第九話 開かれた知識
皮脂と垢が積み重なり腐敗したニオイと、ドブと汚泥のニオイ。
それらが入り交じった、吐き気すら催すほどの臭気。
それは、肺にまで染みつき逃げ場のない鎖のような臭気であり、皇都画一地区三番通りの巨大な貧民窟を象徴していた。
街の下水はスラムを通り、処理場へと送られる。街中の汚水がこの場所に集まっているのだ。そして、スラムに住む彼らは汚水や雨水を飲み生活している。
空き瓶に溜めた雨水には虫が浮かぶ。それを指で摘んで捨て、残りを啜る。それが彼らの日常だった。
街の人間たちが排泄した汚物が浮かび、何が入っているのか分からない虹色の工業廃油や洗剤の泡が浮かぶ汚水を啜るくらいなら、ぬるく埃臭く、虫の死骸が浮いた雨水を飲む方がよっぽど幸せだったのだ。
その貧民窟──スラムには、その臭気に似つかわしく、そこには幾世代にも渡って住み続けてきた人々が勝手に積み上げていった、違法建築の果てに生まれた廃墟めいたビルが乱立していた。
鉄骨の錆は血のように垂れ、コンクリートは皮膚のように剥がれ落ちていた。それでも壁や屋根があるだけマシなのだ。
その、いまにも崩れ落ちる寸前の骨組みだけのビル。扉も窓もなく、風と埃と叫びだけが出入りしていた。
どこかで乳児の泣き声が上がり、別の場所では鉄の皿が投げられる音が反響していた。光は届かず、常に黄昏のような薄闇が漂っている。
そんなビルの中に住む者や、路上に穴の空いたブルーシートで屋根だけを作り住む者、段ボール箱で暮らす子供、鉄骨の隙間に吊り下げられた布きれの上で寝る老人などが、そこに生きていた。
イスナはその貧民窟を眺める。
彼は、ビルの中でも比較的壁がまだ形を保っている部屋を選んで陣取っていた。王として擁立されたイスナの選択に否やを唱える者は無く、そこは彼の居住空間として機能している。
泣き声や罵声が飛び交うスラムの中、そこだけは奇妙な静けさに包まれていた。
部屋の中には、シャチやサメが探してきた比較的綺麗な段ボールが置かれ、そこにまだ色の判別ができる布が掛けられている。
それが、イスナの座るこの部屋の中の玉座だった。それは玉座というにはあまりに粗末で、それでも彼が腰掛ければ玉座に見えてしまう場所だったのだ。
「シャチ」
イスナが静かに、自身の側近的立ち位置へと収まっていた少年を呼ぶ。
シャチは既に中学生の終わりか、高校生ほどの姿をした彼は、少年というよりも青年に片足を突っ込んでいる。一七〇センチメートルを軽く超える長身に、肩甲骨ほどまで伸ばした紫色に染めた髪。
スラムに流れ着いた彫り師によって背中一面に掘られた黒と灰色だけで描かれた、荒波を泳ぐシャチの刺青。
古びた墨は、ひび割れた皮膚の隙間に沈み込んでいる。
その刺青が、彼の名の元となったとシャチはイスナに話していた。
「はあい」
間延びした声が応える。
その声は、路地裏の騒音をすり抜け、ぬるりとイスナの耳にまとわりついた。
イスナの部屋の隣に、兄弟二人で住んでいるシャチはすぐにイスナの隣へとやって来る。
「このスラムの西方に蒲が生えてるだろ、それを二〇本ほど取ってこい。サメとハチも連れて行け」
「待って待って。イスナ、せいほーってどこ? ガマってなに?」
シャチからの問に、イスナは数瞬考えると「着いて来い」と先に立ちビルの階段を降りて地面へと足を下ろす。スラムでは履く者のいない、革靴の踵が硬く地面を叩く音が響いた。
そして土の上へと、指先に挟んだまだ煙の匂いが残る吸い殻で、土の上に線を引いた。あっという間にこのスラムの地図と蒲の見目を描きあげる。
乾いた土の上ではすぐに線が崩れるが、それに文句を言う者は誰もいない。
「すげー、イスナって絵も上手いんだね。さすがおーさま」
彼の褒める言葉にイスナは反応することも面倒臭そうに眉を軽く上げると、説明のために口を開く。
「……まず、ここがいまいるところだ。表通りと繋がってんのが北、西方はこの地図の左側、あの汚水が流れてるドブ川のほうだ」
「せいほーは、ドブ川のほうね。そういう地名ってこと?」
シャチからの問いにイスナは暫し無言になり、面倒になったのか、吐き捨てるように「そういうことだ」と答える
「で、そこでガマってのをありったけ取ってきたらいいわけね」
「いや、二〇本でいい」
イスナの言葉にシャチは再度「はあい」と緩い返事をして立ち上がる。
「サメー! ハチー! 仕事だ!」
よく通る低い声がビルの合間を抜けていく。それに反応したサメとハチが「すぐ行く!」と声を上げる。
すぐに階段を駆け降りてきた二人に、シャチがイスナの描いた地図を見せる。
「すげー! イスナ、絵描けるのかよ!」
「地図なんて初めて見た!」
「仕事って言ってたけど、兄ちゃん何すんの?」
サメとハチの騒ぐ声に釣られるように、周囲から子供たちが徐々に集まってくる。それに、シャチが一から説明を始める。
「この地図の、真ん中よりちょっと右にいま俺たちがいて、左の方、せいほーのドブ川に行って、そこにあるこの形の草を二〇本取ってくるっていうのが、今回の仕事だ!」
シャチの説明を聞いていた子供たちが「分かった!」と声を上げる。彼らはほとんどが中学生から高校生ほどの見目ではあるが、精神が育っていないのかどこか仕草や反応が子供じみていた。
「草取り? 遊び? 仕事じゃねーの?」
「イスナが仕事だって言ってるから仕事じゃねーの?」
「せーほーってなんだよ」
「ガマ? ってやつ取ってくればいいんだろ、簡単じゃん!」
「にし? きた? ってなんだよ、イスナってやっぱ頭いーんだな」
彼らが集まってそれぞれ好き勝手に言葉を重ねる。それにイスナは言葉を返すことも無く、シャチに「行ってこい」とだけを告げる。
「行くぞーお前ら!」
シャチの言葉に、「遊びじゃね?」と黒いおかっぱを掻き上げながら言う少年と「イスナが言うんだから、なんか大事なことなんだろ」と告げる茶髪の少年が会話を重ねながら歩いて行く。
イスナはそれを見送り、再び口を開く。
「ドロ、イチ」
呼ばれた二人の少年少女が物陰から駆けてくる。
それはまるで、呼ばれることを待っていたかのような速さ。影から飛び出す足音が、小動物のように軽かった。
「はい!」
重なる声に、イスナは彼らを見る。痩せぎすの体に小さい背丈。年齢だけなら一〇の半ばにも関わらず、その身丈は一〇代の前半にしか見えない。
「テメェらはゴミとして捨てられてるペットボトルを探してこい」
「分かりました!」
イスナからの命令に、ドロは大きな声で、イチがそれに重ねるように、二人は元気良く応え、すぐに駆け出していく。その足はスラム内のゴミが集まる集積所へと向かっていく。
表の世界ではペットボトルは資源となるが、スラムの中ではペットボトルを金に替えてくれる業者など存在しないため、ただのゴミでしか無いのだ。
暫くして、先にドロが両手に三本の五〇〇ミリリットルサイズのペットボトルを抱えて走ってくる。それに続いて、イチが二リットルサイズのペットボトルを一本と五〇〇ミリリットルサイズのペットボトルを一本抱えて走って戻ってくる。
泥で曇ったラベルに、底に黒い水が溜まったものが彼らの腕に抱えられ、その誇らしげな表情との対比が鮮やかだった。
「イスナ! 見つけたよ!」
「俺も、俺も見つけた」
ドロの高い声がビルの間を縫い、イスナの耳へと届く。次いで、イチの掠れた声がイスナの鼓膜を揺らす。
それに「ああ」と応えたイスナが、指に挟んだ煙草をソフトケースへと戻し、ポケットの中へ片付ける。
彼らが、まるで優勝旗のように掲げたペットボトルを受け取り、その場へとしゃがむ。
胸ポケットから取り出した小綺麗な小型のナイフでペットボトルを半分に切断し、蓋を開く。
ペットボトルと刃が擦れる、高く小気味良い音がその場に響く。
「イスナー! 取ってきたぜー!」
シャチの低く、よく通る声がビルの間を通り抜けて一直線にイスナへと届く。
それに軽く手を上げたイスナに、周囲の子供たちが「わあ!」と声を上げて「俺も!」「俺も持ってきた!」と我先にとその腕に抱えた蒲をイスナへと渡す。
その様子にイスナは頷いて、「そこに置け」と比較的綺麗な新聞紙を指す。
シャチを筆頭に蒲を取ってきた子供たちが「はーい!」とそれぞれに返事をし、新聞紙の上へと蒲を置いていく。
イスナは、その蒲の茎をナイフで短く切り、逆さにしたペットボトルの口へと通す。ペットボトルの内部へと蒲の穂が入り、口から茎が出ている形だった。
切り口から差し込まれた蒲の穂が、ペットボトルの内部でぎゅうぎゅうに詰まり、外からは見えぬ柔らかな毛羽立ちが水を受け止める準備をしていた。
半分に切られた底部へとその口を嵌め込み、それを少年たちへと見せる。
「これと同じものを、それぞれ作れ」
まるで工作のようなそれに、その場にいた少年たちは目を輝かせる。
「すげー! なんだこれ、どうやんの?」
茶髪の少年が前のめりに目を輝かせて何度も手元のペットボトルと見比べながら、割れたガラス片を手にペットボトルをギコギコと半分に切る。
「あ! 兄ちゃんのペットボトルのがでかい!」
「いいだろ、やんねーぞ」
シャチとサメが互いに小突きながら、イスナが作った見本を見ながらペットボトルを半分に切り取っていく。
「俺もやる!」
ハチが彼らの様子を見て、最後に残ったペットボトルへと手を伸ばす。
そこで、イチとドロが所在なくイスナの隣に立っているのを見たハチが、彼らへと手招きをする。
「一緒にやろうぜ!」
「いいの?」
「やったー! 俺、切っていい?」
「トーゼン、いいぜ!」
ハチが押さえたペットボトルを、イチとドロが二人で交互にガラス片を使い切っていく。
その様子を、ハチは口角を子供みたいに上げ、微笑んで見つめている。
口角を子供のように上げたその笑顔は、仲間を励ます兄貴のものでもあり、同じ遊びに混ざりたい子供のものでもあった。
ペットボトルを切断する彼らの手元からは、ギコギコだとかバリッだとかいう不安定な危なっかしい音が響くも、イスナはそれに手を貸すことはしない。
ハチは、自身の指先をガラス片がかすめるたびに背筋へヒヤリとしたものが走る。それでも手を止めさせることはない。血を流してでも完成させたいという衝動に駆られていた。
それでも、ペットボトルは確かに二つに割れた。
そこへ、イスナがやったように蒲の穂を通す。
完成したそれらを見たイスナが立ち上がり、口が割れた瓶をシャチへと渡す。
「これに、水を汲んでこい」
「はあい、イスナ人使い荒いよなぁ」
まるで軽口のように告げたそれにも、イスナは反応をすることは無い。
彼はただ澄ました顔で濾過装置を眺めていた。だが、その黒い瞳にはこの先に続く景色が既に映っているようだと、シャチは思う。
小走りで向かったドブ川から掬ってきた黒く、異様なニオイすら漂う水が瓶の中並々に入っている。
それを受け取ったイスナは、彼らの前で、ペットボトルで作った簡易の濾過装置へと注ぐ。
嗅ぎ慣れた鼻を突く臭気を気にも止めず、少年たちは近付いてくる。彼らの、汚れたペットボトルを覗き込む瞳は期待に揺れていた。
「イスナ、なにしてんの?」
「なになに、面白いこと?」
彼らが近付き、蒲の穂が入ったペットボトルを眺める。
黒い水が蒲の穂を伝い落ち、底に透明な滴が一つ、二つと溜まる。その瞬間、サメは息を呑んだ。
どす黒い世界から零れ落ちた一滴の透明な水。それは宝石よりも価値のある光に、少年には見えたのだ。
「あ! きれーな水が出てる!」
サメの言葉に、イスナ以外の全員が、ペットボトルの底面を見つめる。そこには少しずつ滴るように溜まる、透明な水があった。
スラムで見ることなど、まず無い透明な水に彼らの目が輝く。
「これは、濾過装置だ」
「ろかそーち?」
「この蒲の穂がフィルターになり、水をこして、ある程度綺麗にしてくれる」
イスナの説明にも、彼らは首を傾げる。説明を受けても理解は追いつかず、ただ口を開けたまま言葉を失っていた。
それに、イスナは数瞬思考を巡らせて、そして「蒲の穂はすごいってことだ」という説明で投げる。
「すげー! あそこに生えてたこれ、美味そうで食べたらすごいことになったけど、こんな風に使えるんだな!」
ハチの言葉に、彼らはみな一度は経験があるのか、何度も頷く。
「おもしれー! 俺らもやろうぜ!」
シャチが再び瓶を手に取り、ドブ川へと走る。子供たちが水を覗き込むのを横目で見届けてから、イスナは自身の部屋へと歩を進める。
先程ポケットへとしまったソフトケースを取り出し、一本の両切りを咥えて火を付ける。
ビルの下からは、子供たちの笑い合う声や水を注ぐ音が聞こえる。
ひとつの、未来が変わったのだ。
暗いスラムの中に、微かな火が灯った。それは煙草の火であり、同時にこの場所に初めて差し込んだ小さな夜明けのようでもあった。