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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
30/31

第三〇話 未来を歩む者

「……イスナ?」


 強い風に吹かれ、シャチの肩甲骨まで届くほどの長い紫色の髪が吹き上げられる。呟くように発された小さな声は、スラムの雑踏に消えていく。空を見上げたシャチの目は、イスナと同じ赤色の夕焼け空だった。

 綺麗な夕焼けに、層積雲が赤黒く染め上げられている。赤黒い雲が、まるで誰かの影のようにたなびいていた。


「シャチー! 早く食おうぜ!」


「シャチ、早く来いよ! イスナは先に食っとけって言ってただろ!」


 子供たちの呼ぶ声に、シャチは軽く頭を振り、彼らと円を描くように並んで座り、麦と根菜で作られた粥を啜る。

 麦の粒が舌に残り、根菜の甘みが喉と胃を優しく温める。


「美味いな」


「美味しいね」


「あったかくて、最高」


 子供たちの声が、大人たちの声が聞こえてくる度にシャチは胸を張るのだ。

 自分が一番に見初めた人間は、やはり王に相応しい人物だったのだと、そう思うのだ。

 イスナが来るまでは、お腹がいっぱいという感覚すら知らなかったのだ。そんな彼らが、お腹いっぱいに温かい粥やパンを食べられるのだ。


「なー、イスナ、遅いよなぁ」


「戻ってこねーなぁ」


「イスナ、いつもはもっと早く戻ってくんのにな」


「今日、路地の出口にもいなかったぜ」


「イスナ、どこまで行ったんだろーな」


 子供たちが呟く。

 けれど、誰も本気で心配してはいなかった。イスナは必ず帰ってくる──皆が当たり前のようにそう信じていた。何故なら、イスナはこのスラムの中で最も強く、約束を違えない人間だったからだ。

 木をくり抜いて作ったスプーンで掬った粥の湯気で、少女の頬が赤く染まる。

 少年が木の椀の縁が熱くて手をひっこめている姿もある。

 カボチャがトロトロに煮溶かされた粥は甘く、熱いのをふうふうと吹いて口に入れると、舌に甘さがじんわり広がり、胃に染み込んでいく。


「いい国になったな」


 誰かがぽつりと呟く。かつては死んだ方がマシなくらいにまともな生活もできなかったスラムは、いまや全く違う顔を見せていた。

 綺麗な水に、作物は余るほどに刈り取ることもでき、家畜も育てられるほどに余裕ができ、麻で服も作られる。

 縄や籠も作られており、毎日のように風呂へ入ることもできる。


「前はさ、雨水とか汚い水飲んでたのに、いまはきれーな水飲めるもんな」


「服なんてさぁ、表の奴らが捨てたボロボロのしか着れなかったんだよな」


 少年たちが夢想するだけだった、そんな日常を与えてくれたのは、イスナだった。

 スラムの子供たちが大人に食い物にされたり、弱い立場の大人が食い物にされる、そんな世界を変えたのもイスナだった。

 表の大きな世界から見れば取るに足らぬ変化であり、改革だっただろう。

 しかし、スラムに生きる彼らにとっては──革命と呼ぶしかないほどの出来事だった。


 飢え死にせずに冬を越せること。殴られずに眠れること。子供が未来を語れること。それら全てを可能にしたのがイスナだった。

 時間の概念も分からず、時間が地続きだということも、イスナが教えてくれたことだった。

 昨日と今日の違いすら知らなかった子供たちに、「また明日」と言える未来を与えたのもイスナだった。

 イスナは、彼らに生きる術だけでなく、生きる時間そのものを与えたのだ。


 綺麗な水が流れる水路を敷き、麻や麦が採れる畑を作り、清潔な服や草履を作り、その全てをイスナが率先してやって見せたのだ。

 イスナは玉座でふんぞり返るだけの王では無かった。ただ、指示を出すだけの王では無かったのだ。


 イスナの指先はいつだって作業をするために傷だらけだった。縄で擦れた痕や、刃物で浅く裂けた線が幾重にも重なり、その掌は労働の地図のようだった。

 その手からは、もはや官僚の子の面影など微塵も感じられなかった。柔らかい紙とペンしか握ったことがなかったはずの手は、いまや土と汗で固くなっていた。


 スラムで上に立つ者はいつだって、ふんぞり返って顎で人を使う者ばかりだったのだ。

 そんな中で、イスナは初めて自分たちと同じ立場にまで降りてきて、自分から率先して作業している。スラムに住む人間が彼のことを信じないはずがなかったのだ。


 イスナがいない、ただそれだけのことがシャチの胸にさざ波のような不安を呼び起こす。それは胸の奥に小石が落とされるような、嫌な不安だった。

 イスナは、結局夜になっても戻っては来なかった。いつの間にか時間は過ぎていた。

 イスナが出て行った時、太陽はまだ頭上にあった。だが、気づけば闇が降り、焚き火の小さな炎だけが闇を押し返していた。それでも、イスナは戻らなかった。


「イスナ、どうしたんだろうな」


「迷ったのかなぁ」


「帰る場所、分かんなくなったのかな」


 誰かの囁きが風に乗る灰のように、声は子供たちの間を漂い、やがて全体へと広がっていった。


「イスナ、もう帰ってこないのかな」


 泣きそうな声までも聞こえてくる。それに、シャチはガラスの無い窓枠へ手を掛けて思い切り息を吸い、その声をかき消すように言葉を強く吐き出した。


「イスナは、絶対に戻ってくる! 俺たちがイスナを信じなくて、どうするんだ!」


 シャチの大きな声に、その言葉が焚き火の炎を揺らすように、ざわめきは一瞬で消えた。

 すると、次に響いたのは、大人たちの声だった。低く重い声、高く甲高い声が折り重なり、スラム全体に波紋を広げていく。


「そうだ、イスナが無事に帰るのを待っていないと」


「イスナは王様なんだからな」


「まだ教えてもらってないこともあるし」


 まるで王に説法を乞う信徒のように、焚き火の火の粉が舞い上がって一つの炎へ変化するかの如くに、声は重なり合った。

 大人が、子供がイスナのことを話す。それがシャチには少しだけ、信じられなかった。

 シャチが生きてきた大部分では、スラムの人間はいつだっててんでばらばらな方向を見ていて、一つの場所を見ていることなんて、ただの一瞬も無かった。

 かつて誰も同じ方向を向かなかったスラムが──いまはただひとつ、イスナという王を見ている。


「イスナ、早く帰ってこないかなぁ」


 子供の囁くような声に、子供も大人も、まるで祈りの合図のように頷いていた。それは一種の信仰でもあったのだろう。


──イスナがいてくれれば大丈夫。


 それが、次第に変化してしまっていた。


──イスナがいないと、生きていけない。


 それは、胸の奥がざらつくような、不吉な変化だとシャチは感じていた。

 イスナを信じることと、イスナなしでは立てないことは違う。

 しかし、誰もその違いに気付けるほどの知識を持ってはいなかったのだ。違いを理解するには、あまりにも多くを奪われすぎていたのだ。


 違う、と頭では分かっているのに──胸の奥で知らぬ間に芽吹き、根を張ってしまっていた。

 しかし、シャチ自身もイスナがいなければ生きていけないとすら思ってしまったのだ。

 スラム全体が、イスナを盲目的に信仰していたのだ。


──スラム全体が、知らぬ間にイスナを祈るようにすがっていた。



 翌朝になっても、イスナは戻ってきてはいなかった。

 シャチは朝の日差しの中、王の間には誰もいない。まるで心臓が無くなって、ぽっかりと穴が空いたような気すらしたのだ。


 朝の日差しが差し込む四階の一室──そこがイスナの王の間だった。

 その扉の無い部屋の入口。本棚と有り合わせの板材で作ったデスク、大量の本、ベッドとベッドにかけられた麻の布。

 それが、イスナの部屋にある全てだった。


「イスナ、アンタの部屋、こんだけしか物、無かったのか……」


 私物のひとつも無い部屋。スラムの子供たちの部屋の方が、よっぽど物があるだろう。

 彼らの宝物、綺麗な石やピカピカ光っていた虫の死体、かっこいい形の木の枝。

 そして、イスナのおかげで手に入るようになった服が置かれているのだ。


 イスナの部屋は、王の部屋にも関わらず私物なんて欠片も無い。

 必要最低限の物だけが置かれた、部屋。


 シャチはそれを見た瞬間、胸の奥が詰まって、気付けば涙が頬を伝っていた。

 そして、もう戻ってこないのかもしれない──そんな考えがシャチの胸をよぎった。



「ああ、帰らねぇとな……」

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