第六話 正義と異物
空調の効いた、室内。
ブラインドは閉められており、外の様子は伺えない。その机に座っている、白髪混じりのグレーの髪をした男性が、諦念の溜息と共に言葉を吐き出す。
「スラムは国の影だ、深入りするんじゃない」
嗄れた、低い声が空気を揺らす。空調が動く音が響いている。
ブラインドは閉められたまま、外の陽光は一筋も差し込まない。
黒髪にブラウンの瞳をした、深い青色の半田帽子を手にし、同色の制服を着用した青年が、その太い眉をきりりと吊り上げている。
精悍な顔立ちをした彼は、栄養状態も良いのだろう、筋肉質な体をしている。
「ふざけないでください!! 影を放置して、正義だと言えるんですか! 国民からもスラムのイスナという男が危険だと声が出ているじゃあないですか!」
青年の胸には階級章が輝いている。
「失礼します!」
手にしていた半田帽子を被り、人も疎らな廊下を肩をいからせてズンズンと歩く。靴音が、廊下に荒々しく響く。
「どう考えたっておかしいだろう、国の暗部を、罪をそのままにしておくなんて……正義はどこにあるんだ」
彼はブツブツと呟きながらも制服の上にベストを着用し、警察官であることが一目で分かるようにして警察庁から出て自身の自転車を取り、パトロールへと向かう。
自転車で辿り着いたスラムの入口である、深く暗い影に満たされた路地を見つめる。
表に住む人間であれば、まず足を踏み入れることのない暗部。
「何故誰も、ここに足を踏み入れないんだ。法律があるのに、何故誰も使わない」
彼のきりりと吊り上がった眉と、正義に燃える瞳。拳を握る音がギリリと耳の中でやけに響いた。
だが、その靴の先は影を拒むように硬直したままだった。彼は未だその路地へと踏み込むことはできなかった。
足を踏み出せば正義を貫けるはずなのに、彼の身体は影を拒む獣のように動かなかった。
その時、一人の少年が両切りの紙巻き煙草を口に咥えて路地から出てくる。
肩につくほどに伸びた白髪に赤い瞳、健康状態の悪そうな白い肌をした彼は、影の中から切り取られたようで、紫煙と共に現れた。
彼はその左腕にぐったりとした人間の体を下げていた。
「なんだ、お前は……」
まるで自分と正反対の存在を見たかのような青年、御口鯆の言葉に、少年は一切の興味を持たない表情で、その腕に下げていた人間の体を、まるで廃棄物でも放るように投げ捨てる。
それは路地の正面にあるエスニック食材専門店の男性店員だった。彼の制服に付いた名札が視界に入り、御口の心臓が跳ねる。
昨日、「家に帰ってこない」と通報が入っていた男だった。
「お前! 何故こんなことをしたんだ!」
少年は、指に挟んだ煙草を口から離すと深く深く紫煙を吐き出す。その、バニラの甘ったるい香りが、吐き気を催すほどに腐臭と混ざり合う。それは御口の体へと絡み付き、酷く不快だった。
「俺の国に入った、それだけだ」
静かな少年の言葉は、彼の年齢にしては低く落ち着いていた。
「国とは、なんだ」
「なんだなんだなんだなんだって、テメェ人に聞くことしかできないのか? ここは学校じゃねぇんだぞ」
国とは、法とは、自分たちが命を懸けて守るものじゃないのかと御口の心が叫ぶ。しかし、言葉が喉の奥で石のように詰まり、出てこなかった。
少年はそう言うと、血塗れで倒れている男性の頭を綺麗に磨かれた革靴で踏み付ける。男の頭を革靴で押し潰す仕草は、まるで“国境線を示す印”のようだった。
血を踏み割った靴裏が赤黒い印を刻みつける。それは、この影における新たな国の旗だった。
「何を、他者の頭を踏み付けるな! スラムで生きている君に、学校云々と言われる筋合いは無い! 通ったこともないだろう!」
御口の言葉に、少年は鼻で笑う。
「正義感からの差別的発言、表って感じだな」
最後に一度、男性の頭を蹴り付けて少年は踵を返して路地裏へと続く、暗い昏い影へと足を踏み入れる。
汚泥と、ドブのニオイがする細い路地。
そこへと向かう少年に、正義を叫んだその口とは裏腹に、御口の足は影を拒んだまま地面に縫いつけられていた。
叫んだ喉が焼けるように痛むのに、足は、動かない。
「待て! 君は、誰だ!」
叫んだ御口の言葉は、少年に届かない。彼の白い体は、革靴が水たまりを踏む音だけを残す。しかし、それすらも、もう幻聴だったのかもしれない。
御口は、倒れ込んだ男性店員を抱え起こす。
「大丈夫ですか?」
呻き声だけを上げる男性に、御口は救急へと電話をかける。
『はい、火事ですか、救急ですか』
「皇都画一地区の御口巡査だ。救急車を一台頼む、皇都画一地区三番通りのアジアマーケット前だ」
彼は、制度にしがみつくように名乗った。
『意識はありますか?』
御口が何度か肩を叩き声を掛けるも、返答は無い。
「いや、無い。スラム付近で、不審者に襲われたようで、全身傷だらけだ」
『なるほど、分かりました。近くに貧民窟の方はいますか?』
「いや、いないな」
『それでは、救急車を向かわせます。五分ほどで到着します』
電話を切ると、再び仰向けにした男性の肩を叩いて声を掛ける。名札に書かれた名前を呼びながら声を掛け続けると、男性店員の瞼が震え、そのアンバーの瞳が開く。
生きていた。それに胸を撫で下ろした次の瞬間、御口の奥底で胸の奥に炎が宿り、血が煮え立つように熱くなった。
「大丈夫か? 俺が見えているか?」
御口の言葉に、男性が何度も頷く。
「何があったのか、分かるか?」
「スラムの、子供に……盗られて、食材を……、追いかけたら、い、イスナ……に」
男性店員はそれだけを口にし、再び意識を失ってしまった。彼の言った“イスナ”という言葉に、恐怖で目を見開く。
御口はその名前を胸の奥に焼き付けた。これが、正義が向かう先だと。
意識を失った男性の隣に膝をついて待っていると、救急車のサイレンが耳へと届く。遠くからサイレンの音が心臓と同じ拍で鳴り、正義を呼び覚ますようだった。
そのサイレンに、御口は安堵した。
「お待たせしました」
「いや、こちらの男性だ。よろしく頼む」
「はい、ここまで付いていてくださってありがとうございます」
救急隊員へ男性を預け、御口は深く息を吐き出した。
あの白髪の少年がイスナという、危険人物、イスナ。その名は、焼き印のように御口の胸に刻まれていた。そして、その危険人物に手も足も出なかったのだという悔しさが、酸のような悔しさが胃を焼き、喉の奥まで込み上げてくる。