第八話 そして、暖かい食卓へ
空の裾が藍色に染まり始めた夕暮れ時、スーパーの買い物袋からネギを突き出したまま立ち話をしている女性と、その隣でエコバッグを肩に掛けて話す女性がいる。
影は長く伸びており、日の短さを虫の音色が告げている。
藍色に染まる空は、明日も変わらぬ日常を約束する色に見えた。だが、その影の先には別の世界が広がっている。
彼らの話はいつでも変わらず、いつでも同じだ。まるで何度も同じ脚本の舞台でも演じているかのように、画一的だった。
「あのエスニック食材専門店の店員、亡くなったそうよ」
声を潜める仕草で、しかし声量は大きく彼女は言う。
「ああ、知ってる知ってる、あちらの李さん。良い方だったのに……また、スラムの奴だとか! 奥さんが憔悴しちゃって、ほんと可哀想よねぇ!」
「そうそう! 怖いわよね! 全く……税金払ってるんだから、奴らが出てこれないようにもっとフェンスを高くしてほしいわ!」
「ねえ、ほんとに!」
噂話をする彼女たちの表情は、怯えよりも他者を蔑む歪んだ笑みに染まっている。怯えよりも先にあったのは、他者を見下す快楽だった。
彼女たちは、夕飯の献立をカレーにするかハンバーグにするかを決めるように、誰が死んだかを語る。まるで、野犬の死体があったかのような語り口で。
彼女たちは、まるで昨日と同じことを言い、明日も同じことを言うのだろう。
「昨日、またサイレン鳴ってたわね!」
スーパーからの買い物帰りだろう、別の女性が自転車で通りがかり様に二人へと声を掛ける。それに彼女たちは「そうそう」「そうよ!」と声を上げるのだ。
「こんばんは、佐々木さんの奥さん」
「こんばんは、もう日が短くなったわねぇ! すぐに暗くなるから、うちの太一にはスラム側を通らないようにって毎日口を酸っぱくして言い聞かせてるわ!」
人数が一人増えたことで、彼女たちは次々に口を開いて悪意のある言葉を吐き出していく。
踊るように動く口と舌は、まるでイソギンチャクのようだった。
すれ違う人々は皆、それがいつも通りの景色だと言わんばかりに誰も耳を塞がず、誰も眉を顰めず、ただ足音だけが積み重なっていく。
「まったく、スラムなんてさっさと撤去してくれないかしら! 臭いし、不潔で、洗濯物だって外に干せないわ!」
「ほんとほんと、画一地区は皇都で最も革新的で清潔な都市だって宣伝だったから雲量地区から移り住んだのに!」
「山本さんの奥さん、雲量地区に住んでらしたの? セレブじゃない!」
皇都の中心地である雲量地区から移り住んだという言葉に、まるでセレブの風格もない山本という女性を見て、残りの二人は嘘だろうと決めつけながらも、その話を再び広げるのだ。
萎んだシュークリームのような体に、いつだって皮脂で光る顔をした山本は、噂好きで井戸端会議には必ず出席するほどの人間だった。
よくもまあ、この女と結婚する人間がいるものだと、彼女が参加する前の井戸端会議では必ず話題に上がるほどだった。
「そういえば、駅前のスーパーで洗剤が安売りしてたのよ! お一人様二点まで! もうアタシ、大慌てで買っちゃったわ!」
大きな口を開いて笑う佐々木に、二人も「ええー! 羨ましい、まだあるかしら!?」「チラシ見てなかったわぁ!」と声を上げる。
「いい買い物したわねぇ!」
「ほんとよぉ、あそこ、ティッシュもセールしてたの! 自転車で行って良かったわ!」
「まー! ほんと羨ましい!」
先程スラムの差別を平気で口にしたのと同じ声色で今度は日用品の安売りを語るのだ。
「今井さんの奥さんは、今日の夕飯どうなさるの?」
「どうしましょ、昨日鶏肉だったから今日は豚を使いたいのよね」
「あら! それなら生姜焼きにしなさいよ、そこのスーパーで生姜、安かったわよ!」
「分かるわー、できれば毎日違う献立にしたいわよね!」
「そうそう、でも旦那も子供もそんなこと気にしてないのよ!」
「そうなのよね! ほんと、よく分かるわ!」
キャハハ、と甲高い笑い声が夕暮れの住宅街に反響する。その音色は、つい先ほどスラムを呪った声と寸分違わない。
しかし、彼女たちは気付かない。先程の“差別”も、今の“笑い”も、まったく同じ音色で紡がれていることに。
三人の女性がペチャクチャと会話を続ける横を数人の高校生が通り過ぎる。
「あら! 平井さんのところのお嬢さんじゃない! スカート短いわよ!」
「これが流行りなの!」
「まあー! やめなさいやめなさい! スラムの奴に暴行されるわよ!」
山本の言葉に、高校生は馬鹿らしいとばかりに笑って通り過ぎていく。
その笑い声に、主婦たちの声は更に大きくなり、それがまた女子高生たちの笑いを誘う。
「スラムの奴に暴行されるぞー! だって!」
「スラムに住んでるの、表に出てきてるの見たことないよ!」
「ほんとほんと、馬鹿馬鹿しいよね」
「むしろ一回でもいいから見てみたいよ、あんなきったなーいところに住んでる奴ら!」
まるで動物園のパンダでも語るように少女が笑う。
笑い声と差別の声が混ざり合い、夕暮れの住宅街はひとつの化け物のようなざわめきになっていた。
スクールバッグの持ち手へ両腕を通してまるでリュックのように背負ったショートカットの少女が笑う。
化粧っ気の無い黒髪をキノコのようなボブにした少女が、ローファーの踵を踏み潰してカパカパ音をさせながら歩いている。
彼女の影は、夕暮れの橙色に光ってキノコのように丸く見える。
ポニーテールを揺らす少女はスカートの上部を何度も折ってミニスカートにし、贅肉が乗った太腿を晒している。
低い位置でおさげを結んだ地味な少女はソバカスの散った顔で大きな口を開けて笑っている。
橙色に光る夕焼けは優しげに見えながら、笑い声を照らしてなお冷たかった。
彼女たちの笑い声は、それぞれ違う顔を持ちながらも同じ音色で揃っていた。
「じゃーね、また明日!」
「明日ね! ばいばーい!」
「また明日! お母さん、ただいまー!」
「また明日! ただいま、おかあさーん! 今日のご飯、なにー?」
それぞれの家の前で別れの言葉を口にして手を振る。
笑顔と声は夕闇に溶け、灯りの点いた窓へ吸い込まれていった。その窓の光は、スラムの闇を一度も照らさない。
彼女たちにとって、明日は必ず来るものであり、変わらない明日は必ず存在するものなのだ。
スラムに住む少年たちが望んでも得られない、変わらぬ毎日を彼女たちは湯水のように消費していく。
それが、彼女たちにとっての平穏であり──誰かにとっての絶望だった。