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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第五話 鉄の掟、血の境界

 暗闇にくっきりと丸い月が、明るく輝く日だった。路地裏の片隅で肉が叩き付けられる音が響く。


「金稼いでこいっつっただろ! たったこれだけか!」


 酒に焼けた、女性の声。

 地面に崩れ落ちたのは、スラムに住む一人の少年、イチだった。最初に生まれた子供だからイチなんだと、別の少年に語っていたのを、シャチは聞いたことがあった。

 崩れ落ちたイチを、しかし周囲の子供たちは自分のテリトリーの中から伺うだけだった。


 母親である女性の顔は赤らみ、酒に酔っていることは明らかだった。このスラムで購入することのできる酒など、過去にバクダンやカストリ、メチルなどと呼ばれていたものばかりで、味など二の次だった。

 その酒に、母親である女性の目は濁り、振るう手やイチの腹を打ち付ける足は止まらない。


 誰も自分が危うくなる可能性があるにも関わらず他者を助ける者はいない。

 賭ける者がいる。笑う者がいる。目を逸らす者がいる。それを、ひとつの催し物のように、誰もが楽しみ、日常として切り捨てるのだ。

 そんな中でイチは地面に倒れ込んで血混じりの唾液をヘドロ混じりの泥が落ちる地面に垂れ流していた。イチは何も言えず、ただ血混じりの唾液を垂れ流しながら泣くしかない。

 月明かりの下、血に濡れた地面が白く光っている。


「テメェ! なんとか言えよ、酒買ってこいっつっただろ、この役立たずが! お前なんか、産むんじゃなかったよ!」


 女性の焼けた声が響く中で、地面を踏む足音が路地裏に響く。

 煙草についた火種が、赤く灯っている。それはまるで、暴力の渦を切り裂くように赤く光る。

 白い月と赤い火種、その二つだけがこの路地裏を照らしていた。

 いままで大人からの暴力を伺い見ていた少年たちが「イスナだ」とコソコソと話し始める。

 それは徐々に伝播し、彼がどのような行動を取るのかと伺っている姿が見える。


「んだよ、テメェ! 見てんじゃねぇぞ!」


 酒臭い息を吐き吼える、飲んできた粗悪な酒により頬が赤黒く腫れた女性の顔面を、イスナの白い掌が掴む。白く細い、しかし節立った指が、彼女の皮膚にギチギチと食い込んでいる。


「子供は、テメェの所有物じゃねぇ。殴りたきゃ、外で自分のクソみたいな人生でも殴ってろ」


 痛がる女性の声を無視したイスナの静かな言葉が、路地裏に響く。

 その、顔を掴んでいる掌が、彼女の後頭部を思い切り汚れた壁へと叩き付ける。


 強く。強く。


 それは怒りではなく、ただ当然のように行われる裁きだった。


 誰も、息を呑む音すら立てなかった。いままで子供を食い物にしていた大人たちが、言葉を失う。まるで隠れるように自身のテリトリーへと戻っていくのだ。


 壁に女性の血が飛び散る。赤黒い模様が、スラムの壁に新しい掟の印を刻んだ。女性の濁っていた目は白濁し、てんで別の方向を見ている。

 だらんと力無く手足を垂らし、その足に失禁を滴らせている彼女の体を表通りへと捨てる。


「このスラムのガキどもは、もう俺の国民だ。そいつらに手を出した奴は、全員こうなる」


 イスナの声は静寂の中で静かに響いた。

 表通りの明るい光を背にしたイスナは、さながら王のように立っている。

 周りの子供たちはその言葉を飲み込み、ただ黙って頷いた。子や弱者を食い物にしていた大人たちの視線も、逸らせなくなっていた。

 先まで母親から暴力を受けていたイチは、まるでイスナのことを英雄かのように輝く瞳で見つめていた。その瞳は、殴られ怯えていた子供ではなく、王に忠誠を誓う兵の目に変わっていた。


「イスナ、アンタに話があるって奴が来てる」


 シャチの言葉に、イスナがそちらを見る。

 シャチの後ろにいたのは、まだ一〇代の前半だろう少女だった。襤褸を着たその体は細く、薄く、女性らしい体の凹凸も無い。

 月に照らされた影のように頼りない少女が、そこにいた。まるでスラムの縮図のような子供だった。


「助けて……」


 彼女のひび割れた唇から零れたのは、掠れた救いを求める言葉だった。その声は震えていたが、誰よりもまっすぐにイスナだけを射抜いていた。


「どうした?」


 イスナはいつもの段ボール箱で作られた玉座に座る。

 その段ボール箱は、このスラムで最も綺麗なものがサメやハチによって選ばれ、スラムでも綺麗な布がかけられている。

 その前に立つ少女は、まるで王に運命を委ねる民のように、怯えた瞳を隠すこともなくイスナを見つめ、汚れた地面に膝をつき、その胸の前で両手をきつく握り締めている。


「私の、父が……生活のために体を売れと、具合いを見てやるって、体を……」


 言葉を失った彼女が、大きな黒い瞳から静かに涙を零す。どれだけ言葉を重ねるよりも、沈黙の方が雄弁に響いた。

 薄汚れた頬を、涙が伝い、元の白い肌を伺わせる。

 少女の声が震え、途切れ途切れになるたびに、イスナの煙草からは白い煙が空へと浮かび上がる。紫煙は少女の涙と交わり、路地裏にただ静かに溶けていった。


 周囲のスラムの子供たちが黙って見ている、息を殺してイスナの裁きを待っている。咳払いひとつしない、沈黙。

 イスナは、ふかしていた煙草を親指と人差し指で取り、深く紫煙を吐き出す。涙の線をなぞるように紫煙が揺れ、まるで裁きの印を刻むかのようだった。


「お前、名前は?」


「……ドロ、です」


 突然名を聞かれたことに少女は驚き、一度唾液を嚥下してからイスナをまっすぐに見つめて名を告げる。


「泥の中で生まれたから……」


 更に言葉を重ねた少女に、イスナは“もういい”と言うように手を振る。


「その父親を、どうしてほしい」


 静かなイスナの言葉に、ドロは声を失ったように唇を開く。


「……どう、って……」


「同じ目に合わせてほしいか?」


 イスナが問いかけると、彼女は小さく頷く。まるで、神からの神託を受けるかの様子だった。

 イスナは玉座から立ち上がり、彼女の前へと、彼は膝をついた。周囲はそれを“王が降りてきた”と誤解し、息を呑んだ。

 だが、それは玉座から降る仕草ではなく、断頭台の前に立つ執行人の姿勢に近かった。


「分かった。お前のテリトリーはどこだ」


 囁くようなイスナの声に、ドロは「二つ目の通りの、七番目です」と答える。


「テメェら、着いて来い」


 ドロを置いたまま、イスナはシャチとサメ、ハチを従えて足を進める。彼女が告げた、彼女の住む場所へと。

 青いシートで屋根を作っただけの、掘っ建て小屋とすら言えない、ドロのテリトリーへとイスナは足を踏み入れた。

 そこに座っていたのは、歯のほとんどが無い、スラムにいてもなお太った男性だった。


「なんだぁ? テメェら」


 男の言葉に、イスナは静かに男を睥睨する。


「なんだ、その目はよぉ!? 俺のこと、馬鹿にしやがって、許せねぇなぁ!?」


 唾を飛ばしがなり立てる男の肩を、イスナは思い切り蹴り上げる。肩を蹴り上げる音は、肉ではなく罪を砕く音のように響いた。

 蹴られて呻く男の声がだんだん遠のいていく静寂の中で、イスナの声だけが異様に鮮明に響く。


「シャチ、サメ、コイツのケツに鉄パイプの二、三本でも突っ込んでやれ。ハチはそいつの体押さえてろ」


「分かった!」


「はーい」


「え、俺がやんの?」


 イスナの言葉にそれぞれ三者三様の反応を返しつつ、ハチが俯せに押さえ込んだ男の、毛に覆われた尻穴へと滑りの欠片も無い、汚泥の固まった鉄パイプを力任せに押し込む。

 男の断末魔にも似た絶叫が響く。獣じみた叫びが、路地裏を震わせた。絶叫が響く中、イスナは煙草の灰を落とすことにだけ意識を向けていた。

 しかし、その場にいる誰もそれを気にすることはなかった。


 ドロの住んでいるその場所を、スラムに住んでいる者たちが怖々と覗いている。大人も子供も関係無く。

 汚泥の固まった鉄パイプが、罪人だけでなく覗いている者たちの喉元にも突き付けられているように見えた。


 誰もが言葉を知らぬように、凍りついたかのように黙り込む。しかし、誰も目を逸らさなかった。そこに、怯えと同時にわずかな安堵が混ざっていることを、イスナは知っていた。


「このスラムじゃ、子供(ガキ)の体は売らせねぇ。売るならテメェの体を売れ」


 イスナの声は静かで、しかしよく響いた。

 彼は、脱ぎ捨てられた男の服で淡々と靴裏の泥を払った。


「これから先、ガキを食い物にしようとした奴は全員、こうなるからな」


 男は尻だけを出した状態で、そこに太い鉄パイプを三本突っ込まれ、血と糞便を垂らした状態で泡を吹き、白目を剥いていた。

 誰も声を上げなかった。ただ、その光景を見届けるしかなかった。沈黙こそが同意であり、イスナの言葉をこのスラムの法へと変えていった。


 ドロと呼ばれた少女は、その光景を見て蕩けたような瞳でイスナを見つめる。

 それはまるで、助けられた子供の瞳ではなく、新しい神を見出した信徒の瞳だった。


「イスナ、それがこの国のルール?」


「好きに呼べ。ルールや掟だと言うなら、守れよ」


 その瞬間、スラムに初めて“境界”が引かれた。

 イスナが男の背中で煙草を捻じ消し、口腔の中に残っていた紫煙を吐き出した。

 その日から、イスナの“ルール”がスラムの中へ徐々に浸透していったのだ。


 スラムの中に「やっぱりイスナな王様だ」と囁く声が伝播していく。騒ぐ者たちに、イスナは混じること無くいつも変わらぬ場所で煙草をふかしていた。

 紫煙はゆっくりと路地裏に溶け、やがて“ルール”という名の靄に変わっていった。


 彼らは知ったのだ、イスナという“異物”は、この場所で搾取される者を守ってくれる“王”なのだと。

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