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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第一話 ──始まり──

 シャチがイスナという男を認めたのは、イスナがこのスラムへやって来てすぐのことだった。

 まっすぐに前を見つめて両切りの煙草を燻らせて静かに立っていたその少年に、シャチは未来を夢見たのだ──自分の想像すらしたことのない、空のように広がる未来を。

 ありふれた日常の延長ではなく、誰も知らない、新しい未来を。


 シャチの弟であるサメは「あんなの、信じらんねーよな。煙草ふかしてカッコつけてるだけだろ」とスラムの少年たちと笑っていた。

 しかし、そんな弟の言葉を気にすることも無く、シャチはその日のうちにイスナの後ろをついて回っていたのだ。


 そんなイスナが、朝に出かけて以降帰ってこないことにシャチは不安を抱えていた。

 まだスラムの者たちは、それを重要視していない。ただ、少し迷ってるだけといった程度に考えているようだった。

 けれどシャチは、スラムの中で最も長くイスナの姿を見てきたからこそ、分かるのだ。

 まっすぐに前だけを見つめる姿。

 誰よりも先に歩き出す背中。

 そのどれもが、もう二度と見られないものだと、シャチには分かっていた。胸の奥がずしりと重く、喉の奥が乾いていくようだった。


──きっと、イスナはもう帰ってこない。


 その理由は分からない。死んだのか、何かあったのか。

 それを知る術は無い。


 翌朝、日が昇ると同時にシャチは目を覚ました。イスナと同じ色をしたアーモンド型の瞳が、眩しさに瞬く。

 広場を一望できる場所にある、ビルの階段を上がって四階へ辿り着く。


 扉の無い部屋。


 誰のものよりも簡素なベッド。

 本がたくさん置かれたデスク。

 本棚の中には入り切らないほどの、湿気で拠れた本が収められている。

 その場所に、イスナだけがいない。


 ベッドを見ても、本棚を見ても、机を見ても──そこにイスナの姿を探してしまう。

 だが、どこにも彼はいない。

 しんとした空気が、息を吸うたびに胸の奥まで冷たく流れ込んでくる。

 あの白にも似た紫の髪に血を掬ったような鮮烈な赤色の瞳をしたイスナが、いない。


 イスナがしていたように窓枠に体を預けて広場を見つめる。

 起きるのが早い子供たちや大人たちが竈に火を起こし、水路から水を汲んできて食事の用意を始めている。

 麦を石臼で挽いている大人もいる。


「イスナ、これが……アンタが見てた世界か」


 麦を挽く音が地面を伝い、コンクリートのビルを響かせるほどだった。

 竈の煙に目をやられ、泣きながら目を覆っている青年の姿が見える。


 イスナは作る者としてこの光景を見ていた。

 けれどいま自分は、残された者としてそれを見ている。


 この窓から見下ろすと、背中越しにいつも紫の髪が揺れていた気がするのだ。

 彼の背中からは、細く白い煙が伸びていた。それは、触れようとすれば指の隙間から逃げていくような煙だった。

 すぐそばにいたのに、誰より遠い。──そんな寂しい人だったとシャチは思う。


「シャチー!」


 下で食事の準備をしていた青年、イチがシャチへ大きく手を振る。

 それに、シャチの手は思わず自然に上がっていた。そういえばと、シャチは思い出す。

 イスナは手を振られてもその手を挙げることは無かったと。ただ、煙草を薄い唇に挟んで、いつも静かに前だけを見据えていた。


 徐々に空が明るくなっていく。

 スラムに朝がやって来た。雄鶏が力いっぱいに鳴き、それを目覚まし時計として人々が起き出す。


「シャチ、飯ー!」


 誰かがシャチを呼ぶ。

 それに「分かってる」と返してビルの階段を降りていく。


「イスナ、まだ帰ってこないな」


「俺たちのこと、忘れちゃったのかな」


「もう、帰ってこねーのかな」


「おーさま、いなくなったら園路国はどうなるんだろーな」


 少年も青年も、大人も子供も、不安を輪唱するように声を重ねていった。

 夜は不安をひそやかに覆い隠していた。だが、朝はそれを隠すことなく、人々の口から零れ落ちさせるのだ。

 パンが焼ける良い香りが彼らの鼻を擽った。


「いい匂い」


「イスナ、どうしちゃったんだろうな」


「表の世界に戻ったのかな」


 彼らの言葉に、シャチが手を力強く叩く。


「テメェら、泣き言言ってんじゃねーぞ! イスナは必ず戻ってくる! 俺を信じろ! イスナが戻るその日まで──俺がテメェらを導く!」


 シャチの力強い言葉に、少年たちの「シャチにできんのかよ!」「シャチには難しいんじゃねーの?」といった笑い声が重なる。腹を抱えて笑う者もいれば、笑いながら涙を拭く者もいた。


「イスナは約束を違えなかっただろ。俺も同じだ。テメェら纏めて背負ってやるよ!」


 シャチの言葉に、少年たちがワッと声を上げて笑う。


「新しいおーさまだ!」


 誰が言ったのかも分からぬ声が──「新しいおーさまはシャチだ!」と響き渡り、瞬く間に子供たち、青年たちの胸に染み込んでいった。


 イスナが来るまでリーダーなどおらず、子供は大人の食い物にされて物乞いや盗みをして生きてきていたスラムには、笑顔が溢れてリーダーを求める声が響いていた。

 イスナが変えたスラムが、そこにあった。

 イスナが変えた未来が、確かにそこにあった。

 ──だが、その未来のどこにも、イスナだけはいなかった。


 イスナが変えた未来に、唯一イスナだけが足りなかった。

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