第二十七章 憂鬱な午後
明日香をダミーマシンに見せかけるのは失敗したが、
「あらあら、大変ね、おはよう明日香!」
「・・おはよう!・・」
北は甘えるような声で応える明日香に軽く手を振ると、テーブルの上に散乱しているコーヒーカップや灰皿を片付けていく。
前髪には、まだ雨の滴が付いていて、時折キラリと光っている。
研究室の隅には、毛布にくるまって、林田と園山が軽い寝息をたてながら、トドのように深い眠りに入っている。
「・・ねえ、憂鬱な午後って、どんな事?..」
「なんなのそれ、なんで知ったの?」
チョロチョロ出ている蛇口の下で、カップを洗いながら聞くと、
「・・ネットの中の、あるページの日記に書いてあったの・・」
「ふうん~、なんだって?」
「・・憂鬱な午後
ぼんやりとした昼下がり
白いテーブルの上の、冷めたミルクティー
動きのにぶい指先で取るおくれ毛
待っているわけじゃあないのよ
あなたの軽い笑い声は忘れたわ
雨の中を私に駆け寄って来る
あなたも忘れたわ
後ろ向きになって右手を振りながら
する、いつものさよならも忘れたわ
あなたの声も忘れたいのに
耳だけが、電話が鳴るたび
ドキドキしてるの・・・・・・・・・」
「ふう~ん、それか」
北は明日香の前に座ると、カメラを見ながら右手で頬杖をつきながら、
「それは明日香には難しいかもね~」
「・・どうしてなの?・・」
「それは、恋の感情だから、誰かを好きにならないと分からないの」
「・・明日香はお母さんが好き、林田さんも園山さんも好き、大丈夫よ・・」
「広瀬教授はどう?」
「・・広瀬教授・・!」
「う~ん、そうか、あんまりね..でも、それ
ならかえって脈はありかもよ」
そう言うと、しばらく考えた、
嫌いという感情が芽生えているなら..。
「林田さんと園山さんと比べて、どちらが好き?」
「・・二人とも好き・・」
「いい、二人の能力から、頭脳や知識の要素を取り除いて、いい人という要素も取り除いて考えて」
「・・・・?・・・・」
「さあ、どちらが好き?」
「・・43と57だわ・・」
「なに、それ?」
「・・林田さんが43で園山さん57好きです・・」
「ふう~ん、そうなんだ!」
北は面白いといったふうに笑うと、
「分かったわ、明日香は園山さんが好きなのよ」
「・・はい、明日香は園山さんが好き!・・」
モニターの上のカメラを左右にリズミカルに振って嬉しそうだ。
明日香が好きとは言っても、性欲があるわけじゃあないから、本当の恋は無理よね~、この子は恋に恋しているんだわ。
雨の一日が終り、研究所に灯りがつき始めると、やっと林田達が起きてきた。
ぼんやりとした体のままで、北が入れてくれたコーヒーを少しづつ飲むと、快い苦味が香りと一緒に口の中に広がって、頭が少しづつハッキリしてくる。
机の上にハンバーガーが並べられた。
「お疲れさま、昨日は大変だったの?」
「うん、結果としては、無駄な骨折りだったような・・」
あくびまじりの林田の声だ、
「失敗だったの?」
「とんだ邪魔者が入ってね・・」
「ふ~ん、どういうこと?」
「切り裂きジャックという奴に掻き回されちゃってね」
「明日香をダミーマシンに見せかけるのは失敗しちゃったってわけ?」
「中のハードディスクのデーターを提供してあげただけになってしまったよ」
悔しそうにハンバーガーにかぶりつく、
「あの暗号のデーターは解けるの?」
「各国の諜報機関が全力をあげてもう解きにかかっているだろうけれど、そう簡単には解けないよ」
「そんなに難しいの?」
「そういうわけじゃあない、ただ、普通の暗号とは性質が少し違うんだ」
やっと自慢げな顔を見せ、タバコに火をつけて一吸いすると、
「普通の暗号は秘密の連絡の為だから、受け取る方もすみやかに解けないと、連絡文としての用をなさない、だけど、あれは暗号の為の暗号のような構造になっている。
まず、数字の羅列が現われる、彼等はなんらかの規則性を見つけ、日本語にする、ここで誰か日本語の分かる人間が必要となる」
「今どきそんなのはすぐに見つかるわよ」
林田はニヤリと笑い、
「ところが、その日本語は古文なんだよ、古文を正確に理解出来る人間は、外国にはそうはいないだろう?」
「そうねえ~、その辺の日本人留学生をつかまえても、古文はね~!」
「たぶん、古文の専門家を日本から呼ぶようになるだろうな」
「そこまでやるかしら?」
「もし、明日香の秘密が分かったら、国家事業になるくらいのものだよ、金に糸目はつけないさ」
「古文でなんて書いてあるの?」
「いや、まだだ、万葉集と枕草子が全文入っているが、ところどころにナンバーが振ってある、
人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡るk32d68j
わが背子と二人見ませば幾許かこの降る雪の嬉しからましh74m31
色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばま清かに見むs69r47
なんてね」
「何をさせようというの?」
「そのナンバーを情緒の意味ごとに、分類すると、数列が現われる、それが分類出来るくらいになれば彼等の日本文化に対する理解も深まるね、きっと」
「それが最終なのね?」
「そう、だけどさ、俺って古文が嫌いでね、授業中もよく寝てたから良く分からんのですよ、その俺が分類したのが彼等の不幸と言えば不幸だよな」
「私も古文は苦手だったけど、どういう事?」
「ふふふ、いい加減な知識の人間が分類した古文の語彙など専門家にしてみれば、とんでもない代物でね、いわゆるちゃんと仕事が出来ていないわけだよ、
日本から呼んだ専門家が正確に分類しても解けない、ちょうど俺と同じくらいにいい加減な古文の知識を
持っている奴を探し出さないと解けないって分けさ」
「あらま~、それは難物ね、同情しちゃうわ!」
「な、ほとんど不可能に近いだろう」
「もし、それが解けたら何が分かるの?」
「ん...、それはね..、暗号を解いた諜報員の努力への尊敬を表わす賛辞が出てくるのさ」
大きくタバコの煙を吐き出すと、いたずらっぽい目をクルクル回して見せた。
「それってさ~、国際的なイタズラじゃあない?」
明日香は確認応答ゲートをゲートを作り、特定の人間、あるいは研究機関しかアクセス出来ないという不自由さはあるものの、再びインターネットの世界へと情報の旅に出ている。