第七話 冷たい数字
白い強化プラスチックで覆われた会議室のテーブルの上へ、ホッチキスで左上が留められた会議資料が配られていく。
九〇人の官僚たちへ、電子データではなくわざわざ紙の資料が配られる様は、国民が見れば財政の無駄だと喚くだろう。
しかし、この場にいるのは国民の中でも上位数パーセントを占める官僚たちだった。
彼らはいかにもつまらなさそうな表情で、空調の効いた会議室へと座る。
退屈そうに欠伸を噛み殺す議員や、無関心に筆記具すら持ってきていない官僚すらいる。
名札の立てられた通りの場所へ座る者、空調の当たり具合を確認して座る場所を変える者までいた。
磨き上げられた白いテーブルは、彼らの影を薄く映し返すだけで、そこに人間性を宿すことはなかった。
皇歴二二〇一年五月二八日、午後三時、秒針の音と共に会議は始まる。
そこに血の通った鼓動は一つもなかった。
議長である早乙女義晴が入室する。
ほとんど白髪になった頭は随分と毛髪が薄くなってはいるものの、禿げとは言いきれない微妙な残り具合をしている。彼は小さな目に不釣り合いな、大きな鼈甲の眼鏡を掛けて資料を眺める。
「えー、まず、皇都画一地区の犯罪発生率ですが、先月よりも僅かに上昇しております。が、えー……これは貧民窟に住む者たちによるものだと、」
早乙女議長はマイクを食べるほどの距離で話をしているため、ところどころは雑音と唾液が立てる音とが混じって、言葉は内容を失っていた。
しかし、彼らは別段気にも止めなかった。
会議に出席したという事実が重要なのであって、ここで何を話したのかというのはさして重視されていないのだ。
「えー、それでは、画一地区の防犯対策委員の八代くん」
早乙女議長から声のかかった、でっぷりと太り禿げ上がった頭を執拗に、まるで磨くようにハンカチで拭いている八代肇が立ち上がる。
「僭越ながら、ご紹介に預かりまして、画一地区防犯対策委員の八代です。まず、お手元の資料五ページをご覧ください」
八代の咳払いと共に吐き出された、まるで朗読のように定型句を繰り返す言葉に、それぞれが笑う理由などないのに、惰性で口元が動く。
小さな、乾いた笑い声と共に会議資料が捲られる。
紙が捲れる乾いた音だけが、冷房の効いた会議室に規則正しく響いた。それは、ここで唯一生きているリズムのようだった。
「こちら、今年の始めから今月までの犯罪発生率推移グラフです」
掲載されているグラフは、小さな波がいくつかある中で五月の半ばから少し波が大きくなっているのが分かる。
「この通り、今月の半ばから犯罪発生率がやや上がっておりますが、それまでが少なかっただけでして、これでも両掌の数に収まっております」
八代はかいてもいない汗を拭いながら、肉で随分と細くなった目を更に細めて笑顔を作ってみせる。
それはまるで、人工知能に笑顔の人間を描くよう依頼して描かれた笑顔のように、妙に嘘くさいものであった。
「波は多少ございますが、誤差の範囲内です。この犯罪は、全て貧民窟の住人が原因のものですし、いずれにせよ、我々の生活圏に影響は及んでおりません」
八代の言葉に、それぞれが「なら問題ないな」「無視をしても大丈夫なレベルか」などと笑い声でも怒声でもなく、ただ無味乾燥な確認の声が重なった。
この場では死者数すら誤差として処理され、命は数字のノイズとして扱われる。
八代が礼をして席へと戻ると、再び早乙女議長が立ち上がり、マイクの前へと立つ。
「えー、続いて治安コスト削減計画について、山城くん」
くちゃりと唾液が糸を引く音がマイクに乗る。それにも笑顔を崩さず、新規計画の担当者となった山城一二三が立ち上がり、マイクの前へと向かう。
山城は未だ若い男性で、市井の女性からも人気のある官僚であった。
「ご紹介に預かりまして、山城一二三です。この度は、新規計画の担当者を任せて頂きまして、本当にありがとうございます」
ハキハキと、元気の良い山城の声が会議室へと響く。蛍光灯の下で反響する健康さが、その場に集まる死人の中に紛れた生者のようでもあった。
「それでは、僭越ながら会議資料八ページをご覧ください」
山城の言葉に、それぞれの手元の資料が捲られる。この会議資料のほとんどは不要な内容が書かれており、ページ数ばかりが嵩んでいる。
しかし、誰もそれを指摘する者はいないのだ。ページ数が多ければ、それだけで仕事をした証拠になる。紙の厚みが、彼らにとっての実績だった。
「治安コスト削減計画についてですが、貧民窟での死亡率は安定しており、現状の、貧民窟整備へ回しております予算の三分の一を削減しても、統計上の有意差は見られませんので問題ありません」
まるで景気指数でも述べるように、死亡率は安定している、と彼は言った。
会議資料に書かれた表には、スラムで死亡したとされるスラムで生まれ育った子供の数が記載されている。
彼ら官僚にとって、スラムの子供などは犬猫よりも価値の無い存在なのだ。人間未満が住む場所を、わざわざ整備する必要性など彼らは一切感じていない。
「続きまして、貧民窟に住む者からの投書にて、医療配置意見がありましたが、費用対効果に乏しいため現状維持といたします。詳しくは表2をご覧ください」
誰かが“問題無いな”と呟くと、後追いで同じ言葉が次々に繰り返される。
彼らにとっては多数の意見こそが正義であり、正しいことは正義ではないのだ。
医者を置けば寿命は伸びる。寿命が伸びれば予算がかかる。彼らにとってはそれが“問題”だった。
山城の言葉に、それぞれが訳知り顔で頷いて見せる。全く興味も無いだろう彼らが頷きながら、意味もなくペンを走らせているのを山城は眺める。
誰も目は資料を見ていない。ただ会議に参加していたのだという事実を残すために、手を動かしているだけだった。
「貧民窟で死亡した子供の数は三二名、前年比プラマイ〇を達成しております」
数字は自動的に吐き出されるだけで、誰一人それを確かめたことはないスラムでの死亡者数を、まるで数えたかのように告げる。
「ありがとうございます、それでは、続いて画一地区の道路工事予算について……」
ただ淡々と既に決まっている事柄だけを告げていく、会議という名の報告会は夕方から夜へと差し掛かる頃までかかったのだった。
彼らの座る白いテーブルは、その白い清潔さが、血や泥を知らぬことの証明のようにすら見えた。
白熱灯は、彼らの正義を影ひとつなく照らしていた。