第四話 灯る炎、王の声
世界は優しくない。
路地裏を入口として、日本の皇都暗部に広がる広大なスラムに住む者は誰しもが知っていることだった。
それは誰かに教えられるまでもなく、スラムで生きる者の骨と皮に刻み込まれていた。
生きるために表で生活をしてる者の糧を盗み、捕まれば息の根が止まるほどに殴られ、ボロ雑巾のように捨てられる。
しかし、そのスラムに、一つの火が灯った。
皇歴二二〇一年五月一七日。
元帝政学園の生徒であり、東雲と呼ばれる、古くから官僚として生きてきた家の一人息子であった少年“東雲凍砂”。
彼が、スラムへと転落してきたのだ。
それは光ではなかった。誰を救うものでもなかった。ただ、燻っていた絶望に油を注ぎ、燃え広がらせる火種だった。
その日、スラムに住んでいるヤオズという少年は盗んだパンを奪われ、パン屋のオヤジに強かに打ち付けられてしまった。
倒れたヤオズは地面に手をつき、悔しそうにただ泣いている。
白い肌に金髪をモヒカンにした少年。額から顎まで、顔半分にまで至る酷い火傷が走っている。
その傷は、彼がスラムに捨てられる前に、父親が母親へ投げた煮えたぎった湯が溢れるほどに入っていたヤカンから溢れた湯で負ったものだった。
表の世界では「バケモノ」だとか「フランケンシュタイン」だとか、そう嘲笑され差別され続けた。
彼の居場所は、スラムにしかなかった。
その目の前に、苗字を捨てた少年が立つ。
「泣くな。泣いたって、人生も世界も変わらない」
静かな声。
殴られ目を腫らしたヤオズは、腕で体を持ち上げ、唇を噛んで立ち上がる。そしてその両目を擦った。
半分だけ色の違う、顔。
ケロイドになり汚く腫れた肉色の肌。
その怪我を、スラムに住む者たちは決して差別しなかった。彼らの中には腕や足が欠けている者だっていた。
両腕が付いていて、走れる。ただそれだけでもスラムでは十分だったのだ。
盗むことでスラムに住む者たちを生かしていける。
スラムで何代も生きている者の中には、子供の腕や足を切り落として子を使って物乞いをさせる者だっていた。
「お前、悔しいか?」
イスナの言葉に、ヤオズは頷く。腕でぐしぐしと拭った顔は、土埃で汚れている。
「お前を傷付けたのはどいつだ」
「角のパン屋のおっさんだよ」
イスナは、彼の玉座代わりのダンボールからゆっくりと立ち上がった。
新聞紙が擦れる乾いた音が路地裏に響く。その動きに合わせるように、両脇に敷いた畳んだダンボールの上へ座っていたシャチとサメも、無言で立ち上がる。
まるでそれが、最初から定められていた儀式であるかのように。
その瞬間、路地裏のざわめきは止まり、誰もがただ少年の背中を見ていた。
「お前、名前は?」
「……ヤオズ、元の名前は忘れた、けどよ」
「ヤオズか、ならお前は今日からハチだ」
その一言で、彼の名前は過去ごと塗り潰された。
ヤオズは数度目を瞬き、大きく頷いた。
「わ、分かった」
「よし、行くぞシャチ、サメ、ハチ」
イスナは肩に掛けた黒いジャンパーを翻し歩き出す。その後ろを、シャチとサメが妙に楽しげな表情を浮かべて着いて歩くのが、ハチには不気味に思えた。
表通りへと出ると、イスナやシャチたちのように薄汚れた存在はいない。みんな小綺麗な服を着て、靴を履いて、帽子まで被って澄まして見せる。
皆鼻と口をハンカチや腕で押さえて、遠巻きに彼らを見つめている。
まるで、彼らが汚物であるかのようだった。
だが、そんな視線など気にも留めず、イスナは唇の端を吊り上げている。まるで笑っているようでいて、ただ笑顔の真似事をしているだけのようにも見える。
楽しんでいるのか、嘲っているのか、その笑みの意味を誰も理解できなかった。
角のパン屋へと到着すると、その店主は彼らの姿に太い眉の間に深い皺を刻む。
「テメェら! また来やがったな!!」
ドアを開けたサメに「どーも」と告げたイスナが入口へ立つと、パン屋は腕を振り上げる。
それにイスナは涼しい顔をしてパン屋の顔面を拳で強く叩き付ける。ごぶ、と音を立てて垂れ流した鼻血を押さえ、座り込む。
その体を押さえつけ、イスナは無感情に踏み付ける。
まるで掃除でもするかのように、淡々と。
パン屋の顔が床に叩き付けられるたび、血と涙が混じった声が響いた。
「ごべ、ごべん、なざいっ、ゆるじで、ゆるじ、ごぼっ」
歯が折れ、その折れた歯で切った舌や唇から血が流れ、片方の眼球は破裂すらしている。義眼を余儀無くされるだろう程の、酷い怪我だった。
そのパン屋を床へと放置し、イスナは涼しい顔で立ち上がる。
「テメェら、パン屋は快く商品をくれるらしい、感謝して持って帰れよ」
イスナの言葉に、三人は「やったー!」と声を上げてポケットに詰め込めるだけのパンを詰め込んでいく。
頭を強く打ち付けられたパン屋は、既に言葉を発することも無くなり、イビキをかいている。
ありったけのパンとペットボトルに詰められた清潔な飲み物をポケットに詰めた少年たちは、路地裏へと凱旋に向かう。
通りすがる人々は、目を逸らしながらも彼らの後ろ姿を見送っていた。
恐怖と、そして理解できない畏怖に塗れた視線。
まるで人ではなく、何か“異様な存在”を見るように。
「おまわりさん! こっちです!」
スラムに住むことなく平穏無事に過ごすことのできている、上級国民たちがそう叫んでいる。
スラムに逃げ込まれてしまえば、警察であっても彼らに手出しはできない、国にとっての暗部、アンタッチャブルなのだ。
人垣の中から「待て!」と声が聞こえてくるも、イスナたちは誰も振り返らずに路地裏へと足を踏み入れる。
軽く背後を見たイスナの目には、二〇代半ばだろう、警官の制服を着用した黒髪の青年が映った。
正義感の強そうな眼差しで、路地裏の入口に立ちはだかっている。
しかし、その靴は一歩も暗がりへと踏み入れていなかった。
「おまわりですら入れねぇのか、国の影には」
「こないだ入った向かいのパン屋がボコボコにされてそこに捨てられてたらしいぞ」
表通りからそんな声が聞こえてくる。
立ち止まった警察官は酷く悔しそうに歯噛みし、ただひたむきにイスナを見つめている。
だが、靴の先は暗がりを拒むかのように硬直したままだった。
彼はただ、踏み込めない自分の足を睨んでいる。
正義感の強そうな目。イスナは、「嫌いだな、アイツ」と静かに呟いた。
イスナたちの凱旋に、豊富な量のパンに、スラムの少年たちは声を上げて喜ぶ。
彼らにとって、まともに食事ができるタイミングなんてそう無い。
シャチとサメはそんな中で、服まで脱いで、風呂敷のようにしたその中にめいっぱいのパンを詰めていた。これで彼らの数日分の食事になるのだ。
更にシャチはレジスターの中の紙幣まで奪っていたのだ。
「これでコイツらの服とか布団も買えるぜ」
紙幣の束は、表通りの人間たちにとってはただの数字にすぎない。
だが、スラムに生きる子供にとっては、夜に身体を覆う布切れであり、冬を越すための火種であり、凍った体を救う命そのものだった。
シャチの言葉に、イスナはそれを咎めることもしなかった。
シャチがそうしてレジスターを破壊しているのを、サメは「さっすが兄貴!」と無邪気に笑っていたのだ。
シャチとサメ、ハチがスラムの子供たちへパンを配っている。
「なあ、イスナってすげぇな」
ハチの言葉に、シャチがヤオズの肩へと自身の腕を回す。
「だろ、あの人、すげぇよ。俺らが一番に認めたんだぜ」
シャチが言い、ハチは頷く。
「俺らだけだったらこんな、アイツらの腹をいっぱいにするくらいのパンなんて配れなかった」
静かな声。
徐々にイスナを王として容認する動きがスラムに蔓延し始めていた。
「王様だ」
「やっぱ、おーさまってすげー!」
「おれたちの国のおーさまだ」
彼らにとって、国とは教科書の中の存在ではなく、この狭い路地裏こそがすべてだった。
その言葉は伝染のようにスラムに広がっていくのだ。
最初は一人が叫んだだけだった“王様”が、次第に二人、三人と重なり、やがて路地裏全体に反響する呪文のようになっていった。
イスナはただ煙草をくゆらせ、黙ってその呪文を受け止めていた。
受け取ったパンを弟と分け合うようにちぎり食べる子供がいる。
ハムスターやリスのように、パンをめいっぱい詰め込んだ子供が噎せ、それでも幸せそうに笑っていた。
汚水を飲んでいた子供たちが、パン屋から盗んで来たミネラルウォーターやジュースを飲んで笑っている。
イスナは、その様子を眺めて煙草をふかしている。その紫煙が、彼らの“王”という呼び声と共にスラムに溶けていった。
パンを頬張っている子供たちは幸せそうに笑い、イスナに手を振る小さな掌が、路地裏に揺れていた。
イスナは、笑い声の渦の中心にいながら、その笑いに混ざることはない。
ただ紫煙だけが、彼の代わりに輪の中へと溶け込んでいった。
紫煙は、火種のように路地裏に広がっていった。