存在から力を奪い取ろうとしている。
少女の瞳が見開かれた。虚ろだった目に、驚愕が走る。流れ込ませていた力が逆流していることに気づいたのか、口が開いて——
声が出た。
今度は少女自身の声だった。高い。細い。幼い声。
悲鳴ではない。驚きの声でもない。
ただ、短い一音。
「——あ」
その瞬間、胸元の紫の光が一気に膨張した。
ノクスが弾けた。部屋を満たしていた闇の渦が一斉に吹き散り、俺を中心にして黒い衝撃波が広がっていく。残骸が揺れる。瓦礫が崩れる。天井の残りが軋む。
視界が白くなった。いや、黒くなった。白も黒も分からない。五感の全てが混ざり合って、何も判別できなくなった。
最後に見えたのは、少女の顔だった。
薄紫の瞳が、こちらを見ていた。虚ろではなく、飢えてもいない。ただ——不思議そうに、俺を見ていた。
そして、意識が途切れた。




