第三話 紫煙の制裁
草いキレの臭い、古いモルタルが臭う。長くさらっていないドブが溜まった溝からにおう、不快な悪臭。ハエやコバエ、ゴキブリすらが地面を這っている。
その中でイスナと名乗った少年は一人煙草をふかしていた。
薄暗い路地裏の中、薄紫色をしているイスナの髪は白に近く、血のような瞳は濃い赤色をしている。
「イスナは強ぇ。殴り合いなら絶対負けねぇ。けど……王様ってのは、もっとエラそうにするもんじゃねぇの?」
「あいつは煙草ふかしてるだけだ。俺らの王様だなんて、本気で言ってんのかよ」
スラムに棲む少年たちはそう独りごちる。
腐った匂いがする、食用なのか、機械用なのかすら分からない鼻にツンとくる油の臭い。
子供の泣き声、笑い声。
その真ん中に立つイスナは、まだ“王”と揶揄され呼ばれて笑われるばかりだった。
それでも、イスナはダンボールに新聞を敷き、その上に座っている。まるで玉座のように。
咥えた両切りの先端が震える。まだ子供の喉には、その煙は重すぎたのだ。
彼らが住む路地裏に、少年が走り込んでくる。ヤマトと呼ばれていた少年だった。
外見年齢は七歳ほどで、大きなTシャツを着用し、裾を結んでいる。彼は「助けてくれ!」と喚きながら走り込んでくる。
「どうした!?」
周囲の少年たちが声を上げる。
「パン、盗んだのがバレて……! やめろよ、離せ!」
ヤマトのシャツがパン屋らしき男に掴まれ、その頬を強かに撃ち付けられる。
それを見たイスナが立ち上がり、ヤマトの上へ立ち棒を振り上げた男の胸倉を掴み、その顔面を煤で汚れた壁へと叩き付ける。
「おい! やめろ!! ソイツは俺の店の商品を盗んだんだぞ!!」
「うるせぇな、俺のテリトリーに入ってきたのはそっちだろうが」
イスナの低い言葉に、男は歯を食い縛り肘を振り切る。イスナはその肘を片手で受け止め、逆に男の腕をひねり上げた。
「いてぇ! いてぇって、離せよ!! 悪いのはそっちだろうが!」
喚く男の後頭部を掴み、煤けた壁へ何度も何度も叩き付ける。
清潔な白い服を着ていた男の服はどんどん汚れ、鼻から血を流し、口端が歯で切れ、ブクブクと血泡すら吐き出している。
男は、善良な人間だった。郊外のパン屋で、家族を養うために必死に働く男だったのだ。たった、パンひとつの売り上げですら貴重だったのだ。
そんな善良な人間が口や鼻から血泡を吹き出して、地面に頽れて頬にハエが止まる。
「すみ、すみません、すみ、……」
ゴブゴブと血を吐き出しながら必死に謝罪を繰り返す男が地面へと崩れ落ちる。
そんなイスナの姿を、少年たちは「すげぇ、やっぱり王だ、俺たちのおーさまだ!」と声を上げている。その中にも未だ「喧嘩が強いだけで、おーさまじゃないだろ」なんて言っている者もいる。
男が走り込んできた、光が入ってくる表通りへと背を向けてイスナはポケットからくしゃくしゃになった煙草のソフトケースを取り出して、両切りを咥える。
その先端へ火を付けてふかした煙を吐き出し、軽く咳き込む。
「やっぱ、イスナは俺らにできないことをやるんだな」
「またイスナが助けてくれたんだ、王様って言ったっていいよな、俺は認めるぜ!」
少年たちが騒ぐ声の中、地面に崩れ落ちた男が呻き声を上げる。
「お前……何者、なんだ……くるっ、てやがる……」
男の声に、イスナは答えることもしない。ただ血泡を吐き出す彼の目の前で、煙草をふかすだけだった。その白い紫煙は、腐ったスラムの空気に溶けていった。
その目で男を睥睨する少年の姿は、さながら王の風格だった。
その姿に、笑っていたはずの子供たちの喉が、ひとり、またひとりと鳴り止んでいった。
白い煙が揺らぎ、まるで王の影を形づくるように路地裏を覆った。
「捨てて来い」
イスナの言葉に、彼に傾倒し始めている大柄の少年たち二人が、「はいはい」と言い、イスナのよく座っているダンボールの周りに散らばっている畳まれたダンボールの上から立ち上がる。
シャチとサメと名乗っている、兄弟二人だった。顎で切り揃えた金髪の少年と、イスナに似た紫色の髪をした肩甲骨辺りまでの長さの髪をした少年。
ヘドロと煤の中で崩れ落ちた男性の頭側と足側を別れて運び、暗い路地裏から表通りへ向かって男の体を放り投げる。
死にかけて呻いている男性の姿に、表通りが騒然とする。
イスナは、“処刑”ではなく“見せしめ”を選んだのだ。だからこそ、表通りへ死に体の男を捨てさせたのだ。
スラムに害を持ち込むな、と示すために表に晒した。それを、シャチもサメも理解していたからこそ、命令通りに動き、それ以外に何もしなかったのだ。
「ねえ、イスナはこのスラムをどうしたいの」
「別に、ただちょっと生きるのにマシな場所にしたいだろ、テメェらも」
周囲が騒がしい中、イスナの言葉だけは静かに響く。
そんなイスナの言葉に、シャチは「うん」と答える。
紫色の長髪をした男性が、ダンボールに座るイスナの脚へと体を預ける。その逆隣には、シャチの弟であるサメが座っている。
「でもイスナは出世コース? から外れたんだろ」
サメの言葉に、イスナは「そんなもの、必要ねーよ」と静かに言う。
「イスナは、怖いけどさ、従っちゃうんだよね」
シャチの言葉に、サメは分かるとばかりに頷いたのだった。